その6
飛影の腕の痛みは、決しておさまった訳ではなかった。
確かに、凄まじかった最初の発作の時よりは、ずいぶんましにはなっていた。
しかし、飛影の腕から全ての痛みが消えたということはなかった。それどころか、日に日に痛みは強くなっていっていたのだ。
別に飛影にとっては、「痛み」はそれほど怖いことではなかった。邪眼移植、炎殺拳の後遺症など、飛影は痛いことには慣れていたからだ。
つまり、飛影が恐れていたのは、もっと別のことだったということである。
昨日ついに、飛影の腕に最初の「変化」が見られた。
確認のため包帯を解いて、再び「哀」の字を見た飛影は、その「変化」に驚愕した。
彼が危惧したとおりだった。自分の脈がドクンドクンといっているのがとてもよく聞こえた。
飛影はいよいよ覚悟した。やはりオレは、これから「ああ」なっていってしまうのか…。
彼の腕から細長く包帯が垂れている。そしてその包帯は、ゆらりと柔らかく、薄汚れた床に落ちた。
幽助たちが来た日から二つの夜が過ぎていった。そしてその次の朝が来た時、飛影は、何もすることがなかった。
行きたくもなかったパトロールも、ムクロが勝手に長期休暇届を出していた。外出はムクロに禁じられた。
「オレはそこまで落ちぶれちゃいないぜ」
飛影がそう怒り気味で反論しても、ムクロは無理矢理飛影を監禁した。
ムクロの様子がおかしい、飛影はそう思った。
「ムクロ、一体何を考えているんだ?」
「……」
「オレが何を考えていると思っているんだ?」
「……」
「オレがどうなるかわかるのか?」
「……」
「貴様はオレがどうなってしまうのを恐れているんだ?」
「……」
ムクロは何も答えなかった。
飛影は少し期待して、窓際に座ってみた。けれど、彼の窓には、小鳥は来てくれなかった。
雪菜はどんな気持ちだったのだろう。
窓やドアに呪符でも貼ってあるのか、彼は窓の外に手すら出すことができなくなっているように思えてきていた。
そう、飛影は、今思い出しても吐き気のするような、あの光景を思い出していたのだ。泣いている雪菜の姿。笑う垂金の声。
それを殴った鈍い感触。後味の悪い終結。物事のほとんどが、嫌なことで終わったあの時…。
雪菜を助けられてよかった…が…。
飛影はひとりの青年のことを思いだした。
唯一雪菜を大切に思ってくれた、あの人間である。
ようやく垂金の屋敷に着いたとき、飛影にも、雪菜の意識が流れ込んできていたのだ。
その意識を感じて、飛影の足の歩みがその時ふっと止まった。
雪菜と、その人間の声が聞こえてきた。
そしていくつもの銃声。
雪菜の嘆き。
人間に少し感謝し、人間に大きな憎しみを抱いた瞬間(とき)だった。
飛影は何もできなかった。そんなことがあったことすら知らなかった…。
「飛影…。お見舞いに来ましたよ」
比較的明るい調子で入ってきたのは蔵馬だった。
「どうですか体調は。まあ、一目瞭然ですけどね」
「フン。缶詰状態にされているからか?」
飛影は蔵馬の方を見ずに言った。
「フフ、それもありますけど…」
蔵馬はつかつかと部屋に入り、飛影の目の前に来た。すると、ふっとその顔から笑みが消え、座っている飛影を見下ろした。
蔵馬の声が急に低く、厳かになった。
「飛影、貴方はもしかして、自分の身にこれから何が起こるかを、全て知っているんじゃないんですか?」
飛影が少し反応したーーーように見えた。
蔵馬は構わず話を続けた。
「…大体何があったかはわかりました。雪菜ちゃんから話を聞いたんです」
蔵馬は、わずかに飛影が舌打ちするのがわかった。
「あそこには、三角草がたくさん生えていましたね…。海の近くの崖であるにも関わらず」
飛影は黙ったままだ。うっとうしいと言っているのが蔵馬にはよくわかったが、やはり構わず話を続けた。
「三角草がたくさん生えているところには……」
飛影は、それ以上いうな、という感じで、だんだん首を下に垂らしていった。
「飛影」
ん、という感じで飛影の首が動いた。
「何か言いたいのなら、今のうちに言ってください。これからオレが言いたいことをどんどん言いますから」
飛影はゆっくり顔を上げた。そして、やっと口を開いた。
「三角草を知っているのか」
蔵馬はふっと勝ち誇ったかのように薄く笑った。
「貴方の言う『三角草』とは違うことならね。植物はオレの専門です」
「……」
飛影は再び頭を下げた。しまったという顔をしていた。
「飛影、貴方の言う『三角草』は、一体何なんですか?」
飛影はまた黙り始めた。
完全に蔵馬にやられた。彼はもうこれ以上しゃべることはできない。
「…オレたちが貴方の所へ来たとき、すでに知っていたなら、知っていたと、はっきり言ってくれば良かったのに」
もちろん蔵馬は、言えないから言わなかったんだと理解していた。
「みんなが貴方のことを心配しているんですよ。ムクロや雪菜ちゃんだけでなく、幽助、桑原君、それにオレも…」
飛影はいつの間にか、右手で左腕をぎゅっと握りしめ始めていた。
飛影は握りしめる右腕以外、全く体を動かさなくなった。
ーーいつか時がくれば、飛影はきっと言ってくれる。その時は…。
そう蔵馬は結論を出した。「また来ます」とだけ言い残し、すっと部屋を出ていった。
飛影は微動だにしなかった。
ーー言うべきじゃない……。そう、今は言うべき時ではないのだ。
暗い部屋で、飛影は黙々と考え事をしていた。
いつ、どこで聞いたかは忘れてしまった。けれど、飛影の脳裏に、いつまでも焼き付いている、あの物語。
他の妖怪たちは、みなバカな話だと、一瞬にして忘れてしまう。
なぜ飛影だけは覚えていたのだろう。何か惹かれるものがあったのだろうか。
だが、その飛影でも、昔のことなので物語のほとんどを忘れかけてしまっていた。
彼は一人でいるとき、できるだけその記憶の回復に時間を費やした。
そして昨夜の夢の御陰で、飛影はやっとその話を思い出すことができた。
それは、飛影がまだ盗賊になりたての小さい頃、殺した妖怪が死ぬ寸前に言った言葉だった。
ーー人間界のある森の奥に、三角草がたくさん生えたところがありました。
三角草がたくさん生えたところには、昔から氷の精が住んでいるといわれていました。
そこにも氷の精が住んでいました。とても美しい精でした。
その氷の精は、名前を「雪消(ゆきげ)」といいました。ーー
その7
「思った通りだ。あれは、妖気にみせかけた、また別の気です」
蔵馬は、ムクロに調査結果を述べていた。
「あの気は、飛影の妖力を取り込んでいます。だから、一見妖気のように思えたんです。
もともとの気も、妖気そっくりでした。雪菜ちゃんも気づかなかったようですね」
「今回の件は、妖怪の仕業じゃないということか。じゃあ人間どもの仕業か?」
「いや、その可能性はかなり低い。霊界の仕業でもないだろう。首謀者の調査はまた今度です」
「そうか。あと何かわかったことはないか?」
「…あとはわからない。調査はそこまで進んでいないんです。
一度ムクロも人間界に来てみますか。参考程度にはなると思いますが」
「ほう。だがオレは遠慮させてもらう。行きたいとこだが、あいつのお守りをしなくちゃならんからな」
「フフ。…じゃあまた来ます」
「ああ。できれば早めにな。お前の言うとおり、念のため奴を監禁したが、あいつならあんなところ抜け出すぐらい訳はない。今のところ、妖力も弱まって大人しくしてるがな。
次はいい情報期待してるぜ」
「ええ」
それだけ言うと、蔵馬は軽くひゅっと跳び、どこかに消えてしまった。
気がつけば、飛影は五、六人の妖怪達に追われていた。
氷泪石を狙って、実力の差もわからずまた襲いに来たのだ。
フン、こりない奴らめ、と飛影は妖怪達を撒(ま)き、ある程度引き離してから、振り返って勢いよく剣を振るった。
小気味よい感触が剣から手に伝わり、赤い血が、飛影の顔や肩にビチャビチャと付着した。
頬に着いた血を手でこすり、彼はにやりと薄く笑った。
一匹、息絶え絶えで、かろうじて生きている妖怪がいた。飛影はそれを見つけると、剣を構えて近づいた。
「み…見逃してくれ。頼む…」
その声を聞くと、いっそう飛影は嬉しそうに笑い、剣をきらりと光らせた。
「まっ待ってくれ!そっそうだ、お前こんな話知ってるか!?三角草の話だ!氷の精がな……!」
「聞いたことぐらいはある。が、興味はない」
飛影はどんどん近づいてくる。
「本当の結末は知らないだろう!あれは本当の話だぜ!若者は、氷の精が去ったあと、確かにそこに三角草を植えたんだ!
けど、そこは、やはり三角草が長く生きられない場所だったのさ!それで、その若者は……!」
「聞き飽きた」
ドスッ!と飛影の剣が、その妖怪の体を容赦なく貫通した。血が吹き出るのを楽しみに思い、飛影はズッと剣を抜いた。
しかし、そこからは血は出てこなかった。そのかわり、その妖怪の傷口から、しゅうっと黒い煙が吹き出し始めたのである。
何だ!?と飛影はそこをのぞいてみた。
そのとたん、その煙が素早く飛影の体に巻き付いた。あっという間に飛影の体を全て覆ってしまった。あたりはいつの間にか、真っ黒な煙に包まれてしまっていた。
声を出そうと思ったが、なぜか声が出ない。煙のせいで、何も見えない、何も聞こえない。
何だ!?一体何が起こったんだ!?
飛影は混乱している。
そしてその中で低い声がした。次いでどこかで何かが光った。なんだ…と思い、その光の方に、煙をかき分け進んでみた。
その時 「うわあーーーーーーー!!」と飛影は叫び、ぐっと目をつぶった。まぶしい光が彼を襲った。
そして……。煙は消えた。目をもう一度開けると、そこはその時から何年も経った、今の時代の百足の中の一室だった。
「ゆ、め…」
飛影は、とりあえず息を整えた。
「一週間前も同じ夢を見た」
その時は、この夢の御陰で、彼は記憶を取り戻せたのだ。
蔵馬がひとりで来た日から、もう五日が過ぎていた。特に誰にも何も言われず、飛影も何もせず、この一週間はただ過ぎていった。
雪菜は二日に一回飛影に会いに来た。もう、飛影はそこから流れ出ている気など気にしなくなっていた。
それは決していいことではないのだが、雪菜があまりに笑うので、大丈夫なのかと飛影も少し思ってしまったのだ。
でも、本当に、決してそれはいいことではなかった。飛影らしくもなく、彼は少し甘い感情に、浸ってしまっていたのだ。
「……」
飛影は、また左腕をながめた。
この一週間で、彼の腕はずいぶん「変化」してしまった。
「どう」なるかは知っていたが、それを食い止める方法は知らなかった彼には、どうすることもできなかった。
ちょうど、雪菜の居場所がわからず、ただただ探していたあのころのようだった。
その「変化」した腕に、包帯を何重にも巻き袖で隠すことにより、他人にばれるのを飛影はなんとかふせいでいた。
けれど、最近は「哀」の字が、包帯の上にまで染み出てくるぐらいに強くなっていた。そして飛影の妖力は、逆にどんどん蝕まれていっていた。
ーーひょっとしたら、もう黒龍波は撃てないかも知れないーー
飛影は嫌な想像に寒気がした。
フン、まさか、きっと弱っていく妖力のせいで、オレの心まで弱ってしまったんだろうぜ、と飛影は思った。
「…試してみるか?」
そう独り言を言うと、彼はがしゃんと窓を割り、軽やかに外に出た。
窓の外には、見張りは誰もいなかった。たまたまいなかったのか、泳がされているのか、それはわからないが、とりあえず飛影は久しぶりに外の空気を吸った。
邪眼を開き、右腕の包帯を解くと、黒龍は嬉しそうに声を上げた。早く腕から離れて、この地で暴れたいとでも言っているようだった。
念のため、彼はある程度移動要塞から離れた。広い草原にでると、飛影はいよいよ妖気を燃やし始める。
そして、黒く燃え上がった彼は、向こうの岩山に目標を定め、それに向けて右腕を構えると、ついに黒龍を勢いよく撃った。
飛影は倒れた。
彼が妖気を放出したとたん、それを感じた左腕の「哀」も暴れだし、それが黒龍を喰った。
黒い炎と「哀」の呪印が激しく叫びあい、その声は地を裂いて天を焦がした。
それは数十秒ほどで終わったが、広い草原は、無惨な焼け跡になってしまった。
そしてその後、惨劇の舞台となった飛影の両腕は、見る影もなくボロボロになってしまっていた。
騒音を聞いて妖怪がたくさんやってきた。もちろんムクロもかけつけた。
荒れ野の真ん中で飛影がボロボロになって倒れている。きっと魔界の炎でも使ったんだろう、バカな奴だ、とムクロは思った。
飛影はぴくりとも動かなかった。
「…冬眠なのか、普通に失神したのかはわからないが、しばらくこいつは起きないだろう。
何かのせいで自分が惨めに思えると、つい無茶をしたくなる。誰でもそれは同じだ」
彼女は少し哀れみを込めていった。
ムクロは、うつぶせになっている飛影をごろんと転がして仰向けにさせた。彼の包帯はぐちゃぐちゃだった。
ふと、彼女は飛影の左腕の異様さに気づいた。腕全てを包帯が包んでいたので今までわからなかったが、彼の腕が、わずかに…。
ムクロは震える手で、しゅるしゅると、ちぎれかけた包帯を解いていった。
腕は…、一体どうなってしまったんだ……?
「…やめろ…!」
ムクロはびくっとした。飛影が起きたのである。体力を使い果たし動けないようだが、彼はうっすらと目を開けて、少しずつ口を動かしていた。
「やめろ…見るな…!ムクロ……!」
「飛影、腕は一体どうなったんだ!?」
「お前が…知る必要はない…。よせ…!」
だがムクロは、絶対に包帯を解く手を休ませようとはしない。
「く…」
飛影は小さくうなった。
これだけは、誰にも見られたくなかった……。
「!!」
声にならない声でムクロは叫んだ。飛影は右を向いて目をつぶり、左腕の方を見ようとはしなかった。
ムクロが解いた包帯のその下には、「飛影の左腕」など、どこにもありはしなかったのだ。
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