雪消三角草

その16



飛影は雪消が現れたのを見届けると、安心したかのように、ふっとその目を閉じた。
 飛影の光が、消えた。
彼の体を支えるものがなくなり、ガクンと彼の体は闇に沈んだ。
そして、その体はなんの躊躇もなく、すうっと闇の中に溶けきろうとしていた。


だが消える直前、その体を素早く支えたものがあった。雪消である。
彼女はボロボロの飛影を自分の光で素早く包み、彼の体を保った。
飛影は意識を失ったままその光の中に浮いた。心地よい光である。飛影は安心して目を閉じていられた。
「…ありがとうございます……。飛影様でしたよね……。お礼申し上げます…」
雪消は静かな優しい口調で言った。飛影は何も反応しなかった。
「……雪消様…」
闇の中に静かな声が響いた。その声は、全くおぞましい哀しい声ではなかった。
この闇が始まってから、今まで一度も響いたことのない、新しい声だった。
すると、闇の中からもうひとつ何者かがすうっと現れた。剣を腰に差し髪を結った若者である。
そう、それが、人間であった頃の海里の姿だった。
彼は この闇に迷い込んできた直後の頃の飛影の様に、全く輝いていなかった。彼は力無く、驚き哀しそうな眼をしていて、かつてのように”美しい若者”ではなかった。
「…海里様……ずっと会いたかったのです………」
雪消は海里に近づいた。
だが海里は、全く表情を変えようとしない。
憎しみと哀しみと疑問が、まだ彼に残って渦巻いていたから。
「…雪消様……なぜあのとき……」

  私に会いに来てくれなかったのですか…?



「ーー私は死んだのです。初めて貴方にお会いし別れました直後に…」
「えっ!?」
海里の表情が初めて変わった。
「死…んだ………?」
海里に”感情”が生まれた。眼に色がついた。ざわっ、と彼の黒い髪が揺れた。
「貴方への未練で、私はすっと海辺にいましたので、人間界は、もう春になりかけていました。
私の体は、温かい空気には全く対応できない体でした。ですから、私の体は春の気に触れて……。
……徐々に消えていったんです…」
海里の顔が、何か恐ろしいものでも見たかのようにこわばり驚愕した。彼の目の前にいるのは、驚愕するべきものではない、世にも美しい氷の精なのに。
”哀れ…な奴だぜ……。か…勘違いで…。自ら…の命を絶つ…と…とは…な……”
「…………!」


雪消の体は、春の気に触れ、手の先から徐々に消えていった。止めることも出来ず、為す術もなく、だんだん消えていく体を思いながら…。死んだ。
海里と別れ、体が消え始めたとき、雪消はいそいで氷の世界へ帰ろうとした。
だが帰る途中で、一体何を思ったか、彼女はその場に踏みとどまった。
”もう、私の「死」は確実……”
ーーなら、せめて最期は…。私が愛したこの人のそばで……。
彼女は帰ろうとせず今来た道を引き返し、海のそばの崖の上に行った。そこで彼女は眼をつぶり、ゆっくり、そこの空高くまで果てしなく昇っていった。
雪消の体が、砂がこぼれ落ちていくかのように、手の先や足の先から、さらさら輝きながら消えていった。
そのかけらひとつひとつは、地上に白い名残雪となってちらちら降りていった。
それは海里の家の屋根にも降り積もった。海里は気付かなかったが、まさに彼にとっての”名残雪”だった。
ーーせめて最期のひとかけらでも…少しの間だけでも…海里様の近くに……
居たかった。
ーーーー…………
雪消は死んだ。この世から消えた。雪が降ったのには気付いたのに、海里はそんなことがあったことすら知らなかった…。
「…雪消様……私は……」
雪消はうつむき、だらりと長い前髪で顔を隠した。口だけが機械のように同じ調子で動いていた。


「貴方を……。苦しめるようなことをしてしまって本当に済みませんでした……」
雪消の気に触れ、闇の世界はすうっと力を失っていった。

ーー雪消…様……



ドクン。
「ッ!!」
闇の中で、その音が再び闇に大きく響いた。
その刹那、雪消は自分の背後から凄まじい闇が放出されていることに気付いた。いや、闇が前の方に吸い込まれていっているのである。
何があるかは知っていた。雪消は後ろを振り返った。宙に浮いている飛影の体である。さっき彼がその体に吸い込んだ闇が、彼女の前の方ーー海里の方に凄まじい勢いで吹き出されているのである。
飛影は相変わらず眼を閉じていて意識がない。彼の意思とは関係なく、闇がそこから吸い出されていっているのである。雪消の前にいる若者・海里の方に。
「海里様!!」
雪消が振り向いたその瞬間、海里の右手が雪消の首をがしっと掴んだ。雪消は驚いて喘ぎ、そして海里の顔を見た。怒りに満ち満ちた顔だった。海里は酷い形相で雪消を睨みつけ、右手にぎりぎりと力を込め雪消の細い首を締め付けた。
「ああ、海里様…。昔貴方に初めてあったあの時とは、貴方は全く別人のようです…。私が…貴方をそんな風にしてしまったのですね…」
雪消は彼の右手を白い両手で握った。けれど彼女はそれを外そうとはしなかった。ただ優しくそれを包み込み、動こうとはしなかった。
そうだ、貴様のせいだ。私は貴様に酷く裏切られたのだ。今、貴様に復讐してやる」
海里の声は憎しみに満ちていた。


ドスッ
「!!」
その瞬間、海里の腰にあった剣が、雪消の華奢(きゃしゃ)な細い体をなんの手加減もなく貫いていた。


ーー海……里……様………。ーー




飛影の目が覚めた。
彼の奇跡的な回復力が、雪消の温かい光の中で養われたのだ。
だがその光も、今の幽かな灯火を最後にすうっと消えそうになっている。
飛影は目の前の光景に眼を見張った。


えぐく、酷く、恐ろしい。
闇にただ浮かんでいるのは、氷の精がなんの抵抗もせず、人間の若者に無惨にも”殺されている”光景だった。





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