その8
ーー人間界のある森の奥に、三角草がたくさん生えたところがありました。三角草がたくさん生えたところには、昔から氷の精が住んでいるといわれていました。
そこにも、氷の精が住んでいました。とても美しい精でした。
その氷の精は、名前を「雪消(ゆきげ)」といいました。
三角草は、冬の終わりに花の咲く草でした。氷の精たちは、春になると姿が見えなくなってしまいます。
だから精たちは、ほんの短い間しか、人間界に来られませんでした。
氷の精のひとりである雪消は、気まぐれに山から離れて、海を見下ろす崖に来ました。
とても天気の良い日でした。
雪消は初めて海を見ました。海も、初めて氷の精を見ました。
その時、海の近くに住んでいた「海里(かいり)」という若者も、初めて氷の精を見ました。
雪消も、その若者を見つけました。
雪消は美しい精でした。
海里も美しい若者でした。
二人は恋をしました。二人とも、互いを好きになりました。
けれど、海辺には三角草が生えていなかったので、雪消には長い間いられる場所ではありませんでした。
しかも雪消は、春の来訪とともに、もうすぐ海から離れなければならなかったのです。
若者も雪消もひどく悲しみました。種族の違いが悲しくなりました。
来年も来ますか、と若者はいいました。三角草があれば、と雪消はいいました。
来年、きっとここを三角草の畑にします。だから、必ずまたここに来てください、と若者は言いました。
わかりました。三角草があれば、またこちらへ必ず来ます。では、ごきげんよう…。
そういうと、雪消は、ふわりと姿を消してしまいました。ーー
飛影の左腕がムクロに暴かれたあと、二人とも十秒ほど微動だにしなかった。
だが、その時間がとても飛影には長く感じられた。彼はムクロに何も言われず、殴りもされなかったが、ただじっと彼女に睨みつけられた。それは飛影にとってはかなりの苦痛だった。腕がなくなるよりも、ずっと辛いことだった。だから彼は今までずっと、皆に腕のことを黙っていたのだ。
彼が動けないうちに、つまり彼が抵抗できないうちに、ムクロは飛影の左腕を調べてみた。
よく見ると、まだ腕が全てなくなってしまったわけではないようだった。彼の袖を上まで引き上げると、まだ肩に腕のあとが残っていたのである。
だがその境目はむごく、皮膚はざくざくで黒ずんでいて、紙のようにちぎれてボロボロに腐っていた。ムクロは、飛影がこうなるまで放って置いた自分をとてつもなく情けなく思い、ぎりぎりと唇をかみしめて飛影の腕を見ていた。
飛影は観念したのか、ムクロに少し話す気になったようで、まだ意識がうつろなまま、ぽつりぽつり話し始めた。
「…こいつが…、だんだん細くなるにつれ…、オレは…包帯の量を、多…く、した。
腕が全…て、包帯に…なっても、な、ぜか、包帯の上にも「哀」の、字が…。浮かび上がってきやがっ…た」
「…飛影…」
ムクロは飛影の顔の方を見た。
「あと…二日以内に、オレの、左腕は…、全てなくなる…だろうぜ。…覚悟は出来ているがな…」
自分自身をあざけるかのように飛影は少し笑った。完全な「苦笑い」だ。
飛影は、どうしようもない運命を受け入れるのだ、と言っているようだった。ぱらりと、彼の前髪が風に揺れた。
ふっと、ムクロは少し違和感を感じた。飛影の覚悟は、「左腕が消える」ことだけにするには大きすぎるような気がしたのだ。
…サーッとムクロの顔の血の気が引いた。ムクロは、嫌な未来を予想してしまったのだ。
まさか…。
「飛影。質問がある。もしもそれで左腕が全て消えてしまったら。…つまり、
『左腕さえ消えれば』…。 「変化」は止まるのか?
左腕さえ消えたら、もうお前は、消えなくて済むのか…?」
飛影は再び真顔になり、まぶたをおろし目を背けた。ーそれが彼の返事だった。
「まさか……」
ムクロは青い顔になった。
ーー飛影はいつか、全てこの世から消えてしまうーー
全部消えるのか? ーーああ。
妖気も…。肉体も、霊体も、…魂も? ーーああ。
お前には…何も残らなくなるのか? ーーああ。
……オレの…記憶は消えないのか…? ーー………ああ…。
飛影はもう、監禁状態にされなくなった。そんなことしなくても、彼は外をほとんど歩けなくなっているからだ。
妖気も妖怪では並以下、魔界の炎は使えない。いくら魔界が昔ほど荒れていないとしても、外を歩くのは危なかった。
だが、待っていれば、必ず客が来たからというのもあった。客の雪菜も、飛影の様子がだんだん変わってきていることに気づいていた。
「飛影さん…」
「何だ」
「……左腕は、どうなってしまったんですか…?」
「………」
雪菜はまだ聞かされていなかった。誰も、彼女には言えなかったからだ。
飛影はまたそこに包帯を巻き、いかにもそこに腕があるかのようにしていた。指も、肘(ひじ)も、肩も全く動かなかったが、雪菜はそこに腕があると信じていた。……残酷だった。
幽助や桑原はあれから一回も来なかったが、蔵馬はたまに、寄り道などと言って来て、雪菜を人間界まで送っていた。
ある日蔵馬は、ムクロに飛影の腕のことを聞いた。蔵馬もムクロ同様、真っ青な顔になった。
ムクロが蔵馬にそのことを言おうとしたとき、「言うな」と言ってもムクロは聞きそうになかったので、諦めて飛影はずっと黙っていた。
だが、「雪菜には言うな」なら,ムクロも蔵馬も聞いてくれた。
「一週間でこのペースじゃ…。おそらく一ヶ月以内には……」
他の人よりいくつも先のことを考える蔵馬は、瞬時に暗黒の日を予想できた。
ムクロは最近口数が少なくなってきていた。「飛影がいつか全て消えてしまう」ということを意識しすぎているのだろう。いや、彼女がそのことを、意識しないでいられるはずがなかった。あまりに解せない。いきなり、自分にとって大切な存在である彼が、原因不明の呪印に苦しめられ、そしてそれが少し治まったかと思えば、もうすぐこの世から全て消されてしまうなんて。
「飛影、どうしたら治るのか本当に知らないんですか?このままじゃ…」
「知らん」
「っ……」
真剣な蔵馬の言葉に、飛影の短い言葉がぐさりとささった。
端的でわかりやすく、酷い言葉だった。
ーー助かる方法…、飛影には、予想は一応ついていた。
だが、その「方法」を実行するには、「ある場所」で「あること」をしなくてはいけなかった。
その「ある場所」へたどり着くまで、果たして生きていられるか。外へ出るのさえ危険なこの場所から。
その「あること」をして、果たして自分が燃え尽きてしまわないか。あのときの力などもう自分のものではないこの時に。
…だが、たとえそれができることであっても、飛影は実行したくなかったというのもあった。
「全てを捨てるには早すぎるな」、これはムクロとの戦いの時確信したことだった。
だが、捨てずにまた生きて、何をしていくんだ?生きる目的は、まだ見つからないというのに。
死ぬわけにはいかない。だがオレはこれから、何をして生きていけばいいんだ?
不安があった。生きたことを後悔する。だが彼は死ななかった。生きる目的があったから…?
…いや、それだけじゃないはずだ。何のために?
友のためか?妹のためか?それとも、もっと別の何かか?
時々、飛影は左にぶらさがっている包帯を解いて、何もない左肩に目を落としていた。
飛影は、確かに「死のう」とは思わなかった。だが、彼は「生きよう」とも思わない。
…どうせ消えてしまうのなら、きれいさっぱり消してもらえばいい。腕が消えていくにつれ、そんなことも考えるようになってしまっていた。それも運命なら。もうどうしようもない。
ーーどうせ消えてしまうのならーー
「飛影!!大変だ!!」
蔵馬が血相を変えていきなり飛影の部屋のドアを蹴り飛ばした。蔵馬の横にいるムクロも目を見開いている。
何だ、何が大変なんだ、オレはまだ消えてないぜ、と飛影はあわてている二人を見てそう思った。
飛影らしくもない、ちょっとした甘い考えの結果が、ここで一気にでてきたのだ。
「雪菜ちゃんが苦しそうなんだ!!」
その9
その一言が、飛影の目をカッと開かせた。
彼は 息を整えている蔵馬を、大きな目で睨みつけた。
「今朝から様子が変で、昼に急に倒れて、息をするのが苦しそうになったって桑原君から電話があった!オレと幽助が駆けつけたとき、雪菜ちゃんは……!その腕と同じ気に包まれていたんだ!」
蔵馬がその言葉を言い終わらないうちに、飛影は部屋を飛び出した。
「待て!飛影!」
蔵馬もいそいで飛影の後を追った
「…!」
ムクロは少し辺りを見回し、包帯を見つけると、それをつかんで彼女もすぐに二人を追った。
ーー飛影にとって本当の「恐怖の日」は、彼が消えてしまう前にやってきたのだーー
飛影は走った。ただひたすらに魔界の草原を駆け抜けた。人間界への入り口を目指して、風より速く走った。
たまに彼の命を狙って妖怪達が襲ってきた。妖気が弱まっていたためかなり手こずったが、なんとか倒し、また走っていった。
それでも飛影が苦戦すると、陰から蔵馬のムチが飛んできて、敵をなぎ倒していった。
蔵馬は、余計なことをと飛影は礼を言うかと思ったが、彼はちらと蔵馬に目をやっただけで、何もいわずにまた走っていった。
「飛影!大丈夫なのか!?今の状態でそれだけ走れば、後で倒れるのは必至だぞ!」
ムクロがそう叫んだが、飛影には聞こえていなかった。いや、聞こえてはいたが、彼は無言で「それがどうした」と答えたのだろう。
ムクロは、そんなにもあの娘のことが大切なのかと結論を出した。そして、なぜか、少し悔しくうらやましい気持ちになり、そして再び走り始めた。
三人はそうして人間界の入り口まで突っ走った。
飛影は走っている間、何もしゃべらなかった。
ようやく人間界に入って桑原の家につくと、飛影は少し落ち着いた。蔵馬が家のインターホンを押してみたが、誰も出てくる気配はなかった。
仕方がないので、三人は勝手に家に入った。桑原はきっと看病中なのだろうと思った三人は、家に入り、そっと部屋をのぞいてみた。
「!…っ」
飛影ははっと息をのんだ。
部屋に入って、まず彼の目に飛び込んできたのは、正座して座っている桑原と、そして、そのそばで小さくうずくまって布団に潜っている雪菜の姿だった。
桑原は、とてつもなくやるせない表情で、薄く開けた目で雪菜を見下ろしていた。
飛影はなぜか、今までで一番、雪菜が小さく見えた。
「………」
飛影は口を小さく開け、そのまま止まった。彼は「言葉」というものを忘れてしまった。
「…お前らか」
元気のない声で桑原が言った。
「雪菜ちゃんの容態は?」
蔵馬が言った。言わなくても見たらわかるだろうと誰もが思ったが、それ以外にしゃべる事など何もなかった。
「お前が来たときのまんまだ。この娘(コ)一向によくならねえ」
よく見ると、部屋の隅に幽助が体操座りで座っていた。桑原が一人看病するのは心細いだろうと思って、彼もそこに残っていたのだ。
「あれ、ムクロ、何でお前まで来てんだ?お前人間界初めて来ただろ。」
「ついでだ。オレはこのガキの保護者みたいなもんなんでな」
ムクロは飛影を見て言ったが、飛影は全く反応しなかった。
飛影の目は、布団に潜っている雪菜に釘付けだった。
ふいと、飛影が一歩部屋の中に入った。
「お…おい…」
飛影は、ゆっくり雪菜の顔の近くに寄り,そこに座った。ちょうど、炎の中をゆっくり歩いてきた、雪菜と同じくらいの速度で。
桑原は飛影の行動に少し驚いたが、黙って見てろと他の三人が目で言うので、何もせず、座る飛影を見ていた。
「…飛影さん……?」
雪菜の小さな声に、飛影以外の全員が驚いた。雪菜は彼の温かみを感じたのだろうか、目が覚めたのだ。
「……ごめんなさい飛影さん…。私嘘をついていました…。貴方の腕から出てくるその妖気…本当は……。
とても……。苦しかったんです…ごめんなさい…」
飛影は黙っていた。
桑原は、飛影のせいだったのかと少し彼を憎んだが、それはすぐにどこかへ消えていった。飛影は、もっと苦しかったのだと、桑原も充分知っていたからだ。
時計の針の音だけが、その部屋に響いていた。
「ねえ飛影さん……。これから…、私どうなるんでしょうか……」
雪菜は、目を飛影の腕に向けて言った。
「……飛影さんは…どうなりましたか……。腕は…」
その言葉で、蔵馬とムクロは同時にぞっとした。 雪菜まで…。飛影と同じ運命になるのか、と思ったからだ。
肉体も、霊体も、魂も、全てが消えてしまう…。残るのは、我々の頭に焼き付いた、辛い記憶だけ。
もう、誰も消えないで欲しいのに。……ああそうか。飛影はこれを恐れて、あんなに精一杯走ったんだ。
妹まで、自分のように、むごい消え方をして欲しくないから……。
「腕を見せてみろ」
ようやく飛影がしゃべった。飛影は布団の中から、雪菜の腕を引きずり出した。
だが幸いなことに、彼女の腕には飛影のような「哀」の印はなかった。一同はため息をついて少し安心した。
それを見たとたん、飛影の目の色が変わった。彼の頭が急に高速回転しだした。これから自分が何をするべきなのか、彼はそれを見当しているのだ。キッと飛影は顔を上げた。
雪菜はまだ助かる。
飛影はすっくと立ち上がった。他の者は、みな飛影に注目していた。
「…安心しろ、お前は助けてやる」
後ろを向いているため、雪菜には飛影の様子が伺えなかった。飛影はどんな顔をしているのだろう。
(……「お前は」…?) その言葉が何を意味するのか、全員に瞬時に見当がついた。お前、つまり雪菜は助かる。だが…。
「…飛影さんは…?」
そう言った雪菜の声は、少し涙声になっていた。
「オレはわからん。だがお前なら、まだ助かる見込みがある。だから、待っていろ」
飛影は、雪菜に背中を向けて立ったまま言った。
「…嫌です」
きっぱりと雪菜は言った。
「飛影さんが、助からないのなら……! 私も死んだって…」
その言葉で桑原はぞっとし、おろおろし始め、他の者も、雪菜の言葉に戸惑った。だが、
「ふざけるな!!」
雪菜も、他の四人もびくっとして目を見張った。ピィーン…と、緊張の糸がそこに張られた。誰も何も言わなかった。
誰も何も言えなかった。
お前は 消えてはいかんのだ…
お前は… 消えるな…。消えないでくれ…
「なぜ…なんですか…?」
ついに雪菜は泣き出した。飛影は雪菜に背中を向けて、まっすぐに立っている。
蔵馬とムクロと幽助は、三人でひそひそ話をしているようだった。
「なんで……。飛影さんはそんなに…。私に…優しくしてくれるんですか……?」
布団の中から少し腰を浮かせて、雪菜は飛影に問うた。
「……」
飛影は言葉を探しているようだった。
…そこに、静かな時間がわずかに流れた…。
「…故郷に」
「え?」
「故郷にお前と同じくらいの妹がいるんだ」
雪菜はその言葉にどきっとした。
桑原は動揺した。まさか、飛影があれを知っているはずはない。じゃあ単なる偶然か?いや…?
全てを知っているムクロは、フンとつぶやいて目を閉じた。
本当のところを言うと「いたんだ」だろうと、幽助と蔵馬は心の中で少し笑った。
「心配するな。オレとてただでは死なん」
ふっと飛影は振り返り、雪菜を見下ろした。雪菜と飛影の目が一直線になった。
「必ず帰る。だから、泣かずに待っていろ」
そう言うと、飛影はすたすたと部屋を出ていった。
一同は、その音のない時間に、ただずっと静かに為す術もなくたたずんでいた。
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