その19
人間界は、いつの間にか夜になっていた。
夜になっても、幽助と蔵馬はただじっと水平線を眺めていた。海は全く暗かった。夜の海というものはただただ静かで、真っ黒な何かがうねっていることぐらいしかわからないものである。
そんな真っ黒い海より、むしろ夜空の方がまだ白っぽく、なんとなく明るかった。天気はよくなっているようで空にちらちらと星が瞬いている。たまに幽助は夜空を仰いで星の向こうの何かを眺めた。彼の目には朧(おぼろ)な星が鈍く光っていた。
蔵馬も、そんな幽助を横目で見ながら、ひたすら波の音が聞こえているふりをしていた。
波は、もう立っていないと言っても過言ではないくらいにその辺り一帯は静まりかえっていた。星空が楽器を奏でているかのように輝いたが、そこには実は音は存在していなかった。
それでも、ただひたすらに飛影を待って、幽助と蔵馬は崖の縁に座り無音の世界に居続けた。友を信じて待ち続けるしかなかった。そこにあるものが ”空しさ”しかなくても。二人は、何もできない情けなさをずっと悲痛に感じながら、そこに座り続けていた。
「雪菜ちゃんは、大丈夫でしょうか」
突然蔵馬の声が響いた。
「…大丈夫だろ」
それとも 見に行くがためにここを離れるのか、という言葉を幽助は省略した。
「…………」
蔵馬は答えなかった。
「蔵馬、帰りたいのか」
「…いや…。もしそう思ったとしても、オレは絶対に帰らない。…向こうの様子が少し気になっただけだ」
「だろうな。…オレも気になってんだよ…さっきから」
幽助は肘を膝の上に立てて頬杖をついた。 雪菜がダウンし、彼らが桑原・ムクロと別れたのがこの日の昼頃だった。それから数時間、彼らはずっと座っていたのでなんの情報も得ていなかった。変化を知りたい。飛影はどうなったのだろう?呼応する雪菜の体調に変わりはないだろうか?それが、彼らにはとても気になった…。
幽助と蔵馬は、海に消えていった飛影と同じくらい雪菜を心配した。雪菜は飛影の妹である。もしも…不吉なことは考えたくないのだけれど、本当に考えたくないけど、飛影がこのまま…本当に消えていってしまったら……。
ーー嫌だっ…考えたくない!ーーけれど二人の脳裏には、飛影を信ずる気持ちの裏側に必ずこの考えが浮かんでしまう。一枚のコインの裏表のように、この思考は薄いところでくっついて離れなかった。彼らはそれが嫌で嫌で仕方がなかった。
もしも飛影が消えるとしたら、では、彼が最後に望むものはなんだろう?飛影は、自ら身を散り散りの砂にして消えていった。何かを守るために。そこまで考えて、幽助と蔵馬は是非とも雪菜が回復していることを願った。飛影のために。
けれど…。そんな願いは叶うのだろうか?
淡い願いは、はかない雪のようにすぐとけて無くなるものなのだからーー。
そうして目を開けた幽助の前にある海は真っ暗だった。その海は恐ろしく生きている感じがしていなかった。
「静かだなーー…」
「!」
一瞬、言ってはならないように思えることを幽助は言ってしまった。
「……なぁ」
「…………」
彼が何を考えて言ったのか蔵馬にはわからなかった。でも幽助は、別に「しまった」とは思っていないようだった。けれど蔵馬は、決して”そうですね”なんて言えなかった。
それはほぼまさしく、飛影の存在を否定する言葉だったからだ。でも幽助はどうやらそんな意味で言ったつもりではないようだった。
「飛影って 波の下にいるんだよな」
「…正確には、そこを通ってどこか別の世界にいった…ですが」
蔵馬は幽助の様子をうかがった。
幽助はいつのまにか空を仰ぐのをやめ、真っ黒な水平線をじっと見つめていた。
「蔵馬ァ…」
幽助の目には相変わらず鈍い光が映っていた。
「飛影の奴も、こーいうめちゃくちゃ静かな所にいるんだろーな」
何気なく言った言葉が、蔵馬の心を少し揺さぶった。
「生きた心地しねーぜ…こんなとこ…。オレは蔵馬がいてくれてる御陰で”ここに居る”ってわかるけど、あいつには、気付かせてくれるものがねーんだろ…」
「…………」
蔵馬も、何も見えない水平線を眺めた。
「今何時くらいだ?」
「…夜の11時過ぎ…」
蔵馬は腕時計を見下ろし、そのままずっと下を向き始めた。
「飛影…帰りたいだろうな」
蔵馬は答えなかった。
「こんな感じの嫌なところなんかで死にたくないって、帰りたいって…あいつは思うと思うぜ…。
たとえ帰れないって思っても…帰れなくても……」
誰もが持っているその気持ち…。落ち着く場所に。安心できる所に。または昔のよき時代、気の置ける仲間のところへ、
帰りたい。帰れなくても。
人はときとしてそう思う。昔のあの頃はよかったなぁとか、死んでしまった家族や友人をふと思い出して、帰りたいと、心で嘆く。でも帰れない。帰れなくて帰れなくて、進んでしまう。それが生きるということ。戻れないのに後ろをみながら進む人もいる。目から落ちる水を振り払い前へずんずん進んでいく人も、帰りたいと思うことはあるはず。で、たまに心で泣いて、そして皆進んでいく。それが生きるということだ…。
進んでいく道が嫌な道で、進むのが嫌になって、自ら止まってしまう人がたまにいる。ーー死ぬのだ。 死ねば、確かに嫌な道をどんどん進んで行くという必要はなくなる。 けれど、けれどそれ以上に、その人は帰れなくなるのだーー永遠に。
だからといって進んでいても、生きていても帰れるとは限らない。帰れない。でも帰りたがるのだ。
その気持ちがときとして、信じられないような力を生む。帰りたくてーー。
「……飛影、まだ生きてるよな」
幽助は、こっそり蔵馬の方を見ていた。ただ蔵馬の答えを待った。
「…………」
蔵馬は何も答えることが出来なかった。
帰りたい_______
もう一度、あいつらの所に。
こんな 嫌な闇の世界で消えたくない。
魔界に、戻りたい、人間界に、帰りたい_______。
「!!」
海里はハッとした。
(…ひ…かり…?)
元・闇の支配者だった海里は、この暗い闇のどこかで、何か光が起ころうとしていることを感じ取れた。どこで、そんなに遠くはない。いや、自分のすぐ側にいるような気がーー…。まさか!
「飛影さん!」
海里は今までにないほど激しく飛影を揺すった。飛影は相変わらず全く動いてくれない。だが、彼の中だ、彼の中で何かが起きようとしている。何かが!
彼の中で何かが動こうとしている。何かはわからない。けれど、もしも彼を再び目覚めさせることが出来るならば、これを動かせることに相違ないだろうと海里は思った。もしもの話であるが。
だがもしもの話でも海里には選択肢がない。方法がなくても、何が何でも飛影を起こさなければならないのである。だから今見つけたことをーーそれが正しいのかなどわからないが、海里はそれをやってみるしかないのである。
けれど、どうすればいい? どうすれば、海里は飛影の中にある何かを起こすことができる?
わからない…どうすればいのか。何が起きようとしているかもわからない。わからないから、彼は揺すり続ける…永遠を感じても。
海里は必死だった。何が何でも飛影を助けたい。ずっとずっと闇の中に閉じこめられていた自分を助けようとしてくれた飛影を。永遠にここに閉じこめられるかもしれないと思っていたのに。彼は自分のために散ってしまった。助けたい。何が何でも!
「飛影さんーーーーーー!!」
”海里様………”
_______え?
海里は、ふっと後ろを振り返った。もちろん そこには誰もいない。
だが一瞬、彼の耳に、懐かしい、雪消の声が聞こえてきていたのだ。
海里は揺すっていた手を止め、キョロキョロと辺りを見渡した。
「どこ……どこですか?雪消様……!」
影も形も見えない。脳裏に勝手に聞こえた空耳だったのだろうか、この闇ではそれもあり得る。だがそんなことがあれば海里には寂しすぎた。海里は何も見えない闇をさらに感じる。ここにはもううんざりだ。もう絶望なんかしたくない。空耳なんてーー海里は行動を変え何が何でも雪消を見つけだそうとした。
そのとき。海里は、飛影の側に転がっていた氷泪石のヒビが元通りになっていることに気付いた。
さっきまでこの石は二つともヒビだらけだったのに、不思議なことに二つの石は傷ひとつついていない昔の姿に戻っていた。
殺されたときの雪消の涙のように全く光は持っていなかったが、海里は数秒間その石の美しさに見とれていた。
「!」
そうして海里は気付いた。
ーー雪消様はー…。 この石の中だ!
彼女は、黒煙に操られていた海里に殺されて再び死の目に遭おうとしたとき、魂だけが抜け出て、今さっき氷泪石の中に入り込んだのである。
せめて、海里と自分のために割れてしまった飛影の大切なものを元に戻そうとしたのだ。光こそ元に戻せなくても、せめて彼女は自分にできることをやろうとしていた。
でもその石に、光は、ない。さっき海里がかすかに感じた”光”がこの氷泪石だったとしたら、そこからはもう光は生まれてこない。そこから生まれるのは哀しい美しさと…、絶望である。
…何か…何か”光”を………!!
海里は飛影の手に氷泪石を握らせ、それを上から自分自身の手で堅く包んだ。
ひかり。
_______光か…?
これは光!!
光!!?
海里ははっと目を開けた。だがそれはすぐばっと閉じられた。凄まじくカァッとした眩しさを感じたからだ。闇の中に何百年もいた彼は、感じればわずかな光でも目が焼けるように痛むのだ。
だが心は妙に昂揚していた。確実…!光が目の前のどこかで光っている!何の光がーー赤い光だ。
「まさか!」
海里は飛影の顔を見た。そして一瞬のうちに表情が変わった。
飛影の目が開いている!彼の”赤い眼”が、鋭い光を起こしているのだ!
その光は瞬く間に、砕け行きつつあった飛影の体を、氷泪石よりも強力な力でどんどん繋ぎあわせていった。海里は瞬きもしないでそれを見ていた。そしてなんと恐ろしいことことだろう、なんと恐ろしい奇跡だろう、飛影がゆらりと、海里の前に立ち上がったのである!
「……海里か……」
「飛影さんっ!」
海里は座ったまま飛影を見上げた。
さっき海里が感じた光は ”飛影の眼”だったのだ。そのときはまだ目は閉じられていたから 探しても見つからなかったのだ。そして起きようとしていたのは飛影の心。”帰りたい”と一心に思った心だった
生きる目的はない、もう消えてしまえばいいと思っていても、闇の世界に閉じこめられ、その世界で消えてしまいそうになると、たとえ妹との約束が存在していなくても、彼は帰ろうとしただろう。帰りたかったから…。飛影は帰りたかったのだ。地上へーー大切な者達が待っている地へ。
帰りたい気持ちは強いものだ。帰りたければ、それを信じてまた人は生きようとするーー。
雪消の魂で元に戻った氷泪石と、”何が何でも飛影を助けたい”という海里の気持ちが彼を蘇らせたのだ。
闇の世界には「哀しみ」ばかりが溢れているというわけではないようだった。
それの他に、”帰りたい”と”助けたい”という「願い」が存在していたのだ。
もう無駄かもしれないという「絶望感」と、それでも一心に願った「希望」。
二つの思いが絡みつく中、闇の中で赤き眼が光ったのだ。
「…大丈夫だ…海里……。お前達も…必ず地上へ返してやる……」
「飛影さん……!」
飛影は嘘つきだった。けれど、このときは全くの本心であった。本心でこんなことが言えることに飛影と海里は微かに驚いていた。帰れる。と、飛影は思ったのだ。
”帰ろう。”
誰かがそう言って手を伸ばす。そうすればその人は、また生きてゆけるーーー
飛影は、海里の手と二つの氷泪石をしっかり握って、足を踏ん張り上半身にありったけの力を込め始めた。
「はあああーーーーーーーーっっっ!!!!」
彼の声と共に彼の目がぎらぎらと輝き、それはさっきまであれほど強大すぎた大きな闇の世界を、手応えのないビニールを切るかのようにどんどん切断していった。切断して見えた闇の外には何があるのだろう。飛影は、大空に羽ばたく直前の鳥のように、赤いその眼を闇の切り目に向けてしっかりと闇の地に立っていた。
幽助と蔵馬は、驚いたのなんのではなかった。
急に波の音が本当に聞こえ始めて、二人は最初空耳かと思った。しかし いきなりそこら中一帯に強い風が吹き三角草が騒ぎ出したので、何が起こったんだと二人とも立ち上がり崖の下を見下ろした。
二人ともそれなりに目はいい。暗き海をのぞき込むかのようにじいっと見つめた。陸風が背後から冷たく吹き付ける。波が激しく立っているのが二人には感じ取られた。
「……………!」
ふたりとも、もしかして、と思わずにはいられなかった。
すると、いきなり深海で何かが爆発した。地震でも起こったかの様に轟音と共に高い崖の上にまで高波が押し寄せ、幽助と蔵馬はあっという間にそれに飲まれてしまった。
森の木々は水浸しになり、三角草は海水に濡れてしおれてしまった。崖の上で幽助と蔵馬が気がつくと、そこから数メートル離れた森の入口付近に影の様にうずくまっている何かを見つけることが出来た。
彼らがそれに気付くや否や、彼らはその黒い影の元に一瞬のうちに駆けつけた。
その影は、全く微動だにしなかった。
海はまた元の通り、静かに波を立てながら、白い空の星の光をその面(おもて)に映し出していた。
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