その17
「…雪消…!」
闇の中で、再び時間が止まった。
胸を貫かれた雪消の体、突き立てている鋭い剣、それを握っている海里の手、見つめている飛影の眼、
全てが止まっていた。
海里の手がにわかに震えだした。彼の顔には至福の笑みが浮かんでいる。
憎き氷の精め…貴様など、この闇の世界に永遠に封印されるがいい!!
薄く笑ったまま、海里は剣を引き抜いた。
雪消の細い体は、反動で後ろにゆっくり倒れていった。彼女のしなやかな髪が闇の世界にゆらりと揺れた。
長い髪のすき間から彼女の哀しそうな顔が見えた。眼に涙の玉が在ったが、それにはわずかな光も反射しなかった。
だが…無念そうな顔をしていたが、彼女は海里に刺されるとき、なぜだろう、全く抵抗する様子がなかった。
彼女は、海里に”殺されて欲しかった”のだろうか?
雪消が死んでしまったことも知らず、育たない三角草を植えて、来るはずのない氷の精を待って…。
彼を苦しめたことに報いようとしたのだろうか?
ーー海里様があんなにまで苦しんでいたなら…私は殺されても仕方ないのです。
いえ、いっそ貴方のその剣(つるぎ)で、私の全てを貫いてほしかったーー
雪消は、そう考えていた…。
望まない死の目に遭っても。
闇の中で、醜くなってしまった若者と再会できても。
そう考えて…。
…貴方がそう望んだのなら、私は殺されても構いません………
そう考えて……。
飛影の怒りに呼応し、彼の氷泪石が小さく輝いた。その光を力にして飛影はまさに最後の力を振り絞った。
闇に舞い、闇に溶けつつあった雪消の体を、倒れてしまう直前に飛影が受け止めた。だが、彼には人ひとり受け止める力すらほとんどなかったので、雪消を受け止めたまま勢いをつけて後ろへ倒れてしまった。
彼女の胸の傷口から、しゅうしゅうと黒い煙が吹き出していた。かつて、飛影が夢に見たものと同じ……。
もはや、彼女は地上にいる”美しき氷の精”ではなくなってしまった。
裏切りと、憎しみと、そして、哀しみ……。
彼女の眼に浮かんでいる光のない涙の玉を、飛影は指の先でそっとふき取った。
そしてその指を、彼女の胸の傷口にそっと当てた。
すると、どういうことか、吹き出していた黒い煙は少しずつ消えてゆき、傷口はだんだん塞がれていった。
だが傷は治っても、彼女はもうぴくりとも動かず、さきほどの温かい光も全く灯らなかった。
飛影は彼女の死に顔を眺めた。どう見ても、殺されたことに、全く”満足していない”顔であった。
”貴方がそう望んだのなら、私は殺されても構いません………”
本当か?
飛影の眼に力がこもる。
彼はキッと後ろを振り返った。そこには、闇と同調して浮いている若者・海里がいた。
「私を憎むか。恨むか。いいだろう、私を殺すがよい。私を殺さねば、貴様の光はもう消え失せて、そこの薄汚い小娘と共に、永久に闇の中へ封印してやろうぞ。さあ殺すがよい。早く殺せ」
海里は飛影を挑発した。闇の世界にその声が恐ろしく響いた。海里の声は、再びもとのおぞましい声に戻っていたのだ。
今海里を殺しても、苦しみも憎しみも消えず、雪消の哀しみも消えなくて、やはり残るのはおぞましい闇だけ、今海里を殺せば、闇の世界に居続けなくてはならなくなることが確定するということは飛影には予想できていた。
だが飛影はゆらりと立ち上がり、ボロボロの手で背中にあった剣を握った。そしてふっと、海里の方を睨んだ。
「そうだ。殺すがよい。私を殺さねば、貴様は二度とこの果て無き闇より、外に出ることなどできまいて」
海里は飛影をいかにも惨めそうに見下して、低くおぞましい声のまま高笑った。
だが、飛影は剣を闇の中へ放り投げた。
「なに!?」
驚く海里の前に、飛影はゆらりと近づいた。
「オレを殺せ」
「なっ!?」
飛影はふっと嘲笑した。
「オレの命など、もともとどうでもいいものだ。くれてやる。オレは生きる必要など最初から持っていない…」
海里は意外な展開に驚いた。
飛影の氷泪石にもついにヒビが入り始めた。光が徐々に消えつつある,元々砂粒ほどしかなかった光だ、あと一分と持たないだろう。が、飛影はそれに気付かないふりをし、海里の行動に精神を集中させていた。
「さあ、早く殺れ!」
飛影は眼を閉じ、両手を大きく広げた。
「ぬう、ぬううううう!!!!」
次の瞬間、海里の剣は飛影の体を腹より深く突き刺していた。
飛影の口から赤い血が吹き出た。
彼の腹を通り、背中から突き出た海里の剣は、飛影の赤い血でにじんでいた。
「ぬうううう!!!!!」
「か……かっ…た……な………」
その刹那、飛影の左腕ががしっと素早く海里の首を掴んだ。
「ガッ!!」
海里は突然の飛影の行動に対処しきれなかった。
「正体を現せ!!」
飛影は左腕に力を込めた。手の中にはさりげなく蒼い氷泪石が握られていた。
海里の首で光が破裂した。恐ろしい悲鳴が響いたかと思うと、彼の首はぐるんと三六○度回転し、首に開いた穴から闇より黒き煙がどんどん吹き出した。
海里の肉体は倒れ伏し、黒煙は海里の頭上で塊になり、だんだん生き物の形に変形していった。
「…ドッペルゲンガーか。貴様、妖怪だな…」
黒い塊は妖気を放った。いちばん最初に、飛影と雪菜が波に飲み込まれたときと同じ質のものだった。
「ぐぬう、俺をなぜ見破れた。精神、肉体、貴様の全てをボロボロにしてやったのに」
「人間が…これだけの闇を作り出すことは不可能だ…。こいつの…海里の憎悪に着手し……のりうつったんだろう…。下等妖怪のすることだ…」
「ぐ……」
黒い塊は気圧されしていた。
「…さあ、貴様の死の目が見えてきたな…。この海里とやらの苦しみと…雪消の…無念と…、オレの体…全て元に戻してもらうぜ…」
飛影は口の血を拭き 放り投げた剣を拾いあげ、黒煙の塊に一歩一歩近づいていった。
黒煙の塊は物怖じし、飛影の顔に、少し早い勝利の笑みが浮かんだ。
そのとき。
氷泪石の光が、消えた。
(!!)
「あっっ……!」
同時に飛影の体が倒れ伏した。動かない。手も足も、手から放れて落ちてしまった氷泪石も。
眼だけは幽かに動いて、えんえんと続く闇の世界を感じていた。
今度は黒い塊が嘲笑した。
「クク…だが、やはり貴様はここで死ぬ。いや、死なぬまま、闇の世界を永遠に漂うことになるだろう。この先ずっと、永遠にな」
飛影の赤い眼だけがぎろりと動いていた。ボロボロになっている体は、もはや飛影の意思からはずれてしまっていた。
最初この闇に迷い込んだときのように、彼の肉体があるのかどうか、彼には確認することが出来なくなってしまっていた。
氷泪石の御蔭でせっかく繋がれた体が,再び闇の中に散っていくのが飛影にはわかった。音もなく、光もなくーー…、もしそれがあったとしても、飛影は、それを感じることすら、目の機能も耳の機能も、働かせることすらできなくなってしまっていた。
「無念か?そうだろう、貴様は結局何もできないまま、俺の闇の中に散っていくのだ。俺の闇では、何者も何もすることができないのだからな、はっはっはっはっは!」
その恐ろしい声さえ、耳の機能が停止してしまった飛影にはもはや聞こえていなかった。
さっきの氷泪石の力が最後の力だった彼は、まさにもう何もすることができなかった。
ーーここで…目を閉じてしまったら…オレは…永遠にーー
そこまでが、闇にいた彼の心の中に響いた最後の言葉だった。
ーー人間界のある森の奥に、美しい氷の精がすんでいました。その氷の精は、名前を「雪消」と言いましたーー
「…………」
ーー飛影、貴方はもしかして、自分の身にこれから何が起こるかを、全てわかっているんじゃないんですか?ーー
「…………」
ーー全部消えるのか? 妖気も…。肉体も、霊体も、…魂も?ーー
「…………」
ーー必ず帰る。だから、泣かずに待っていろーー
「…………すまん」
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