離れていても、いつも、俺達の魂はいつも繋がっている。
手に触れる事が出来なくても、目に見える場所にその姿がなくっても。


「花色の約束」


(・・・そうだ、この島だった)

いまや、世界一の大剣豪として名を馳せ、正式ではないけれどかつての
「王下七武海」に匹敵する権限を有する世界唯一の剣士となったゾロは、足の向くまま、
気の向くままに旅をしている。

そうして辿り着いた島は、偶然にもずっと以前・・・思い出すと、
遠い昔のような、つい昨日のような、若い日に一度、通りすがりに立ち寄った事のある島だった。

(あの時も、こんな風に桜が満開だったな)とゾロは思い出す。

些細な事で仲たがいし、拗ねてうろついて。
油断して、賞金稼ぎに毒を食わされて、殴られて、血まみれになって。

あの頃よりも、桜の木は立派に成長し、そして、その数が増えているような気がする。
だが、花びらの隙間にまばらに見える青い空の色も、白をほのかに染めるような桜の清らかで、華やかな風景も、変わりないように思え、その感覚は、懐かしさを超えて行く。

時がさかのぼり、追憶の中の世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚を感じてしまうほど、寸分変わりなくゾロの目に映り始めた。

(油断して、賞金稼ぎに襲われて・・・・)
桜の木が植えられている道をゾロは思い出を辿りながら、ただ、歩く。
ゾロの目は風景を写し、心だけが追憶の中のその風景に迷い込んで行った。

(・・・あいつに助けてもらって・・・・それから、)
みっともないところを見られて、ゾロはサンジに、見損なったか、と尋ねた、
その事もはっきりと思い出す。
(なんで、こんなにはっきり思い出せるんだ・・・)
あの時、サンジが言い放った言葉の一文一句、そしてその時の表情も全て、
瞼を閉じなくても、目に映る風景の中に幻影として見えてしまうくらい
鮮やかに思い出せる。それが、ゾロは可笑しく、そして不思議だった。

知らず知らずのうちに、その時の光景、交わした言葉、それを受け止めた時の感情を
忘れたくない、大切な宝だと分かっていたから、こんなにも今、はっきりと思い出せるのだろう。それが可笑しくて、ゾロは思わず、フ・・と自嘲をもらした。

「これくらいの事で見損なうくらいなら、最初からお前なんか相手にしねえよ」
「血まみれだろうと、クソまみれだろうと、・・・・」
そう言った時のガキ臭い、照れたような顔が、とても愛しかった。

そして、自分のためだけに作った弁当を食べて、二人で見た夜明けの桜の下で、
「もっと・・・どうやればお前が喜ぶかとか、・・・ちょっとはわかるだろうが」
そう言って、自分の心に触れたサンジの言葉が、サンジの声でゾロの心の中に蘇える。

あの頃は、手を伸ばせばいつでも触れられる場所に、
目を開けていれば、その姿をいつでも見つけられる場所に、いつでもすぐ側に
サンジがいて、けれどこの島に来た頃は、そんなに近い距離にいるのに、
強引に歩み寄ってサンジを傷つけるのも、拒絶されて傷つくのも怖くて、その場所より
もっと近くに行きたくても踏み出せなかった。

そして、その日から月日が流れ、ゾロは一人きりで、桜色の風に吹かれている。
あの頃願っていた全ての事は叶ったけれど、今、サンジは側にいない。
瞼を閉じれば確かに姿を思い浮かべる事は出来る。声を思い出すことも出来る。
だが、それはただの幻影だ。手に触れる事は出来ない。

心と体の距離がもどかしいほど遠かったあの頃が、無性に懐かしくなった。
「おい、クソコック」と声を出せば、いつでも振り向かせる事が出来たあの頃。
会いたい、と思う必要もなかった。

風に舞い散る桜の花びらを目で追う、その花びらの数だけ、ゾロの心の中に
言葉にも出来ない想いが込み上げてくる。
柔らかで優しい風だけれども、花びらを全てさらってしまうまで、吹き止みそうにない。
今、その風の色さえ染めてしまいそうな桜の中、ただ一人でいるのが息がし辛いほど
切なかった。

側にいて欲しい。会いたい。指を絡ませなくても、肩を抱かなくても構わない。
ただ、隣に立っていてくれたらいい。
二人で、この風に吹かれていれば、それだけで何もいらないとさえゾロは思う。

美しい風景を見る度に、何度そう思ったか分からない。
ことに、桜は一人で眺めるには儚すぎて、美し過ぎる。

島中桜が満開で、誰も目を止めそうにない場所にまで桜が植えられていて、
ゾロは人気のない場所で足を止め、一本の桜の木に凭れて、その木の下から空を見上げた。
風が枝を優しく揺らす音にもならない かすかな音が耳をかすめる。

地面に降り舞い落ちていく桜の花びらは、そっと差し出したゾロの手をまるで避けるようにしてすり抜けていった。
桜の花びらは、儚くて、美しくて、掴めそうで、掴めない。
自分の自由になりそうなのに、決してそうはならない。
しなやかに自分の進む道を貫いて、誰の掌にも納まる事が無い。
もしも、納めてしまうことが出来たとしても、その途端、花びらは色褪せてしまう。
それを分かっているのに、ゾロは掌をただ、花びらを風ごと受け止めるように
そっと差し出す。
そして、ようやく、ひとひらがゾロの掌にハラリと舞い落ちてきた。
掌に包むようにして握り締めたけれど、僅かな指の間から、そのひとひらさえも
すり抜けてしまう。

ふと、ゾロは視線を感じて目を上げた。
遠くから、誰かが、自分を見ている。はっきりとその気配を感じる。

(・・・敵意じゃねえ。これは・・・)

からかう様な、優しく包み込む様な、温かな視線。
桜の並木の間から、誰かが、ゾロの方へ向って歩いてくる。
桜の花吹雪がその姿を、もったいぶるように悪戯にぼやかしているけれど、
ゾロには、それが誰なのか、はっきりと分かった。

会いたい、と声にも出せずに切なく願った、その相手が目の前に突然現れる。
その事に、喜びよりも驚きで、ゾロの喉が塞がった。

「・・・なんだよ、人をバケモノか幽霊に会ったみたいな目で見やがって」
そう言って、サンジはにんまりと口の端をゆがめて笑った。
向日葵色の髪が肩を超え、向かい風の中がその髪の香りをゾロへと運ぶ。
深呼吸をして、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。そして思った。
(・・・夢じゃねえ)
「・・・お前、なんでこんなところに・・・?」
自分でも呆れるほど、声が上ずる。

「・・・買い付けだ」そう言って、サンジはゾロの様子が可笑しかったのか、小さく
クス、と鼻で笑う。
ポケットに手を突っ込んだまま、周りの桜を見回して、
「この島はもう花見だけじゃなく、桜が産業になってるんだぜ」
「この桜は観賞用だけど、島の裏側じゃ、桜のワインだの、リキュールだの、砂糖漬けだのジャムだの作ってる」と言った。
サンジが顔を動かすたび、長い髪が風に流され、揺れる。
飢えていた者が貪欲の食べ物を求めるのと同じで、
ゾロの目は、桜の下のサンジの姿だけをを見て、耳はサンジの声だけを聞いていた。
「俺の海じゃ・・・・」一際、強く風が吹いて、サンジは言葉を途切れさせる。
サンジの目も、舞い散る桜の花びらを追っている。
その僅かに背けられた滑らかな横顔が、桜の色に染められ、ほのかに赤みが帯びているようにゾロには見えた。
「桜は冬の次に咲くから、客には見せられない」
「でも、夏の後に来る春の時、少しでも春らしさを感じてもらおうと思って」
「そう言う品種の桜の苗と・・・それから酒とか買いに来たんだ」

「そしたら、・・・」そう言って、サンジはやっとゾロを真っ直ぐに見た。

サンジが自分を見るその眼差しは、まるで映し鏡を見ているようだ。

会いたかった、とその青い瞳は言っている。
きっと、自分の瞳もサンジにそう語りかけているに違いない、とゾロは自分でも
分かっていた。だが、隠せない。隠そうとも思わない。
狂おしいほど、サンジに会いたいと思っていたのは、紛れもない事実だからだ。

サンジの青い瞳は、思いがけない再会に輝いていた。
きっと、自分の目も同じ様に輝いている筈だ。
「・・・なんで俺がここにいるってわかった・・・?」そうサンジに尋ねると、
「世界一の大剣豪が来てるって噂を聞いて・・・お前がいそうな場所に来ただけだ」と
言って、立ち止まり、微笑んだ。

「誰も見てねえのに、随分、遠慮深いんだな」そう言ってゾロは自分からサンジに
歩み寄っていく。

会えるだけでいい、側にいて隣に立っているだけでいい、と思っていたのを覚えているのに、自分を創り出している全てのモノの欲求に突き動かされる本能の様に、
ゾロはサンジに触れたくなり、手をそっと伸ばした。

「・・・そこから、もう近づくな」
サンジは僅かに顔を背け、呻くような声でゾロを止める。

「面を見るだけでいい」
「それ以上、近づいたら、・・・・」それだけ言って、サンジは言葉を詰らせた。

あと、ほんの五歩、踏み出せばサンジの体に手が届くのに、桜の花びらを踏みしめていた
ゾロの足が止まる。

「・・・なんだよ。それ以上、近づいたら・・それからなんだ」
そう尋ねたゾロに答えず、サンジは気を取り直したかのようにまた顔をゾロに
向け、逆に聞き返してきた。
「お前は、何しにこの島に来た?」
「特に目的はねえよ。近くを通ったから寄っただけだ」
サンジに唐突にそう聞かれて、ゾロはサンジの様に質問をはぐらかす事もなく、
正直に答える。

「・・・次の行き先は?」サンジは煙草を咥えなおして、更にそう聞いてくる。
「決めてねえ。適当にうろついてりゃ、宿代くらいにはなる賞金首もいるだろうしな」
「適当に暴れてりゃ、自ずと喧嘩の火種はどこに居たって見つかる」

言葉を交わすごとに、遠く隔たっていた時間と距離が二人の前から消えて、
ずっと一緒にいた時と代わりない感覚で向き合えるようになってくる。

「お前は?」今度はゾロが聞き返した。
「俺が乗る船は三時間後に出る」
(三時間後・・・)ゾロはサンジの言葉に、声が出せなかった。

サンジと離れて、どのくらい経っているだろう。
咄嗟に思い出せないが、サンジが自分を見送ってくれた時、若い頃と同じ髪型だったのに、
今目の前にいるサンジの髪は、肩を超え、背中にまで充分に届いている。
それほどに長い時間、自分達は一通の手紙も交さず、一度も声を聞く事もなく離れていた。

そして、今、こうして偶然に出会えたのに、それもたったの三時間の再会だけで、また
別々の場所へと戻っていかねばならないと言う。

「・・・分かっただろ?たった三時間しかねえ」
「だから、これ以上、俺に近づくな。俺は欲深エんだから」
そう言って、サンジは目を僅かに細めて虚勢を張るように笑った。




手を伸ばして、抱き締めて、口付ければ、それ以上が欲しくなる。
何もかも曝け出して、誰にも見せない顔をして、誰にも聞かせない甘い声を上げて、
淋しさも切なさも全部、温もりに解かして分かち合う様な、二人だけの甘い時間が
いくらでもいくらでも欲しくなる。
離れたくない、と言う気持ちに負けてしまう。

言葉に出さなくても、サンジの意味深に細められた目を見ればゾロには
サンジは、そう伝えたいのだと分かった。

「欲深いのは、お前だけじゃねえだろ」ゾロがそう言ってサンジの言葉を笑うと、
「いや、・・・俺だけだ」サンジはそう答えて、煙草の煙を溜息のように吐き出す。
口調は、自分の本当の気持ちを隠すように、妙に明るく、おどけているけれど、
そんな強がりなど、今のゾロには簡単に見抜ける。

「どうしても、三時間後の、その船じゃなきゃダメなのか」
サンジが自分の正直な想いを堪えようとするのなら、その分、ゾロが我侭になればいい。
今まで、そうして、ゾロの我侭をサンジは何度も受け入れてくれた。
今回も、もしかしたら・・・とそんな淡い期待を抱いて、ゾロも軽くそう言ってみる。
けれど、サンジは首を振った。
「ここから乗る船が向う島に、海軍の船が俺をオールブルーに送り届ける為に待ってる」
「その島へ行く船は、十日に一度しか出ねえ。乗り遅れたら、十日足止めだ」
「オールブルーから、ここへ来るのに三週間、帰るのも三週間掛かる。さらに十日も
グズグズしてられねえ」
「・・・今回は、お前が俺を見送る番だな」
サンジはそう言って、また、口元に微笑を浮かべた。
無理にでも笑い顔を作る事で自分を励ましている。そんな風に見える笑顔だった。

桜の下で見るサンジのその華やかで切ない表情がゾロの胸を締め付ける。

せっかく、ここで会えたのに、三時間したら、たった一人で旅立つサンジを見送らねば
ならない。その後、きっと、さっき感じていたのとは比べ物にならないくらい、
サンジへの恋しさと淋しさと、孤独とやるせなさで、心が埋め尽くされてしまうだろう。
そしてその恋しさも、孤独も、淋しさも、きっとサンジの心をも埋め尽くす。

(・・・そんな思い、させたくねえ)
心から、ゾロはそう思う。そう思うと、勝手に言葉が出た。
「俺も、行く」
「バカ言うな」サンジは、ゾロの言葉を見越していたかのように即座にそう切り返す。

「てめえの腕を振るう場所探してここへ来たんだろ」
「自分で言ったんじゃねえか。適当に暴れてりゃ、自ずと喧嘩の火種はどこに居たって見つかるってよ」
「俺はもう海賊じゃねえ。喧嘩の火種なんて、見つけたくねえし、何が何でも
無事にオールブルーに帰りてえんだ。厄介ごとを背負い込むのはゴメンだ」

「・・・だから、護衛してやるって言ってんだ」
ゾロはそう言って、自分の理屈に満足し、ニヤリと笑って見せた。
(珍しく、こいつに口で勝てそうだ)

「護衛・・・?」サンジは、思いがけないゾロの理屈を聞いて、面食らった様で、
唖然としてただ、鸚鵡返しに言葉を返してきただけだ。
「自分で言った事だよな?無事にオールブルーに帰りてえってよ」
サンジの口調と言葉を真似て、さらに畳み掛けようとゾロは勢い込む。
「100人の海兵の護衛より心強エぜ?」
そう言っても、サンジは簡単には首を縦に振らない。
「安全な海域だ。行きも海賊にも嵐にも遭わなかったし」
「帰りもそうだと言い切れるか?ここはグランドラインだ。何が起こるかわからねえ海だって、知ってるだろ」そうゾロが言い返しても、「理屈こねたってダメだ」と一蹴された。

「・・・てめえがオールブルーに来たって、・・・やる事は何もねえだろうが」
「日がな一日、暢気に過ごして、一人で剣振り回して・・・」
「そんな事してちゃ、腕が鈍る。死に物狂いで掛かってくる連中の相手してなきゃ、
てめえの腕が腐っちまうだけだ」
「だから、嫌だ。お前を腐らせる為に連れて帰るのなんて、真っ平だ」

いつの間にか、五歩ほど開いていたサンジとの距離が、二歩くらいに近づいていた。
知らず知らずの間、まるで詰め寄るようにゾロはサンジの側に近づいていて、
サンジもその事に気付いていなかった。
いや、それとも、本当はゾロの気持ちを受け入れたくて、無意識にゾロが近寄ってくるのを許していたのかも知れない。
そして、ゾロはまた一歩、サンジに近づいた。
すると、サンジは逃げるように一歩、後退する。

時には、絶対に論破など出来ない完璧な理論を言う事もあるのに、時にとても不器用で、
稚拙で、独り善がりで、それでも、常に自分の想いよりも、相手の事を考える。
サンジはずっと昔からそうだった。
そんなちぐはぐなサンジを、誰よりもかけがえなく、愛しくゾロは想う。

「・・・いつまで経っても、お前は俺をナメた事言うんだな」
「俺は、俺の選んだ場所に俺の好きな時に行く。どこに行こうが、俺は腐ったりしねえ」
桜の木に凭れていたのは、ゾロの筈なのに、いつの間にかサンジが桜の木に凭れ、
ゾロはその体をどこにも逃がさないように、その目がもう桜の花びらではなく、
自分だけを見るように、片手をサンジが凭れている桜の木に添え、片手で
サンジの頬にそっと触れて引き寄せた。

「・・・勝手にしろ」とサンジは憮然とした口調を装った、笑いを含んだ声でそう言った。
咥えていた煙草を指で摘んで抜いても、サンジは咎めない。
風に温もりを奪われて少し冷たい唇は、いつもと同じ煙草の匂いがほのかに香り、それでも柔かく、
優しい感触だった。


戻る     続く