Rー1の腕の中にいて、薄い布ごしに耳をぴったりとその胸に押し当てて、
力強い鼓動を聞いていると、心臓が捩じられる様な痛みが遠のいていく。
痛みが薄れるに連れ、詰めていた呼吸が楽になり、強張っていたS−1の体から力が抜けて、その代わりに柔らかな眠気が頭からゆっくりと体の隅々、腕へ指先へ、肩から胸を浸して、
緩やかに穏やかに優しく、S−1の意識を眠りの中へと誘っていく。
心も体も安心しきっていられるのは、眠気といっしょにR−1の体温も体に染込んで来るからだった。
でも、眠れない、眠り込んではいけない。眠りたくない。
必死に、瞼を持ち上げようと足掻いても、あまりの心地よさに体が挫ける。
(今夜こそ、)と腹を括ったのに。もう、体のどこも辛くない。だから。「R−1、」と声を出し掛けるのに、喉に力が入らなくて、蚊の鳴く様な声しか出せない。
「眠るんだ、S−1」そう囁く声にS−1の意識はますますぼやけた。
体全部をすっぽりと包む様に、爪先までをもR−1は優しく体全部を使って暖めてくれる。
抗っても、無駄だと諦めてすぐにS−1の意識はR−1の温もりにさらわれた。
はっと意識を取り戻した時、もう夜はすっかり明けたのか、灯りを消した筈の部屋の中は
うっすらと明るい。
なんとも言えない、薄い後悔がS−1の胸の中で疼いた。
穏やかなR−1の寝息が、額髪にかかる。なだらかな瞼はしっかりと閉じられていて、
とても気持ち良さそうに、安心しきって、静かにR−1は眠っていた。
きっと、(俺がどこも痛くなくなるのを見てから、眠ったんだろうな)とS−1は
息を顰め、そっと体をずらして、R−1の寝顔を覗きこむ。
ん・・・とR−1は小さく身じろいだ。
自分の腕の中にいる、S−1の背中を探す様に腕に力が入り、確かにS−1の
温もりと重さを感じ取ったのか、眠ったままなのに、S−1の体を柔らかく、
それでも、力強く、引寄せる。
そんな仕草だけでS−1の心臓はトクン、と一つ、高鳴った。
けれども、痛みは感じない。痛みも辛さもなく、耳をR−1の胸にピッタリとくっつけて、
逞しく、規則正しい鼓動を刻む心臓の音を聞く。
(どうして、俺の心臓はこんな風に何事もなく、動いてくれないんだろう・・・)
息が出来ない程痛くて、苦しくて、このまま死んでしまうかとさえ思ったのに、
今、こうして静かに穏やかに肌を寄せていたら、全身の力が緩やかに解けて、
誰にも何にも触った事がないくらいに、とても優しく柔らかく、R−1に触れそうな気がするのに、そんな風にR−1に触られたら、途端に心臓が硬直する。
それが悲しく、もどかしかった。
R−1が大好きで、それ以外の言葉ではどうやっても説明出来ないくらいなのに、
それを体で伝える事が出来ないのが悔しい。
数分の間、S−1はR−1が目を醒まさない様にその腕の中でじっとしていた。
やがて、R−1の瞼がピクリと動き、ゆっくりと開いて、それからまたゆっくりと瞬きを
する。
S−1はまた体を少しずりあげて、R−1の目を覗きこんだ。
とても綺麗な緑色の瞳にボサボサの髪の自分の顔が映り込む。すると、背中に回っていた
R−1の腕に更に力が入って、ギュっと抱き寄せられた。
「具合はどうだ?」鼻先がくっつく程近くに顔を寄せて、R−1はそう尋ねた。
「大丈夫、どこも、なんともない」あまりにも近付き過ぎて、R−1がどんな表情をしているのか良く判らなかったが、とにかく、安心させたくてS−1はほんのりと微笑んで答える。
「もう、平気だ、だから、」S−1は途中で言葉を切って、起きたばかりのR−1の唇に、
ピーとするような、軽い口付けをする。
「熱が出ても、胸が痛くなっても、それで死ぬ訳じゃないんだろ?」
「あのまま、眠っても大丈夫だったんだから」
「だから?」
「だから・・・」S−1はR−1に聞き返されて、言葉に詰まる。
熱が出ても、胸が痛くなっても死ぬ訳じゃない。
だから、R−1の好きにしていい、と言いたいのに、それが何故かとても恥かしくて、
口篭もった。頬が赤くなって行くのが自分でも判る。体中の血液が一気に顔へと流れこんでいるのかと思うくらいだ。
「朝だけどさ・・」
「別にいいんだ。俺、R−1がしたいようにすればいいって思ったから」
甘えるばかりで何一つ、R−1の思いに応えられないのが今更になって悔しい。
「だから、したい事、してくれよ」
そう言ってR−1の顔を見下ろしていると、S−1は何故かとても悲しくなって来た。
好きだと言う気持ちを言葉にして伝えたくても、相応しい言葉が全く浮かんで来ない。
もし、浮かんできたとしても、本当にその言葉に篭めた気持ち全てをR−1が
感じ取ってくれるのかも判らなくて心細い。
かと言って、言葉以外に想いを伝える術もない。
それがもどかしくて、切なくて、悲しくなった。
「バカ」
「バカ?!」
R−1が眠そうに言ったのは「バカ」と言う言葉で、S−1はその言葉を
聞いた途端、まさに「バカにされた」と思い、一瞬で腹が立った。
「死ぬ訳じゃないが、お前が辛い思いをしてるのに、そんな事出来る訳ないだろ、俺が」
そう言いながら、R−1はゆっくりと手を伸ばして、一度は起き上がった
S−1の体を引き倒し、胸に抱き込んだ。
S−1は反射的にその胸の中にギュ、と顔を押し付けてR−1の広い背中に腕を回す。
「ごめん」
「謝る事じゃない」そう言われて、背中をゆっくりと撫でられると、逆に切なさに
拍車が掛る。
こんなにR−1は優しいのに、優しくしてくれるのに、それ以上に優しくしたいと
思うのに、何も出来ず、今もこうして優しさに甘える事しか出来ない自分が無性に悔しい。
「俺は、熱が出ようと息が止まろうと構わないのに」
そう呟くと、R−1は笑って少しS−1の体を引き離して、顔を覗き込んで来た。
泣きそうな気持ちになってはいたけれど、まだ、涙は出ていない。
それでも、とても綺麗な緑色の目が温かな光を湛えて自分を覗き込んでいるのを
見つめ返していると、慰めてもらっているのに、どんどんやるせなくなってくる。
「その気持ちだけで俺は充分、幸せなんだ、S−1」
「ついでに言うと、お前が俺にだけ笑っててくれたら他には何もいらない」
そう言われても、R−1は我慢をしている。なんとかS−1にそれを知られまいと、
穏やかに、静かに話しているけれど、胸の鼓動を耳ではなく全身で聞き取れるほど
ぴったりと体を寄せ合っていたら、R−1が自分に隠そうとしている本当の気持ちまでもが
S−1の心の中に沁み込んでくる様で、それが判る以上、S−1は自分の言い分を
言い尽くさないと気が済まなくなって来る。
「でも、それじゃなんだか、不公平だ。俺ばっかり我侭勝手言って・・」
「じゃあ、俺も言う」そう言ってR−1はニッコリと笑った。
「お前が痛かったり、辛かったりするのは我慢できねえ」
「お前をそんな目にあわせる奴は許さねえ。例え、お前自身でも、だ」
「痛くても苦しくてもいい、なんてお前がそう思ってても、俺は嫌だ。許さねえ」
「それだけは譲れねえ。何がなんでも聞き入れてもらう。判ったな?」
表情は柔らかいが、口調はきっぱりと潔く、有無を言わせない力が篭っている。
S−1は小さく頷いた。
(そう言えば、俺が自分を責めなくていい、って思ってそんな風に言うんだ)と
R−1の本当の思いを感じとって、S−1は黙ってR−1の体をしっかりと抱き締める。
自分の我侭をS−1が飲んだ。そんな形にしておけば、S−1の体が異変を起こすために、
R−1に我慢を強いていて、R−1も仕方なく我慢させられている、と言う負い目をS−1に感じさせなくて済む。
S−1が無理をしようとしているのを諌めた。それをR−1は「俺の我侭だ」と言った。
「何がなんでも聞き入れてもらう」と言う、とても強く口調で。
その中に篭められた優しさや思いやりでS−1の胸イッパイになる。
けれど、それを口に出せば、折角、R−1がS−1を思い遣って考えくれた理屈と、その気持ちを無駄にしてしまう。だから、S−1は話しを変えようと、「俺、病気なのか?」と
また起き上がってR−1に尋ねる。
今度はR−1も起き上がって、まっすぐにS−1を見つめて微笑んだ。
軽く、頬に添えてくれた手がとても温かくて触れられているだけで、胸の中の
息苦しさが不思議とどこかに消えて行くのをS−1は感じる。
「違う、お前はまだ体も心も子供なだけだ」
「俺は生まれた時から19歳だが、お前はまだ12歳のままだ」
「頭と体のバランスが取れてない」
「だから、そのバランスが取れたら・・・きっと、大丈夫」
(そっか)R−1がそう言うなら、きっとそうだ。
S−1は単純にR−1の言葉を納得した。
「だったら、後何年か経てば、ちゃんと交尾出来る様になるんだな?」と
S−1が尋ねると、R−1は少し首を捻る。
「交尾か、まあ、交尾になるか。交尾って言うより、セイコウイって言う方が
正しいと思うが」
「セイコウイ?」「人間同士の交尾は、交尾って言わないんだ、S−1」
R−1はいつもと少しも変わらない。それだけの事でとても安心出来た。
今まで以上に、R−1に優しくしよう。
ありのままにいる事をR−1が望んでいるのなら、そうしよう。
何か迷ったり、困った事があったとしても、きっとR−1は間違いのないように、
俺を導いてくれる。
そう思えたら、こうして二人きりでいる事が何故かとても嬉しくて、R−1が愛しくて、
またギュ、とR−1の首根にしがみ付いた。
そして、(ありがとう、R−1)と絶対に聞えないほど小さな声で、そう、呟いた。
「S−1、どうしたい?今日帰るか、しばらくここにいるか?」
「部屋にピーを置いてきたし、明日には帰ろう」
その日は、山を越えたところにある牧場を見に行った。
馬に乗ったり、チーズを作る所を見たり。二人にとっては、そこにあるもの、
全てが見るのも触るのも初めてのものばかりだ。
「ここの牧場の牛は皆妊娠してるんですよ、お客サン」と二人ににこやかに説明してくれる、
日に焼けた健康そうな少女がそう言って、放牧されている牛を指差した。
「ニンシン?」とS−1が不思議そうにR−1に向き直る。
「赤ん坊が腹の中にいるって事だ」とR−1が答えると、その少女は明るく笑って、
「妊娠して、赤ん坊を産まないとオッパイが出ないのは、人間も牛も同じなんですよね」と
言う。
あたり前の事なのだが、その少女にしてみれば、今、自分の目の前にいる男二人が、
人間の複製品で、人間の腹から出てきた生物ではないなどと夢にも思っていないから、
そんな事を言ったのだけれど、S−1にしてみれば、彼女の言う事はまるきり知識のない事
なので、何を聞いても驚いてばかりいる。
(島には、専門書が殆どだったからなア)とR−1は、牧童の少女に目を丸くしてどこかピント外れな質問をしているS−1を眺めているが、内心、その少女と並んで歩いているのを見ているだけで、もう牧場からサッサと帰りたくなっていた。
だが、明るく、笑って、表情も冴え冴えとしているS−1の姿を見ていると、ホ、とする。
S−1から、「自分が痛くても構わないから好きにして欲しい、」と言われた時は、壊れるくらい力任せに抱き締めたいと思った。その気持ちのまま抱き締めていたら、きっと、またS−1の心臓はキリキリと痛み、息が乱れるほどの高熱にうなされてしまう結果を招いていたに
違いない。
何事もなかったけれど、何も出来なかったけれど、何かが変わった。
R−1はそんな気がする。我侭も、気侭さも、相変らずなのに、S−1の体からは
優しさが零れて、それが光になっている様に見えて眩しい。
「R−1、帰ろうか」太陽の色がほんのりとオレンジ色に変わり始める頃、
そう言って、S−1はやっとR−1の側に駆け戻って来た。
「ああ」S−1と手を繋いでいると、全ての信頼も、全ての愛情も、お互いの掌の中にある事を確かに信じられて安心する。そんな気持ちが微笑みになってR−1の顔に滲む。
「あのさ、R−1。頼みがあるだけど・・」
昨日の宿にもうすぐ帰りつく、と言うところまで来て、S−1は急に立ち止まった。
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