その21
飛影の腕の浸食はどんどん進んでいった。だいたい人が一度瞬きをするくらいで、指の一間接間くらいの長さ分の彼の腕が、その場で砂となって消えていって落ちていくのである。落ちた砂は一体どこへ行くのだろうその場ですぐに蒸発し消えていった。この前とは比べものにならないスピードである。目に見えるほどの速さで消えていくなんて。
飛影は、一瞬のうちにいろんなことを考えていた。
”ここで消えるわけにはいかない”ということを。
以前は彼は生きようとは思っていなかった。生きる必要なんてなかったから、消えるなら消えてしまえばいいと思っていた。だが今は違った。消えたくない。消えれば、悲しむ者達がいるから。自分を思ってくれている人がいるから。
辛さと哀しさを教えてくれた海里達のことを思うと彼は消えられなかった。だがそれ以上に、今彼は生きたかった。生きたい。
ずっと生きたかった。
「普通の人ならみな死にかければ生きたいと思うだろう」と人は考える。死に際際になったら人はいつでも 死にたくない、生きたいと誰もが思うと思うであろうと思う。
だが、違う。特に飛影の場合、肉体が一度砂になり、死にかけて、それでやっと蘇生したのに、今度は腕が目に見えるくらいの速さで、指先からどんどん砂になっていっているのである。
普通の人が同じ目に遭ったら、まず腰を抜かす。そして散り散りになってゆく自分の腕を何度も確認する。肘くらいまでが砂になってしまった辺りで、初めて半信半疑ながら恐怖する。まさか全身が消えようとはまだ思わない。肩が消えかけた辺りでいよいよ驚愕、死にたくない、とは思っても、真剣には思わない。心のどこかで まだ生きられると思っているのだ。過信しているのである。だから全部砂となって消えてしまっても、その過信ははまだ続く。つまり 死んでも気付かないのだ。普通の人間は覚悟が足りないが故である。
そのとき命乞いをする人間達はとても醜い…。醜く哀れである。過信しているから、助かるかもと思っているからだ。
だから普通の人間は逆に言うと、そんなに真剣に生きたいと思わない。急な場合死を間近にしてもそれに気付かない。心のどこかで まだまさか死ぬわけはないと甘く思うから。覚悟しないからである。
飛影は…。あらゆるものの”死”を見たことが何度もあった。本当に数え切れないくらいの”死”。その様々な死を見てきた眼で作られた彼の勘が、「放っておけば死ねる」ということにいつも気付くことができた。それはそれで便利であるが、その勘が働いたとき、いつでも彼は死を覚悟する。生きたいか生きたくないかはその時々の気分、だが、たいていなぜか彼は生きていた。生きようと思わなくてもなぜか勝手に生きていた。何故か、それはそのときは、彼はまだ生きる必要があったからだった。目的を持っていたがゆえだったのだ。
だが、違うときは、必要や目的がないときは彼は本当に死にかける。”生きようと思わない”から。
今までは生きてきたが、次そうなったとき、果たして彼は生き残れるのか?それはわからない。死ぬかも知れない。でも、死んだら死んだで彼はそれで後悔しない、だから恐ろしい。
普通の人間達が、死ぬのもわからずに死んでしまうよりははるかにレベルが違う死に方である。
だから確かに立派な死に方ではある。この世を去るのに後悔しないで死ねるというのは。
だが、ものすごく寂しい。
自分が死んでしまっても後悔しない、のだ。
生きる目的、生きる必要があるからこそ何もかも生きている。ないと思っても、まわりが必要としていたり、知らないところで目的が動いていることだってあるのだ。生きる目的はない、だから死ぬ。なんて、寂しいことである。確かにそれもひとつの”死に方”かも知れない…。けれど……。
生きる目的なんて、生きていく過程で初めて見つけるものなんじゃないのか?
止まったら、死んだらそんなもの永遠に見つかりはしないと思う。
彼は生きてきた。
生きる目的、生きる必要があったからだ。その時々の何かが彼を死なせなかった。
今彼が生きる必要があるのは……飛影が…彼自身が生きようと思っているからだった。
闇の世界で光り輝いたときのように彼は強く思っているのである。今彼の体は本当の散り散りの砂になり消えつつある。もう肘くらいまでは砂になってしまった。それは、いくら彼でも修復不可能…左手は、もう戻らない。消えてしまったものを悔やまず、できるだけのことをしなければならない。できるだけのことしたい。彼は”生きたい”のだから。
ーーーーだが、そのためには”代償”というものがいることもある。
それは、何かの目的のために 何かを犠牲にすることだ。犠牲にしなければできないことは 魔界人間界限らずそれはもう沢山ある。普通の人間達が生きるのにだって知らず知らずのうちになにかを代償にしている。たとえば 多くの動植物の命。そのうえで、たくさんの命が成り立っている。犠牲の上で何かが成り立っている。本当に価値があるのかわからないものまでが、何かを犠牲にして成り立っているのだ。ーーそれがこの世のルールだから。
飛影も常に何かを代償にして生きてきた。それは妖力だったり、人生だったり、故郷だったり、大切なものだったりした。今も何かを代償に、犠牲にして生きようとしていた。犠牲にしなければならない状況にあった。生きたいから……。代償にしてきたものは、どれも捨てがたいものばかりだった。いつもその上で何かが成り立っていた。
飛影は全て理解していた。それが運命だから……。今、彼が 犠牲にするものはーー……。
その家にいた誰もが、激変した飛影の妖気をすぐ感じた。皆がその場に駆けつけたのはほぼ同時だったが、最初に駆けつけたのは運悪く雪菜だった。自分を助けようとして海に飛び込み、ボロボロになって帰ってきた飛影を最も心配していたので、一番近くの部屋にいたのだ。雪菜が駆けつけたほぼ一瞬のちに、幽助、蔵馬、ムクロ、桑原が駆けつけた。そして皆部屋の光景にも絶句したが、雪菜がそれを一番最初に見たというのに気付いた瞬間が最も驚愕した。桑原は倒れる雪菜を受け止めた。雪菜をかばいながら、部屋の中央にポツンと正座して座っている飛影に目を向けていた。
飛影は自分の左腕を、肩の少し下の辺りから刀で切り落としていたのだ。
唖然とする皆の前でどんどん血が流れていった。数秒してようやく正気に戻ったらしいムクロが皆を一喝
「止血だ!手伝え!」
と叫び部屋の中に飛び込んだ。皆もその声で目が覚め、包帯や救急用具やなんやらをどこからかどさどさ出してきた。
「飛影、何故こんなことをした!?」
ムクロは手を動かしながら特別きつく飛影を睨んだ。
「……………」
床に落とされた彼の腕の残りは、あっという間に砂になり蒸発していった。だが彼の肩に残った方の腕は血こそ流れど消えはしなかった。
それを確認した飛影は、突然つぶやいた。
「……これでいい………」
「何!?」
「今…腕がまた砂になっていっていたのだ……消えるわけにはいかない……止めなければならない…と思い……切断した…。間違えたか?」
飛影はフッと笑っているようだった。
幽助が止血をし、蔵馬が薬草で消毒や応急処置などをてきぱきと行っていると、室内で風が発生したかと思うくらいのムクロの一撃が、突然飛影の顔に向かってストレートに入った。
蔵馬はあせってふっとばされた飛影を支えた。
殴られて振り返った飛影の眼が、ムクロにはとても辛かった。
今の場合殴らなければならなかったのか、殴らないべきだったのか、それはムクロにはわからなかった。けれど彼女には今すべきことが一体何なのかわからなかったのだ。飛影の言葉にどう対処すればいいのか分からなかった。ムクロは飛影に背を向け、座り込んでうつむいた。飛影も蔵馬も幽助も、そんなムクロの背中を見ていた。桑原は悲痛な顔をして雪菜を支えながら立っていた。もう誰にも何もわからなかった。静かで辛い時間は、音も立てず過ぎていった。
ある晴れた日曜の午後、飛影は墓参りに出かけた。以前雪菜も参ったあの霊園だった。
彼が覗いてみると、そこには髪の長い、雪菜と同じくらいの女の子が座っていた。一度も会ったことのない人間だったが、それが誰なのか飛影にはひと目でわかった。
娘は、飛影に気付くとはにかんで笑い、
「こんにちは……。あなたは…、兄のお知り合いですか?」
と言った。
「直接は知らん。だが恩がある」
飛影は墓に向かって歩いていった。
「兄は…悪くもないのに捕まっていた可哀相なある方を逃がしてあげようとして、見つかって死んでしまったと聞いています。…立派な死に方だと思います」
娘は菊の花を見つめながらつぶやいた。
「…すまなかったな……」
え、と娘はかすかに驚いて飛影を見上げたが、飛影は何も言った覚えはないというような顔をした。
”オレはその捕まっていた奴の保護者だ”とは言う気になれなかった。
飛影は墓石に近づいたかと思うと、意外にも墓には見向きもしないで そのまますたすたと向こうへ行ってしまった。彼の意外な行動に娘がにわかに不思議がると、彼の袖の下に左手がないことに気付き、思わず息をのんでしまった。
飛影はもうそこには来なかった。
飛影は海を見下ろす崖に行き、袖をくしゃっと丸めてそこに何もないことを海にみせびらかした。彼は、これがあの惨劇の結果だとでも言っているようだった。
海はもとのまま静かに波を立たせ平和な午後を楽しんでいた。ここがかつてあんな恐ろしい場所だったということを、何もかもが忘れてしまったかのように。
三角草はただ揺れていた。花はもう散り、これからは周りのシロツメグサだとかオオイヌノフグリだとかの花が咲く季節だった。
人間界は平和な春を迎えていた。
飛影はただその世界の中に立っていた。冬の終わりに置いてきてしまった、左腕を思いながら。
置き去りにしたものはもう戻らない。戻らないことが、その事件のあった証拠。その証拠を飛影はずっと背負って生きていかなくてはならなくなる。後悔はしていない。あのとき左腕を捨てなかったら、もっと大きなものが悲劇の証拠として残ることになっただろうから。
あの後目覚めた雪菜は、飛影の優しい眼とその右下の方にある事実を確認し、黙ったまま泣いた。けれど今は普段通りに生活している。どうしようもなかったことは認めていつも通り優しく飛影に接していた。
一時何もかもわからなくなったムクロも、今では相変わらず憎まれ口を叩く飛影を見てはパトロールにかり出していった。
「哀」の印はもう二度と活動しなかった。あの印はもう完全に彼の体から切り離されたらしい。皆腕のことはもう気にしなかった。飛影が生きていられる、それだけでいいことを改めて確認した。飛影も自分が生きていられればそれでいいと、心境の変化とともに自分が生きていてよかったと思えることを確認していた。
ように見えた。
だが、彼の心の奥底ではそんな思いは全くではないがなかった。
あの悲劇の証拠が、未だに残っているからだった。海里と雪消の哀れな物語がーー、哀れな死を遂げた雪消と、悪しき黒煙に封じ込められた海里のそんな物語が確かに存在したという証拠が残ってしまったのである。
結局、飛影には彼らの消息はつかめなかった。無理もない、彼以外にこの二人のことは誰も知らないのだから。
それも仕方のないことだろうと、飛影は最初割り切って考えてはいた。けれどやはり気になる。本当にあの二人は、無事あそこを脱出できたのだろうか?二人でまた幸せに暮らしているのだろうか?
なんとなく、飛影には,まだ物語が終わっていないような気がした。嫌な予感がして仕方なかった,
芯をなくした彼の左袖が潮風に乗ってひらひら舞った。それと共に踊りでも踊るかのように、地面の三角草達も風に揺れた。
穏やかな春の日に大地を踏みしめ、片腕の戦士は海に臨んだ崖の上に立っていた。風が彼の黒い髪をさわさわと鳴らした。
ーー「雪消三角草」は、まだ終わっていないのか?
水平線にそう問いただしても、もう自分には関係ないとでも言うかのように海は静かで涼しげだった。
左腕がないんだ、証拠はあるんだぞ!と心で叫んでも誰も何も反応しなかった。
「また誰も何も追究しないまま、『雪消三角草』は終わるのか!?」
飛影は悔しそうに力を込めて海に言い放った。なんと空しいことだろう、と重々わかっていたけれど……。
__________いいえ、終わりはしません。
「!!」
雪消の優しい声がした。
ーーーー貴方に悲劇の跡が残っているのに、このままで、この物語は終わったりなどしません。
一瞬だった。一瞬のうちに穏やかだった潮風が渦巻き、小さな台風のように飛影を目にして半径二十メートルくらいをゴウゴウと音を立てながら回り始めた。
飛影は驚いて目を見張った。凄い勢いであったが、彼は中心にいるせいか不思議と心地よかった。風を感じ、そこに生えていた草という草があっという間に舞い上がった。と思ったら、その風に舞う草は、いちばん多くそこに茂っていた三角草だけであった。
ーー三角草はもともと山地に生える植物。これらも、この物語の証拠なのです。
今度は海里の声が風に乗って聞こえてきた。
ーー物語を終わらせます。全ての証拠を消すのです。飛影さん、本当に有難う御座いました。私達はこれから、天界で、静かに暮らしていきます。
ゴウゴウと風が鳴っているのに、飛影には彼の声しか聞こえていなかった。草が辺り一帯を凄い勢いで舞う中、はっと、彼はあることに気がついた。
三角草は風に乗ると散り散りの砂になっていった。そのうちのいくらかは風に乗って消えていったが、そのうちのいくらかは、なんと飛影の左の袖の中へ吸い込まれていくではないか。
飛影は急いで袖をまくった。
三角草の粉は光り輝きながら、どんどん飛影の腕の続きにくっついていった。そして目に見えるくらいの速さで、どんどん飛影の左腕が再生していった。もう肘あたりまでが再生された。辺りを舞う三角草の輝く粉を見て、飛影は海里と雪消の姿を思い浮かべていた。
かつて飛影が闇の世界で何度も起こしたような光と、この輝く三角草の粉はよく似ていた。物語に決着をつけるため、この物語を正式に終わらせるため、皆が必死になっていた。
三角草は次々と粉になり、飛影の腕をかすめると風に舞って高い青い空へ消えていった。この草たちも、海里や雪消のところへ旅立っていくのであろうか。
「…海里……、雪消……、『雪消三角草』………!」
飛影は風が激しく吹き付ける中何か決心をして、どんどん再生されていく左腕を、袖をまくって風の中心に高く高く挙げた。まだ残っている三角草の粉はこの腕のてっぺんめがけてどんどん集まっていった。飛影はこの物語の全てのものを想った。青空めがけて飛んでいく三角草を、飛影はずっと見つめていた。
風はほんの数分でやみ、その後彼の腕は完全に元通りになっていた。
「哀」の印もなかった。
足下から三角草は全て消え失せ、そこに残ったのは小さな春の花たちだけだった。
飛影は左腕と五本の指を確認すると、黒い長袖を元に戻し、再び吹き始めた柔らかい潮風を浴びた。水平線をふっと見つめると、くるりと彼は後ろを向いて、すたすたと街に向かって歩いていった。
雪消三角草の物語は、これでようやく終わった。
そしてまた、新たな物語がその後を引き継いで始まる。生きているのだからそれは確かなことだ。止まらない、進んでいく。
それがいい道であろうと嫌な道であろうと。
ただその節々にいくつかの終わりがあり、そしてまた何かが始まる。人はその中を生きてゆくのである。
今。 人間界は春。 何かを祝福でもするかのように、暖かな日差しが、この街を新しい光で照らし出していた。
END
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