蘇我馬子の生涯
参考資料:日本の歴史、日本の時代史
飛鳥巡検(オープン企画)
石舞台
蘇我馬子
生涯
 敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。
 敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。

 敏達天皇14年(585年)2月、馬子は病になり、卜者に占わせたところ父の稲目のときに仏像が破棄された祟りであると言う。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に赴き、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏法信者を面罵して、三人の尼を差し出すよう命じた。馬子は泣き悲しみながら尼を差し出し、守屋は尼の衣をはぎとって縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず、敏達天皇も守屋も病に伏した。人々は仏像を焼いた罪であると言い合った。

 敏達天皇14年(585年)6月、馬子も病が癒えず奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子ひとりのみこれを許し三尼を返した。馬子は三尼を拝し、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。
 敏達天皇14年(585年)8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いを罵倒しあった。
 敏達天皇の後は橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位した。用明天皇である。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位を欲しており、大いに不満であった。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝の寵臣の三輪逆を殺させた。
 用明天皇2年(587年)4月、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海はこれに反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は大いに怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
 ほどなく、用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を誅殺した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決めて、諸皇子、諸豪族の大軍を発した。馬子の軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子の軍を三度撃退した。廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝を祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を弘通させることを誓った。馬子の軍は奮い立って攻め立て、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。

 用明天皇2年(587年) 8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させた。崇峻天皇である。炊屋姫は皇太后となった。
 崇峻天皇元年(588年) 馬子は善信尼らを学問をさせるため百済へ派遣した。
 崇峻天皇4年(591年) 崇峻天皇は馬子と諮り、任那回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ使わせた。

 政治の実権は馬子にあり、崇峻天皇は大いに不満であった。崇峻天皇5年(592年)10月、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「何時か猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と言った。そうして、普通にない多数の兵を召した。馬子は崇峻天皇の言葉を知り、天皇を謀殺することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢直駒に崇峻天皇を弑させた。東漢直駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢直駒を殺させた。
 馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させた。史上初の女帝の推古天皇である。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政を執り、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を推し進め、遣隋使を派遣して隋の優れた制度、学問を輸入した。

 推古天皇 4年(596年) 馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
 推古天皇20年(612年) 堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を盛大にとり行った。
               堅塩媛は皇太夫人と尊称され、諸皇子、群臣が誅した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。
 推古天皇28年(620年) 聖徳太子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。
 推古天皇30年(622年) 聖徳太子が死去した。
               馬子は太子と協調していたが、一方で太子の進めていた天皇権の強化は大豪族の蘇我氏にとって
               警戒すべきものだった。
 推古天皇31年(623年) 新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。
               新羅は戦わずに朝貢してきた。
 推古天皇32年(624年) 馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求した。
               推古天皇は「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の求めはなんでも聞き入れてきたが、
               これだけは聞き入れられない」と拒否された。
 推古天皇34年(626年) 馬子は死去した。