その17
【氷泪石(5)】
…………。
「?」
はっ、と飛影は気がついた。
いつの間にか左腕は白い布の固まりから解放され、その腕と右腕との中に、温かいものがあると飛影は思った。雪菜だった。
飛影は体を起こして辺りを見た。さっきと同じ場所だった。真っ暗な山の斜面。森の中。空はまだ黒い雲の渦に覆われていたが、ドォンドォンという音はもうしなくなっていた。飛影はよろけながら、その場に立ち上がった。凍えるような風が彼の横を通っていった。
「雪菜…」
飛影は、足下で寝ている雪菜に呼びかけた。
「ッ雪菜!」
彼はもう一度呼びかけた。だが、彼女からの返事はない。瞼も堅く閉ざされたままで、全く起きあがる気配がしなかった。
飛影は急いで雪菜の両肩を掴んで起こし、激しく揺さぶった。
すると、うぅ、と言ううなり声が聞こえたので、はっとして、飛影は揺らすのをやめて、懸命に耳を澄ました。
雪菜の口から、微かな息づかいが聞こえた。
それを聞いただけで、飛影は俄にほっとして、へたへたとそこに座り込んでしまった。
そして、すぐに飛影は、自分の前方から後ろに向かって、風がひゅうひゅう吹き始めていることに気がついた。そしてそれは、前方から後ろへ向かって風が吹いている訳ではなく、彼の遙か後ろの方-----霙の家があった辺り-----に、周りを吸い込むブラックホールのようなものがあって、そこに彼の周りの空気が吸い込まれているのだ、ということにもすぐに気がついた。
嫌な予感がした。
いや、”予感”ではなくて、この場合、”記憶”と言った方がいいのだろうか。
彼には嫌な記憶がある。
そして、それに決着を付けようと、彼はここまでやって来たのだった。
彼の前には、沈みかけている夕空があった。辺りの空気は、全て後ろに吹き飛んでいく。
いかな ければ。
飛影は再び立ち上がり、雪菜を引っ張って背中に乗せ、もう一度、霙の家の辺りの広場へ向かった。辺りの風に、吸い込まれるかのように。闇の方に向かって、彼はゆっくり歩いていった。
それは彼の覚悟だった。
風の吸い込む方向へ、黒雲の渦の中心へ、妹を背負って、斜面を登っていく。
-----これは、何かの行進なのだろうか、と飛影は少し思った。
「ようこそ」
氷鳥がいた。
飛影とは、二度目の対峙となった。
氷鳥は、黒雲の下のガレキの山(それはその広い敷地全体に広がっており、大分崩されていて平たくなっていた)の真ん中に、相変わらず長い黒い髪を空とくっつけて、薄笑いをして立っていた。人間界のこの大地に。
何も変わらないその様に、飛影は再び憎悪した。魔界に現れ、魔界を潰し、そして人間界にまで来て、またオレの前に、姿を現した、どっちのせかいのいきものでないもの。
雲とその本体とが、黒い髪の毛でしっかりと繋がれている様は、まるでサーカスのブランコ乗りか、マリオネットのようであった。実際、人形のような目の前の体はただの分身で、本当の”操り主”は、遙か彼方の空の上にいるような気も飛影はした。
だらだらと降りてくる黒い髪は、再び氷鳥を中心として丸く三次元に広がり、氷鳥の後ろにセットされていた。その中に向かって周りの空気が、びゅうびゅうと吸い込まれつつあった。といっても、今の吸収力はこの前に比べたら遙かに弱いものなので、多分、威嚇のような感じで氷鳥は使っているのだろう、と飛影は思った。
それでも、その音は全く止む気配がしなかった。
やはり少なからず、飛影はその戦慄を覚えていた。
「久しぶり。忌み子飛影。今日は、可愛らしい子をつれているねぇ…」
俄に、飛影は後ろの雪菜を庇(かば)った。
「…ふぅん……?その子がそんなに可愛いのかい?大事なのかい?」
氷鳥はまた、機械のような笑みを浮かべて、ただ飛影をじっと見下ろしていた。その様もやはり魔界で現れた時の、飛影達を完敗させた時の様と、全く変わらなかった。
「………」
駄目だ……、と飛影は思った。身震いしている自分自身の体に嫌気がさしていた。
やはり、こいつには、氷鳥には敵わん…、と思った。いつかまた遭うと分かっていても、その為の対処法を一生懸命考えていても、解決策は見つからなかった。
氷鳥には、一向に勝てる気がしない。
なにを、しても。どう、あがこうと。
自分の運命は、こいつの前では自分で変えられん、変えられてしまう、と飛影は思った。冷や汗がたらりと頬を伝い、彼はごくっと生唾を飲んだ。嫌な味がした。
氷鳥の表情は薄笑いを浮かべたまま止まっていた。飛影も、雪菜を背負い、構えたところで、進まず退かず、全く動かなかった。
闇の空間は、そこで止まってしまっていた。
だが。
「…氷鳥……よくも………。あたしの故郷を消したね……」
びくっとして、飛影は雪菜を庇ったまま右後ろに振り向いた。氷鳥とは対照的な、真っ白な前髪をだらりと垂らした霙が、静かに静かに立ち上がった。
「みぞれ……」
と飛影が言った。
「誰だ?お前は」
と氷鳥が言った。
…知らないのか?忘れたのか!?と飛影は驚いたが、霙は顔を一気に上げて
「『忌み子霙』だ!!」
と叫んだ。
氷鳥も、飛影も、雪菜も、霙も、揃ってその一瞬動きが止まった。ただ氷鳥の黒い髪に向かって吹き込む風だけは、無情にもずっと同じ方向に吹き込んでいた。
飛影は霙の行動にはいつも驚かされていた。だが、今回の彼女の発言は、今までとはまた少し違う感じがした。飛影は、何ゆえか、少し安心したような気がしたのだ。今、そんな安心などしている場合ではないだろうに。というのは、霙のその発言で、何故かようやく、彼は霙が自分の味方なんだということを理解できた気がしたからだ。-----いや、ただそんな気がしただけだったんだけど。
「人間界の街を…、なんで撃った…。あんたには、関係のない所だっただろう……!」
恐怖とそれに伴って続く驚きから喋れない状態である飛影に代わって、彼が聞きたかったことを、霙が代わりに氷鳥に問いただした。霙は可成腹が立っている様子だった。今の飛影にとっては、とても頼もしい”戦力”だった。
「…街?ああ街か。人間共の街か。あの街、消してはいけなかったのか?いやそんなことはない。あろうと、なかろうと、お前にだって関係のない所だろう?街一つどうなろうが、所詮神の行いの前には、拒否することも出来ない。不平なんてないんだからね」
そう言って氷鳥はまた冷たく笑った。
それを見てすかさず
「お前には体温がない」
と霙が言った。フン、と氷鳥がせせら笑った。霙は続けた。
「優しい人達の街を、あんたのような勝手な奴が勝手に撃って、消して、それが、いいことだって思ってんのか!間違ってる、このロクでなしの出来損ないの神めっ!!」
「誰に向かって口を聞いている!!!」
すると、氷鳥の吸収力が一気に強まり、辺りのガレキやなにやらも、一気に氷鳥の後ろにある黒い渦の中に吸い込まれていった。霙と飛影も吹き飛ばされそうになり、前に倒れて地面に這い蹲(つくば)った。辺りの木がミシミシと音を立てている。このままでは間もなく折れてしまうだろう。飛影は雪菜の体が不安定であることに気付き、マフラーを取って自分の背中に雪菜をきつく括り付けた。
「私は神だ。神の行いに、不平や悪など存在しない。そんなこともわからぬのか愚かな者どもよ。ますます貴様達を、神の世界へと葬り去りたくなったぞ……」
飛影は、氷鳥の顔を睨みながらも、飛影らしくもなくずっと恐怖していた。同じだ……あの時と…。あの時、オレ達は、こいつに散り散りばらばらにされ、そして他の奴らは、あいつに……!
「消し去りたいなら、さっさと消しちまえ!ドロドロの憎悪にまみれた醜い神め!」
這い蹲りながら霙は叫んだ。これが彼女の必死の抵抗だった。
その瞬間、さっきのように、カッと霙の頭上に稲妻が走るのを飛影は見た。彼は吃驚してがばっと体を起こすと、その稲妻は、霙の白い髪の上でバチッと弾けて消えた。
「!?」
飛影は驚いた。霙がニヤッと笑うのを飛影は見た。一瞬の出来事だったので、一体何があったのか、飛影は全く分からなかった。
「気を抜かなけりゃ私は平気さ。こう見えても、あたしは”あいつ慣れ”してるんで。さっきあんたの妹に向かって落ちた稲妻を防いだのもこの力なんだよ。便利だろ」
飛影は目を丸くした。
まさか、霙がこんなに強い奴だったとは思わなかった。
「あいつと同じ力さ…。力っていうのは、変えられるんだよ。何でも」
霙は、ズズッと体を引きずって前に進んだ。
飛影は、また霙に、違う意味で助けて貰ったような気がした。そして、彼は、変えられるのは力だけではないと思った。そのことをも、霙は一緒に語ったように見えた。だから彼は、また霙に助けられたと思ったのだった。
なんだか、勝機が見えたような気がした。こんなに氷鳥と自分達の間には差があるのに。何故か、もしかしたら、なんとかなるかもしれないと飛影は思った。
もちろん、それは、ただの一時的な浅はかな考えだったのだけれど…。
「待てぇ-----------------------いっっ!!!!」
と言う声がした。
「!?」
飛影も霙も、突然の出来事に訳が分からなくなった。
ザザザッッという音がしたかと思うと、その残骸の広場の周りの森から、霊界から派遣された攻撃隊が姿を現した。その者達はその空間の周りを数で取り囲み構えた。相変わらず氷鳥は辺りのものを渦の中に吸い込んでいるのに、この攻撃隊が平気で立っていられるのは、こいつらが何か作戦をしてから来たからだろうと飛影は思った。今回のことに霊界が首を突っ込もうが突っ込まないでいようがどうでもいいが、こんな時に作戦を考えてくるなんて、悠長な奴らだ、とも彼は思った。考えたところで、所詮こいつの前では無駄なのに。
そうだ…、無駄だ…、やめろ、おい、やめろ!!!
「おい、そこの女!お前が魔界でしたことは分かっている。大人しくすればこちらも手荒な真似はしない。直ちにこの攻撃を止めろ!」
攻撃隊の中で、一番偉そうな男が叫んだ。この、真っ暗な空間で、辺りはガレキと煙のみという空間で、氷鳥の領域の中で、そんな場違いなことがよく言える、と飛影は思った。
「逃げろ!あんた達!!」
霙は後ろを振り向いて言った。すると、円陣に整列していた彼らの上に、連続的に雷が”整列して”落ちていった。だがそんなのは目に写らない。わかるのは、そこに居た者の影が一瞬はっきり浮かび上がったかと思うと、それは稲妻の跡と共にすぐに消えていったということだけ。霙は驚いた。焦り声や慌てている声も多々発生した。周りに激しいスパークが起き、人々の叫び声や悲鳴がその空間を埋め尽くした。そして、次々に消えていった。
「やめろッッ氷鳥!!!」
霙ががばっと起きあがり、立ち上がり、氷鳥に向かって突進した。
「霙!!」
飛影もがばっと起きあがった。霙は風よりも速く氷鳥に向かって吸い込まれるように走っていった。目の前に氷鳥の体が見えたところで、霙は白い髪を伸ばして氷鳥の体を突き刺そうとした。
突き刺す瞬間は誰にも見えなかった。
------どうなるのかは誰にも分からなかった。
ズリュッという音がした。
霙は、氷鳥の体をすり抜けて向こう側に吹っ飛ばされていた。その向こう側というのは、黒い髪に吸い込まれた先の神の世界の方ではなく、人間界の今氷鳥が立っている場所の背中側だった。霙は氷鳥から5mほど離れた所で頭を打って、地に落ちてうつ伏せの状態になって動かなくなった。
氷鳥は微動だにせず、相変わらず黒い髪を垂らして、無機質な表情をしている。だがその顔にはもう笑みはなかった。つーっと、口元から血のようなものが出てきた。ただ辺りが真っ暗だったので、その血の色が何色なのかはわからなかった。霙の攻撃は一体どうなったのか。誰にも分からなかった。氷鳥はもう、渦の中に周りのものを吸い込むのはやめた。何故やめたのか、それも誰にもわからなかった。理由は氷鳥にしかわからなかった。その後、飛影はようやく、自分の体を完全に起こすことができた。
もう、その空間で、意識があるのは飛影だけになってしまった。
霊界の攻撃隊は、いつの間にかいなくなっていた。それがどういうことなのかは、言うまでもない。飛影はよろりと立ち上がって、腰に巻いているマフラーを取った。雪菜を下ろすと、彼は彼女を丁寧に寝かせ、マントを脱いで彼女に掛けてやった。黒いマントの下で、相変わらず彼女は眠ったままだった。
「氷鳥…」
飛影は、今日初めて氷鳥に話しかけた。体は傷だらけで、左腕がぶらんと垂れ下がった姿で、それでも目だけはしっかりと氷鳥を捕らえていて外すことはなかった。
「貴様が魔界に現れた時、確か貴様はオレを消しに来たと言ったな。だがその前に、『消すだけじゃ物足りない』とも言っていた。
オレはその言葉のことをずっと考えていた。
そして、オレの中で答が出た。
………貴様、オレの周りのものを、すべて、『全て破壊』するつもりかっ!!!」
飛影は大声で問うた。
氷鳥はしばらく黙った後、口元の血を吹くことすらせずに微笑み、
「いいや、お前の、憎しみと苦しみと醜さ以外の、全てだよ」
と言った。
少しの沈黙があった。いつの間にかその空間は、二人の声以外、音は全て立つことを許されなくなっていた。
ただの闇に二人が取り残されていた。それは長い時間は続かないと、流石の飛影でも分かっていたけれど。
「苦しいだろう。人間界も魔界も破壊されて、妹も巻き込んで、それでも何もできない自分自身が、憎いだろう。醜いと思うだろう。…ふっふっふ、そうさ、お前は醜い忌み子なのさ。災いしか生まない。だから私は、貴様を消してやろうと思ったのだよ」
二人の声が止むたびに、辺りは静かになった。辺りは真っ暗で、まるで彼らは、すでにその『神の世界』の地に立っているかのようだった。
「私はお前が憎い。だが私がお前を消すのは、神の行いだ。お前には恨むこともできない。運命なのだからね。だが私は、お前にもっと醜さを実感して貰う為に、時間をやる。その時間とは、私がお前の後ろにいるその娘を消すまでの時間だ」
飛影ははぁっと息を吐いた。それは、どきっとして相手にすきを見せないために、緊張を解くために吐いた息だった。
心臓の音がよく鳴っていた。飛影はその音を聞くことで自我を保っていた。
「私は一旦魔界に戻る。そして、お前を待つ。…場所は分かるね?っふ、そう、削剥の城の祭壇だよ。私はいつまでもそこでお前を待っていてやろう。でも、明日の子の刻に、お前の妹は突然消える。お前の前から姿を消す。どこに行くかは…。分かっているね。ふふふ。妹に会いたくて、お前は祭壇に来るだろう。妹に会いたいと泣いて叫んで醜い姿を晒すだろう。その時、やっとお前も、この世から消えることができるんだ。そして、この世はようやく平和になるのさ。どうだ、素敵だろう。…ふっふっふっふっふ……。ふふふ、あはははははははははははははははは!!」
氷鳥が大声で笑った。…この世のものとは思えない、凄まじい光景だった。黒い渦の空と、地上の残骸の中心で、黒い髪と白い着物をまとった女が、けたたましい声で笑っている。それは決して心から笑っているわけではなく、作り笑いの他ならない-----神の笑いだった。恐ろしい。そんな光景の中でも、飛影は気張って立っていた。そして、最後に問うた。
「何故貴様は……、そんな、神なんぞになったんだ」
俄にまた、静かな風が吹き始めていた。
氷鳥は急に笑うのをやめ、飛影の方をじろりと見た。その刹那飛影はびくっとして、金縛りにあったかのように固まってしまった。
それから飛影は動かなくなった。
「分かって居るんだろう?私は、お前に、『憎しみの神』にさせられたんだとな!!!!」
そう言い放つと、飛影も雪菜も霙も、氷鳥の居た場所を中心にして周囲の森の中に吹っ飛んだ。凄まじい風が空に向かって吹き荒れた。飛影と雪菜は森の奥の方に飛ばされ、飛影の頭が太い木の幹に当たり、彼も意識を失った。そして、どさっと雪菜の近くに落ちた。
その時、全ての時間が、ようやく止まったのだった。
風は止んだ。
そして、氷鳥の姿も消え、黒い雲も消え、辺りの残骸だけがその場に残った。遙か空の上に星空が見えた。人間界は、いつの間にかすっかり夜になっていたのだ。
「…ん」
と言い、雪菜の目が覚めた。辺りは真っ暗であった。なんの光もなかった。
だが、目の前に自分以外の誰かがうずくまっていることにはすぐに気が付いた。雪菜は驚いて、焦って、前にいる人を揺すって起こそうとした。
「う…」
という声がその者の口から漏れた。その声で、それが誰なのかが雪菜にはすぐにわかった。
「飛影さん!どうしたんですか、飛影さん!」
ごそごそっと、雪菜はあるものの中から這い出てさらに飛影を揺すった。そして、ふいに彼女は、自分は一体何の中に入っていたのだろう?と思って、自分の背中の方を見た。なにやら布のようなものが自分に覆い被さっていたらしい。手でまさぐると柔らかかった。くっと掴んで持ち上げると、その中から、何か小さな塊が落ちたような気がした。
!?と、雪菜は思った。
布と地面の間で、一瞬それがきらっと青く光った。
そして、雪菜が右手の上に乗せていたものに当たって、コンッ…、と鳴った。
二つの石は、きらりと青く光って、雪菜の右手の中に二つ並んで転がった。
飛影の方は、全く目覚める気配がしなかった。
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