(…これは…幸先がいい…)と勝手に頬が緩む。
上手く行けば、このまま事が進むかも…そんな期待に胸を膨らませながら、ガースはサンジの家に足を踏み入れた。

無理矢理力づくで、狙った相手を組み伏せた事は何度もあるけれど、他人の家に、しかも真昼間に夜這いをかけるように不法侵入するのは初めてだ。
(…強引過ぎるにも程があるな…)そう分かっていても、今更止められない。

ゴミの一つも落ちていない寄木細工が立派な廊下は、さして長くも無く、10歩程歩けば真正面にガラスの嵌ったドアが見えて来た。その時点で、ガースの喉はカラカラに渇き、空き巣にでも入ったような緊張感で心臓も爆発しそうになっている。

そこへ。
「…誰だ、お前」
ドアノブに手をかけた途端、ガラスの向うに黒い影が透けて見え、その影がガースに向かって警戒心むき出しの険しい声でそう尋ねて来た。

「船大工の…ガースです」
「ガース?」

取り繕う暇もなく、ガースはオドオドした声で答える。口説き落とそうとしている相手に完全に気圧される初めての経験に戸惑っていると、無造作にドアが開いた。
「…なんか、工事に問題でも?」ドアから怪訝な顔だけを出したサンジにそう尋ねられ、
「あ、いえ」と、ガースは遠慮がちに答える。
向き合って立つと、サンジの体がいかに華奢かが良く分かる。
背も、自分より少し低く、近くで見れば見るほど、身震いするほど好きなタイプだ。
転寝でもしていたのか、ネクタイはせず、シャツも胸元近くまで肌蹴ている。
いつもはきっちり結わえられている髪も少し寝乱れてほつれ、その様がまた、言いようも無く艶かしい。
その場で抱き竦めたくなる衝動を、ガースは口の中の生唾を飲み込んで、ぐっと堪えた。

「いつも、美味い飯を用意してくださってるんで…。その礼を言いたくて」

この言葉を言わなければ、一体、ここに何しに来たのか分からない。
どれだけ突飛だろうと、唐突だろうと、このタイミングでその言葉を言わねば、
サンジに不信感を抱かせてしまう、とガースは咄嗟に思った。
思った途端、その言葉は容易く口を衝いて出た。

「…そんな事をわざわざ言いに…?」
口調はやや迷惑そうだったけれど、サンジの表情が少し和らいだ気がした。
そして、どうぞ、と口では言わず、眼と所作で、リビングの中に入るように、ガースを促した。

そして、ガースに一杯の紅茶を煎れてくれた。
生まれて初めて口にしたその琥珀色の、ほのかに柑橘類の香りの立つ温かな飲み物が、
(…こんなに美味いモンだとは…)と、驚く。
代々船大工の家に生まれ、ずっと、がさつな職人の中で生きて来たガースは、こんなに優雅な飲み物を口にした事がない。
その香りや温かさは、体の隅々まで行き渡って、さっきの緊張感がいつの間にか完全に消え失せ、その紅茶を啜っていると、不思議と、とても寛いだ気持ちになれる。

穏やかな声で、自然な、当たり障りのない会話を交わしつつ、サンジはガースに色々と尋ねて来る。
「社長は変りないか?」とか、「今、海列車の駅長ってどんなヤツなんだ?」とか、
「チムニーって子、知ってるか?」などなど。

その質問にいちいち答え、なんとか会話が少し広げても、ガースの本懐に関わる事を口に出す隙が無い。その所為で、口説きに来た筈なのに、そんな話は全く出来なかった。

喋りながら、時折、ガースはサンジの指先や、喉元、金色のピアスが一つだけ光っているやわらかそうな耳あたりをチラチラと盗み見る。
(…こんな綺麗な人を、ロロノア・ゾロは、ほったらかしにしてるのか…)
よくもそんな事が出来るものだ、とつくづく感心する。
自分なら、きっと、片時も離れたくないと思うだろう。
また、他の男に寝取られるのも怖くて、とても放ってはおけない。

この家のどこかにある寝室で、サンジは毎晩、一人で眠っている。
ただソファに腰を深く下ろし、煙草を吹かしているだけのに、全身からなんとも言えない、匂い立つような色香をサンジは漂わせている。
これだけ他人の性欲を掻き立てる魅力を持っているのだから、サンジ自身、体の中をうねる肉欲と言う熱を持て余す夜も、きっとある筈だ。

「…あの、俺、紅茶って生まれて初めて飲みました。美味いモンですね、まるで貴族の飲み物だ」
去り際にガースがそう言うと、サンジは、
「…そんなに大層なモンじゃねえさ。手順を踏めば、誰にでも出来る」と、笑った。
(これだ!)この言葉につけ込めば、サンジとの距離をごく自然に縮められる。
そうガースは閃いた。
「…教えてもらえませんかね?紅茶の煎れ方…」
「…え?あんたに?…紅茶の煎れ方を?」
意外そうな顔をされたが、サンジは「…ま、お互い時間があれば、な」と、さして迷惑そうな様子もせずにそう言った。

一時間、いや、30分あればなんとか2人きりで会う約束ぐらいは絶対に取り付けられる。
そう息巻いて出掛けた結果、目標までは残念ながら果たせなかったけれど、かなり大きな収獲を得た。
紅茶の正しい煎れ方を覚えたところで、これからのガースの人生の何が変る訳でもないし、何か得がある訳もでもない。そんな柄でもないのも分かっている。
けれど、それがキッカケになるのなら、恥も外聞も無い。
オールブルーにいられる時間は限られている。
例え、一日でも無駄には出来ない。
当然、人目など気にしていられない。がむしゃらに突き進むだけだ。

* **

それから、ガースは仕事の合間を縫っては、サンジの家に押しかけたり、わざわざレストランの方に身銭を切って紅茶を飲みに行ったりした。
やはり、それは仕事仲間の目にもかなり大っぴらな行動と映った様だ。

「…船大工が紅茶にこだわってどうするってんだ、あぁ?お前、ミエミエだぞ」
工事も後半に差し掛かってきた頃、船大工を束ねているリーダー格の先輩職人に、ガースは厳しく咎められた。
「お前が野郎にしか惚れない性質で、ウォーターセブンでも好き勝手して来たのは、
どうでもいい。プライベートな事だからな。でも、ここでそんな不埒な真似は許さん」
「雇い主に遊びでチョッカイかけるなんて、会社にも迷惑がかかる」

頭ごなしに「遊び」だの「チョッカイ」だのと言われると、ガースも黙っていられない。
既に、本気で、真面目な恋愛をしているつもりになっていたからだ。
「チョッカイじゃねえ。俺は本気だ」
「いつ、帰ってくるか分からねえ恋人を一人で待ってるのは辛エだろうって」
「だから、…俺があの人の寂しさとか埋めたいって思ってるだけだ」
「別に、あの人を弄ぶつもりは…」「馬鹿野郎!」
先輩職人に、ガースはいきなり一喝される。
「なんのつもりか知らねえが、とにかく!あの人に手を出してみろ、お前、その事がロロノア・ゾロの耳に入ったら、その首、すっ飛ばされるぞ!」
だが、その剣幕にもガースは動じなかった。
「…あの人を放っとくロロノア・ゾロが悪いんだ。俺が首をすっ飛ばされる覚えはねえ」と悠然と答える。

「別に、無理矢理強姦するなんて気はねえ。合意の下で、…恋人の真似事をしてえだけだ」
「…この馬鹿が。のぼせ上がりやがって」先輩職人が苦々しく溜息を吐く。
こんな下らない事を言い争うのはホトホトゴメンだ、とその顔には書いてある。
まともな性癖の男にとって、ゲイの男の火遊びを戒める事など、最初から理解できない事だし、それでも立場上、黙って見過ごす事も出来ないから、面倒だけれども、ガースに小言を言っている、と言う腹の内がありありと見えた。

その先輩職人の顔つきや態度を見ていると、自分の性癖を蔑視されている様な気がして、ますますガースは意固地になる。
「…俺ぁ、自由に恋愛してるんだ。その相手にのぼせて、何が悪い」
顔を背け、眼も合わせずにふてぶてしく言い返した。

そんなガースの態度に、先輩職人もこれ以上の言い合いは無駄だと思ったのだろう。
「とにかく、雇い主に迷惑を掛けるような事は絶対にするな。俺は忠告したぞ」
「それでも、俺の忠告を無視して、行動を改めない様なら、お前の代わりの職人を寄越してくれる様、パウリー副社長に頼むからな」と、最後は脅しをかけてきた。
「最後まで自分の仕事をやり遂げてえなら、恋愛ごっこはほどほどにしとけ。いいな」

(…チッ…うるせえ野郎だ)
先輩職人の苦言に、腹の中でガースは舌打ちをする。
だが、「わかりましたよ、自重します」と上っ面だけはしおらしく答えておいた。

* **

が、当然、そんな事を気にするガースではない。
欲望の赴くままに、サンジと寝たい、と言う欲求が、いつの間にか「あの人の寂しさを一時でも忘れさせてあげたい」と言う、とてつもなく身勝手で、独り善がりで、余計なお世話な感情にすりかわっていた。その上、厚かましくも、自分のその言動を正当化している。

サンジの為、と言いながら、その実、サンジの本当の気持ちなど全く考えていないのだ。
厚顔無恥、とは全くこの事を言うのだろう。

先輩職人の苦言を聞いた翌日にも、ガースはサンジの本宅を訪れた。
例によって、サンジに紅茶の煎れ方を教えて貰う、と言う名目で、だ。

「…もう、何回か教えただろ。一回、煎れてみろ」

その日、サンジの様子がいつもと違っていた。
いつもより生気がない気がする。
迷惑だから帰れ、とは言わなかったけれど、今日は何か、気掛かりがある様だった。

だが、そんな気だるげな、物憂げな様子がまた堪らない。

(…何か、あったんですか?)と聞きたいけれど、悩み事を打ち明け合う程はまだ距離が縮まっていないので、ガースは何も聞けなかった。

ただ、ソファの上に無造作に新聞が落ちてある。
ちらりと日付を見れば、それは、今朝、届いたばかりの新聞だった。
長年内戦中だった国に世界政府が軍事介入した、と大きく報じられている筈だ。
そのニュースは、職人仲間でも朝から話題になっていたから、ガースもその記事については多少、見聞きしていた。
その紛争を出来る限り早く終結させる為に、世界政府は七武海クラスの武道家や剣士を集結し、万全の戦力を整えて臨むらしい。
恐らく、その「武道家や剣士」の中には、ロロノア・ゾロの名も挙がっているだろう。

「…なんか、心配事でもあるんですかい?」
勇気を出して、ガースはそれとなく尋ねてみる。
窓際に立ち、海を背にし、海風に吹かれるまま、どことも定まらない眼差しでただ、遠くを眺めているサンジは、なぜか、とても寂しげに見えた。

「…いや」短く答えるだけで、サンジはガースの方を見ようともしない。

もぞもぞと手馴れない作業を進めながら、ガースはサンジの姿をいつもの様に盗み見る。
(…こりゃ…今日はまた一段と色っぽいな…)と、生唾を飲みながら。



今までも、会う度サンジは美しい、と思って来た。
向日葵色の髪や、華奢な体躯、海色の瞳、なんとも艶かしい美しい肌の色…。
が、それは単なるサンジの容姿に過ぎない。
雨が降ろうと、雲が翳っていようと、そのサンジの容姿の美しさはなんら変わらない筈だ。

けれど、今、オールブルーの昼下がりの陽光の下、佇んでいるサンジの美しさは格別だった。
にこやかに華やかに笑っている時より、浮かない顔をしている今の姿の方が、よりサンジが美しく見えるのは、一体、どう言う事だろう。


「…お疲れなんですかい?」
なんとか、懸命に煎れた紅茶をカップに注いで、開け放っていたバルコニーへと、紅茶を零さないよう、大きな手で小さなカップを捧げ持ち、そろそろとサンジに近付く。

「…別に疲れてねえよ。寝つきが悪イだけだ」
ガースが差し出したカップを手に取り、サンジはまた海の方へと顔を向けた。
その横顔を見て、ガースの胸が甘く疼く。

(…この人には…)
サンジの煎れてくれた紅茶には、人の心を癒す温かさと優しさが篭っている。
心がとき解れるように、癒される様に、心地良くある様に、サンジはいつも人の事を考えている。
けれど、サンジの為に温かな紅茶を煎れ、癒し、温め、疲れや寂しさを宥めてくれる者が、このオールブルーにいるのだろうか。
そう思った時、ガースの胸が何かに抉られた様に痛み、
(…やっぱり、俺はこの人を放っておけねえ…。この人の体も心も慰めてあげてえ)
まるで、使命の様に、ガースはそう思った。

本当に好きな相手の事で思い悩み、胸を痛め、恋しい気持ちを誰にも打ち明けずにいるからこそ、今、目の前のいるサンジは悩ましく、艶かしい。
けれど、胸が焦げ付くような、切ない恋など一度もした事が無いガースには、それが全く分からなかった。

面と向かって、口説くにはもう時間が無さ過ぎる。それに、もうそんな回りくどい事をするには我慢も限界だ。
2人っきりで、夜、しっとりとした時間の中で掻き口説けば、きっとサンジも絆されるに違いない。
(…多少、小道具も必要だが…。悪気はねえんだ。きっと、満足して貰えるだろうしな)

ガースの煎れた紅茶をサンジは褒めもしないし、けなしもしなかった。
が、そんな事に拍子抜けしている暇はない。

「…夜、良く眠れるような紅茶ってあるんですかい?」
「…紅茶じゃねえが…ハーブティなら、そう言う効能のがあるぜ」
「俺も慣れない土地に来て、気疲れしてるんでしょうかね、ここんとこ、よく眠れなくて…。今夜、そのハーブティってやつの煎れ方、教えてください。じゃ仕事がありますんで、」

キッカケや用事が、サンジになんと思われようと構わない。
サンジの返事も聞かずに、ガースはそそくさと立ち上がって、急に忙しなく本宅を後にした。

そして。
現場には行かずに、駐屯している海軍の診療所へと直行した。

「寝つきが悪くて、昼間、辛くて堪らねえんで。ちょいと、睡眠薬を処方してもらえませんかね」と医者に訴え、微量ではあるが、睡眠薬をまんまと手に入れた。

ぐっすり眠らせるのではなく、朦朧とした状態にさせるにはちょうどいい量だ。

(…これで、万事うまく行くはず…)
胸の内ポケットに薬を忍ばせて、ガースの顔が綻ぶ。

体の力がぐったりと抜けたサンジが、今夜、間違いなく、自分の腕にいる。
それを想像すると、仕事を初めても、顔が緩んで仕方が無かった。


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