石舞台古墳
参考資料:参考資料:日本の歴史、日本の時代史、明日香村観光マップ
飛鳥巡検(オープン企画)
石舞台
 細川谷の渓谷部にあり、古くから石室天井部の石が発掘されていた場所である。明治末期には蘇我馬子桃源墓とされていた。昭和8年頃から石室内部の調査が始まり、昭和29〜33年にかけて村道を迂回させての大規模な修復作業が行われた規模な古墳である。現在は国の特別史跡に指定されている。
古くから、巨石で作られた玄室が露出していた。その玄室の形状から石舞台の名前がついていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。
 盛土の上部が剥がされているため、その形状は2段積の方墳とも上円下方墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、陪塚(ばいちょう)であろうと推測されている。
 1933年(昭和8)と1935年(昭和10)に京都帝國大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査を行う。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。
 『日本書紀』の推古天皇34年(626)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。大臣は馬子のこと。 石舞台古墳は蘇我馬子墓であったというのが、有力な説として挙がっている。盛土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する怒りという説もある。

左・上:石舞台古墳
    古墳内に入ることができます
蘇我馬子