第18章
【涙(其の二)】
妖怪達の隠れ家にはもってこいだろう、と言われていた、幻海の家。そこは、いえをなくした者達が、避難の為に身を寄せるのにももってこいの場所だった。
部屋と廊下の間の桟の上に、霙はしゃんと突っ立って、ただぼうっと外を眺めていた。静かに虫の音が響き渡る庭、眼下に広がるとてつもなく良い景色。月の光。森。家。 まるで自分の家のような景色。いや、空間。ただ家の造りが和風なのと、庭に石灯籠が立っていることで、ここはまた自分の家とは違う所だとはちゃんと認識できていた。でも、この景色がなんだか心地よく、もう真夜中なのに眠ることもしないで、彼女はじっと立って外の景色を眺めていた。
「ここが気に入ったか」
霙の後ろから話しかけてきたのはコエンマだった。
「ここは本当に解放された所だから、別にずっとここに住んでいたっていいのだぞ」
霙はゆっくり振り向いて言った。
「…そうさせて貰うのも、悪くはないですね」
全然嬉しくなさそうな表情だった。
月の光が、また彼女の白い髪を照らして、きらきら光っていた。霙は月の光と相性がいい女性のようだった。
「すみませんでした。貴方の部下達を、助けてあげられなくて」
さっきと同じ表情で霙が言った。コエンマは少しまごついて答えた。
「ああ---、ああ、ありがとう。ワシも、まさかこんなに強大な敵だとは思っとらんかった。まさか、幽助や蔵馬達が手こずるようなー…。しかも、みんな、あの三竦みの一人である躯までもうやられてしまっていて、その様子を目の当たりにして帰ってこられたのが飛影だけなどとは……」
コエンマも申し訳なさそうに視線を下に落とした。霙はまた庭の方を向き、桟の上に腰を下ろしてあぐらをかいた。
「帰ってこられた、なんておかしいです。飛影には、かえるところがもうありません。人間界も、魔界も、もはや彼のかえるところではありません。氷鳥は飛影の帰る所をひとつずつ奪っていった。そして、最後のいちばん大事な場所を、奪うと予告して、去った」
コエンマは、視線の角度を霙の向きに変えた。
その向こうには、森と、街と、夜空と、今霙の中でいちばん美しいのかも知れない風景が広がっていた。霙は、今自分が居る所を再確認して、眉を寄せ、目を閉じながら言った。
「飛影は今、家に居ます」
兄妹は、寝ていた。
霙の部屋の隣りの部屋で、真ん中に敷かれた布団の上で、飛影が、頭を部屋の外側に向けて、氷鳥と対峙し気を失ってからずっとそのままの状態で寝ていた。
その妹は、兄の目覚めをひたすら待って、その側でただ座って、そのうちに、ころんと横になって眠ってしまっていた。
秋の虫が、ただその夜をジージーという音で埋め尽くしていた。月の柔らかい光が、少しずつ飛影の方に伸びていった。
飛影は、ゆっくり目を開けた。
…天井。電気の傘。夜。ふすま。戸。畳。月の光。 だれか寝ている。 雪菜か。
飛影はゆっくり体を起こした。左肩の骨折が完全に治っていた。飛影は少々驚いて左肩をぐるぐると回し、回しているうちに、他に被(こうむ)っていた怪我も殆ど完治していて、それは自己治癒ではなく、誰かに治療されたのだということに気がついた。
「バカめ」
と言った。
飛影は、その左肩の向こうで横になっている雪菜を見た。大人しく寝息を立てて眠っている。ということは、今はまだ、あの夜と同じ夜なのだな、と飛影は確認した。そして、再びあの覚悟を思い出した。
雪菜に別れを告げること。
----魔界よ。何もかもが混沌としている魔界よ。オレはその中で生まれた。 命を一つ犠牲にして。
オレはあらゆるものを殺し続けた。血を沢山浴びた。オレに恨みを持つ奴なぞ、それこそあの広大な魔界で数え切れんほどいるだろう。
オレ自身も、その”ひとり”だ。オレはオレ自身の存在を、深層意識では、…恨んでいた。かもしれない。己が存在する為に、もう早速一つの命を殺してしまっている。消してしまっている。それからオレが成り立った。そうして「忌み子」として生まれてきた自分自身を、恨んでいたかも知れない。だが、最近気がついたのだ。その命は消えたわけではない。今尚、継承され、存在している、ということに。
ユキナ。
お前が『いのち』だ、 雪菜………!
飛影は、引き寄せられるかのように雪菜に座ったまま近寄った。そして、雪菜の体を半分軽く起こして、自分の左肩に彼女の顔を乗せて、右手をまわしてくっと抱きしめた。そしてぎゅっと抱きしめた。
胸の内から何かが溢れてきそうで、それが喉に詰まった。なんだか息がしにくくなった。これは飛影にとって初めての経験だった。ただ神経を右腕に集中させた。そこに確かにある、『命』を実感しながら。
いのちよ、いのちよ、貴様がいなくなったら、本当にオレはただの『憎しみの塊』になる。貴様だけは、消されてたまるか。オレが、必ず、守って…。守ってみせる…。
守りたい………!!
飛影は正座。雪菜は上半身だけ飛影にもたれかかるようにして起きている。月の光の下(もと)。そのもっと上には、氷鳥が居てこちらをずっと監視していたとしても、もはや何もすることができない非力なこの兄妹は、ひとときだけ、こうしてか弱く”家”を感じていた。かえる所を感じていた。氷鳥が気まぐれに、この機会を与えなかったら、とっくにこの世から二人とも消されてしまっているだろうこの夜。飛影は自分の非力さを心底感じながらも、ただこうして雪菜にすがることを受け入れしかも離そうとしない自分自身に、少々戸惑っていた。雪菜は相変わらず静かに寝息を立てていて、全く起きる気配がしなかった。
その時、飛影は、雪菜との体の間に、固い塊があることに気付いた。少し間を空けて下を見ると、きらりと光る氷泪石が見え、それを雪菜が首からぶら下げていることが解った。
不用心なー……、と飛影が思うと、その蔭には、もう一つ、全く同じ蒼い石が光っていることに気がついた。こっちの事には、流石に飛影も驚いて、二つそこにも並んだ氷泪石を、まじまじと眺めた。起こるはずのない実験結果を見つめている科学者のように。
だが、飛影はそのことを、当たり前である事だとも処理していた。
「雪菜……。 気付いたのか…」
それは、別に望んでいないことではなかった。望むことでもなかったが、いつか、大事なことが起こった時にでも、解ってくれれば、何も言うまいと思っていた。だから、この結果は飛影には望ましかった。今、飛影は正面から、雪菜をちゃんと『妹』として、見ることが出来るようになった。
雪菜が目を醒ました。
そんな飛影の様子に、無意識ながらも察知したかのように。
「……飛影…さん」
彼女は、体が斜めになって、飛影の右腕に支えられて、その目の前に飛影の顔が映ったことに、なんら驚いてはいない様子だった。
むしろ、飛影の方が突然目覚めた雪菜に驚いていた。
「傷は、貴様が治したのだな」
飛影がそう言うと、雪菜は眠っていた時よりも力が抜けたように、飛影に寄りかかってきた。飛影は支えるしかなかった。雪菜の顔が、自分の顔の右下に、間近にあった。水色の髪の毛が、やはり霙のごとく月の光に照らされて、淡い光を放っていた。その顔の色は白かった。
「飛影さん、魔界に行ってしまうんですね…」
部屋の外の景色を見ながら雪菜が言った。
「霙さんとコエンマさんに聞きました。このところ、魔界で起こっていること、和真さん達のこと、氷鳥っていう人のこと、その人が何をしようとしているかってこと。それから、あなたのことも」
虫の声の方が、雪菜の声よりも大きいかと思われたが、飛影には雪菜の声しか聞こえていなかった。
飛影は、雪菜とは逆に、部屋の奥の方を見ながら言った。
「氷泪石には、何が映っていた」
雪菜は微動だにせず、動揺せず、答えた。
「霙さんの家です」
飛影は、一瞬反応した。
「だったら、なんでここに来た!次に狙われる場所が映るんだと言っただろう!死にに来ようとでも思ったのか!?すぐにそこから離れろと言ったのに、何故言うことを聞かん!バカな奴め!!」
……ジージージージー。
…………。
「飛影さんが一人で気張ってらっしゃって、いつもそうで、助けになろうと、思ったから……」
「それがバカだと言っている!」
「………」
沈黙の空間が訪れた。
本当に、一分くらい、静かな静かな時間が。
「…」
「だって、飛影さん、いつも無茶をし過ぎです。いつも一人で戦って、今回も一人で帰ってきて…。本当は、仲間が沢山いらっしゃるのに。仲間の感覚があって、飛影さん助けたくて。
まわりの、ことも、みてあげてください」
「………」
そんな言葉、今さら、遅すぎる、と飛影は思った。
「…すみません。でも、だから魔界に行かれるんですよね」
飛影は、ゆっくりと頷いた。
「…それで、帰ってこられるんですか。 …こちらに」
「…………」
飛影は回答を捜していた。
「帰ってこられないんですか」
「…………」
そんな質問をされても困る、という顔をした。
「それでも行くのですか」
「…………」
雪菜の質問に対して、飛影は全く黙り込んでしまった。
「せっかく逢えたのに。血を分けた、人に」
飛影はどきんとした。ついに本件が来たか、と思った。なんだか胸が熱くなって、心臓によって体が揺すぶられる他にも、自分の体が勝手に小刻みに震えていることに飛影は気がついた。雪菜は、やはり庭の方を眺めていた。
「飛影さん、氷泪石を返しに来てくださったんですよね。今日、わざわざ私の所に。それは……それは…。 私の兄は、いなかったということを、言いに来てくれもしたのですか」
「…………」
飛影はやはり黙ったままだった。そして、一心に部屋の奥を見つめ、必死に考え事をしている最中だった。
「ちがう」
と飛影は言った。
初めて言った。
初めて飛影が雪菜に言った。
自分が。
雪菜が、少し右上を見上げて、影になった飛影の顔をじっと見た。
「貴様の兄は生きている。オレはただ単に、貴様の身の安全を守る為に石を渡しに来ただけだ」
そう、その通りだ。確かに、雪菜の兄捜しを終わらせる為に石を返そうとしたことはあった。けれど、今は違う。雪菜は、雪菜は-----。
「ずっと生きていてください」
そう言って、雪菜は飛影を両腕で抱きしめた。
飛影は、目が飛び出そうになったのかと思われるくらい両目をカッと開け、部屋の奥をやはり見つめていた。さらさらふわふわした髪の毛が彼の顔や体に当たっていた。
「私には、兄しかいません。兄しかいないんです。自分のことを、存在を、確かに証明してくれる人が…」
雪菜の声が、だんだん感情的になり、震えてきていた。飛影の鼓動も、飛影の体を支配して、ずっと飛影を揺さぶっていた。その目だけは、焦点を変えさせることが出来なかったけれど。
「兄を失ったら、私の存在を証明してくれる人がいなくなるんです。私は生まれたときから独りぼっちです。でも、泪さんから、私には兄がいると聞いて、私はその人に懸けて、国を捨てて、故郷を捨てて、兄に逢いに来たんです。
ただ、私の存在する所をさがして。ほかのものをすべてすてて…」
飛影は胸の内で猛り狂う熱い物の存在を感じながら言った。
「貴様が存在出来得る場所などいくらでもある。人間界でも。魔界でも。どこにでも家を造ればいい。貴様にも仲間は大勢いるはずだ。兄のことなんざ忘れろ。忘れて人間達と楽しく生きろ。それが存在の証明に繋がらなくて、何になるというのだ?」
雪菜は答えた。
「…そんな、あんまりじゃないですか。自分と唯一血の繋がった人を忘れろだなんて。絶対に忘れません。忘れられないです、そんな人のこと。私にとって、私の生涯において、最も大切な人なんですから」
飛影は、軽く首を横に振って否定した。
「大切なんて言うな。貴様をそんな天涯孤独の身にしてしまったのは、他ならぬ貴様の兄だぞ。貴様の母親を殺して出てきた魔物だ。にっくき『忌み子』だ」
「私の兄をそんな風に悪く言わないで下さい」
飛影は雪菜の顔を見た。その瞳には、やはり涙がにじんでいた。
「母ひとりの、ひとつの命を受け継いだのは、私だけじゃないんです。 私と、私の兄、ふたりで、一つの命を受け継いだんです」
その瞬間、雪菜の眼からついに滴(しずく)が零れた。つっ、と流れて、飛影の服に当たって、綺麗な石の塊となった。飛影の腕の中に顔を埋めて、震えて、鼻をすする音が聞こえて、それから少しだけ漏れた「兄さん」という声が聞こえた。
飛影も、ぐっと雪菜を両腕で抱きしめた。温かかった。命を感じることが、こんなに温かく心地よいことだとは思わなかった。それでも、それほど感情が高ぶっても、ついに飛影の眼からは涙は流れては来なかった。出てくることが出来たなら、どれほど飛影は救われたことだろう。自分の中身のかなしい部分を、涙に変えて、内から外へ吐き出すことが出来たなら。飛影は、どれだけ救われた生涯を送ることが出来たのだろう。
月の光の下、二人はただの固まりとなった。雪菜はしくしく泣き続け、時折声の大きさを大幅に変えつつ
「兄さん……。兄さん……」
と呟いていた。
「…兄さん…。…私を………に…しないで……ください……」
ずっとしくしくしくしく泣き続けた。
飛影の興奮は、雪菜よりは早く収まっていて、今はもう静かに、泣きじゃくる妹を抱きしめるだけだった。
そして、雪菜が泣き疲れて、再び眠りに入ろうとしたとき、ぽつりと、
「…す ま な か っ た …」
と言った。
雪菜の流した氷泪石は、あちらこちらに転がって、日の光を受けてきらきら眩しく輝いていた。雪菜は布団の中でぐっすり眠っていた。まるで、母親に優しく寝かされて、安心しきって眠っている子供のように。
その時、飛影は既に、その家の中に居なかった。そもそも、飛影は既に、もう人間界から消えてしまっていた。
屋根も、石灯籠も、森も、皆日の光を受けてきらきら輝いていた。それから始まる一日が、まるで素晴らしく良い日であるかのように。
全ては虚(ろう)だった。
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