その18
人間界のある森の奥に、三角草がたくさん生えた場所があり、三角草がたくさん生えたところには、昔から氷の精が住んでいるといわれていた。そこに住んでいた氷の精はとても美しい精で、精は名前を「雪消」といった。
雪消は、ある日気まぐれに山から離れて、海を見下ろす崖に来た。
そこで、雪消は「海里」という若者に会った。雪消は美しい精だった。海里も美しい若者だった。二人は恋をし、二人とも、互いを好きになった。
だが海辺には三角草が生えていなかったので、雪消には長い間いられる場所ではなく、しかも雪消は、春の来訪とともに、もうすぐ海から離れなければならなかった。氷の精たちはほんの短い間しか人間界に居られない生き物だった。もともと彼女たちはそういう体質なのだ。
若者も雪消もひどく哀しんだ。種族の違いが哀しくなった。
この時点で、彼らの中にはすでに”哀しみ”が生まれていた。
来年も来ますか、と海里は言い、三角草があれば、と雪消は答えた。
来年、きっとここを三角草の畑にします。だから、必ずまたここに来てください、とまた海里が言った。
わかりました。三角草があれば、またこちらへ必ず来ます。では、ごきげんよう…。と雪消がいうと、雪消は、ふわりと姿を消した。
だが彼女は約束を守れなかった。
彼女は、急いで自分の国へ帰ろうとした。だが春の気に触れ、すでに彼女の体は手の先から徐々に消えていっていた。止めることも出来ず、為す術もなく、彼女はただだんだん消えていく体を見つめていた。
そして考えていた。すでに「死は確実」というところまできていることに気付く。故に帰る途中で
彼女はその場に踏みとどまったのである。彼女は帰ろうとはせず 今来た道を引き返し、海のそばの崖の上に行った。そこで彼女は眼をつぶり ゆっくりそこの空高くまで 果てしなく昇っていったのだ。
天に昇りゆく雪消の体が、手の先や足の先から
砂がこぼれ落ちていくかのようにさらさら輝きながら消えていった。そのかけらひとつひとつは地上に白い名残雪となって、春になりつつある人間界ににちらちら降りていった。なんと哀しき名残雪…。それは海里の家の屋根にも降り積もった。海里は気付かなかったが、まさに彼にとっての”名残雪”だった。
ーーせめて最期のひとかけらでも…少しの間だけでも…海里様の近くに……
居たかった。
それが 生前の雪消の最後の言葉。そうして雪消は、その春に死んだのだ。
そんなことも知らず、海里は三角草を育て続けた。だが、それらは全く育たず、冬を越え、三寒四温の頃になっても,三角草は全く出てこなかった。
だから雪消はもう来てくれないと海里は思った。勘違いをしてはいるが それは哀しくも正しいことだった。だが たとえ三角草が育っていても、雪消は来てくれはしなかっただろう…。そして海里は 早春海に身を投げたのだ。崖についた粗い雪が波にのまれていくように。このとき、彼も死んで正解だったのかもしれない。永遠に逢えない恋人を、永遠に思いながら生きていくよりは…。
運が悪かったのは、彼が天に昇ってゆくとき 他人の肉体を支配するドッペルゲンガーに捕まってしまったことだった。昇天もできず憎しみの心を植え付けられ、えんえんと 暗い海の中へ封印されてしまったのだ。なんてことだろう…。このとき無事に昇天できていれば、彼はあの世で雪消と再会できたであろうに。
誰もこの話に興味を持たなかった。故に誰も彼を助けなかった。誰もがその話を追求しないまま、海里が海に封印されたまま、雪消三角草は終わりを告げていた…。
「もうやめろ。今から、オレが貴様を助けてやる」
初めて気付いたのが、大切なものを失い、取り戻した、飛影だった。
”必ず帰る。だから、泣かずに待っていろ”と、妹と交わした約束…。妹のために、仲間のために、自分のために、体と共に希望が失われていく中で 皆のために彼は”戦おう”と誓ったのだ。普通なら絶望のどん底でそんなことは思えない。だが彼はもうただ消えていくことを許可されていなかったし、全く消えたくなくなった。仲間がいたから。誰かが居たから。もうただでは死ねない、死ぬわけにはいかない。できるだけのことはしなくてはならない。だから誓った 必ず帰ると。存分に戦ってくると。ーーもっとも、彼は実現などできやしないと思っていたが。
もしできるだけあがいて死にたいのならやることは一つ。この物語を”正式に”終わらせる必要があった。
飛影と雪菜を飲み込み、一度海の中へ取り込まれたときは無我夢中で、飛影は思わず若者を攻撃してしまった。
そのときに海里の”哀しみ”の断片が 飛影の腕に深く刻まれた。それを喰らい飛影は身を切られるような痛さを感じ、その後もその印は彼を蝕み続けた。目的をなくして幾年、もともと生きることに執着心もなかった飛影は、防ぐ方法すら見つからないその攻撃を別に止めようとしなかった。むしろ渡りに船、恐ろしくも綺麗に消えたらいいと思っていたのだ。
が、その時は”その時”で今は”今”だった。
死ぬわけにはいかなかった。皆のためにも、自分のためにも。
だから再び海に入り込んだ。我が身を散り散りの砂にして、海里の闇の中へ潜り込んだ。痛さ・辛さ・苦しさの波が渦巻き、それらは容赦なく飛影に襲いかかった。彼はそれらに締め上げられたが、全てを真っ向から受け止めていた。海里の哀しみを知ったから。全て受け止められるとは思っていなかったが、彼はできるだけのことをしたかったのである。できるだけ”消える”ことに抵抗しようとしていた。 飛影の光は とても美しかった。
そして今…。彼は、眼を閉じて闇に沈んでいた。ボロボロの体は再び端から散り散りの砂になってゆく。だがもう飛影は動かない。同じ闇には雪消の無惨な肢体が飛影と同じように横たわっていた。
最初は周り全てが闇、光のかけらなど全く見えず、ただ哀しみだけが渦巻いている闇だった。それに飛影は絶望し、闇にただ浮くことしかできなくなってしまった。
そこに砂粒ほどの”光”が生まれ、それは飛影と共鳴して大きな光となった。闇の世界がそれに気づき さらなる力を彼に覆い被せた。それに押され、彼は小さな光を残し目を閉じてしまった。その小さな光が雪消となり、それは飛影を包み再び大きな光となって闇の世界に輝いた。
だが、それは一瞬のうちに、若者の剣によって消されてしまった。最後に飛影の小さな光が再び灯ったが、それもほとんど力無く、闇の正体を暴いたところで消え失せてしまった。
そして、今の状態が飛影があがいて戦った結果….絶望、希望、そして絶望….光はもう現れない。そうして、残ったものは、”闇”だった。
何もない闇。何もすることができない闇だけが……。
と、誰にも思えた。
そこにもうひとつ残っていたものがあった。
確かに雪消は闇に沈んだ。飛影も動かなくなった。光はもう現れない。闇だけが残った。
と誰にも思えた。
もうひとつ残ったもの。
それは…………
海里だった。
「ここは……」
海里は闇の中で目がさめた。幽かにある記憶の御陰で ここがどこだかぐらいはわかった。だが彼はなかなか状況整理ができない。何より驚いていることがあった。今どうして、自分が”自分の意思で動ける”ようになっているのか?
闇の中に黒煙の塊が見え、その近くでぐったりした何者かが倒れているのが海里の目に映った。その男は闇の中に沈んで 端からだんだん細かい砂になって消えて行きつつあった。
海里の脳裏に一瞬その者の顔が映し出された。名もわかった、彼の名は「飛影」だ。肉体を乗っ取られていたときの記憶も幽かにある。どれだけその人物が自分にとって救われることをしてくれたのかがはっきりと思い出された。この闇の中でものすごい光を放っていた。そして自分の体の中から 彼はあの黒煙の塊を追い出してくれた。どれだけ感謝すべき人物なのかが海里には一瞬で理解できた。
そして、彼は今闇の中に倒れ伏している。今の光景に眼を向ける。飛影は体がだんだん散り散りになって消えていっている。ぴくりとも動かない。それだけでも海里は息をのんだ。 それに加えてその上では、さっきまで自分の体を乗っ取っていた黒い煙の塊が、今まさに飛影を消し去ろうとしているところだった。至福の笑みを浮かべて、最後の一振りを振り下ろそうとしているところだった。
「!!」
反射神経より速く海里は剣を取った。その刹那 彼はこの闇の世界を光も持っていないのに風のように駆けた。
黒煙の塊は後ろからの攻撃にすぐには対処できなかった。次の瞬間、海里の剣により黒煙の塊は なんと上下まっぷたつにきれいに切断されていたのだ。
「ぐはあっっっ!」
闇の世界に恐ろしい声が長く鳴り響く。
「…そ…んなバ…カな……。俺を切れるもの…が…。…あろうはずが……」
そう、普通ならあるはずがない。海里にとってこの黒煙は自分を闇の世界に何百年もの間閉じこめた憎むべき敵、憎しみの塊だった。憎しみの裏には、必ず「哀しみ」が潜むものである。哀しみが残るような剣ではこの黒煙の塊は切れない。奴は哀しみに適応し、生物の体を乗っ取るような能力者だからだ。実際奴は憎まれることしかやらないので いつも誰にも殺されなかった。黒い煙となってまた誰かにのりうつるだけである。そうして奴は今まで生き延びてきたのだ。何もかもを自分のために犠牲にして。
では海里は何故憎しみの敵(かたき)を切れたのか。理由はひとつ、驚いたことに、その剣には、”憎しみ”が全く込められていなかったからだ。
ただ彼に残っている幽かにある記憶が確かなら、何百年もの間誰も助けてくれなかった自分を、救おうとしてくれた飛影に感謝の気持ちが湧き、その飛影が殺されゆくときに黙って見過ごすわけにはいかなかったのだ。恩に報いる、という気持ちもなく、海里はただ飛影を”助けたかった”のである。
「憎しみで切る」のと「助けたくて切る」のとでは全く質が違った。ほんのわずかの紙一重の差だが、全然違うものである。助けたかった、それだけだ。海里の剣は、今や煙さえもまっぷたつにできた。
黒煙の塊は「煙」なので、防御力があまりにも低かった。なにより、飛影や雪消のように全く”光”がなかったので、非力そのものだった。故にいちど攻撃を受ければ必死だった。だから生物の肉体を支配し、その者や周りの者を巻き込んで力を奪い去るのがドッペルゲンガーだった。
飛影の最後の力で追い出されたその煙は、今海里の剣によって、さらなる闇へ封じられた。永遠に。
それはそれはあっけない黒幕の最後だった。
「起きて…ください……。飛影さん…」
海里は飛影を揺り起こそうとした。だが、飛影は全く動く気配もなく、薄汚れた顔にくっきり浮かぶ目はしっかり閉ざされたままだった。
彼の寝顔ーーいや、死に顔といった方が正しいかもーーは、まだ幼く、無念のうちに、何かに命を賭して死んでしまったような顔だった。
海里はぎりぎりと唇をかみしめた。
今ここで、飛影を死なせるわけにはいかなかった。
彼が死ねば、ずっと飛影が危惧していたことが現実になってしまう。かつての雪消や海里のような者が、また増えてしまう。
それに加えて、黒煙が死んだにも関わらず、彼らは未だに”闇”の中に閉じこめられたままだった。だから速やかにここから脱出しなければ、彼らは本当に封印される。これが最後だ。闇の中は静まりかえっていて、なんの光も、暖かさもなかった。
ここで飛影が死ねば、飛影の全ては消え失せて闇の中に閉じこめられる。海里もだ。そしてもう闇に沈んでしまった雪消も。今すぐさっきのような”光”を起こさなければ、もう彼らは闇の中から脱出できなくなる。だが、今海里や雪消には、光を起こす元、”源(みなもと)”を持っていなかった。海里はもともと黒煙に支配されていたのでそんなことはできない。雪消はもう二度も死んでしまって生き返ることはできそうにない、できたとしても、彼女はもう光を起こす”源”を持っていない。もし、光を起こす源があるとしたら、それは飛影の「氷泪石」であろう。 だが…。氷泪石はもう、黒煙を海里の中から出した時点で力を使い果たしていた。ひび割れた二つの氷泪石は、二つとも飛影のそばで、光を放つこともなく転がっていた。そしてその持ち主の飛影は、ぴくりとも動かすただ闇の中に沈んでいた。
「…起きて…。起きてください…飛影さん…」
無駄と思っても、海里は一所懸命に飛影を揺すった。
海里はいよいよ絶望した。こうやって永遠に、彼は飛影を揺すり続けるのかも知れない。闇の中で、永遠に。
「永遠」というのは最も怖いものである。終わりがないのだから。ずっとずっと終わることが出来ないのだから。
哀しみの渦が、再び彼の上に覆い被さってきていた。
それでも、すでに彼にはこれしかできることがなかったから、ずっとずっと揺すっていた。
飛影は動かない。海里も、揺すっている手以外は、全く動いていなかった。
この闇の中では、誰も、何も、することが、できない…。
そのまま、何者も動かないまま、半分停止した時間は、ゆっくりゆっくり 流れていった……。
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