069◇二の丸屋形の形成
すでに述べたとおり二の丸へ居屋敷を新しく造営したのは、元和5年(1619)7月、大坂から郡山へ移封の松平忠明(1583-
1644)である。それまでの居屋敷は本丸にあり、先代の城主水野勝成が、元和元年7月の移封ののち新築した本丸御殿であ
る。
比較的狭隘な本丸から二の丸へと居館を移す傾向は「元和偃武」を境にしてこの時代の1つの現象であり、諸城に照らしてこ
とさらめずらしいことではない。このことは、本城と称され城郭の機能的な中枢部という軍事的意義から、むしろ「元和偃武」直
後の各大名は“本城は徳川家(幕府)よりの預かり物”という理念の形成から、自らの居館を本丸に置くことを憚って二の丸ほ
かへ移されたものと筆者は指摘しておきたい。
このころ徳川幕府による畿内の諸城の再編のなか、もと豊家の拠点であったにもかかわらず、なおも重要視された郡山城
は、幕府による直轄普請と水野勝成の作事により復活を遂げ、つづいて松平忠明入封による第二期工事がおこなわれるに至
ったのである。
なお、忠明はこの年8月廃城となった伏見城の城門6基を下賜され郡山城へ移築するとともに、居屋敷を新しく二の丸に構え
ている。また、藩政の規模も水野家6万石時代から2倍の12万石余へと増大したので、家中屋敷地の拡張や城下の整備など
も大々的におこなわれたのである。たとえば、城郭東部の三の丸(のち柳澤時代の柳曲輪/13,101坪)を新規に五軒分の
侍屋敷地に充てられたのはこのときで、やがては“五軒屋敷”と呼ばれるようになる。また、忠明は入部の年に改易となった芸
備(広島城)の太守福島正則(1561-1624)の旧家臣を新規に召し抱えて、城下に新しく侍屋敷を設けて住まわせたこともその
1つである。これが“広島丁十六軒”のはじまりとなり、今日もなお町名をとどめている。かくして、近世における郡山城と城下の
結構はこの忠明時代には概ね定まったのである。
070◇二の丸屋形の絵図
二の丸屋形の構成・規模を知るうえで「御住居木口下絵図 安政五午年十二月下旬」(注1.)は一級の史料である。このほか
二の丸屋形の絵図が3点ばかりあるほか、補足史料として、城内でおこなわれる儀式の座席や行動を記した“要図”と称され
る絵図類がいくつかある。
これらの絵図はいずれも柳澤家藩政期のものであるが、中でももっとも古いと考察される「ニノ丸屋形図」(注2.」)のほか、次
いで「二ノ丸の圖」(注3.)、そして、御住居木口下絵図、また、「郡山御城之図」(木版摺物/注4.)や、明治以後の「郡山城郭
絵図及元県庁知事邸絵図」(注5.)も参考になる。なお、要図類の主なものは「諸絵図入(穴山家)」(注6.)と「御用人勤所々御
座舗之圖(藪田家)」(注7.)である。
前述の安政5年(1858)12月下旬の下絵図は、同月1日の失火による二の丸屋形の全焼後、ただちに再建のためこしらえら
れた公儀御用番老中へ提出用の下絵図(指図)の控えである。また、二ノ丸屋形図は藩御用材木商に伝来した指図から製版
されたもので、室名に誤植がおびただしく認められるものの、各詰所の名称から柳澤時代のものと解る。それは藩の職制に照
らせば一目瞭然のことである。次の二ノ丸の図は、いわゆる建築に用いられるような指図(縮図)ではなく、城絵図類ではめず
らしく城内の諸建物までの詳細を描写した絵図の部分をトリミングして挿図とされたもので、二の丸屋形ばかりでなく緑曲輪の
平面の一部をも垣間見ることができる。次の郡山御城之図は、木版による俯瞰図で、在りし日の郡山城の姿を映した摺り物と
して相当量流布した絵図であろう。おそらくは明治以後に造版されたものであろう。
さらに、郡山城郭絵図及元県庁知事邸絵図のうち「元郡山縣廳絵圖」は、明治4年(1871)7月の廃藩置県により、郡山県知
事となった柳澤保申時代に県庁舎と知事邸宅として改修された旧二の丸屋形の略図ではあるが、約二分(6.606o)を一坪と
した縮図であり、やがて明治6年3月の売却・払い下げ処分に付される直前の旧二の丸屋形を検証することができる貴重な史
料となっている。
こうした絵図・指図は城主の交代ごとに、城郭図や城記などのほか、主要建物の絵図や目録一式は、公儀を介して引き継が
れる。畿内の雄藩のなかでも郡山藩は、近世において、水野・松平・本多・松平・本多・柳澤の六家と、しきりに城主の交代が
おこなわれた。こうした史料も移封となった城主家とともに転封地へ移動することになり、また、この地において絶家したため多
く残された先代の本多家史料や、明治維新をこの地で迎えた柳澤家史料など、ともに近代における史料焼失・滅失・散逸はこ
とさらの傾向である。
71◇屋形の規模
享保8年御家断絶の憂き目にあった本多(忠烈)家から公儀に明け渡された郡山城は、翌年6月7日、この間の城番を務め
た篠山城主松平信苓(形原氏/1695-1763)の名のもと、公儀引渡役の大森半七郎(大坂目付使番)・堀彦十郎(二条城在
番与力)の両使から柳澤家に渡され、ここ二の丸屋形は、家老柳澤権太夫ほか6名が受取方となり、二の丸屋形、玄関前(表
門)、裏門の鍵3本は目録とともに、家臣村田源之進・大宮治左衛門および同心2人により受け取られている(注8.)。
本多時代の二の丸居屋敷の床面積は、表向きの広間・大書院・小書院などの座敷回りや藩主の居間および勝手向き、吟味
所など台所向き、それに奥向きの座敷回り(喜十郎(忠烈)部屋など)、そのほか表長屋、番所、腰掛、台所向きの物置、庭方
預かりの物置、小書院前の涼所、土蔵三か所などを合わせて1012坪2合5夕であった。二の丸屋形の敷地は3,651坪半
で、平均して南北45間、東西77間と、居屋敷としてそんなに余裕のある面積ではないことがわかる。
そうしてみれば、二の丸に居屋敷を新造した松平忠明以後、領地の大小を問わず、居屋敷のある二の丸の敷地に変化は無
かったし、また、居館の規模や構成も曲輪の地形に影響されて大同小異と言えそうだ。とは言ってもやはり藩庁でもある居屋
敷は、各家の職制に則り、各室はともに有機的な機能をもって、かつ、巧妙に配置されていたといえる。また、傾向として奥向
き建物に変化が顕著であって、表向き諸建物は変化にとぼしい。このことは城主の家族構成が時代により大きく変化するから
にほかならない。
以上これまでに述べた各絵図類から読みとれる屋形の平面規模は、能舞台や釜屋の有無、奥向きに少しの変化は認められ
るもののそれは比較的大規模なものではないといえる。ところが、前述の郡山城郭絵図及元県庁知事邸絵図のうち「元郡山
縣廳絵圖」は、表長屋のほか玄関のほか鑓の間や溜の間にも新規の入り口が設けられ、中ノ口にも大きな上り段が増設され
ている。さらに、東の菊畑奥との間に通用門が新設され、門衛所らしき小建物と、もと能舞台跡に“奥の座敷と玄関”が新設さ
れている。一方、知事公舎の方は著しく縮小され、もとの御末の間御錠口に玄関が取りつけられ、座敷も、もと藩主の奥居間・
奥舞台・寝所と付属の建物以外すべて取り払われて、県庁舎として大改造されている。
こうして、明治4年(1871)7月の廃藩置県により二の丸屋形に設置された県庁舎は、やがて明治4年(1871)11月、早くも
大和国内の諸県は廃止され、郡山県は奈良県に編入されたため、わずか4か月余日の郡山県政であった。そして、残務引き
継ぎを終え東京にあった郡山県出張所が閉鎖されたのは翌5年2月であった。
072◇柳澤郡山藩の分限、職制
二の丸屋形を述べるうえで避けて通れないのが、藩の職制(分限)である。
大名柳澤家の分限・職制は、柳澤吉保によって定められた。その特徴は公儀職制の根幹となった「庄屋仕立」のミニ版とでも
いえるほどよく似ている。管見によれば、このことは吉保が御側御用人という公儀要職であったことと深く関わりあるものであ
り、他家のことは知らず、徹底した奉公(主忠信)を旨とした吉保公一流の深い思慮の所産として、藩の職制にも反映されてい
て然るべしと考えるからである。
それでは、1868年の郡山藩『分限帳の上・中・下』の各巻(綴本/注9.)による72の席次ならびに格席をここに紹介してお
く。
“上の巻”の席次は、一族・家老・家老格・城代・添城代・大寄合・年寄衆・年寄並・寄合衆・御用人衆・御用人並・寺社奉行・
番頭・旗奉行・鑓奉行までの15席(66人)は、格席上、「銀馬代」である。
つづいて、御用達・奏者番・大目附・郡代・郡代並・町奉行・留守居役・御用達並・持頭・弓鉄砲頭(物頭・武頭と称したときも
ある。)の10席(47人)までは、格席が「独礼」。
寄合並・奥御用達・御側用役・留守居介役・京都留守居・大坂留守居・御使番・近習取次役・目付・郡代格・普請奉行・勘定
奉行・台所頭・御金奉行・書院詰・徒頭・広式御用役・番方組頭・御側詰・松之間詰・松之間席・長柄頭・大近習組・総医師・茶
道・医師並・納戸役・馬廻組・馬廻席・徒目付組頭・大小姓組・大小姓席・大小姓並までの33席(704人)は、格席上「月並み
祝儀屋形へ出仕御機嫌伺」で“御目見以上”の家格ということになる。“上の巻”の合計は58席、817人となっている。
“中の巻”には、徒目付・相之間・勘定衆・勘定衆並・総与力・徒士・徒士並の7席があり、格席上は「諸士」と称し、“御目見
以下”の家格である。“中の巻”の総人数は311人である。
“下の巻”には、小給人・代官手代・国坊主・江戸坊主・国坊主格・江戸坊主格・針立座頭のでの7段階で、格は「席外」とな
っている。人数は262人である。
このほか、奥女中(江戸は中奥附女中と称した。)の分限として、年寄・中老・御側・御側格・小姓・物縫・御次までが“御目見
以上”(比定)。茶之間・茶之間格・中居・半下(はした)・又半下のまでの12の職名(18人)があった。
それに組之者・中間を加えると1,214人で、ここへ各席の隠居(73人)、合力、扶持米を与えた者、出入扶持の者、御目見
町医までの158人を入れると2762人ということになる。そのうちには国元と江戸詰・役席と小普請・兼役・臨時雇いなどの区
別がある。それに家禄・扶持・役料・勤料・勤金と、奥女中には彩銀・諸色物銀、暮れ渡しの椀代銀・塩物代鐚、扶持(男・女扶
持)などが詳しく書き入れてある。
そして、支配の別(機構)となるが、詳しい職制の解析は紙幅を大幅に占めるので、ここでは略して記さないが、これをもって
江戸時代末期の郡山藩の分限の大要はつかんでいただけるものと思う。
073◇屋形の構成
二の丸屋形の構成は、おおむね5つの部分からなる。すなわち、表向き・役所向き・台所向き・中奥向き(“中奥”の呼称は、
江戸のみで国元に無い呼称であるが筆者が便宜上私に用いている)、そして、奥向きの5つの部分に大別できる。 なお、例に
よって「二の丸屋形絵図」↓をこしらえておいたので参照いただきたい。
ここに示した5つの区分は絵図のなかでも反映してある。すなわち、当該建物群およびそれに付属する庭などをエリアごとに
色彩を変えて表している。ただし、奥向きは一括して表現せず、広式の役所部分と奥女中の詰所などの部分、さらに、藩主居
所と家族居所の別およびその庭、奥女中の詰めた長局や長屋およびその庭は、少しずつ色を変えて見やすくしたつもりであ
る。以上を二の丸屋形絵図の例言に代えたい。それでは屋形の概要を次に記しておく。
@ 表向きの関門は、いうまでもなく表門(薬医門)で、ここから表門番所を通過すれば玄関に至る。玄関から表向きの建物群
が、松の間、大書院、小書院、折入の間、それに鑓の間および溜の間と建ち並んでいた。これらの諸室のうち公式の対面所で
ある大書院を中心に、機能的に配置された表向きの各室は、藩の格制に則り、家臣の家格による詰所などとなるほか、式日
の座席となる部分からなっている。
典礼などは藩法である「御定」(前出)によって規定され、時代を経て改正されつつ推移したので、その変化にも注意を要す
る。家中の各職は、御定にしたがい役職個々の“勤方留書”をこしらえ、また、前任者から借りて書き写し、勤務に遺漏の無い
ようマニュアルをつくっていた。一例をとってみよう。藩主在国の年、正月3が日を“大法式”というが、この3が日は表向きの各
室において、格式に法って“年始御礼”が挙行される。“御上段御礼”は、藩主が大書院上段の間に“出御”着座のうえ、家老
より御側御用までの者が年頭の御礼を申し上げる。このときの作法が規定されたのが御定で、「御下段御敷居際より三畳目
において御家老共一人ずつ罷出、御年始の御礼を申上げる」といつた具合である。これに対して藩主からは“めでたい!”と言
葉を添え「御手熨斗(あわび)下され候事」となる。あとは“御立掛ヶ”(藩主が各室をめぐり立ったまま祝辞を受ける。)で家臣に
対顔する。ここに出席できる家格が、いわゆる“御目見以上”である。以下略して詳しくはのべないが、一事が万事このような
調子で、現代人がまつたくと言っていいほど失ってしまった基本的な礼儀・作法はこの時代の常識であり、それは厳しいもので
あった。もちろん、藩には礼儀・作法には“躾(しつけ)方がいるし、こうした典礼には奏者番が進献・下賜の介添えや披露、ま
た、重大な典礼には事前の習礼(しゅうらい/予行演習)などをおこなっていたのである。
少し能舞台のことについて触れておこう。郡山城の能舞台(詳細図は「目安箱」の06参照)は、折入の間をその“見所”として
設えられてあり、位置は小書院の奥から鏡の間へと廊下により通じていた。ほかに奥向きに奥舞台という板張りの部屋があ
り、藩主の能稽古の場として使われたと考えられる。郡山城における能舞台は、ことに式楽を好んだ郡山藩中興の祖と称えら
れる三代柳澤保光(堯山)により、ここ二の丸屋形に新築されたといってよい建物である。これにより四代藩主保泰もことに能を
好んでよくたしなんだことが知られている。
柳澤家の式楽宝生流の淵源は、やはり柳澤吉保に由来することが解る。五代将軍綱吉は武家の式楽である能狂言をことの
ほか好み、中でも綱吉の“宝生贔屓”は有名な話である。当時、神田橋内(千代田区大手町)柳澤邸内の綱吉行殿によく御成
りをしたことは史実として著聞であるが、柳澤邸58度の御成りには必ずと言っていいほど能狂言を催し、老中・若年寄などの
ほか御供の者の居並ぶなか、能五番から“しびり”の狂言まで演じられたのである。また、綱吉自身が演ずることしばしばで、
吉保や家臣も綱吉の相手を勤めた。吉保の二男でのち甲斐国主となった吉里も、わけて能をよくして綱吉も舌を巻くほどであっ
たという。
A 役所向き(図中アイボリー)へは、家格により定めがあって家老から年寄衆までは表門から、そのほかは表長屋(長さ37
間)にある裏門から屋形内へ進み、ともに“中ノ口”から入って、小人目附詰所前から溜の間を経て各役所へ進む。
役所向きは、この時代の政治の代名詞となった御用部屋(御用番家老の詰所)を中心として、年寄・番頭・大目附・郡代・目
付などの詰所と御用金方役所や大役所(大部屋)が表向きの近くに配置され、御用人・御用達などの詰所と納戸方・日記方な
どは、藩主の執務室である表居間に比較的近いところに配置されたていた。
ところで「二の丸屋形絵図」↑のなかに御用部屋が2か所(図中朱色部分)あることに気付かれたと思う。1つは大書院棟の
なかに御用部屋と二の間、それに御用部屋祐筆詰所が付随した部分、今1つは大役所棟と折入の間の中ほどにも御用部屋
と年寄詰所、そして御用部屋祐筆詰所がある。それではなぜ2か所に御用部屋が設えてあったのだろうか。それは参勤交代
の制に起因しており、藩主が留守の年と在国の年の区別が生じるためである。つまり、藩主の留守年には中奥向きがほとん
ど空室同然の状態になるからである(C中奥参照)。ということで、留守年には表向き近くの御用部屋が使用されることにな
る。位置関係も主要な事務を処理する大役所が、両御用部屋の中間に位置していることが解る。
B 台所向きは、台所頭詰所・吟味所・賄方役所・買物詰所・中間頭詰所・酒造方詰所・時計の間などに台所、釜屋が付属す
る。台所棟は防火のため屋根は瓦葺となっていたし、釜屋も同じであるが、ここはあとから新設された建物の1つで常時火の
気のある建物として防火の観点から別棟とされたものである。郡山城の場合、表の台所には料理所施設は無く、奥向き近くの
広式の一部として料理所が置かれていた。調理されたものをここから台所に運び、台所で膳立てのうえ、温めなおして鬼役が
毒見のうえ各所に給食(配膳)されたのである。
なお、表には調製された料理を速やかに目的の部屋へ搬入できるよう1つの仕組みが凝らされていた。大役所の左側(西)
に土間廊下(図中ねずみ色)が台所から御用部屋祐筆詰所までクランク状につづいているのがそれである。この祐筆詰所は中
奥や表向きに近い位置にあることから、この方面への通路(抜け道)として設えてあった。なお、この土間廊下も安政5年二の
丸屋形焼失後、新たに設けられた部分である。
C 中奥向きは、藩主の執務室でもあった表の居間を中心に二の間・小座敷・御次・御側詰所・台子、それに仏間と神棚があ
る祠堂と、奥への御錠口と藩主専用の渡り廊下(駕籠廊下)である鈴廊下など付属の建物がある。
D 奥向きには、奥の役所である広式があり、広式玄関から、広式同心部屋・広式番詰所・医師詰所・広式用役詰所・奥御用
達詰所などがあり、別棟に料理所があって料理人詰所などのほか“くど”や“水流”などの厨房がある。広式から御末の間との
大戸は、御錠口でここから奥へは、通常の場合男子禁制であった。
藩主の起居する奥居間(“御二階”付き)・小座敷。寝所・奥舞台・寄付(よりつき)の間・御次・台子・八窓の茶室、それに湯
殿などの付属建物があった。そのほか藩主の精神生活の場であった達磨堂や二畳中板などが奥の一角にあった。なお、奥の
中庭に「御納戸」と付属の建物があったが、これまた安政焼失ののち無くなったところである。
家族の部屋には、北部屋と西部屋があり、また、奥女中(御側女中・中老)の詰所であった長局と、御次女中や御半下など
が詰めた表長屋(部分)のがあった。
074◇屋形の全焼
安政5年(1858)12月1日の昼七つ時(午後3時頃)、二の丸屋形から出火して折からの南西の風にあおられて屋形はみる
みる全焼している。この飛び火で五軒屋敷のうち2軒と、この火がさらに茶園場(東北約300m)の侍屋敷1軒にも飛び火する
という大火であった。
藩では速やかに公儀へ届けをして、入箇方年寄の青木藤兵衛・設楽到、奥御用人桑原集、大目附桃井勇記、勘定奉行和
田忠兵衛など12名を“御屋形新規建替御用掛”に任命し、“新規御建替材木方御用達・柿御屋根惣御請負方(手元棟梁車町
檜皮屋平蔵)”には柳町御用材木商三村(木屋)清兵衛善英を選定、早速再建に着手している。
この月の下旬には下絵図(前述)もでき、公儀に対し翌年5月22日付け拝借金30000両を願い出ている。安政2年の大地
震による江戸藩邸の焼失やその後領分の大風雨・凶作、公儀勤方の異国船渡来や京都守護などを事由として願い出たもの
であった。やがて、安政7年(3月萬延と改元)2月26日、公儀から呼び出しがあって、江戸城西の丸雉子溜において(安政5
年10月失火による江戸城本丸普請中による)、大老井伊直弼(1815-60)ほか老中列座のうえ松平(柳澤)時之助(のち保申
/このとき10歳)名代柳澤光昭(越後黒川藩主/-1900)に御用番老中安藤信正(初名信睦/1819-71)より言い渡しがあ
り、5000両の拝借と決している。30000両の願いに対し六分の一の5000両は少ないようにみる向きもあるかと思うが、幕
政に限らず先規・先例主義(ある意味で今日も同じ。)一点張りの江戸時代のこと、ことに過不足の無いよう合理的に執行され
ていた。郡山藩においても、この4年前の嘉永7年(1854/11月27日「安政」と改元)の2度にわたる大地震による郡山城の住
居向き・櫓・多聞などが大破の被害を受けたが、このときも拝借金は5000両であった(翌2年6月24日申し渡し)。
屋形新規建替御用掛の青木藤兵衛以下は領分村々には御用金(借用銀)や資材の献納を勧めるなど入箇の調達に務めて
いる。献納の資材は大和・河内(旧(領)知)の大庄屋10人から桧の柱1,000本、代(領)知総代から杉板200坪、領分村々
からは綱3,732貫400目、筵100枚、竹1,320貫目、スサ6貫目入57俵などであった。
かくして、大書院・松の間・玄関は、文久元年(1861)11月14日の吉祥日をえらんで上棟の儀が挙行された。上棟幣串(注
10.)には普請奉行中澤小三兵衛・鎌原丈右衛門ほか下役など工事関係者の名が記されている。また、翌2年以後には表具
屋六兵衛・三村清兵衛推挙の絵師狩野秀信が書院など障壁を手がけ、ほどなく表向きの建物は完成した。なお、中奥・役所・
台所向きや奥向きも逐次完成したのである。この間、役所向きなどは、評定所や使者屋敷・代官所・家中屋敷などに仮役所を
移し、奥向きは、西屋敷・梅屋敷などに移されていたものと考えられる。
ところが最大の問題は、二の丸屋形とともに灰燼に帰した藩の公文書類で、“御用部屋日記”をはじめとする重要な記録の
復元を急がなければ、藩政に滞りが出来てしまう。藩庁ではこれが復元を緊急課題として、各職宛通達を出して、各家・各職
に残る文書類の目録を提出するよう対策を講じている(注11.)。このとき藩主の公用記録の「附記」なども再調製された部分も
あったに違いない。現に郡山四代藩主柳澤保泰公の「垂裕堂年録」だけでなく、五代の保興、六代保申の年録も残されてはい
ないのである。わずかに、保泰代の家督の年、文化8年(1811)から文政9年(1826)までの58巻(綴本/文政2年、同3年の
ほかに欠本がある。)の“附記”が現存して貴重な史料となっている。これら藩主の公用日録はその本体である年録について
は江戸の年録御用掛荻生惣右衛門鳳鳴(金谷の養子/天祐)のもとにおいて作成、“附記”は国元郡山で作成されていたの
である。このようにして藩庁の公文書の一定部分は復元できたものと考えられるものの、何事も手書きの時代のこと、想像する
だけでも気の遠くなるような作業であっただろう。
ちょうど屋形の新規建替が進捗するなか、文久3年(1863)には“天誅組事件”が勃発して、同年8月26日には郡山藩も追
討のため出兵している。そして、大政奉還・王政復古まであと4年たらずと、新しい時代の大きなうねりが少しずつ押し寄せて
いたころの出来事である。
075◇焼失前の屋形
郡山五代藩主柳澤保興(1815-48)は、父保泰(1782-1838)の病死により、天保9年(1838)7月12日家を継いだ。そして、
この年9月に入部(京廻り)している。このときの主な供回りは、家老平岡宇右衛門をはじめ、奥年寄渡辺三左衛門、御用人浜
田小十郎、目付の山寺妙之助・山本段兵衛の面々であった(行列の人数は約600人点程度か)。
入部の行列は9月16日、近江石場(滋賀県大津市)の本陣に休足、ここで先規の例(京廻り)により当時、近江藩領の大庄
屋格百々五兵衛ほか海津・浅井・高島・金堂手の村々をまとめる庄屋(帯刀人)らの出迎え“御家督恐悦”を受けている。
やがて、郡山へおもむいて“恐悦申上度”願いが許可され、11月8日付け郡山に先行していた海津代官今中幸右衛門から、
自身の郡山旅宿となった御使者宿へ23日に出頭するよう急回状を受けている。郡山へ出向くメンバーは、浅井郡(浅井手)の
大庄屋格大浜太郎兵衛、帯刀人(藩呉服所)横田佐兵衛、高島郡(海津手)の大庄屋格大村五郎左衛門、帯刀人角野藤右
衛門・足立新次郎・足立太右衛門からなる6名で、一行は申し合わせて11月19日に近江を出立することになった。そして、2
0日大津泊、21日未明に出立して京へ出る。途中の小関越え(大津市)では、霜で一面に白く染まった山々を見て、“常盤な
る松もさくらもおしなべて雪と見るまでふれる霜かな”と詠って和歌に郡山行きの感慨をこめている。詠み人は一行の足立太右
衛門(蒲生郡香ノ庄村)である。当時、大庄屋や帯刀人といえば領分村々を束ねる人格・器量はもちろん、持てる豊かな財力
(近江商人)とともに、優れた文化人としてそのたしなみは一通りではなかったのである。
一行は22日玉水の竹屋に宿泊、翌4日目の 23日、七つ半(午前5時)に出立、四つ時(午前10時頃)郡山着、鍛冶町畳屋
治兵衛方(大門内西側9軒目)に止宿を定め、ただちに柳町一丁目の御使者宿(代官旅宿)へ到着の届けを無事終えている。
25日には金堂手の帯刀人水口作兵衛・中川市次郎らと合流し、先ず、二の丸屋形の式台に口上書をもって到着と御礼を述
べている。そして、28日に登城との内意をうけた一同は、26日には柳澤家の菩提所の龍華山永慶寺へ参拝したい旨を願い
出たところ、内々参詣を許されて家臣岡田良兵衛・岡弥五次の案内で、柳門前から五左衛門坂へのルートで龍華山に参詣し
ている。本堂に参拝した一行は柳澤吉保筆の永慶寺の大扁額を拝見、時の方丈(住職)諦道和尚の案内で、本堂に参拝、座
敷・茶の間などにも案内され、開山は黄檗八代の悦峰道章であることなどを聞いている。
また、翌27日は一同にとって願ってもない春日祭礼の当日で、早速許可を得て見物に出かけている。春日祭礼は、7度参ら
なければ全部は見ることが出来ないと聞いていたので精力的に見物、大門前の“下之渡”、鳥居前の“上之渡”を見物、ことに
鳥居口の郡山・藤堂・高取・小泉の桟敷の有様を観てその勇ましさに感服して、なおも、“四座の猿楽”や馬場の駆け馬など勇
壮・多彩な“御祭り”(おんまつり)を見物できて、一同はこれもこのたびの御入部の御蔭と歓喜している。
前置きが長くなったが、いよいよ本題の登城の日28日の話題に移る。
朝正六つ時(6時頃)宿から裃を身につけて家臣岡田良兵衛の案内で、柳門へ入り鉄門を通過、二の丸屋形前の坂道を堀
向こうの本丸の諸櫓を望みながらその堅固さに驚きつつ、西方の厩前から天守台を拝見、それより屋形の裏門から中ノ口内に
入り、鑓の間でしばしの休息には、寒い日であったようで火鉢がたいさん出ている。
午前9時、会場の鑓の間の東を上座として、一同の座席も定まり近江・大和・河内の大庄屋格、庄屋・帯刀人ならびに御用
達を合わせて250人余りの人々であった。ところがあいにく藩主保興が風邪(病弱)のため出御はなく,家老取次の祝儀言上と
いうことになった。式の次第は、一同平伏のところ奏者番より執り成しの披露があり、郡代岡野祖右衛門が一同を代表して、御
入部御祝儀を申し上げ、これに対し取り次ぎに出座した家老松平但見から“御口上、よろしく申し上げましょう”とあいさつとの
言葉があった。
式のあと郡代渡辺蔵之介よりお酒を頂戴、次に御用金役所の鞘の間(入側廊下)において近江の人々には、年寄茂木藤
助、入箇方樋口小源太に対顔、挨拶ののち年来の働き金出精に感謝とねぎらいと今後も引きつづきよろしくとの言葉があっ
た。
そして、いよいよ“御座敷拝見”となり金堂代官深井喜右衛門ほか2人が先立ちの案内に立つ。
鑓の間から拭い板張りの広廊下を広間前から奥の松の間前へ、松の間には正面の大床に御朱印入の長持(朱印・黒印・判
物・領地目録など)が置いてあり、床の張付は松の絵が画かれてある。そして、取付之間を通り大書院へ進むとそこは幅1間
半の畳敷きの入側、そして、北の間(三の間)には松の画が、中の間(二の間)は桜、南の間(一の間)は竹の障壁画で埋め
尽くされ、画師は狩野山楽の筆になるもので、いずれの座敷も18畳敷きとなっている。南の間の奥には東向きに上段の間が
あり、すべて金の障子で、大書院も同様である。上段の間は二段で、右側に帳台襖と袋棚があり、左側に床の間と出書院が
ついていて、床の間の三幅対の掛け物は狩野探幽の筆になるもので、右に“桐鳳凰”、中に“宝来山”、左に“松麒麟”の画で
ある。
それより左手に進むと小書院があり、庭には殿様の稽古所があってそこは板の間となっている。その奥には能舞台があっ
て、破風(屋根の妻)には“小尉”の面が掲げられているなど、一同は実に見事なものであると感心している。
さて、鑓の間にもどった一同は、御殿を下って山之手(侍町の町名/矢田筋)にある大和代官所でゆるりとお酒・お料理を頂
戴した。やがて、一同は家老・年寄・入箇方年寄・大目附・郡代・勘定奉行・海津代官・金堂代官・御殿詰組頭などの関係者2
5人の宅へ御礼回りの挨拶をこの日の内にすませて、翌29日に一行は郡山を出立、12月2日には近江へ帰村して今回の
“入部恐悦”の旅を終えている。
以上は、五代藩主保興の入部に際しておこなわれた儀礼であるが、藩がいかに領分大庄屋・帯刀人(庄屋)に対して処遇
し、また領分村々を代表する人々がどのように行動していたかがよくわかる。ここでは二の丸屋形に視点を置いて、原史料を尊
重しつつ私に、その焼失前の有様を紹介したものである(注12.)。
余談になるが、ここで現れる能舞台の屋根の妻(正面)に掲げられた“小尉”の面(おもて)に関して、こだわって故実など存
在しないものか色々と調べてみたが現在のところ不明である。
076◇郡山城三重櫓
二の丸には多聞櫓などを伴わない単立の櫓が2か所ある。1つは坤櫓(写真↓)で、その規模は下重の平面が3間に3間
半、上重が2間四方(棟東西)である。窓7か所、鉄砲狭間24か所となっている。名称のとおり二の丸の坤(南西)隅に舟入
(堀)と鷺池堀の両堀に臨んだ台上に建ち、櫓下の石垣の高さは4間半あった。
今1つの櫓は、二の丸屋形の折入の間の前で、能舞台の後方にあった砂子の間前櫓(写真↓)である。その規模は下重が
3間に5間、中重が同じく3間に5間で、上重が2間半に3間(棟東西)あった。櫓下の石垣の高さは4間1尺5寸である。ただ
し、三重の櫓でありながら屋根は二重であったから、外観上は二重にしか見えなかっただろう。公儀への配慮があったかも知
れないが、建物の高さは他の二重櫓よりは腰高にならざるを得ないので、二の丸屋形の東の突端に建つ位置から城下までの
高低差は約16mはあるので、その上に三階の櫓が建っていたのだから城下町や遠方からも一際高く見える櫓である。
高い建物やその近くにはよく落雷がある。宝暦12年(1762)6月、この櫓の近くに落雷があった記録が残されているが、この
記事には、“砂子の間前櫓”のことを“御居間御櫓”と記されている(注13.)。正式な名称変更であったかどうかはわからない。
ともあれ、この櫓は、金沢城や水戸城の三階櫓に例もあるように、やはり郡山城においても代用天守閣としてシンボル的存
在であったに違いない。さらに、この櫓の創建は二の丸屋形を新造した松平忠明であったと推量できるし、その後、災害・老朽
などで手を入れるにしても“武家諸法度”により、「元の如く修補」が城郭、ことに石垣や土居、櫓など主要部分には徹底された
から、変化はなかったと考えるのがこの場合至当であろう。
現在は両櫓の石積の櫓台を残すのみとなっているが、砂子の間前櫓の方には、もとあった櫓入り口に取り付けられていた石
段の遺構をとどめている。なお、現地は奈良県立郡山高等学校の学校敷地となっているので無断で見ることはできない。
そのほか、二の丸屋形をめぐる狭間塀は、舟入に面するところで52間2尺5寸、矢狭間8か所、鉄砲狭間15ヶ所あり、ここ
の土居の高さは4間半あった。鷺堀側は、屋形西南角にある坤櫓から砂子の間前櫓までは49間2寸45分、土居の高さは石
垣ともで4間、そして、矢狭間は6、鉄砲狭間が18か所あった。さらに砂子の間前櫓から毘沙門堂までの狭間塀は11間3尺4
寸、矢狭間3つ、鉄砲狭間6か所で、毘沙門堂から菊畑境まで19間5尺1寸、矢狭間2、鉄砲狭間6か所である。それに、二
の丸屋形東方の菊畑との境の石垣上には、長さ28間半の練塀(狭間無し)があった。
(注1.注5.注6.注9.柳澤文庫蔵。注2.原図/個人蔵/『大和郡山市史』挿図 昭和41年7月。注3.『郡山町史』所収 昭和28年
4月。注4.版木 個人蔵/摺物 柳澤文庫蔵。注7.「豊田家文書」大和郡山市教育委員会蔵。注8.「福寿堂年録」柳澤文庫
蔵。注10.個人蔵。注11.「諸役所御用帳面目録書上/仮題」・注12.「横田家文書」個人蔵/複写本柳澤文庫蔵。注13.「新古
見出并留方」『豊田家文書』 大和郡山市教育委員会蔵。 参考)
★次回は<12 ◆本丸 常盤曲輪・玄武曲輪・二之曲輪毘沙門曲輪>を予定しています。
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