(明日には帰ってくるんだ)
朝起きた途端、まず、S-1はそう思った。

昨夜は、1人きりのベッドが寒くてなかなか寝付けなかった。
それでも、いつの間にか眠っていた様で、瞼を開けて隣を見て、
誰の頭も乗せていない枕を見て、一人きりで眠っていた事をすぐに思い出した。

(明日には、帰ってくる)昨夜の様に寂しいのを、今夜一晩我慢すれば、
R-1に会える。そう思って、寝不足で気だるい頭と体をどうにか励ますが、
(・・・長いなア・・・あと、何時間あるんだっけ)とまた、ため息をつく。

まだ、24時間以上はある。
二人でいたら、時間などあっという間に過ぎるのに、1人でいたら、
なんて時間が過ぎていくのが遅いのだろう。

グズグズしていても時間は早く過ぎてくれない。
S-1は起き上がった。
とにかく、仕事をしていれば、一日はあっという間に過ぎる。
そして、一晩過ごせば、すぐにR-1が帰ってくる時間になる。

(俺がこんなに待ってるんだから、ちょっとくらい、駅で待ってればいいんだ)
(最終の汽車の時間まで焦らしてやったら、ちょっとは俺の気持ちが
わかるかな)

勝手に自分を置いて出掛ける事を決めたR-1に心の中で悪態を突きながら、
身支度を整えた。

外に出て、空を見上げる。
空が抜けるように蒼く、朝の風は少しひんやりとして心地よい。
(今日も一日、天気は良いといいな)と思いつつ、歩き出した。

いつも、S-1が店に出掛ける時は、入り口までR-1が送ってくれる。
その間の短い時間に他愛ない会話を交わして、二人で歩くのが日課だった。

そんなある日。
「なあ、R-1、この家、人が住んでると思うか?」と、S-1は一軒の家の前を
通りかかり、立ち止まってR-1にそう尋ねた事がある。

いつも通る同じ道ぞいには、5階から6階建てのアパートメントが立ち並んでいる。
その一角に、そこだけ時間の流れが急速に過ぎたように、古びていて、
やたら立派な洋館が背の高い建物の間に挟まれて建っているのを見つけた。

「・・・随分、古そうだな。石で造られてるみてえだから崩れないんだろうが、
中は相当古そうだ。住んでるとしても、幽霊みたいなジイさんか、バアさんだろ」
「いや・・・人よりネズミの方が多いかもな」
S-1の質問にR-1は柔和な表情を浮かべてそう答えた。

「中、どんな風になってるんだろうな」とS-1は背伸びをして鉄格子のような
門扉の中を覗きこむ。
「空き家ならいいが、人が住んでたら厄介だからな。そのうち、わかるだろ」
R-1はそう言ってから、「寄り道してたら遅れるだろ」とS-1の手を掴んで
軽く引っ張る。

(そんな事、あったな。結局まだ空き家か、そうでないか、知らねえけど)
S-1はまた、その屋敷の前で立ち止まり、門扉をしげしげと見つめる。





(・・・もし、ここが空き家だったら、R-1と探検しに行こう)そう思って
歩き出す。
すると、数歩、歩いたところで門扉がギ・・・と軋む音がした。
S-1はすぐに振り向く。
(中から人が出てきた!)どんな人間が住んでいるのか、もちろん、興味津々だ。

「あれ・・・スー・・君?」
「あれ・・・」

中から出てきたのは、相変わらず冴えない風貌のテツだった。
幽霊みたいな老女や老人、それもとても品の良い品を身に着けた、魔法使いか、
魔女のような・・・そんな人間が出てくる事を勝手に予想していたS-1は少しがっかりする。そんな感情が、短い「あれ・・・」と言う声にも表れた。

「ここに住んでるのか?」と思わず、テツにそう尋ねる。
「うん、そうだけど・・」テツは気弱そうに眼鏡の奥の目をしょぼしょぼさせて
苦笑いを浮かべた。
「分不相応だと思った?」
「ブンフソウオウって?」テツの言葉の意味が分からずに、S-1は首を傾げる。

「今から仕事?」テツはS-1が理解出来なかった言葉の意味を説明もせずに
当たり障りのない挨拶のような言葉を口にした。
今日は、ちゃんとカバンを小脇に挟んで持っている。

「うん。あんたは?」
「僕は病院」そう答えて、テツは歩き出した。
「病院?どっか、体が悪いのか?」歩く方向が同じなので、二人はなんとなく、
並んで歩く格好になる。

「ゼンソクなんだ。子供の頃からずっと。時々発作が出るから、薬は手放せないんだよ」
「ふーん、・・・」(ゼンソク・・・呼吸器系の病気だな)
S-1は、テツの言葉に頷き、その意味を理解して、相槌を打つ。

「スー・・・君って呼んでるけど、それでいいのかい?」
「うん、いいよ。俺はなんて呼べばいい?テツさん?テツ君?」
「・・・さん、とか、君、なんてつけて僕の事呼んでくれる人、誰もいないから」
「テツ、でいいよ」

朝の光を受けて、テツのかけている眼鏡がキラキラと光る。
(・・・なんだろう、これ・・・?)何度か見てはいるものの、
眼鏡を見慣れていないS-1には、その役割が分からない。
門扉を見ていた時と同じ目つきでテツの顔を眺める。

「・・なに・・・?」と当然、テツは怪訝な顔をした。
「いや、その・・・それ、なんで掛けてるんだ?」
「それ?」S-1に自分の鼻辺りを指を指されて、テツは明らかに困惑した表情を浮かべた。
「それ、眼鏡ってどうして掛けてる人と、そうでない人がいるんだ?」
「なんだか、賢そうに見えるから、わざと掛けてるのか?」

S-1にそういわれて、テツはポカンと口を開けた。
(何を聞いてるんだろう、この人は?)
そう思ったに違いない。
それでも気を取り直し、
「・・・そうじゃないよ、目が悪いからだよ」淡々と答える。

「へえ。じゃあ、暗いところで一杯本を読んだんだ。テツは」
「暗いところで一杯本を読むと、物凄く目が悪くなるってR-1が言ってた」
S-1は思ったことをそのまま、口に出した。明瞭なS-1の口調と違って、
テツの口調はなんとなく、自信なさげであまり上手く聞き取れない。
「確かに、それはそうだけど・・・」
「じゃあ、頭いいんだ!勉強するのにも、一杯本を読まなきゃいけないもんな」

テツは、いつもオドオド、ビクビクしているけれども、
なんとなく下品な目つきで、やたらと「遊ぼうよ、遊ぼうよ」と言ってくる男達と
比べれば、ずっと気楽に話が出来る。
それに、たくさん本を読んでいて、きっと(テツは俺より賢いんだ)と
S-1は勝手に思い込んだ。

「俺さ、ホントに知らない事がいっぱいあるんだ」
「早く、大人になりたいんだけど、それには一杯勉強しなきゃいけないだろ」
「でも、何をどう勉強すればいいのか、全然わからなくってさ」
「良かったら、・・・トモダチになってくれないか?」

「え?」
テツは驚いて足を止めた。
こんなに単刀直入に「トモダチになってくれ」と言われたのは、初めてだ。
金目当てで、近寄ってくる輩はたくさんいる。
が、そんな人間は逆に金をせびる時にだけ、「トモダチだろ」と繰り返す。
テツは体も気も弱く、いくら金をせびろうと嫌な顔をしない、と言うのを
知っているから、そんな相手はいくらでも寄って来た。
「トモダチだろ、」と確認させられる時、彼らはいつも高圧的な目をして、
テツを屈服させるかの様に目で威嚇する。
「トモダチだろ、」と言いながらも、誰もが、恋人のアンさえも、
常にテツを見下している。そんな眼差しに晒される事に慣れているテツにとって、
S-1の、なんの裏表もない、透明な眼差しは驚異だった。

「・・・君なら、僕なんかトモダチにならなくても一杯人が寄って来るだろ」
(どうせまた、金目当てに決まっている・・・)
すぐにS-1を信用できず、そうテツが警戒したのも無理もない事だ。

「君は、その・・・背も高いし、顔もいいし、・・・男の僕から見ても
綺麗だし。店でも君目当てで来てる人、一杯いるだろ」

「俺は、テツとトモダチになりたいんだ」
「他の奴ら、なんだか悪い事考えてそうだから嫌いなんだ」
そう言うと、S-1はいつもよりかなり道草を食ってる事に急に気付く。

「俺、急がなきゃ。病院行って、時間があったら店に来てくれな」
「じゃあ、また!」
テツが唖然とした顔でいる事を気にしないで、S-1は走り出した。

そして、その日の夕方。
もう、そろそろ日が暮れようとしていた頃、S-1は仕事を終えて、
帰る準備をしていた。

「スー君、今日はここでご飯食べて帰るといいよ」
「アル君いなくて寂しいから、1人じゃ、食べないだろ?」
「ワイフが弁当、作ってくれたから、これ食べなさい」とマスターが
S-1に渡してくれた弁当を受け取る。
「なんか、色々ありがとう、マスター」と遠慮なく、カウンターに座って、
その包みを開く。
「今日、スー君はうちに泊まる事になってるから誘ってもダメだ」と
しつこく誘ってくる連中をマスターが追い払ってくれたおかげで、
今日は、とても仕事がしやすい一日だった。

「アル君の留守中になにかあったら、僕がアル君に殺されるかも知れないからねえ」と
マスターはカウンターの中でケラケラ笑っている。
「気をつけて帰るんだよ。連中、どっかで待ち伏せしてるかも知れないから」
「大丈夫だよ、俺はマスターが思ってるよりずっと強いんだから」

食べ終わって、店を出るともう町は夕闇に包まれていた。
朝、歩いてきた道を逆に歩いて、S-1は真っ直ぐに家に帰るつもりで歩く。

「あれ?」
テツの家の、あの立派な門扉の前にテツが座り込んでいる。
最初は、影しか見えずに岩かなにかだと思ったが、そうではなかった。

ゼー、ゼー、と肩で息をしていて、それから激しく咳き込む。
体が揺れ、一見してとても辛そうだ。

「テツ?・・・なんでこんなところにしゃがんでるんだ?」
S-1は同じ様にしゃがみ込んで、テツの顔を覗き込む。

息遣いがゼーゼー、と聞きなれない、とても聞き苦しい嫌な音だ。
「・・・カバンを・・・アンに渡してて・・・その中に鍵も薬もサイフあって・・・」
「息が苦しくて・・でも病院にも行けなくて・・・・」

眼鏡の奥の小さな目がなみだ目になっている。このままの状態が長く続けば、
死んでしまうかも知れない、とS-1は思った。
それにしても、つい先日もサイフを全部アンに渡して、迷惑を被ったくせに、
何故、また同じ失敗を繰り返すのか、とそっちのほうが呆れて、腹が立った。

「どうして、カバンごと渡すんだよ!」だが、怒っても仕方ない。
(相手がバカだと・・・腹が立つんだな)
怪我をしたり、病気をしたりする度に、
R-1の機嫌が悪くなる理由が少し分かったような気がした。

「薬は家の中にある?」と尋ねると、テツは苦しげに うん、うん、と
軽く何度も頷く。声を出すのも辛そうだ。
「ちょっと、我慢しろよ!」
そう言って、S-1はテツを担ぎ上げ、門扉を軽々と飛び越えた。

門から玄関までも、結構走った。
「か・・・鍵がないと玄関は開かないよ・・・」
「金はあるんだろ?後で玄関の扉、直せばいいんだ」

肩の上に担ぎ上げたテツが弱々しくそう言っても、ただの古びた木の扉を
足で蹴り砕くくらい、S-1には容易い。
テツがいい、とも悪いとも言わない間に、足を振り上げて、玄関の扉を
一瞬で蹴り砕いた。


戻る    続く