その10
飛影は海を見下ろす崖に来た。
彼が来ると、静かだった海が急に渦巻き、波が白い泡を立てた。彼の腕の印に呼応しているようだ。
「オレは来たぞ!海の三角草め。オレの体が欲しいなら、全部くれてやる!」
覚悟が充分にできている飛影は、崖の下に向かってそう叫んだ。
彼には、思い残すものはいくらでもあった。どうしようもなく未練だらけである。だが、今はそれどころじゃない。今こうしないと、彼は生き地獄の中を漂わなければならなくなるのだ。
ただ自分が消えていくのを、ぼんやり見届けているひまなど今の飛影にはない。彼は、今は考える。今は動く。今は生きているのだ!
”今は生きている” その言葉が、迷い戸惑っていた飛影の心をがっちりつかんで離さなかった。
後からこっそり追いかけてきた幽助・蔵馬・ムクロは、飛影が言い放った言葉を聞いて、少し慌てた。
飛影の後ろにある森の木の陰に隠れ、三人は彼の様子をじっとうかがった。
飛影は左腕を出し、包帯を全て解いた。そこに何もないのを見て、一人それを知らなかった幽助は口を開けて驚いた。
「飛影はどうするつもりなんだ……?」
三人は同時にそう思った。稲光が鳴り、暗雲が辺りを覆った。
次の瞬間、なんと飛影は、波が渦巻く青黒い海に向かって、いきなり一直線になって飛び込んでいった。
「飛影!?」
三人は急いで崖の端に行き、飛影が落ちていった海を見下ろした。
その時 崖の下に見えた光景に、三人は目を見張った。
飛影の体は、落ちていく途中に左肩からどんどん輝きながら散っていった。砂がこぼれ落ちていくかのように、彼の顔も、髪も、服も、邪眼も。
彼が波にたどり着くまでに、飛影の体は、とうとう全て消えてしまった。波に波紋がごく小さく広がり、そして静かになくなった。
波の上には、何も残らなかった。
「………!!」「………」
後に残された三人は、また静まりかえった何もない海を、ただじっと見下ろすだけであった。
「…飛影が……。消えた…」
最初に口火を切ったのは幽助だった。彼は今起こったことを、素直に文章に表した。
蔵馬は、何も考えられなくなっているのか、目と口を開けたまま停止していた。
波がまた、穏やかになりつつあった。
幽助はあぐらをかいて座り込み、じっと地面を見て上を向こうとしない。泣いているのだろうか。
飛影が…消えた…。肉体も、霊体も、魂も、全て…。
彼の瞼(まぶた)の裏に、輝いて消えていく飛影の体が何度も何度も映し出された。
幽助はなんとか考えをまとめようとした。困惑の渦に飲み込まれないように。けれど考えをまとめるなど、それは到底今の幽助には無理な話だった。今、彼の目の前で起こったことを、彼が一人でまとめるなど到底できない。
しかし、その場では他の者と会話することは許されなかった。皆各々自分自身の思いに浸っていて、とても声など出せるものではなかった。
それぞれの頭の中で、飛影の後ろ姿が浮かんできては、また泡雪が解けるかのように消えていった。
静かな海の前で、再び静かな時間が流れた。そこでは物という物は、一切動くことを禁じられた。
崖の下では、三角草が雪とともに、わずかな風を葉に浴びせていた。もうこの者達は波に襲われることはなく、ただ流れてゆく平和な時を、ゆっくりと過ごしていた。
幽助は、仙水と戦ったときのことを思い出していた。あの時…オレは、怒りを利用して、あいつらの力を引き出すために…死んだ……。けど…。
…仲間の死は本当に辛い。それは幽助が一番よく知っている。けど…。だけど……!
彼がぐっと拳をにぎるのを、蔵馬は横目で見ていた。
幽助は葛藤し始めた。
ちくしょう、飛影、何を恨めばいいんだよ。オレは何を憎めばいいんだ!?お前を殺したのは誰だ!?
この海か!?てめえ自身か!?雪菜か!? それとも……!
…………オレか?
幽助ははっとした。…海が殺したのかはわからない。飛影が殺したのなら本望だろう。雪菜は決して悪くない。けど……オレは……。
「…………」
困惑の渦から避けるために考えだしたのに、彼は逆に、自分の首を真綿で締め付けているような気がしてきた。
幽助は再び崖の下にちらと目をやり、そしてもうそこを見なかった。
……くそう、オレはなんで、飛影に”死ぬな”って言えなかったんだ…。
オレは、ただあいつがすることを、じっと見ていただけで…なんで止めなかったんだ!?
幽助は、何から何まで、全てを憎みたくなった。そうしないと、自分自身が、何かに押しつぶされてしまいそうだった。
そこまで考えると、彼は静かにぐっと上体を地面に近づけ、そして動かなくなった。
…ちくしょう…。なんで……。……。
幽助の様子を見ていた蔵馬も、目をふっと閉じ、下を向いて動かなくなった。
「飛影は死んではいない」
幽助も蔵馬もびくっとして顔を上げた。
「ムクロ?」
彼女は波を睨みつけ、じっと考え事をしていた。彼女の時間は止まってはいなかったようだ。
ムクロだけが冷静でいられたのは、彼女がずっと飛影のそばで、彼の様子をずっと見てきたからだろう。
飛影のそばで、飛影の様子をずっと見続けてきたから、彼のことがいち早く考えられたのだ。
「よく見ろ。微かだが、波がまだ静まりかえっていない。…飛影を取り込んだはずなのに」
「どういう意味だ?」
幽助は座ったまま彼女を見上げた。
「あの娘に全部話してもらったんだろ、事の成り行きを。飛影が波の妖怪を撃った時、波が荒れ狂い初めて、そこから出た渦潮が飛影の腕を貫いたんだと。
飛影の体は、その日から徐々に消えていったんだ。その日から波が飛影の体を喰らっていったと考えればいい。犯人は波の中にいる何か。
波の中にいる奴の目的は飛影の全てだ。
雪菜は、飛影とここに来た日から、波が全く立たなくなったと言っていた。飛影がさっき再びここに来たとき、波は再び荒れはじめた。飛影の腕の印に呼応しているんだ。だから、飛影が全て海に喰われれば、波はまた静かになるはずなんだ」
幽助は、ムクロの言っていることがよくわかっていない。
「…つまり、飛影の全てが消えるまで、波は静かにはならないってことですよ」
蔵馬が幽助の様子を察して言った。
「飛影が全て海に喰われれば、海は静かになるはず。だが…」
「あ…」
「波がまだ少しだが立っている。理由は、まだ海が不服ということか、それとも、飛影がまだ消えていないか…。の二つだ」
そして…。確信はないが、おそらく後者の方が正しいと、ムクロは目で二人に訴えていた。彼女はそう信じていた。
「…じゃあ、飛影の体を消しちまったのはこの海なのか」
「今頃気付いたのか?とろい奴だな」
「うるせー!!オレは忙しくてほとんど何も聞かされてなかっただけだっつーの!」
ククク…とムクロは含み笑いをした。蔵馬も少し、いつもの表情に戻った。ようやく、三人に明るさが戻った。
”飛影は死んではいない” 確証はないが、それでも、それだけの希望でも,三人には充分明るいことだったのだ。
そして三人は、心の中で飛影に願った。
頼むから、生きていてくれよ、飛影…!
それから数分後、彼らは波がまた少しずつ荒れはじめたのに気づき、崖の下をさっきとは違う表情で、じっと見つめ始めた。
「雪菜…さん…?」
雪菜はむくりと起きあがり、壁をじっと見つめた。
桑原は彼女の顔を見て驚いた。雪菜の顔は、さすが氷女とでも言うべきか、まるで雪のように白くなっていたのだ。
「……」
桑原は雪菜に何か言おうとしたが、先に雪菜の方が口を開いた。
「和真さん、皆さんが行ったところに、私も連れて行ってください!!」
「え?」
雪菜の気が妙に高まっていた。
「…飛影さんは…帰ってこない……」
その11
桑原がそこにいた。桑原は、雪菜の看病のため、三人についていかなかった。
幽助・蔵馬・ムクロは桑原の家を出ていく時、回復しない雪菜の事が気がかりで、飛影の後を追うかどうか少し悩んだ。
しかし、桑原がどんと胸を張り、
「雪菜さんのことはオレ様に任しとけェ!!」
などと言うので、くっくと三人は笑い、桑原は少し照れ、そしてまた皆厳しい表情になり、じゃ、とだけ言い、別れた。
桑原も、他の三人と同じくらい、飛影の事が心配だった。だが、雪菜を一人放って皆についていくわけにはいかなかった。
何より、飛影は雪菜のために、何かとんでもないことを……おそらく命を捨てようとしているのだ。それならば、せめて奴が何かしようとしている間くらい、自分が雪菜を守ってやらねばならないだろうと桑原は考えたのだ。
桑原は雪菜が好きだった。ゆえに桑原は飛影に感謝した。そして、雪菜が回復し飛影もまた無事に帰ってくることを心より願っていた。
しかし、今起きた雪菜の顔はほとんど蒼白で、凄まじく恐ろしいものを見たかのように体は震えていた。
「……」
桑原は雪菜に何か言おうとしたが、先に雪菜の方が口を開いた。
「和真さん、皆さんが行ったところに、私も連れて行ってください!!」
「えっ!?」
桑原は、雪菜の様子とその言葉を同時には理解できなかった。
「飛影さんは…帰ってこない……!」
その体から絞り出すかのように出てきた言葉も、何か不吉なものを感じさせた。
動揺する桑原の前で、雪菜はいそいで布団からはい出ようとした。
「ちょっ!ちょ、雪菜さん!やめてください!あなたはまだ体調が…!?」
次の瞬間、桑原はその場に放たれた凄まじいエネルギーに吹き飛ばされ、壁にぶち当たった。
ずるずると落ちていく桑原が見たのは、雪菜の周りから吹き出されている冷たく白い煙だった。
「ゆ…」
「…すみません和真さん…。でも、これでもまだ、私が治っていないと思いますか…?」
冷たい氷女の眼に、桑原はごくりと唾を飲んだ。
「いきなりさっき力が湧いてきたんです…。飛影さんが…。さっき枕元に来たとき妖気を分けてくれたんです」
えっ、と桑原は声にならない声で言った。その言葉が何を意味するか、桑原にはすぐにわかってしまったからだ。
桑原は、魔界に飛影を尋ねに言ったときの彼の様子を思い出した。
そのとき、飛影はひどく弱っていた。蔵馬にいろいろ聞かれ、飛影はその質問全てに目を背けて答えなかった。
左腕には赤く深く「哀」の字が刻まれていた,そして、さっきの飛影の妖気も、やはりひどく弱っていた。
見た目だけは、全く普通の飛影だった。だが、桑原は霊感が人一倍働くので、そういうことにはとても敏感なのである。
だから、そんな飛影が、もうわずかしかない妖気を雪菜に分け与えたということがどういうことなのか、桑原にはすぐに理解できてしまった。
飛影にもらった妖気を放出して、雪菜が今言っていたこと。
今の飛影は、瀕死に近い。
さらに身を乗り出して雪菜は言った。
「早く飛影さんのところに行かなくては!手遅れにならないうちに!」
「でも…!雪菜さん……」
雪菜の言っていることは痛いほどにわかる。だが、やはり桑原は、彼女を止めたかった。
「もう…、これ以上……!」
雪菜を、もうこれ以上危険にさらしたくなかった。
「………」
桑原の真剣な顔を、雪菜はじっと見つめた。
すると、雪菜は、心配する桑原の温かい手をぎゅっと握って、静かに優しく微笑んだ。
にわかに桑原はびくっとした。久しぶりに雪菜の笑顔を見たような気がして、どきどきしながら彼女の顔を見た。
「私には…。あなた達の傷を癒す”力”があるんです」
桑原の手に、さっき雪菜が見せた白い妖気とは全く別の、心地よく温かい妖気が流れ込んできた。
「こんな”力”が私にはあるのに、本当に大切な時に、大切な人の傷を癒さなくて、いつ私はこの”力”を使うんですか」
…この温かい力は、冷たい氷河の国で暮らす他の氷女達には、きっと使えないだろう。
こんなに温かい力が、凍える吹雪に閉ざされた、冷たく暗いあの国で、養われるはずがない。
温かい気に触れた彼女だからこそ、作りだすことができたのだ。
受け取ったこの”力”を、今使わなくて、一体いつ使うというのだろう。
「飛影さんが私のために、分けてくれた、この力…。
飛影さんにもらったこの力で、私は、飛影さんの傷を癒して、分け与えてあげたいんです」
雪菜は、ぐっと桑原の大きな手を握りしめ、下を向いて動かなくなった。
桑原は何も言えなかった。彼は、雪菜の意志の大きさに、ただただ圧倒されてしまっていた。
「なんでもっと早く気がつかなかったんだ…」
蔵馬が悔しそうな顔でつぶやいた。彼はなんと、ついに三角草の物語を思い出したのである。
とはいっても、やはり蔵馬も、本当の結末は知らなかった。だが、彼が手がかりになるかもと三角草の話をしだすと、ムクロもはっとして、その話には続きがあるぞと言い、幽助は二人の話をまとめ、三人は全てを知った。
だが、その話と今回の件とにどういう繋がりがあるのかはわからなかった。なぜ、たまたまこの海にきて、
やむを得ず妖怪を殺してしまった飛影が、こんな目に遭わなくてはならないのか。
「雪消…三角草!?」
「!?」
驚いた三人が振り返ると、彼らのすぐ後ろに、心配そうな目をした雪菜と桑原が立っていた。
「雪菜ちゃん…!体は…大丈夫なんですか?」
「あ…ええ」
とはいうものの、三人が見る限り、彼女はまだ顔色が悪そうだった。
「その話は、私の故郷でも有名な話なんです。若者が、氷の精ともう一度会いたいがために、三角草を植えて…」
でも、三角草は育たなかった。冬を越え、三寒四温の頃になっても,三角草は出てこない。だから、雪消はもう来てくれないと、若者は思ってしまった。
そして……。 若者は、早春海に身を投げた。崖についた粗い雪が、波にのまれていくように。
それから後はわからない。雪消は結局どうしたのか、三角草は本当に育たなかったのか。
誰もこの話に興味を持たなかった、ありふれた話だと忘れられた。誰もがその話を追求しないまま、雪消三角草は終わりを告げたのだ。
「…さらに続きがあるんでしょうか」
「さあ…」
全員が口をつぐんだ。
一同は、岩をうち砕く波音の世界に、しばし身を浸らせた。
「飛影さんは…。この話を知っていたのですね」
「ええ。たぶんね。前オレが三角草について聞いたとき、何か知っていそうな様子でした」
飛影は嘘つきであったが、彼が嘘をついたとき、それがすぐ表情に出るので、嘘をついたことがとてもわかりやすかった。
彼は無表情なのに表情があり、無口なのに彼の気持ちは時間はかかれど誰にでもわかった。飛影はあの時、もうすでに死ぬ気だったということに、ようやく蔵馬は気付いた。
「…もう、私達には、何もできないのでしょうか…」
雪菜は相変わらず真剣な眼差しだった。波は、いっそうひどく荒れ狂う。
このままだと…飛影さんは、もう二度と帰ってこない……。
しばらくは誰も答えを出せなかった。森がざわめき、強い風がその辺り一帯を余すことなく覆った。
「…向こうの出方次第じゃねーのか」
珍しく幽助が発言した。全員の目線が、そのとき幽助に集中した。
彼は空を見上げた。そこではにじんだ灰色の雲が、ゴロゴロとうるさく叫んでいた。
「…飛影は、オレ達を巻き込まないようにするために、独りで何もかも背負いこんだ。自身の全部が消えてしまうまで…。
…あいつらしいとは思うけど、それはオレにとっちゃ、すごく腹の立つことだ。お前らもそうだと思う」
そして、それは飛影自身もわかっているだろうと幽助は思った。
「でも…今回の一件は、あいつが勝手に自分で始めて、自分で進めていったんだろ。なのにオレ達が、あいつのことどーのこーの言うなんて義務はないはずだぜ」
…でも…!と雪菜は何か言いたげだった。だが幽助はすぐに続けた。
「大丈夫だと思うぜ。出ていっちまう時あいつ一応”ただでは死なない”って言ってただろ」
幽助は雪菜の様子を察して言った。雪菜は口を閉じた。
「けど、やっぱり飛影は死ぬ気でいた。実際に飛影の肉体は もうどこにもなくなっちまった。相変わらず勝手な奴だよ。けど、あいつ、今は生きてんだろ?
今あいつは何かしようとしてるんだろ?」
「…しばらくは、このまま全員で飛影を信じてやらねーか?」
その意外な言葉に、全員がふっと眼を見開いた。
「あいつが何かしでかして、無事帰ってくるまで」
全員が、幽助の表情が変わっているのに気付いた。
「もちろん、このままあいつが死んじまうんなら、オレはあいつを許さねえし、オレ自身も絶対許さない。
しばらくして、もしそうなるってわかったら、オレが即座に海の中に飛び込んでいってやるよ」
幽助はにっと笑っていた。覚悟したのだ。彼は空に向かって言い放った。
「…幽…助…さん…」
雪菜は幽助の方を見た。
「そうですね…。これだけ変化のわかりやすい海の気なら、少し状態が変わればすぐに効果が波の上に現れるでしょうし。
飛影が独りで死んでいってしまうなら、オレも全てを許さない。その時は、オレも喜んで海に飛び込んでいくでしょう」
蔵馬も幽助同様、黒くくすんだ空を見た。
「何でも背負い込みやがってよ…あの野郎」
「蔵馬さん…。和真さん…」
雪菜は、胸に置いた自分の手をぐっと握った。
「ムクロはどうする?」
すると彼女は、下を向いてクッと含み笑いをした。
「言うまでもない」
それを聞くと、幽助は拳をぐっと握って、
「おっし、じゃあ、とりあえず今は待っとくことだな!」
と叫んだ。
珍しく、全員が笑顔を揃わせた。満面の笑みではないが、再び彼らの上に明るさが戻ってきた。
彼らは皆同じ方を見た。崖の下ではなく、彼らは空の上に向かって誓った。
温かい……。と雪菜は思った。
私の力と、同じ力が、この場に溢れてる。
飛影さんは幸せだなぁ…。 こんなに温かい仲間がいるなんて。
だから…あなたは………。
…飛影さん…。お願いです。どうか死なないで……。
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