人間は弱い生き物だ。
心の中では、この場所は自分がいて良い場所ではないと判っているのに、
あまりの居心地の良さに厚顔にも、居座ってしまう。
ハーフテールは、R−1とS−1の住む小さな部屋にいる。
S−1がもとの姿に戻ってから、もう数日が経っていた。

日々、臓物の軋みは酷くなって行く。
「オッサン」
S−1になにか用事を言いつけて、部屋の外へ出したR−1が
慣れない手つきで三人分の朝食の後片付けをしているハーフテールの
背中に声をかけてきた。
(出ていけ)と言われるのか、言われて当然だ、とハーフテールは来るべき時が
来た、と腹を括ってR−1を振りかえる。

「すまないね、もう充分休ませてもらったから、スー君が帰って来る前に
出ていくよ」そう軽い調子で言うと、R−1は困惑した様に顔を顰め、
「あいつのいない間にあんたを追い出したら、俺が恨まれる」と言った。

「話しがある」と言って、R−1は顎でいつも二人が座っているソファを
指し示した。長くなるから座れ、という事らしい。
ハーフテールは、S−1から借りたエプロンを外して、そのソファに座った。
ずっと体がだるく、背中の奥には常に痛みがある。
それを堪えて立っていたから、ソファに腰を下ろした途端、無意識に
深い溜息を吐いてしまった。

R−1はハーフテールの真正面、床の上にじかに腰を下ろして胡座をかき、
まっすぐにハーフテールに顔を向けて、口を開いた。

「ここにいたんじゃ、死ぬのが早くなるだけだ」
「あんたの臓物に出来た腫瘍、切取れば少しは長く生きれるかもしれない」
「俺は知識はあっても、人間の臓物を細かく弄ったり切ったり縫ったりする技術はねえ」
「薬で痛みを押さえたり、一時的に炎症を押さえたりしても、それはただの気休めで
治療じゃねえ。ちゃんとした医者から、ちゃんとした治療を受けられたら、あんたは
きっと、ここにいるよりは長く生きられると思う」

(ここから出ていけ)と言っているのではない、と真剣なR−1の眼差しを見て、
ハーフテールは胸が熱くなった。
人の気持ちがこんなにも自分の胸の中に直接響いてくるものだとは知らずにいた。
気持ちではなく、その腹を探ろうとして相手を騙して本音を勝手に想像する事しか
出来なかったのに、今、目の前のR−1がどんな気持ちでいるのか、
ハーフテールにははっきりと判る。そして、自分の気持ちがR−1になにもかも
隠す事無く伝わっていて欲しいと思っている自分にも気づいた。

「選択をしてもいいのかね」とハーフテールは確認する。
R−1は深く頷いた。

このままここにいて、自然に寿命が尽きるのを待つか。
それとも、この居心地の良過ぎる場所から離れ、少しでも命の残り火が消えるのを伸ばすか。
無条件に放り出されても文句の言えない身の上なのに、こうして選択肢を与えてくれる
R−1の気持ちをハーフテールは考え、そして聞く必要もない事だと
判っているのに、R−1に尋ねた。「スー君の為だね?」

R−1はまた、深く頷く。
「あんたが死んだら、あいつが悲しむ」
「あんたが死ぬところをあいつに見せたくないのが俺の本音だが」
「俺は出来るだけのことをするってあいつと約束したから、あんたのことは」
「最期まで俺は見届けたいと思ってる」
「あいつの為に、あんたには少しでも長く生きてて欲しい」

少しでも、長く生きてて欲しい。
理由はどうであれ、心からそう言ってくれる人間が目の前にいる事に
ハーフテールの胸は震え、目頭が熱くなった。

「そんな風に言ってもらえるなんて、夢にも思っていなかったよ」
ハーフテールはそう答え、余りにも身に余る幸せだと思わずにはいられなかった。

「選択させてもらえるなら」
どんなに痛みが体中を蝕んでのたうち回る事になっても構わない。
人間として生まれて、ほんの束の間訪れた至福の時の中で、
自分が犯して来た罪を全て思い返し、自覚し、胸を痛め続けながら、
春の陽だまりの温もりが篭ったようなこの部屋で命を終える事が出来るなら、
永遠に闇の中をさ迷う事になっても後悔はしない。
ハーフテールはR−1に自分の気持ちをありのままに伝えた。

この選択そのものが罪だと判っていても、今更罪科の一つや二つ、増えた所で
行き先は同じなのだとハーフテールは開き直る。
S−1の側にいて、彼が放つ清浄な輝きを浴びれば、嫌でも自分の醜さだけが
浮き上がって来る。
無駄な人生、無意味な人生、罪深いだけで生まれてこない方がよっぽどマシだったと
思わずにはいられなくなる筈だ。
死の間際までも、自分が惨めたらしく感じ、どうしようもなく苦しくなる事は
判っていた。それでも、その苦しみを抱えて死ぬ事で、少しは腐った魂が浄化される事を願った。

坂を転がる様に、日毎、ハーフテールは弱って行った。

歩けなくなり、立てなくなった。
食べ物が喉を通らなくなり、1日の殆どを一番、日当たりのいい部屋に
設えられた寝床の中で過ごす。

「子供を寝かせる時に歌う歌ってなんて言うんだっけ、オッサン?」
「子守唄だよ」

悪夢と体中に広がった強烈な痛みにうなされ、眠りながらも疲労し、目に見えて
弱って行くハーフテールが目を醒ますと、いつも傍らにはS−1がいた。

彼を不幸にしなくて良かった。目を醒まして、自分を覗きこむS−1に気づく度に
何度も何度もハーフテールは同じ事を想う。

子守唄を知らない、と言うS−1の為にハーフテールはうろ覚えの歌を
デタラメに歌う。S−1がじっと耳を傾けているのを見て、
声を出すのも辛いのに、ハーフテールは歌うのを止めなかった。
情けないほど細く弱々しい途切れそうな息を吐いて、S−1の為だけに
記憶を必死に掘り起こして、歌った。

そんな風に柔らかで静かな声で他愛無い会話を交わして、また眠りに落ちる。
その繰り返しだった。
自分が生まれて来た意味が死を目前にした今でもハーフテールには判らない。
誰にも愛されず、愛さず、誰にも何も与えずにいたのに、最期の最期に
受けとめられないほどの思いやりと優しさを与えられ、
「私もスー君みたいな人間になりたかった」と、S−1の耳にも届かない声で
悔恨する事しか出来無い。

罪を漱ぐ為に生きたい。
そう思っても、もう体は半分以上死んでいるのと同じだった。

「君に会わなければ良かった」
「そうすれば、こんなに苦しい想いをしなくて済んだのに」

起き上がる事も出来なくなって、排泄さえ止まった。
心臓が止まる時がもう間近に迫っていると感じて、ハーフテールは最期の力を
振り絞って、S−1にそう言った。

「オッサンが苦しいのは俺の所為なのか?」
「違う。自分が悪いからだよ」

痛みに苦しんでいる間、ずっと背中を温かく柔らかな手が擦ってくれていた。
何時間も何時間も、痛みが薄れるまで痛みを吸い取ろうとでもするように、
その手を一度も握る事もなく、自分は彼に涙だけを流させ、哀しい想いだけを
残して去って行く。
もう少し、時間と体力が残されていたなら、もっとたくさんの感謝の言葉を言えるのに、
それすら、残っていない。

「私が痛い思いをしてるのは、全部私の所為なんだ」
「私は悪い男だった。それを気づかせてくれたのは君だ」
「出会わなければ、自分が悪い男だと知らずに死ねた」
「どこかで野垂れ死にして、死体をカラスに突付かれて・・・」

どちらが自分に取って幸せだっただろう?
言い掛けた言葉を飲み込んで、ハーフテールは自問自答する。
もしも、生まれ変わった時、同じ間違いをしないようにしっかりと
自分の魂にその答えを焼き付けておく為に。

「こんなに苦しくても、君に会えて良かった」
「いつかまた」
「会えたら、」
「また、私と友達になって」
「くれるかい?」

目の前の姿がぼやけて霞む。自分の声もその霞みに溶けてしまいそうだと思った。
闇が迎えに来ると思っていたのに、真っ白な光りがS−1の背中の向こうに
見えて来る。

「うん」

その言葉を聞いて、ハーフテールは本能の様に腕をゆっくりと持ち上げる。
右手の小指だけが震えていて、その手をS−1が柔らかく支えた。

約束をしよう
今度また会えたら、また友達になろう

乾いた唇からはもう言葉が出ず、けれど、その言葉は声のない声になって
しっかりとS−1に届く。

右手と右手の小指が絡んだのは、1秒にも満たなかった。
力なく、枯れ木のようになったハーフテールの指は解かれ、
ソの腕は、音もなく静かに陽だまりを吸い込んだシーツの上にゆっくりと沈んだ。

どうか、彼が泣きませんように。
どうか、彼が泣きませんように。

ただ、その魂はそれだけを願って、やせ細って動かない体から飛び立った。

「オッサン」
そう呼び掛ける声が葬送曲のように、その魂を光の中へと導いて行く。
苦しみを抱えて、幸せを噛み締めて、罪深さを背負ってその男は命を終えた。
その男の骸に温かな雫が降注ぐ。
苦しみから解き放たれた穏やかで柔和な顔を見てS−1の頬には涙が伝った。
「もう、痛い思いをしなくても悪い夢にうなされる事もないよな」
「疲れただろう?やっとゆっくり眠れるんだよな」
「おやすみ、おっさん」

また会おう、と約束したから、あまり哀しい言葉は言いたくなかった。
そんなS−1の背中をR−1の腕が温かく包み込む。


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