雪消三角草

その20



「帰ってきた!?」
彼を呼んだのは静流で、この声を出したのは桑原だった。
真夜中、ドタドタと階段を駆け下り玄関を出ると、道路の街灯に照らされた幽助と蔵馬の長い影が遠くに見えた。
二人とも妙に急いでいるようで、影はどんどん短くなりこちらに迫ってくる。
ムクロも駆け足で家から出てきて、桑原より前に立った。門灯は彼らの顔を青白く照らした。
蔵馬と幽助の息づかいがだんだん聞こえてくる。 飛影は…!? とムクロが言いそうになる前に、彼女は幽助の肩にぶらさがっている二本の腕を見つけることができた。
走っている彼らの吐息が聞こえてくる。
そしてそれはムクロの前で止まり、二つ三つの息が白い姿で門灯に映し出された。
桑原もムクロも、すぐさま幽助が背負っているのが飛影だということと、彼の体にちゃんと五体が揃っているかどうかを確認した。街灯の光に浮かび上がるシルエットを見ると、幽助の二の手には二の足が握られており、肩にはきちんと腕が二本ぶら下がっており、そして幽助の頭部の蔭から飛影の髪の毛がちらちら見え隠れしているのが確認できた。
この二人に質問を浴びせられるより前に素早く蔵馬が口を開いた。
「息をしてなかった」
桑原とムクロははっと唾を飲み、門灯の蔭に浮かび上がる蔵馬の顔を見た。幽助は肩に乗っている飛影の腕をじっと見つめていた。
「その場でなんとか応急処置はした、今はなんとか息はしている。けれど意識は戻っていない。いつまた呼吸が止まるかもわからない」
蔵馬はこれだけ言うと、ようやく走った後の息を整え始め真白い息を吐いた。
ムクロが真面目な顔で答えた。
「…上出来だ。あとは、オレがこいつを魔界に運んで治療する。…幽助…。そいつを渡せ」
ムクロも これだけ言うのが精一杯だった。彼女は本当は何がなんだか分かっていなかったが 今すべきことはそれだと直感が言ったので、彼女はそれに従ったのだった。
幽助が飛影を降ろそうとすると、飛影の体は全く力無く落ちそうだった。目は完全に塞がれていて、一体何をしたのだろう、目尻に小皺(じわ)が寄っていた。
「いや、ムクロ オレ達も行く」
飛影を降ろすのをやめ、そう言った幽助は意外そうな顔をしたムクロの前でもう走る体勢になっていた。
「ええ、オレ達も行きます。飛影はただでさえ長い間海の水の中に居たんだ、体温が著しく下がってしまっていて危ない。貴方一人に任せるのは危険だ。それに、オレ達は皆ここまで飛影を見守って来たのだから……。やはりずっと、飛影の側に居てやりたい」
あれだけ長い間友を待ち続けて蔵馬もかなり疲れているはずだった。だがそう言った蔵馬の目は、ぎらぎらと輝いていた。
「……わかった。じゃあ急ぐぞ」
ムクロも同意し、全員が今にも駆けそうな体勢になった。 その時
「待ってください!!」
うっ、とあまりの唐突さに倒れそうになる者もいた。彼らが振り返ると、そこには寝巻きを着サンダルをはいた雪菜が立っていた。
「ゆ…雪菜さんっ…!もう遅いから寝ておいてくださいって……!」
そう言う桑原を完全に無視し、雪菜はすたすたと門を出て、幽助の背後にいる飛影の顔に腕を伸ばした。
「っ、待って雪菜ちゃん!!」
蔵馬が素早く雪菜の腕を掴み、雪菜はびくっとした。蔵馬は妙にきつく雪菜を睨んでいた。
「雪菜ちゃん、貴方もずっと待っていたんでしょうけど、今はゆっくりできないんです。飛影は確かに帰ってきたように見えます。けれど、飛影はまだ 完全には帰ってきてくれていないんだ。意識がないし、さっきまで息が止まっていた…。早く魔界に連れて行って治療しないと、飛影はもう帰ってきてくれない。二度と…。今貴方のために,飛影の時間をとっている余裕はない。…わかりますか」
特異な立場である雪菜にこれは少しきつすぎるのではないか、と誰もが思った。この蔵馬の言葉に雪菜はこたえたと思われた。
しかし、雪菜はすぐさま
「………じゃあ…私も連れて行ってください。 …邪魔かも知れません…けど…飛影さんを、私…助けてあげたいんです」
と雪菜もきつく蔵馬を見上げた。意志の強さを表すかのようだった。
「…………」
はっ、と、桑原は以前、雪菜がこんなことを言っていたのを思い出した。
『こんな”力”が私にはあるのに、本当に大切な時に、大切な人の傷を癒さなくて、いつ私はこの”力”を使うんですか』、と。
桑原は、街灯に照らされた、またしても真剣な雪菜の横顔を見つめていた。そして、ポンと桑原が蔵馬の肩を叩き、蔵馬は驚いて振り返った。
「雪菜さんも連れて行ってくれ」
と頼んだ。
え……、と蔵馬は意外そうな顔をした。桑原の目も、雪菜の目も真剣だった。桑原は、雪菜の飛影に対する気持ちを一体どう受け止めたのか、彼女を飛影に会わせてやりたい気持ちでいっぱいだった。


このとき、彼らは気付いていなかった。ちょうど彼らが魔界へ向かい始めたとき、空に二つの星が昇っていったことを。
皮肉な運命を遂げた恋人達が、何百年もの間続いた呪いを、ある若者の手によりようやく解放され自由になり、広い空へ旅立っていったことを______。



飛影の治療は厳粛に行われた。機に機を想定し、ムクロの呼んだ魔界の医者達と皆の思いが渦巻く中一日以上かけて行われた。
飛影の症状は、簡単に言えば”衰弱”であった。闇の苦痛に精神を貫かれ、肉体を幾度となくバラバラにされ、妖力も体力も使い果たした。それがさらに冷たい初春の海の中で行われたというのだから、衰弱しきってしまうのは当たり前だった。
だから特に治療をするという必要はなかった。だがそれがやっかいなことでもある。要は本人の気力次第だからだ。周りの者が何かできるといえば、点滴を打つなり,体温をあげるために温めるなり、見守るなりするしかなく、できることが少なかったのだ。
雪菜はずっと飛影につきっきりだった。ずっと飛影に気を送り続けているようだった。かつて彼女が、飛影に力を分け与えてもらったときのように、優しい気を送っていた。
流石に長時間続けると彼女の体力も失われるので他の者が代わったりもした。皆が彼女の意思を受け継ぎ受け止めた。雪菜がついに眠たくなり眠ってしまったときも、周りの者は彼女に気を使っていた。そして、初志貫徹、誰もが飛影を見守っていた。いつ目覚めてもいいように。




飛影が再び目覚めたのはーーーそれから八日後の夜明け頃だった。


いちばん最初に彼の目に映ったのは、どこかの家の天井と、電灯と、出発した時と同じ心配そうにこちらを見てくる雪菜の顔だった。
「……飛影さん……?起きたんですか!?飛影さん!」
雪菜がその声を出すと、どやどやとどこからか人が四、五人ほど集まってきた。
「おーーー!!起きた起きた!思ったより早かったじゃねーか!」
「おいーちゃんと生きてんのか!?何か言えよてめー」
幽助と桑原が飛影の顔をのぞき込んでくる。蔵馬とムクロもいるようだった。一度に大勢の者達に顔をのぞかれ 飛影は目をぱちくりさせた。
「……どこだここは…」
「おー!生きてる生きてる!よかったじゃん」
幽助は妙に嬉しそうである。
「お目覚めの第一声がそれか。面白くないくらいに全く変わりないな」
ムクロはそれだけ言うと ぷいと部屋から出ていった。
「ここは桑原君の家ですよ。九日前の夜…あなたがいきなり波と共に崖の上に打ち上げられたんで、オレと幽助が運んできて、魔界で治療してもらい、また人間界に連れてきたんです」
ーーもうあれから八日も経っただと? じゃあ、あの闇は一体……?
「…飛影さん…よかった……」
そう彼が思っているうちに、雪菜は涙をぽろぽろと落とし始めた。
飛影はあせって、”泣くな”と言いたいところだったが、帰るまで泣かずに待っていろと言ったことを思い出したため何も言わなかった。
…帰るまで……。
ーーそうか、オレは帰ってきたのか!
あの暗い闇の世界から、再び彼らの所に帰ってこられたのだ!
飛影は布団の中からむくりと起きあがろうとした。
「あっ!ダメですよ飛影さん!」
雪菜が飛影の体を支えた。飛影は、自分の体に腕も足も全て揃っていることを確認した。怪我もほぼないようだった。
「オレは平気だ」
飛影は雪菜の手を払いのけた。そして、彼は蔵馬の方に目をやった。
「それより……。蔵馬」
蔵馬はふっと飛影の顔を見た。
「九日前、オレが崖の上に打ち上げられたと言っていたな…。その時…、オレの他に打ち上げられた奴…ものはなかったか?」
「え?…さあ…。夜中だったのでよくわかりませんでしたが、たぶん」
「…そうか…」
飛影は下を向いた。蔵馬達はそんな飛影の顔を不思議そうに眺めた。
彼の脳裏に、海里と雪消の顔が浮かんだ。あいつらはどうなったんだろう、闇の世界から脱出できたのだろうか?雪消は……。 あっ。
「雪菜」
そういうと、飛影は右手の中の氷泪石を雪菜に投げた。
「お前のだろう」
雪菜は石を受け取ると目を丸くした。石は確かに割れていたはずだった。遠い海に放り投げたのに、再びそれが自分の手元に戻ってくるとは彼女は思っていなかった。
「貴様の母親の形見なんだろう、そんなものを捨てるんじゃない」
もうひとつの石は、ちゃんと飛影が左手の中に隠していた。雪消のことを思いながら、飛影は蒼い石を密かに握りしめていた。



あの闇の世界から帰ってこられた…。凄まじい奇跡である。入った瞬間から絶望させられたあの場所から。
やっと飛影が起きたことにより、みんなが一安心して部屋からでていき、ひとりしかいなくなった部屋で飛影は嬉しさを感じていた。
ただ気になるのは、海里と雪消の行方だった。しっかりと海里の手を握っていたのに、地上に着くと彼はもういなかったという。もとはとうの昔に死んでしまった霊だったから、霊界へ行ったのだろうか?今度こそ、ずっと逢いたかった氷の精・雪消と共に……。
人間界は平和な午後になりかけていて、飛影はその光を浴びていた。もう全ての呪いは消え失せたのだ。そう思い、飛影は、かつて自分を蝕んでいた「哀」の印のあった左腕の袖をまくった。


「_______!!?」

飛影は自分の目を疑った。なんと、そこにはまた「哀」の字が、彼の左腕に赤く深く刻まれていたのだ。
「うッ!」
そして飛影は再び左腕から激痛を受けた。袖をまくった反動によりその印が再び活動しはじめたようだ。
飛影は急いで袖をさげ右手で押さえつけた。だがそんなことでおさまるくらいこの印の激痛は生優しいものではなかった。
押し殺そうとしているうめき声がどんどん漏れ出る。汗をだらだら流し床にうずくまりながら、彼は腕を必死に押さえた。
その部屋に誰もいなかったのは幸か不幸か、彼は一人で苦しんでいた。彼を見て心配するものはいない。だが忌呪帯法の包帯もないし、止めようとしてくれる者もいなかった。
この場合は誰かに気付いてもらうのが、飛影の体を優先するなら一番よい。だが飛影の苦しそうな声に家の誰かが気付いたとしても、駆けつけるまであと一分はかかるだろう。その一分が、今の飛影にとってどれだけ長いことだろうか。
飛影は苦しみの中で、右手で必死に掴んでいる左手を睨みつけた。そして彼の大きな目をさらに大きく開いた。
彼が危惧したとおり、左腕は、最初とは比べものにならないくらいのスピードで、手の先からどんどん細かい砂となって床に落ち消えていっていたのだ。





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