第五夜
星は静かに空に浮かび、オレンジや青白の光をたたえながら、人間たちに夜の安らぎを与えていた。
冬の寒い日だった。
オレは学校の体育館の上に居た。何故自分がこんな所に居るのだということは深くは考えなかった。ただ、自分がそこに「立っている」訳ではなく、「浮かんでいる」ことには少しの疑念をはさんでいた。それは心地よかった。飛んでいる訳ではなく、ただそこに静かに浮かんでいる、そんな存在。それも悪くなかった。静まりかえった校舎は昼とは比べものにならん程美しかった。
やがてオレは風に包まれて、服をひらひらさせながら、土を敷き詰めてあるグランドの上へ浮いたまま降りた。コバルトブルーの砂が微かに風を感じて少しだけさらさらと流れた。誰もおらんのに理由もなく灯っている街灯の方へ飛んでいき、それからさらに高いところへとオレは舞い上がった。光に照らされたオレの影は、ちゃんと空に映っただろうか。
空。
果てしない空。
町をいつも見下ろしている空。
そこからオレも、町を見下ろした。
夜中だというのに、邪眼を使わなくても至る所につぶつぶの光が見えた。これじゃあ、妖怪も夜中に悪事を働きにくくなったと言われても分かる気がした。
人間界の様子が、ここからじゃ筒抜けなんだな。氷河の国からは魔界の様子は雲に包まれて見えんのに。
------雲。
オレは上を見た。
薄く段々になっている様子が翼のように見える大きな雲が、オレよりさらに上空に浮かんでいた。そのまたさらに上に、小さな星たちが空いっぱいにちりばめられていた。一体誰が、こんなに沢山夜空に零(こぼ)したのだろうと思った。
地上からは全く手の届かないところにある雲が、今ではすぐそこにあるように見えた。オレはまた、服をひらひらさせながら、大きな雲の方へ飛んでいった。
雲の広場、雲の峰。一面の雲景色。ひらひら、ひらひら。前髪が、オレの三つの目の前で交叉を繰り返す。頭上には最も明るい空と星々があるだけだった。
こんな空の上に霊界があるわけがない。こんな空を、あんな霊界が見下ろせるわけがない。
分かっていた。
生き物にはこれいじょう上には行けないのだと。ここから先は、ありえない空なのだと、ありえない星なのだと直感した。
頭上の空は、どこまでも果てしなく高いところまで続いている気がした。
オレは両腕を案山子(かかし)のように広げてくるりと回り、同じ高さにある雲たちを見渡した。オレの黒い袖が、黒いくせにやたらとはっきり夜空に映えて、つぶれて膨らんで翼となった。
-----どれだけ、ここは、美しい所なんだ…。
柄にもないことを心の中で呟く。
血で汚れた過去を持つ自分が、何故こんな所に来られたのかと、不思議に思った。
遙か遠くに、唯一薄く空色に染まった雲の峰を見つけた。あれが藤色という色なのだろうと思った。
オレは、その雲の峰にこの手で触りたいと思った。
そして、直立の姿勢のまま、オレはひたすらに峰の方へと飛んでいった。
遙か上と遙か下にあった雲が、ひゅうひゅうとオレの後ろへ流れていった。
だが、藤色の雲の峰は、一向にオレに近づく気配を見せなかった。いつまでも、遙か向こうにあるだけだった。
もうどれだけ飛んだだろうか。
ずっとずっと、あの雲を目指して飛んでいるというのに。
藤色の雲は、ただオレを遠くから眺めているだけだった。
------やはり、オレにはあの雲には到底届かんのか。
そう思い始めた。
ありえない空のように。
ありえない星のように。
いつも眺めている雲は、やはり眺めていることだけしか出来んのか。
-----そんなこともあるだろう。
オレはまだ雲に向かって飛んでいたが、
「美しいものを、オレのような者が触れてはいかんことだってあるだろう」
やはり遙か遠くにある、雲の峰をながめながら、呟いた。
そこでオレは、飛ぶことをやめ、ただそこに浮かぶだけの存在になった。
なにかをあきらめた人間のように。
--その時、藤色の雲の峰は、端々の方から突然霧のようになって分解を始めた。オレは驚いて目をみはった。オレが憧れた雲の峰は、突然オレの目の前から薄くなって消えてしまった。
あるのは、足下に広がる細かくちぎれた雲の群れだけだった。オレは、一体何が起こったのだと混乱した。
すると。
急に、空気が薄くなるように、意識が薄くなって、ゆっくりオレは、空の空間から下ろされていった。
空を飾る星が遠くに見え、周りを取り巻く雲たちも、その星を飾るようにゆっくり空を昇っていった。
そして、分かった。
オレは、あの藤色の雲の峰に届いていたのだと。
触れていながら気づけなかったのだと。
遠くから見れば分かるのに、そこに居れば、気付かんこともあるのだと。
ああ、そうか。
オレはあそこに居たのか。
だが、せっかく雲の峰に届いていたというのに、意識の薄くなったオレが思ったことは、
-----そんなこともあるだろう。
という無感動な言葉だけだった。
気付かない内に届いていることが。気付いても特に驚きもしないことが…。
…そして、オレは眼を閉じて、ふわふわと地上に戻っていった。
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