その12
闇___________。
そこは、ただ闇だけが支配している世界だった。
音もなく、光もなく、寒さも暖かさもない、ただ闇だけが永遠に広がっている世界だった。
手足がある様には思えない。手足を動かそうにも、動かす機能が見つからない。
暖かさも寒さもなく、何かに触れている感触もないので、そこにそれが在ることを確かめることができない。
恐らく、そんなものはないのだろう。
体があることが確認できない。何も感じないし、それが正しく動いているかどうかもわからない。
命の鼓動も、脈の音さえも感じない。
恐らくそれもないのだろう。
頭があるのかわからない。
目を開いている感じも閉じている感じもない。口の開け閉めもできない。
何も匂わない、何も言えない。何も聞こえない、何も見えない。
だから、頭もきっと存在しないのだろう。
ない。何もない。
その世界に何があるのかわからない。
音もなく、光もなく、暖かさも寒さもない。重力はなく、感触もなく、奥行きは感じられず、自身にできることは何一つ無い。
何も感じられるものがない。ただ広がる闇だけが、そこに「在る」ことができるもの。
そこには、何もなかった。
彼は、一瞬自分が誰なのか忘れかけてしまった。
何も存在しないこの世界しか感じられないものなど、この世にあるのだろうか。
体はなく、心もないかも知れない。動けず、できることがなく、自分がどこかに存在しているのかということさえもわからない。
そんなものがあるのだろうか。自分は”ない”ものなのかも知れなかった。
考える力はほとんどない。浮かんでいるのか、沈んでいるのか、その「もの」自体ないのかも知れない。
自分は、ない。何もない。ただ、闇の世界が広がるのみ……。
いや、何かがあった。それが彼を呼び戻し、彼は自分を取り戻せた。
ただひとつだけ、小さく彼に残されたものがあったのだ。
それは、へばりついた寝雪のように、幽かにある彼の”記憶”だった。
記憶では、彼は”飛影”と呼ばれていた。
生まれたときから呪われていて、疎まれ嫌われ恐れられ、何匹もの妖怪達の血を浴びながら生きてきた。
彼はずっと独りだった。唯一心のやすらぐ氷泪石も、あるとき深い谷底へ吸い込まれていってしまった。
彼は傷つきながらそれを探した…。が、見つからない。見つからない。苦痛に耐え、苦しみながら、彼は探し続けた。
死ぬ直前、それを返されたような覚えがあった。淡い蒼色の光は昔のまま残っていた。
体は切られ血が噴き出し、意識は遠く重体で、その光を眺めながら、薄く開いていた眼を閉じた。
では、彼は死んだのか。いや…。それよりあとの記憶もあるような気がした。
彼は何をしていたのだろう。
なぜこんなところに、彼は漂っているのだろう。闇の世界に閉じこめられているのだろう。
ーーーああ、そうだ、オレはただ一人の妹を助けるために オレの体を消したんだ。
わずかな記憶が、彼をよみがえらせた。
”必ず帰る。だから、泣かずに待っていろ”
そう言った気もした。
では、彼は帰らなければならない。体が消えていき、妖気もどんどん弱まっていっていたときは、きれいさっぱり消えたらいいと考えていたのに、余計なことを言ってしまったものだ。帰れるはずなどないのに。
この闇の世界は、どこまで続いているのかわからない。いや奥行きなどないのかもしれないが、それをはかりとることが彼にはできない。
上も下もなく、動いているのか止まっているのかもわからず、ただ一面が真っ黒で、思考能力は遮られ,できることはなにもない。
何かを感じることができない。動くことができない。考えることができない。自由がない。
なんだか、前にもこんなことがあったような気がした。 ? こんなことが前にもあった?
いつだ。そんなことあるはずがない。確信はないが、こんなところにきたことなどない。
わからないまま、彼はずっと続く闇ばかりを、途方もなく眺めていた。
どこかで音がした。
!? 「音」!? 「音」がこの世界にも存在できるのか。
次いで何かが光った。
「光」だと!?
うなるような音が聞こえ、向こうの方で何かが光っている。彼は自由がないまま、その光になにとなく吸い込まれていった。
ーーああ…。思い出した。
これは、彼が前に見た夢と同じ光景であった。妖怪を剣で貫き、血が吹き出るのを残酷な笑みで待っていると、そこから黒い煙が吹き出し、彼はそれに彼の全てを包まれてしまった。
そのときも、何も聞こえず、何も言えず、何も見えなかった。混乱していると、どこかでなにか音がした。次いで何かが光った。
そちらの方へ煙をかきわけ進んでいくと、彼は光の渦に包まれた。彼が叫び声を上げると、光は消え、目が覚めた。
では、今この光の先にいけば、一体何があるのだろう。
彼はただ流されるままに、光の中に吸い込まれていった。
その刹那、光の強度が急激に増した。その眩しさに彼は眼をつぶった。…眼!? …オレに眼があるのか!?
…いや、それはなかった。瞬きをする筋肉は相変わらず感じられなかった。ではなぜ光がわかったのか。それは恐らく、これは頭の中の”夢”みたいなものなのだろう。
光の向こうは妙に色が新鮮で、雲行きは悪く、波は少しばかり荒れている、さっきいた崖の上だった。
崖の上で誰かが泣いていた。若い人間の男だ。
黒い髪は後ろで結い、腰に刀を差し、袴をはき、地面に伏せてうめき声をあげている。
ーーああ…こいつがあの”海里”とかいう若者か、と飛影は理解した。
「おお、美しき氷の精よ。信じてくれ。私は確かに、貴方のおっしゃった通り、雪の草を植えたのだ。
なぜ育たぬのかはわかりませぬ。育ってほしい、この地に。あの方が好んでらっしゃっる雪の草よ」
よく見るとその若者の眼前には、干からびた根のついた弱々しい草が、二、三本転がっていた。
そしてその崖には、しんしんと雪が降っていた。静かに、静かに、若者の背中に白く落ちては消えていった。
「このように、雪が降っています。もうすぐ二月、名残雪です。この雪が降り止めば、もう春が来てしまいます。
けれど、三角草には春は来ませぬ。花が咲きませぬ。弱く弱く、草めは春に命を取られてしまうのです。
私も草めと同じように、命蝕まれたくあります。貴方が愛したこの草と、同じ運命を辿らせてください」
すると、若者はすっくと立ち上がった。そして、ゆっくり崖の端の方に歩み寄り、波の荒れる濁った海を見下ろした。
飛影は、何も思わずただその光景を眺めていた。若者の眼が閉じられ、そしてその身が宙に飛んだ。
すると突如、辺りが真っ暗になった。もとの闇、かと思うとそうでもなかった。
すさまじく辺りが熱い。そして、飛影にはものすごい重圧がかかっている。重圧がかかるということは、彼には体が残っているのだろうか。しかし、そんなことを考える余裕が彼には全く与えられなかった。
闇の世界一帯にやかましくうめき声が響きわたる。哀しみと憎しみがあふれていて、常人ならあっというまに気が変になりその魂を肉体からもぎ取られていっているだろう。
飛影は苦しんだ。わけのわからぬまま、防ぐ方法の全く見えないその苦痛を為す術もなく受けていた。
あ…あ……。う…う…う……。
ぐるぐる回っているような気がして、彼は冷静さを失った。幽かに、前にもこんなことがあったような気がした。うう、いつだ、一体いつこんな目に遭った!?どうやって元に戻った。こんな苦しみから!?
だが、憎しみと悲しみに充ち満ちた叫び声は飛影の精神を貫き、容赦なく覆い被さる高熱と重圧は飛影の体を締め上げ、そして全く光のないその暗闇は飛影の希望を容赦なく奪い取っていった。
彼は、全く抵抗ができす、その全ての苦しみに翻弄されるがままになっていた。
飛影の全てはボロボロに砕け散った。精神も肉体も、もう彼の力では再生不可能であろう。
粉々になった彼のそのかけらひとつひとつは、全て光のない闇の中に、ばらばらになって吸い込まれていった。
何も、ない。
この闇の世界には、何も「在る」ことができない。その闇の世界からも、飛影は消え失せてしまうのだ。
彼は、はっきりとわかるものを一つだけ見つけた。
自分の意識が、遠く遠くへと、永遠に消えつつあることだけが.…。
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