大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-       ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム


 
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10 ◆陣甫曲輪
<・陣甫曲輪の名称・陣甫曲輪の構成・梅林門虎口・常盤曲輪下の土居・二の丸屋形への坂路の謎・授産所>
062◇陣甫曲輪の名称
 陣甫曲輪は、南の鉄門から北方の梅林門(追手門)とをつなぎ、東西を内堀と五軒屋敷堀に挟まれた二の丸の“帯曲輪”で ある。柳曲輪から毘沙門曲輪までの“一二三段”の中段に位置する陣甫曲輪は、南北86間、幅平均9間のごく狭隘な曲輪 で、曲輪というよりもむしろ広小路といった方が当たっている。このために各種の城図や史料にもその詳細を記載するものは少 なく、それどころか曲輪の名称さえ書き入れのないものがほとんどである。
 郭名に関しては先代本多時代には「並木」と称したが、柳澤時代から「陣甫(じんぽ)曲輪」と改められもので、通称としての 字号であるから、陣甫の“甫”は“陣”という字に添える語としてつけられたものである。ここでは単に城郭の備えや兵士の集ま るところの“陣”を意味する語で、“陣法”(じんぽう/軍学論)などという込み入った語義ではない。なお、旧記類に「陣法」と記 すものがあるが当て字として用いられたもので正確とは言えない。
 嘉永7年(1854)6月から11月にかけて発生した、いわゆる“安政伊賀地震”・“安政南海地震”のとき、大破・倒壊した藩庁 二之丸屋形に程近いここ陣甫曲輪へ仮家を建ててその諸機能を移している。藩士らは、本震・余震の続いた5ヶ月余、ここで の勤務を余儀なくされたのである。
 さて、ここから述べる郡山城の縄張りの要所としての陣甫曲輪がどのように構成されていたかを図説するため、次に「陣甫曲 輪絵図」↓を作成して参照に供した。
陣甫曲輪図

063◇陣甫曲輪の構成
 鉄門を過ぎたところ左側には内堀に面して「二之丸屋形」への急坂がある。この坂は藩庁たる二の丸屋形へ向かう家臣らが 通行した表の登城順路で、城内ではもつともにぎやかな往来を見たところであった。現在は城跡内にかかわらず自動車が通行 するのでS字状の舗装道路となり、勾配もなだらかになっているが、もとは直角に曲がって屋形へ向かう急坂となっていたとこ ろである。
 屋形への登り口を左に見て陣甫曲輪西(左)に臨む内堀添いに北進するルートは、郡山城本城への追手(大手)筋である。こ この内堀は、陣甫曲輪と本丸の二之郭(以下「二の曲輪」と統一。)である毘沙門曲輪とをさえぎっていて、その堀幅は、毘沙 門曲輪の東南隅に建つ弓櫓の下で東西10間、中ほどのもっとも広いところで幅15間で、その水深は7尺8寸である。また、 堀の長さは陣甫曲輪に面する一直線にのびている東岸側の南北の差し渡しは71間半あった。現在では北端の堀留の部分南 北約8mと、明治時代に毘沙門曲輪跡の石垣崩落地に設けられた柳澤文庫への坂道が埋め立てられているところである。
 また、曲輪東側の五軒屋敷堀を臨む石垣(高さ3間)上には鉄門櫓から北端の常盤曲輪追手東隅櫓下まで南北長さ97間1 尺2寸(約191m)の狭間塀が建ち連なり、東の柳曲輪に向かって矢狭間33か所、鉄砲狭間46か所が配備されていた。ま た、陣甫曲輪には、狭間塀に沿って城外から見透かしをふさぐための植え物として“しとみ”の松並木が植わっていた。これが 先代の本多時代に「並木」と称された由縁である。
 五軒屋敷堀に面する約270mの長い城壁は、常盤曲輪の追手東隅櫓下と堀の中ほど近くにも出角があり、それより南へ向 かって“横矢ひずみ”がゆるやかな曲線をえがき、鉄門櫓下の堀留までつづいてみごとな構成美を見せている。旧観は城郭の 要素である白漆喰塗りの狭間塀が石垣上を長く連なり、その塀の背後の“しとみの松”の緑の木々の間から本城の諸櫓など が見えるさまは実に壮観であったに違いない。現在、曲輪には家が建ちならび昔日の観は無い。郡山城の修景を考え、内外 にアピールするうえでここ陣甫曲輪を中心とする五軒屋敷堀跡と蓮池堀跡のラインはもっとも重要なスポットであるといえよう。
 鉄門を過ぎ直進する帯曲輪は、鉄門と梅林門とをつなぐ連絡通路である(前述)とともに、梅林門が追手門として本城玄関口 の関門である以上、攻城兵力の誘導とその撃破が陣甫曲輪の立場ということになる。すなわち、鉄門を破って浸入した攻城軍 は毘沙門曲輪・常盤曲輪からの横矢を受けながら、遮へい物1つ無い内堀に沿った180m近い陣甫曲輪を進むことになる。ま してここ陣甫曲輪は、郡山本城の追手の要として毘沙門曲輪と常盤曲輪の石垣上(高さ4間半)に林立する“総多聞構え”の 諸櫓からの攻撃にさらされなければ本丸へ取り付くことはできない。さらには菊畑の横矢枡形(捨て曲輪)に温存した守城兵力 の背後からの攻撃にもさらされなければならないのである。陣甫曲輪は、まさに金城湯池の象徴的存在であったといえる。

064◇梅林門虎口
 本丸の追手である梅林門虎口枡形(写真↓)の構成は、常盤曲輪の追手東隅櫓と続多聞櫓の下を左折して梅林門前の枡形 に入る。写真は梅林門虎口枡形と内堀の美観。追手向櫓と梅林(追手)門。
梅林門写真
 そして、右奥には梅林門櫓が南面して建ち、これに対面して城内最大の平面規模をもつ追手向櫓や同続多聞櫓が梅林門枡 形を取り囲んでいて、鉄壁の堅固さは言うまでも無いが、もっとも完備された枡形門の形式をここに見ることができる。また、枡 形に付随する櫓は梅林門虎口を守ることもさることながら、本丸の枡形門には欠くことのできない今1つの重要な機能があるこ とに気付かなければならない。それは“着到櫓”としての追手向櫓、“太鼓櫓”としての追手東隅櫓である。
 機能上の名称である着到櫓は、出陣に応じ、また自ら参陣した軍勢の着到をチェックするための櫓で、櫓内には着到を記す 帳面や着到硯が用意され、記録を担当する者と、櫓下からの口上、あるいは差し出された着到状に対する受け答えを述べる 者が詰めたところでもある。このために陣甫曲輪の形状も虎口前までの過半は比較的幅広く設えてある。それは着到する軍勢 の“武者溜”をつくっておく必要があるたからに他ならない。
 さらに虎口近くにある追手東隅櫓も城内外に種々の合図を発する“太鼓櫓”として非常時には存分の機能を発揮したのであ る。このように縄張構成といい、着到櫓や太鼓櫓、武者溜、総多聞構えの諸櫓などだけではなく、“しとみ”松並木のような、城 内の一木一草に至るまで機能上の無駄は無かったのである。なお、梅林門内からの本丸については順を追って詳細に述べる 予定である。

065◇常盤曲輪下の土居
 陣甫曲輪に関連して見逃してはならないことがもう1つある。常盤曲輪の東部石垣(高さ3間)の下には幅8メートル余りの土 居があり、さらに、下段の石垣(高さ2間半)が五軒屋敷堀に臨んでいる。石垣上の狭い平地は、追手東隅櫓下から北方へ約 80m近くつづいているが、ここは、中世“昔堺海道”のルートであったことについてはすでに述べてきたところである。
 その先には土居境の登り塀があり、常盤曲輪東北角の石垣下から土居を下り、五軒屋敷堀の堀留にある水戸違いに沿って 真っ直ぐに桜門櫓までつづいていた。ここで注目しておかなければならないのは、正保の絵図に見るこの登り塀のことである。 同図および書き込まれたデータを見ると、この登り塀のラインには南側に高く、北側に低い段差2間の石垣が構築され、そのう えを狭間塀(登り塀)が連なっていたことである。現在ではその痕跡をさえとどめないところで、このことは、正保の絵図が成立 した江戸前期(本多政勝時代)には、いまだ城郭北方に対して堅固な構えを必要としたということを物語っている。
 この石垣は、天災や災害のため大きな崩落があったのかどうかよくわからないが、のち取り払われて少なくとも元禄の絵図 (前出)には登り塀のみに改められている。
 本来、この狭い土居は城兵が常盤曲輪下の石垣に取り付こうとする攻城兵を石垣上から攻撃するために設けられた“御土 居”(土塁)である。このために、ここには狭間塀が設けられていないのである。写真↓の上部の櫓は手前から十九間東多聞 櫓と追手東隅櫓で、一段下の草地がここで述べている土居である。
常盤曲輪下の犬走り
 また、土居への出口は、陣甫曲輪の松並木の陰にある塀が行く手をさえぎっているが、ここには穴門(埋門)が隠されていた ところである。
 なお、このルートには伝承があり、万が一の脱出の“間道”として用意されていたということである。現在ここには、住宅があっ て自由に出入りはできなくなっしまったが、もとは追手東隅櫓下の排水路沿いに土居(「御要害廻り」)の草刈りなどのため行く ことができたところである。

067◇二の丸屋形への坂路の謎
 ところで、ここまで述べてきた陣甫曲輪の構成や機能は、二の丸屋形への坂路という城郭上の最大の欠点を、あえて度外視 して述べてきたことに気付かれた方が多いと思う。 
 郡山城の南・西両門方向から本丸への順路については、前回の郡山城百話(009)のなかですでに述べたが、ここ鉄門と梅 林門を連結する帯曲輪である陣甫曲輪もまた郡山城の大手筋として東方からの順路であって、鉄門から両方向へ自由にアク セスできるということは城郭である以上ありえないことである。これでは鉄門が破られれば二の丸屋形は陥落して、たちまち本 城は包囲されてしまうことになる。こうしたことから当然、鉄門内から梅林門方向へスイッチできうる防備の要になるような構造 物(門・石垣・堀など)が二の丸屋形への坂道(写真↓)にはなければならないはずである。
二の丸への坂
 この疑問を解き明かすうえで、ここが中世の「昔堺海道」(郡山城百話03)であったということを思い出して欲しい。“海道”は 中世の郡山城地を南方から鷺堀(池)と蓮池堀とを区切る堤塘上を北進し、菊畑・大腰掛から陣甫曲輪、さらに梅林門(大手) を過ぎ、常盤曲輪下(犬走り)を通って植槻町方向に貫かれていた。この“海道”は中世の郡山城地の東の崖地のふもとを縫う ようにして走っていた。この天然の地形を利用して中世において城地が形成され、近世に至っても、二の丸屋形・毘沙門曲輪・ 常盤曲輪のいずれも東の城壁ラインを成しているのである。 
 いつのころからか、要害上へ短絡するようなかたちの坂路が造られたもつとも大きな要因は、二の丸に居屋敷が新造された という事実に尽きる。二次的な要因としては太平の世の然らしめるところである。こうしたことが当初の縄張りに大きく影響を与 え、事情を変えてしまったため違和感を覚える結果となったのである。
 二の丸へ居屋敷を造ったのは、元和5年(1619)10月、郡山城主となった松平忠明である。これによって城内の動線が大き く変化することになった。それまでは本丸に殿舎があったからだ。
 かくして、二の丸屋形への坂路は後から構築されたもので、それ以前の旧状は二の丸屋形の東石垣が内堀の際までつづい ていたと考えるのがもっとも妥当なところである。さらに、曲輪の形状や標高差を加味して推理すれば、二の丸屋形下には毘 沙門曲輪下の内堀からまっすぐに南へ、大腰掛から菊畑にかけて水堀が一面の堀としてつづいていた可能性も無くはないが、 城郭全体の縄張りのバランスや一貫性から、いささか飛躍に過ぎるだろう。とにかくも、この二の丸屋形への坂路について本 稿において“郡山城の謎【その5】”として、他日の考証に備えたい。
 〔追記〕 ここ二の丸屋形の坂道の上部には、柿渋墨塗りの冠木門(屋根無し)と木柵が設けられていた時代があった可能性 がある。というのは、幕末期の郡山城の姿を伝える「郡山御城之図」摺物(版木、個人所蔵)/刷物印刷頒布(柳澤文庫)のな かに描かれているからである。幕末期の世情不安を反映して建てられたかどうかは詳らかではないが、筆者がここで述べてい る疑問を、一定払拭しているかのような「郡山御城之図」の存在を愛おしくも思うわけである。

068◇授産所
 明治政府は明治2年(1869)6月、秩禄処分に伴い士族に金禄公債を交付したが、小額であり、かつ、インフレのために目減 りして、たちまち困窮に陥った士族たちの反乱や時に自由民権運動が全国に波及して、ついに、政府は明治12年(1879)から 起業基金や勧業資本金などに相当する交付金をその対策費として投じたが、所詮“武家の商法”で所期の成果をあげることな く、やがて貸与金も明治23年(1890)に棄捐になっている。こうした国政の失策を補ったのは旧藩主家である。
 ここ郡山では、明治18年(1885)、旧郡山藩主柳澤保申が維新後の旧藩士の就産を目的に、資本金15,000円を出捐して 旧城跡に15町歩の土地を購入(買い戻し)し、城址一円を桑園として旧藩士らに養蚕を奨励した。このとき藩主家は金禄28, 520円余であった。近代史文献の薄さからすべてを明らかにすることはできないが、当初の法人名は「立本社」(『論語』の語 句「君子務本。本立而道生。」/注1.)と称して事業をおこし、減石となった家禄の高の10か年分を概算して禄券を発行、もと の家禄との差額を基金として10年ごとに基金に回収する方式がとられた。こうした比較的成功を収めたと評価される“仕法”は 全国277藩のなかでも郡山ほか4家だけであった。やがて政府“棄捐”の年の明治23年11月、名称を「郡山士族就産事務 所」と改めるとともに、「旧郡山藩士族就産規則」(注1.)を定めて郡山町長佐野直人(1889-91就任)から奈良県知事(明治20 年11月、奈良県再設置)に提出、15,000円の残金の9,168円余を受け、さらに養蚕を強化継続して就産に努められ明治 36年頃には廃業やむなきに至ったのである。
 なぜ話題が突然、授産所になったかというと、このとき城址一帯は桑園として畑と化し、その授産事務を処理するため設けら れた事務所がここ陣甫曲輪の北端にあつたからである。現在もその南隣の宅庭に“授産所跡の井戸”というのが残されて、就 産事務所の由緒をとどめる物証の1つとなっている。

(注1.「士族授産関係文書」柳澤文庫蔵 参考)

★次回は<11 ◆二の丸屋形>を予定しています。
※お断り!紙幅の都合により予定を変更し、「陣甫曲輪」を先にして、「二の丸屋形」は次回とさせていただきました。
11 ◆二の丸屋形
<・二の丸屋形の形成・二の丸屋形の絵図・屋形の規模・柳澤郡山藩の分限、職制・屋形の構成・屋形の全焼・焼失 前の屋形・郡山城三重櫓>

069◇二の丸屋形の形成
 すでに述べたとおり二の丸へ居屋敷を新しく造営したのは、元和5年(1619)7月、大坂から郡山へ移封の松平忠明(1583- 1644)である。それまでの居屋敷は本丸にあり、先代の城主水野勝成が、元和元年7月の移封ののち新築した本丸御殿であ る。
 比較的狭隘な本丸から二の丸へと居館を移す傾向は「元和偃武」を境にしてこの時代の1つの現象であり、諸城に照らしてこ とさらめずらしいことではない。このことは、本城と称され城郭の機能的な中枢部という軍事的意義から、むしろ「元和偃武」直 後の各大名は“本城は徳川家(幕府)よりの預かり物”という理念の形成から、自らの居館を本丸に置くことを憚って二の丸ほ かへ移されたものと筆者は指摘しておきたい。
 このころ徳川幕府による畿内の諸城の再編のなか、もと豊家の拠点であったにもかかわらず、なおも重要視された郡山城 は、幕府による直轄普請と水野勝成の作事により復活を遂げ、つづいて松平忠明入封による第二期工事がおこなわれるに至 ったのである。
 なお、忠明はこの年8月廃城となった伏見城の城門6基を下賜され郡山城へ移築するとともに、居屋敷を新しく二の丸に構え ている。また、藩政の規模も水野家6万石時代から2倍の12万石余へと増大したので、家中屋敷地の拡張や城下の整備など も大々的におこなわれたのである。たとえば、城郭東部の三の丸(のち柳澤時代の柳曲輪/13,101坪)を新規に五軒分の 侍屋敷地に充てられたのはこのときで、やがては“五軒屋敷”と呼ばれるようになる。また、忠明は入部の年に改易となった芸 備(広島城)の太守福島正則(1561-1624)の旧家臣を新規に召し抱えて、城下に新しく侍屋敷を設けて住まわせたこともその 1つである。これが“広島丁十六軒”のはじまりとなり、今日もなお町名をとどめている。かくして、近世における郡山城と城下の 結構はこの忠明時代には概ね定まったのである。
  
070◇二の丸屋形の絵図
 二の丸屋形の構成・規模を知るうえで「御住居木口下絵図 安政五午年十二月下旬」(注1.)は一級の史料である。このほか 二の丸屋形の絵図が3点ばかりあるほか、補足史料として、城内でおこなわれる儀式の座席や行動を記した“要図”と称され る絵図類がいくつかある。
 これらの絵図はいずれも柳澤家藩政期のものであるが、中でももっとも古いと考察される「ニノ丸屋形図」(注2.」)のほか、次 いで「二ノ丸の圖」(注3.)、そして、御住居木口下絵図、また、「郡山御城之図」(木版摺物/注4.)や、明治以後の「郡山城郭 絵図及元県庁知事邸絵図」(注5.)も参考になる。なお、要図類の主なものは「諸絵図入(穴山家)」(注6.)と「御用人勤所々御 座舗之圖(藪田家)」(注7.)である。
 前述の安政5年(1858)12月下旬の下絵図は、同月1日の失火による二の丸屋形の全焼後、ただちに再建のためこしらえら れた公儀御用番老中へ提出用の下絵図(指図)の控えである。また、二ノ丸屋形図は藩御用材木商に伝来した指図から製版 されたもので、室名に誤植がおびただしく認められるものの、各詰所の名称から柳澤時代のものと解る。それは藩の職制に照 らせば一目瞭然のことである。次の二ノ丸の図は、いわゆる建築に用いられるような指図(縮図)ではなく、城絵図類ではめず らしく城内の諸建物までの詳細を描写した絵図の部分をトリミングして挿図とされたもので、二の丸屋形ばかりでなく緑曲輪の 平面の一部をも垣間見ることができる。次の郡山御城之図は、木版による俯瞰図で、在りし日の郡山城の姿を映した摺り物と して相当量流布した絵図であろう。おそらくは明治以後に造版されたものであろう。
 さらに、郡山城郭絵図及元県庁知事邸絵図のうち「元郡山縣廳絵圖」は、明治4年(1871)7月の廃藩置県により、郡山県知 事となった柳澤保申時代に県庁舎と知事邸宅として改修された旧二の丸屋形の略図ではあるが、約二分(6.606o)を一坪と した縮図であり、やがて明治6年3月の売却・払い下げ処分に付される直前の旧二の丸屋形を検証することができる貴重な史 料となっている。
 こうした絵図・指図は城主の交代ごとに、城郭図や城記などのほか、主要建物の絵図や目録一式は、公儀を介して引き継が れる。畿内の雄藩のなかでも郡山藩は、近世において、水野・松平・本多・松平・本多・柳澤の六家と、しきりに城主の交代が おこなわれた。こうした史料も移封となった城主家とともに転封地へ移動することになり、また、この地において絶家したため多 く残された先代の本多家史料や、明治維新をこの地で迎えた柳澤家史料など、ともに近代における史料焼失・滅失・散逸はこ とさらの傾向である。
 
71◇屋形の規模
 享保8年御家断絶の憂き目にあった本多(忠烈)家から公儀に明け渡された郡山城は、翌年6月7日、この間の城番を務め た篠山城主松平信苓(形原氏/1695-1763)の名のもと、公儀引渡役の大森半七郎(大坂目付使番)・堀彦十郎(二条城在 番与力)の両使から柳澤家に渡され、ここ二の丸屋形は、家老柳澤権太夫ほか6名が受取方となり、二の丸屋形、玄関前(表 門)、裏門の鍵3本は目録とともに、家臣村田源之進・大宮治左衛門および同心2人により受け取られている(注8.)。
 本多時代の二の丸居屋敷の床面積は、表向きの広間・大書院・小書院などの座敷回りや藩主の居間および勝手向き、吟味 所など台所向き、それに奥向きの座敷回り(喜十郎(忠烈)部屋など)、そのほか表長屋、番所、腰掛、台所向きの物置、庭方 預かりの物置、小書院前の涼所、土蔵三か所などを合わせて1012坪2合5夕であった。二の丸屋形の敷地は3,651坪半 で、平均して南北45間、東西77間と、居屋敷としてそんなに余裕のある面積ではないことがわかる。
 そうしてみれば、二の丸に居屋敷を新造した松平忠明以後、領地の大小を問わず、居屋敷のある二の丸の敷地に変化は無 かったし、また、居館の規模や構成も曲輪の地形に影響されて大同小異と言えそうだ。とは言ってもやはり藩庁でもある居屋 敷は、各家の職制に則り、各室はともに有機的な機能をもって、かつ、巧妙に配置されていたといえる。また、傾向として奥向 き建物に変化が顕著であって、表向き諸建物は変化にとぼしい。このことは城主の家族構成が時代により大きく変化するから にほかならない。
 以上これまでに述べた各絵図類から読みとれる屋形の平面規模は、能舞台や釜屋の有無、奥向きに少しの変化は認められ るもののそれは比較的大規模なものではないといえる。ところが、前述の郡山城郭絵図及元県庁知事邸絵図のうち「元郡山 縣廳絵圖」は、表長屋のほか玄関のほか鑓の間や溜の間にも新規の入り口が設けられ、中ノ口にも大きな上り段が増設され ている。さらに、東の菊畑奥との間に通用門が新設され、門衛所らしき小建物と、もと能舞台跡に“奥の座敷と玄関”が新設さ れている。一方、知事公舎の方は著しく縮小され、もとの御末の間御錠口に玄関が取りつけられ、座敷も、もと藩主の奥居間・ 奥舞台・寝所と付属の建物以外すべて取り払われて、県庁舎として大改造されている。
 こうして、明治4年(1871)7月の廃藩置県により二の丸屋形に設置された県庁舎は、やがて明治4年(1871)11月、早くも 大和国内の諸県は廃止され、郡山県は奈良県に編入されたため、わずか4か月余日の郡山県政であった。そして、残務引き 継ぎを終え東京にあった郡山県出張所が閉鎖されたのは翌5年2月であった。

072◇柳澤郡山藩の分限、職制  
 二の丸屋形を述べるうえで避けて通れないのが、藩の職制(分限)である。
 大名柳澤家の分限・職制は、柳澤吉保によって定められた。その特徴は公儀職制の根幹となった「庄屋仕立」のミニ版とでも いえるほどよく似ている。管見によれば、このことは吉保が御側御用人という公儀要職であったことと深く関わりあるものであ り、他家のことは知らず、徹底した奉公(主忠信)を旨とした吉保公一流の深い思慮の所産として、藩の職制にも反映されてい て然るべしと考えるからである。
 それでは、1868年の郡山藩『分限帳の上・中・下』の各巻(綴本/注9.)による72の席次ならびに格席をここに紹介してお く。
 “上の巻”の席次は、一族・家老・家老格・城代・添城代・大寄合・年寄衆・年寄並・寄合衆・御用人衆・御用人並・寺社奉行・ 番頭・旗奉行・鑓奉行までの15席(66人)は、格席上、「銀馬代」である。
 つづいて、御用達・奏者番・大目附・郡代・郡代並・町奉行・留守居役・御用達並・持頭・弓鉄砲頭(物頭・武頭と称したときも ある。)の10席(47人)までは、格席が「独礼」。
 寄合並・奥御用達・御側用役・留守居介役・京都留守居・大坂留守居・御使番・近習取次役・目付・郡代格・普請奉行・勘定 奉行・台所頭・御金奉行・書院詰・徒頭・広式御用役・番方組頭・御側詰・松之間詰・松之間席・長柄頭・大近習組・総医師・茶 道・医師並・納戸役・馬廻組・馬廻席・徒目付組頭・大小姓組・大小姓席・大小姓並までの33席(704人)は、格席上「月並み 祝儀屋形へ出仕御機嫌伺」で“御目見以上”の家格ということになる。“上の巻”の合計は58席、817人となっている。
 “中の巻”には、徒目付・相之間・勘定衆・勘定衆並・総与力・徒士・徒士並の7席があり、格席上は「諸士」と称し、“御目見 以下”の家格である。“中の巻”の総人数は311人である。
 “下の巻”には、小給人・代官手代・国坊主・江戸坊主・国坊主格・江戸坊主格・針立座頭のでの7段階で、格は「席外」とな っている。人数は262人である。
 このほか、奥女中(江戸は中奥附女中と称した。)の分限として、年寄・中老・御側・御側格・小姓・物縫・御次までが“御目見 以上”(比定)。茶之間・茶之間格・中居・半下(はした)・又半下のまでの12の職名(18人)があった。
 それに組之者・中間を加えると1,214人で、ここへ各席の隠居(73人)、合力、扶持米を与えた者、出入扶持の者、御目見 町医までの158人を入れると2762人ということになる。そのうちには国元と江戸詰・役席と小普請・兼役・臨時雇いなどの区 別がある。それに家禄・扶持・役料・勤料・勤金と、奥女中には彩銀・諸色物銀、暮れ渡しの椀代銀・塩物代鐚、扶持(男・女扶 持)などが詳しく書き入れてある。
 そして、支配の別(機構)となるが、詳しい職制の解析は紙幅を大幅に占めるので、ここでは略して記さないが、これをもって 江戸時代末期の郡山藩の分限の大要はつかんでいただけるものと思う。

073◇屋形の構成
 二の丸屋形の構成は、おおむね5つの部分からなる。すなわち、表向き・役所向き・台所向き・中奥向き(“中奥”の呼称は、 江戸のみで国元に無い呼称であるが筆者が便宜上私に用いている)、そして、奥向きの5つの部分に大別できる。 なお、例に よって「二の丸屋形絵図」↓をこしらえておいたので参照いただきたい。

 ここに示した5つの区分は絵図のなかでも反映してある。すなわち、当該建物群およびそれに付属する庭などをエリアごとに 色彩を変えて表している。ただし、奥向きは一括して表現せず、広式の役所部分と奥女中の詰所などの部分、さらに、藩主居 所と家族居所の別およびその庭、奥女中の詰めた長局や長屋およびその庭は、少しずつ色を変えて見やすくしたつもりであ る。以上を二の丸屋形絵図の例言に代えたい。それでは屋形の概要を次に記しておく。

@ 表向きの関門は、いうまでもなく表門(薬医門)で、ここから表門番所を通過すれば玄関に至る。玄関から表向きの建物群 が、松の間、大書院、小書院、折入の間、それに鑓の間および溜の間と建ち並んでいた。これらの諸室のうち公式の対面所で ある大書院を中心に、機能的に配置された表向きの各室は、藩の格制に則り、家臣の家格による詰所などとなるほか、式日 の座席となる部分からなっている。
 典礼などは藩法である「御定」(前出)によって規定され、時代を経て改正されつつ推移したので、その変化にも注意を要す る。家中の各職は、御定にしたがい役職個々の“勤方留書”をこしらえ、また、前任者から借りて書き写し、勤務に遺漏の無い ようマニュアルをつくっていた。一例をとってみよう。藩主在国の年、正月3が日を“大法式”というが、この3が日は表向きの各 室において、格式に法って“年始御礼”が挙行される。“御上段御礼”は、藩主が大書院上段の間に“出御”着座のうえ、家老 より御側御用までの者が年頭の御礼を申し上げる。このときの作法が規定されたのが御定で、「御下段御敷居際より三畳目 において御家老共一人ずつ罷出、御年始の御礼を申上げる」といつた具合である。これに対して藩主からは“めでたい!”と言 葉を添え「御手熨斗(あわび)下され候事」となる。あとは“御立掛ヶ”(藩主が各室をめぐり立ったまま祝辞を受ける。)で家臣に 対顔する。ここに出席できる家格が、いわゆる“御目見以上”である。以下略して詳しくはのべないが、一事が万事このような 調子で、現代人がまつたくと言っていいほど失ってしまった基本的な礼儀・作法はこの時代の常識であり、それは厳しいもので あった。もちろん、藩には礼儀・作法には“躾(しつけ)方がいるし、こうした典礼には奏者番が進献・下賜の介添えや披露、ま た、重大な典礼には事前の習礼(しゅうらい/予行演習)などをおこなっていたのである。
 少し能舞台のことについて触れておこう。郡山城の能舞台(詳細図は「目安箱」の06参照)は、折入の間をその“見所”として 設えられてあり、位置は小書院の奥から鏡の間へと廊下により通じていた。ほかに奥向きに奥舞台という板張りの部屋があ り、藩主の能稽古の場として使われたと考えられる。郡山城における能舞台は、ことに式楽を好んだ郡山藩中興の祖と称えら れる三代柳澤保光(堯山)により、ここ二の丸屋形に新築されたといってよい建物である。これにより四代藩主保泰もことに能を 好んでよくたしなんだことが知られている。
 柳澤家の式楽宝生流の淵源は、やはり柳澤吉保に由来することが解る。五代将軍綱吉は武家の式楽である能狂言をことの ほか好み、中でも綱吉の“宝生贔屓”は有名な話である。当時、神田橋内(千代田区大手町)柳澤邸内の綱吉行殿によく御成 りをしたことは史実として著聞であるが、柳澤邸58度の御成りには必ずと言っていいほど能狂言を催し、老中・若年寄などの ほか御供の者の居並ぶなか、能五番から“しびり”の狂言まで演じられたのである。また、綱吉自身が演ずることしばしばで、 吉保や家臣も綱吉の相手を勤めた。吉保の二男でのち甲斐国主となった吉里も、わけて能をよくして綱吉も舌を巻くほどであっ たという。

A 役所向き(図中アイボリー)へは、家格により定めがあって家老から年寄衆までは表門から、そのほかは表長屋(長さ37 間)にある裏門から屋形内へ進み、ともに“中ノ口”から入って、小人目附詰所前から溜の間を経て各役所へ進む。
 役所向きは、この時代の政治の代名詞となった御用部屋(御用番家老の詰所)を中心として、年寄・番頭・大目附・郡代・目 付などの詰所と御用金方役所や大役所(大部屋)が表向きの近くに配置され、御用人・御用達などの詰所と納戸方・日記方な どは、藩主の執務室である表居間に比較的近いところに配置されたていた。
 ところで「二の丸屋形絵図」↑のなかに御用部屋が2か所(図中朱色部分)あることに気付かれたと思う。1つは大書院棟の なかに御用部屋と二の間、それに御用部屋祐筆詰所が付随した部分、今1つは大役所棟と折入の間の中ほどにも御用部屋 と年寄詰所、そして御用部屋祐筆詰所がある。それではなぜ2か所に御用部屋が設えてあったのだろうか。それは参勤交代 の制に起因しており、藩主が留守の年と在国の年の区別が生じるためである。つまり、藩主の留守年には中奥向きがほとん ど空室同然の状態になるからである(C中奥参照)。ということで、留守年には表向き近くの御用部屋が使用されることにな る。位置関係も主要な事務を処理する大役所が、両御用部屋の中間に位置していることが解る。

B 台所向きは、台所頭詰所・吟味所・賄方役所・買物詰所・中間頭詰所・酒造方詰所・時計の間などに台所、釜屋が付属す る。台所棟は防火のため屋根は瓦葺となっていたし、釜屋も同じであるが、ここはあとから新設された建物の1つで常時火の 気のある建物として防火の観点から別棟とされたものである。郡山城の場合、表の台所には料理所施設は無く、奥向き近くの 広式の一部として料理所が置かれていた。調理されたものをここから台所に運び、台所で膳立てのうえ、温めなおして鬼役が 毒見のうえ各所に給食(配膳)されたのである。
 なお、表には調製された料理を速やかに目的の部屋へ搬入できるよう1つの仕組みが凝らされていた。大役所の左側(西) に土間廊下(図中ねずみ色)が台所から御用部屋祐筆詰所までクランク状につづいているのがそれである。この祐筆詰所は中 奥や表向きに近い位置にあることから、この方面への通路(抜け道)として設えてあった。なお、この土間廊下も安政5年二の 丸屋形焼失後、新たに設けられた部分である。

C 中奥向きは、藩主の執務室でもあった表の居間を中心に二の間・小座敷・御次・御側詰所・台子、それに仏間と神棚があ る祠堂と、奥への御錠口と藩主専用の渡り廊下(駕籠廊下)である鈴廊下など付属の建物がある。

D 奥向きには、奥の役所である広式があり、広式玄関から、広式同心部屋・広式番詰所・医師詰所・広式用役詰所・奥御用 達詰所などがあり、別棟に料理所があって料理人詰所などのほか“くど”や“水流”などの厨房がある。広式から御末の間との 大戸は、御錠口でここから奥へは、通常の場合男子禁制であった。
 藩主の起居する奥居間(“御二階”付き)・小座敷。寝所・奥舞台・寄付(よりつき)の間・御次・台子・八窓の茶室、それに湯 殿などの付属建物があった。そのほか藩主の精神生活の場であった達磨堂や二畳中板などが奥の一角にあった。なお、奥の 中庭に「御納戸」と付属の建物があったが、これまた安政焼失ののち無くなったところである。
 家族の部屋には、北部屋と西部屋があり、また、奥女中(御側女中・中老)の詰所であった長局と、御次女中や御半下など が詰めた表長屋(部分)のがあった。
 なお、二の丸屋形の詳しい図説は「柳澤文庫」(URLhttp://www.mahoroba.ne.jp/~yngbunko/)ホームページによせた拙稿“・ 郡山城シリーズ1 図説二の丸屋形の構成(10回)”を参照されたい。

074◇屋形の全焼
 安政5年(1858)12月1日の昼七つ時(午後3時頃)、二の丸屋形から出火して折からの南西の風にあおられて屋形はみる みる全焼している。この飛び火で五軒屋敷のうち2軒と、この火がさらに茶園場(東北約300m)の侍屋敷1軒にも飛び火する という大火であった。
 藩では速やかに公儀へ届けをして、入箇方年寄の青木藤兵衛・設楽到、奥御用人桑原集、大目附桃井勇記、勘定奉行和 田忠兵衛など12名を“御屋形新規建替御用掛”に任命し、“新規御建替材木方御用達・柿御屋根惣御請負方(手元棟梁車町 檜皮屋平蔵)”には柳町御用材木商三村(木屋)清兵衛善英を選定、早速再建に着手している。
 この月の下旬には下絵図(前述)もでき、公儀に対し翌年5月22日付け拝借金30000両を願い出ている。安政2年の大地 震による江戸藩邸の焼失やその後領分の大風雨・凶作、公儀勤方の異国船渡来や京都守護などを事由として願い出たもの であった。やがて、安政7年(3月萬延と改元)2月26日、公儀から呼び出しがあって、江戸城西の丸雉子溜において(安政5 年10月失火による江戸城本丸普請中による)、大老井伊直弼(1815-60)ほか老中列座のうえ松平(柳澤)時之助(のち保申 /このとき10歳)名代柳澤光昭(越後黒川藩主/-1900)に御用番老中安藤信正(初名信睦/1819-71)より言い渡しがあ り、5000両の拝借と決している。30000両の願いに対し六分の一の5000両は少ないようにみる向きもあるかと思うが、幕 政に限らず先規・先例主義(ある意味で今日も同じ。)一点張りの江戸時代のこと、ことに過不足の無いよう合理的に執行され ていた。郡山藩においても、この4年前の嘉永7年(1854/11月27日「安政」と改元)の2度にわたる大地震による郡山城の住 居向き・櫓・多聞などが大破の被害を受けたが、このときも拝借金は5000両であった(翌2年6月24日申し渡し)。
 屋形新規建替御用掛の青木藤兵衛以下は領分村々には御用金(借用銀)や資材の献納を勧めるなど入箇の調達に務めて いる。献納の資材は大和・河内(旧(領)知)の大庄屋10人から桧の柱1,000本、代(領)知総代から杉板200坪、領分村々 からは綱3,732貫400目、筵100枚、竹1,320貫目、スサ6貫目入57俵などであった。
 かくして、大書院・松の間・玄関は、文久元年(1861)11月14日の吉祥日をえらんで上棟の儀が挙行された。上棟幣串( 10.)には普請奉行中澤小三兵衛・鎌原丈右衛門ほか下役など工事関係者の名が記されている。また、翌2年以後には表具 屋六兵衛・三村清兵衛推挙の絵師狩野秀信が書院など障壁を手がけ、ほどなく表向きの建物は完成した。なお、中奥・役所・ 台所向きや奥向きも逐次完成したのである。この間、役所向きなどは、評定所や使者屋敷・代官所・家中屋敷などに仮役所を 移し、奥向きは、西屋敷・梅屋敷などに移されていたものと考えられる。
 ところが最大の問題は、二の丸屋形とともに灰燼に帰した藩の公文書類で、“御用部屋日記”をはじめとする重要な記録の 復元を急がなければ、藩政に滞りが出来てしまう。藩庁ではこれが復元を緊急課題として、各職宛通達を出して、各家・各職 に残る文書類の目録を提出するよう対策を講じている(注11.。このとき藩主の公用記録の「附記」なども再調製された部分も あったに違いない。現に郡山四代藩主柳澤保泰公の「垂裕堂年録」だけでなく、五代の保興、六代保申の年録も残されてはい ないのである。わずかに、保泰代の家督の年、文化8年(1811)から文政9年(1826)までの58巻(綴本/文政2年、同3年の ほかに欠本がある。)の“附記”が現存して貴重な史料となっている。これら藩主の公用日録はその本体である年録について は江戸の年録御用掛荻生惣右衛門鳳鳴(金谷の養子/天祐)のもとにおいて作成、“附記”は国元郡山で作成されていたの である。このようにして藩庁の公文書の一定部分は復元できたものと考えられるものの、何事も手書きの時代のこと、想像する だけでも気の遠くなるような作業であっただろう。
 ちょうど屋形の新規建替が進捗するなか、文久3年(1863)には“天誅組事件”が勃発して、同年8月26日には郡山藩も追 討のため出兵している。そして、大政奉還・王政復古まであと4年たらずと、新しい時代の大きなうねりが少しずつ押し寄せて いたころの出来事である。
 
075◇焼失前の屋形
 郡山五代藩主柳澤保興(1815-48)は、父保泰(1782-1838)の病死により、天保9年(1838)7月12日家を継いだ。そして、 この年9月に入部(京廻り)している。このときの主な供回りは、家老平岡宇右衛門をはじめ、奥年寄渡辺三左衛門、御用人浜 田小十郎、目付の山寺妙之助・山本段兵衛の面々であった(行列の人数は約600人点程度か)。
 入部の行列は9月16日、近江石場(滋賀県大津市)の本陣に休足、ここで先規の例(京廻り)により当時、近江藩領の大庄 屋格百々五兵衛ほか海津・浅井・高島・金堂手の村々をまとめる庄屋(帯刀人)らの出迎え“御家督恐悦”を受けている。
 やがて、郡山へおもむいて“恐悦申上度”願いが許可され、11月8日付け郡山に先行していた海津代官今中幸右衛門から、 自身の郡山旅宿となった御使者宿へ23日に出頭するよう急回状を受けている。郡山へ出向くメンバーは、浅井郡(浅井手)の 大庄屋格大浜太郎兵衛、帯刀人(藩呉服所)横田佐兵衛、高島郡(海津手)の大庄屋格大村五郎左衛門、帯刀人角野藤右 衛門・足立新次郎・足立太右衛門からなる6名で、一行は申し合わせて11月19日に近江を出立することになった。そして、2 0日大津泊、21日未明に出立して京へ出る。途中の小関越え(大津市)では、霜で一面に白く染まった山々を見て、“常盤な る松もさくらもおしなべて雪と見るまでふれる霜かな”と詠って和歌に郡山行きの感慨をこめている。詠み人は一行の足立太右 衛門(蒲生郡香ノ庄村)である。当時、大庄屋や帯刀人といえば領分村々を束ねる人格・器量はもちろん、持てる豊かな財力 (近江商人)とともに、優れた文化人としてそのたしなみは一通りではなかったのである。
 一行は22日玉水の竹屋に宿泊、翌4日目の 23日、七つ半(午前5時)に出立、四つ時(午前10時頃)郡山着、鍛冶町畳屋 治兵衛方(大門内西側9軒目)に止宿を定め、ただちに柳町一丁目の御使者宿(代官旅宿)へ到着の届けを無事終えている。
 25日には金堂手の帯刀人水口作兵衛・中川市次郎らと合流し、先ず、二の丸屋形の式台に口上書をもって到着と御礼を述 べている。そして、28日に登城との内意をうけた一同は、26日には柳澤家の菩提所の龍華山永慶寺へ参拝したい旨を願い 出たところ、内々参詣を許されて家臣岡田良兵衛・岡弥五次の案内で、柳門前から五左衛門坂へのルートで龍華山に参詣し ている。本堂に参拝した一行は柳澤吉保筆の永慶寺の大扁額を拝見、時の方丈(住職)諦道和尚の案内で、本堂に参拝、座 敷・茶の間などにも案内され、開山は黄檗八代の悦峰道章であることなどを聞いている。
 また、翌27日は一同にとって願ってもない春日祭礼の当日で、早速許可を得て見物に出かけている。春日祭礼は、7度参ら なければ全部は見ることが出来ないと聞いていたので精力的に見物、大門前の“下之渡”、鳥居前の“上之渡”を見物、ことに 鳥居口の郡山・藤堂・高取・小泉の桟敷の有様を観てその勇ましさに感服して、なおも、“四座の猿楽”や馬場の駆け馬など勇 壮・多彩な“御祭り”(おんまつり)を見物できて、一同はこれもこのたびの御入部の御蔭と歓喜している。
 前置きが長くなったが、いよいよ本題の登城の日28日の話題に移る。
 朝正六つ時(6時頃)宿から裃を身につけて家臣岡田良兵衛の案内で、柳門へ入り鉄門を通過、二の丸屋形前の坂道を堀 向こうの本丸の諸櫓を望みながらその堅固さに驚きつつ、西方の厩前から天守台を拝見、それより屋形の裏門から中ノ口内に 入り、鑓の間でしばしの休息には、寒い日であったようで火鉢がたいさん出ている。
 午前9時、会場の鑓の間の東を上座として、一同の座席も定まり近江・大和・河内の大庄屋格、庄屋・帯刀人ならびに御用 達を合わせて250人余りの人々であった。ところがあいにく藩主保興が風邪(病弱)のため出御はなく,家老取次の祝儀言上と いうことになった。式の次第は、一同平伏のところ奏者番より執り成しの披露があり、郡代岡野祖右衛門が一同を代表して、御 入部御祝儀を申し上げ、これに対し取り次ぎに出座した家老松平但見から“御口上、よろしく申し上げましょう”とあいさつとの 言葉があった。
 式のあと郡代渡辺蔵之介よりお酒を頂戴、次に御用金役所の鞘の間(入側廊下)において近江の人々には、年寄茂木藤 助、入箇方樋口小源太に対顔、挨拶ののち年来の働き金出精に感謝とねぎらいと今後も引きつづきよろしくとの言葉があっ た。
 そして、いよいよ“御座敷拝見”となり金堂代官深井喜右衛門ほか2人が先立ちの案内に立つ。
 鑓の間から拭い板張りの広廊下を広間前から奥の松の間前へ、松の間には正面の大床に御朱印入の長持(朱印・黒印・判 物・領地目録など)が置いてあり、床の張付は松の絵が画かれてある。そして、取付之間を通り大書院へ進むとそこは幅1間 半の畳敷きの入側、そして、北の間(三の間)には松の画が、中の間(二の間)は桜、南の間(一の間)は竹の障壁画で埋め 尽くされ、画師は狩野山楽の筆になるもので、いずれの座敷も18畳敷きとなっている。南の間の奥には東向きに上段の間が あり、すべて金の障子で、大書院も同様である。上段の間は二段で、右側に帳台襖と袋棚があり、左側に床の間と出書院が ついていて、床の間の三幅対の掛け物は狩野探幽の筆になるもので、右に“桐鳳凰”、中に“宝来山”、左に“松麒麟”の画で ある。
 それより左手に進むと小書院があり、庭には殿様の稽古所があってそこは板の間となっている。その奥には能舞台があっ て、破風(屋根の妻)には“小尉”の面が掲げられているなど、一同は実に見事なものであると感心している。
 さて、鑓の間にもどった一同は、御殿を下って山之手(侍町の町名/矢田筋)にある大和代官所でゆるりとお酒・お料理を頂 戴した。やがて、一同は家老・年寄・入箇方年寄・大目附・郡代・勘定奉行・海津代官・金堂代官・御殿詰組頭などの関係者2 5人の宅へ御礼回りの挨拶をこの日の内にすませて、翌29日に一行は郡山を出立、12月2日には近江へ帰村して今回の “入部恐悦”の旅を終えている。
 以上は、五代藩主保興の入部に際しておこなわれた儀礼であるが、藩がいかに領分大庄屋・帯刀人(庄屋)に対して処遇 し、また領分村々を代表する人々がどのように行動していたかがよくわかる。ここでは二の丸屋形に視点を置いて、原史料を尊 重しつつ私に、その焼失前の有様を紹介したものである(注12.)。
 余談になるが、ここで現れる能舞台の屋根の妻(正面)に掲げられた“小尉”の面(おもて)に関して、こだわって故実など存 在しないものか色々と調べてみたが現在のところ不明である。

076◇郡山城三重櫓
 二の丸には多聞櫓などを伴わない単立の櫓が2か所ある。1つは坤櫓(写真↓)で、その規模は下重の平面が3間に3間 半、上重が2間四方(棟東西)である。窓7か所、鉄砲狭間24か所となっている。名称のとおり二の丸の坤(南西)隅に舟入 (堀)と鷺池堀の両堀に臨んだ台上に建ち、櫓下の石垣の高さは4間半あった。
二の丸坤櫓台写真      
 今1つの櫓は、二の丸屋形の折入の間の前で、能舞台の後方にあった砂子の間前櫓(写真↓)である。その規模は下重が 3間に5間、中重が同じく3間に5間で、上重が2間半に3間(棟東西)あった。櫓下の石垣の高さは4間1尺5寸である。ただ し、三重の櫓でありながら屋根は二重であったから、外観上は二重にしか見えなかっただろう。公儀への配慮があったかも知 れないが、建物の高さは他の二重櫓よりは腰高にならざるを得ないので、二の丸屋形の東の突端に建つ位置から城下までの 高低差は約16mはあるので、その上に三階の櫓が建っていたのだから城下町や遠方からも一際高く見える櫓である。
砂子櫓台写真
 高い建物やその近くにはよく落雷がある。宝暦12年(1762)6月、この櫓の近くに落雷があった記録が残されているが、この 記事には、“砂子の間前櫓”のことを“御居間御櫓”と記されている(注13.)。正式な名称変更であったかどうかはわからない。
 ともあれ、この櫓は、金沢城や水戸城の三階櫓に例もあるように、やはり郡山城においても代用天守閣としてシンボル的存 在であったに違いない。さらに、この櫓の創建は二の丸屋形を新造した松平忠明であったと推量できるし、その後、災害・老朽 などで手を入れるにしても“武家諸法度”により、「元の如く修補」が城郭、ことに石垣や土居、櫓など主要部分には徹底された から、変化はなかったと考えるのがこの場合至当であろう。
 現在は両櫓の石積の櫓台を残すのみとなっているが、砂子の間前櫓の方には、もとあった櫓入り口に取り付けられていた石 段の遺構をとどめている。なお、現地は奈良県立郡山高等学校の学校敷地となっているので無断で見ることはできない。
 そのほか、二の丸屋形をめぐる狭間塀は、舟入に面するところで52間2尺5寸、矢狭間8か所、鉄砲狭間15ヶ所あり、ここ の土居の高さは4間半あった。鷺堀側は、屋形西南角にある坤櫓から砂子の間前櫓までは49間2寸45分、土居の高さは石 垣ともで4間、そして、矢狭間は6、鉄砲狭間が18か所あった。さらに砂子の間前櫓から毘沙門堂までの狭間塀は11間3尺4 寸、矢狭間3つ、鉄砲狭間6か所で、毘沙門堂から菊畑境まで19間5尺1寸、矢狭間2、鉄砲狭間6か所である。それに、二 の丸屋形東方の菊畑との境の石垣上には、長さ28間半の練塀(狭間無し)があった。

(注1.注5.注6.注9.柳澤文庫蔵。注2.原図/個人蔵/『大和郡山市史』挿図 昭和41年7月。注3.『郡山町史』所収 昭和28年 4月。注4.版木 個人蔵/摺物 柳澤文庫蔵。注7.「豊田家文書」大和郡山市教育委員会蔵。注8.「福寿堂年録」柳澤文庫 蔵。注10.個人蔵。注11.「諸役所御用帳面目録書上/仮題」・注12.「横田家文書」個人蔵/複写本柳澤文庫蔵。注13.「新古 見出并留方」『豊田家文書』 大和郡山市教育委員会蔵。 参考

★次回は<12 ◆本丸 常盤曲輪・玄武曲輪・二之曲輪毘沙門曲輪>を予定しています。
12 ◆本丸 常盤曲輪・玄武曲輪・二之曲輪毘沙門曲輪
<・本丸追手の構造・追手(梅林)門発掘調査・常盤曲輪の結構・常盤曲輪石垣修理工事・追手東隅櫓、多聞櫓の発 掘調査・ 本丸搦手の馬場先門・武曲輪は水之手曲輪か・七つ井戸と内堀の井戸・毘沙門曲輪の結構・追手向櫓、 多聞櫓の発掘調査>
077◇本丸追手の構造
 今回からいよいよ郡山城本丸(本城)の話題に入る。なお、本丸追手虎口の枡形については<10◆陣甫曲輪の梅林門虎口 >の項ですでに述べたので重複を避けてここでは記さない。
 
 郡山城本丸の正門を古くは“追手門(大手門)”あるいは“一庵丸門”といったが、柳澤家の入部に際して“梅林門”と改称さ れた。
 昭和58年11月3日に復原をみた現在の梅林門(写真↓)は、梁間3間に桁行10間の櫓門様式で、その外観は白漆喰塗り 小舞壁仕上げのため、白木の柱が露出した古式の建築意匠である。梅林門枡形虎口を構成している黒塗り(柿渋墨)の厳め しい櫓群のなかでは、ことさら異彩を放って実に優美な城門である。しかし、大戸の扉は上部を“透かし作り”とし、冠木上部の 二階櫓内には“石落”(いしおとし)が隠されているなど城門としての機能に何らの不備はない。
梅林門
 梅林門は、復原に拠るべき詳細な史料が事前の広範な調査によっても発見できなかったため(今も)、正保の絵図(前出)を 採って、日本城郭建築の権威、藤岡通夫博士が考証されたものである(以後の復原も発掘調査の結果と正保の絵図に準拠し て進められた)。
 筆者も博士が各部のおさまり図に自ら墨を付けられるところを現場で見せていただいたが、さすがの宮大工もその矩計術に は舌を巻いていたのを忘れることができない。なお、屋根の意匠(下り棟の有無)や役物瓦の鯱瓦・鬼瓦・鐙瓦・軒瓦などにつ いては筆者の意見も聴き入れていただいた。ただ、鯱瓦に雌雄の別をとられなかったのは残念であるがコストを考えると納得 するしかない。
 また、桃山様式とあって門正面の冠木に金箔押しの飾り紋がつけられることになり、紋章については豊臣秀長(1541-1591) の菩提寺所、京都大徳寺(北区紫野)の塔中大光院(小堀明堂住職)への現地踏査により、秀長公の木造座像台座の香狭間 にある桐紋「五・三の桐」(写真↓)を郡山豊家の紋章と確認したのである。
桐紋
 大光院は、豊臣秀吉の信任が篤かった古渓宗陳和尚(1532-1597)をその開祖として秀長没の翌年、文禄元年(1592)に建 立されている。やがて豊臣家滅亡ののち慶長4年(1599)、藤堂高虎(1556-1630)が旧主・恩人の秀長の菩提寺として郡山 の箕山にあった大光院をここ大徳寺内に移したもので、同院には高虎が造らせた大光院殿の木造座像(像高90cm)を安置さ れるほか、墓石(五輪塔)や生前の姿を写した画像「大光院殿真像」があり、そこには“己之(文禄2年)春正月22日”(秀長三 回忌)付けの古渓和尚の賛がある。この画像は長谷寺(奈良県桜井市)の所蔵になるものと瓜二つで、その成立も同時期であ る可能性は高い。こちらは天正16年(1588)9月、秀長の支援によって堂宇再建が成ったため、その没後の三回忌に「長谷寺 伽藍中興」として納められているものであり、かつまた同様に秀長の墓所もある。なお、大光院は、文政7年(1824)の火事に より焼失したがやはり藤堂家によって手厚く再建されているのである。
 ところで、梅林門の竣工直後、「五・三」、「五・七」の桐紋で論議を呼んだが、今述べたとおり京都菩提所にその根拠を求め ているので、ここで蛇足を記す必要もないが、一般に豊家と言えば“五・七桐紋”、“太閤桐紋”などという固定観念があるが、も ともと家紋、ことに植物をモチーフとする紋章は写実的で自由なデザイン・変化を起源としている。したがって、ほんとうはどちら も正しいとも言える。のち、大名統制や格式社会の進行を要因として、わけても近世以降において定型・画一化されて行ったも のである。
 閑話休題。梅林門をくぐり、枡形番所(のち廃止)前を抜けると、そこには四方とも塀に囲まれた長さ約55m、幅約10mのコ の字形細長い坂道がある。これは梅林門外の「外枡形」に対する「内枡形」のような構造をもつ厳重な虎口構造であって、決死 篭城の際、付近にあらかじめ用意された五郎太石や栗石を投げ込んで梅林門を内側からふさぐ(全部を埋めるわけではない) 構造となっていたと伝えられるほどで、やはり、ここは本丸の追手として郡山城の守りの要となるもっとも堅固な虎口ではある。
 内枡形の坂を登れば突き当たりの鉄砲土蔵前に練塀があり自ずと道は左右に分かれる。左側は本丸二の曲輪の毘沙門曲 輪への入り口である“久護門(ひさもりもん)”があり、右側には本丸常盤曲輪との仕切門があった。この仕切門は、第二次本 多時代には“法印曲輪中仕切門”と称されたが、柳澤時代の史料には特定する名称は明記されていないが、先学の書き残し たものには“東仕切り門”と記すものもある。梅林門西の取り付きから毘沙門曲輪入り口の久護門までには狭間塀があって、 矢狭間、鉄砲狭間ともに4か所ずつ設えてあった。また、梅林門内東側の石垣上から北へつづき、そして西へ折れ曲がって、 やがて鉄砲土蔵取り付けまでのびていた塀の延長は、仕切門部分を除いて35間5尺7寸5分あって、ここはめずらしく練塀と なり、矢狭間が9か所、鉄砲狭間16か所が設けられていた。

078◇追手(梅林)門発掘調査
追手門発掘
 梅林門を中心とする虎口の全容が明らかにされたのは、昭和58年1月20日から、同年3月22日までの2か月を要しておこ なわれた事前発掘調査(1.)によってである。調査の担当は奈良県立橿原考古学研究所の佐藤良二技師であった。この発 掘調査は過去において郡山城で実施された幾度かの事前調査のなかでは最大の規模で、その遺存度の高い遺構は郡山城 本丸追手虎口のありようを如実に示すすばらしい成果であった(写真↑/梅林門(追手門)櫓正面より)
 なお、調査後、礎石などの遺物は埋め戻されて“原状保存”のための最大限の努力がおこなわれたのである。つまり、復原 梅林門の一階の門部分は、遺構保存のため約20cm分、地表が原状より高くなっているわけである。ことに、調査終了直前に おこなわれた近世遺構面よりさらに深いトレンチ(試掘溝)からは、奈良時代の須恵器の検出を得たことは佐藤技師の見識で ある。
 関連して附言すれば、この周辺(100〜200m)地区には、平城京九条大路跡や殖槻寺跡(後出)があり、昭和35年9月2 6日、付近の大和郡山市水道局地内(植槻町)でおこなわれた水槽工事の際の平瓶・瓶・蓋杯の三点ほか、同地において昭 和45年9月に“複弁蓮華文(珠文帯付)鐙瓦”片が、昭和50年11月の同水道局拡張工事による“扁行唐草文(珠文大帯付) 宇瓦”片の出土を知ることができる。ついでながら、城跡西門土橋東南脇の土居下の瓦礫のなかから、昭和45年10月、筆者 が“複弁蓮華文(無珠文)鐙瓦”片を発見している。
 
079◇常盤曲輪の結構
 本丸に属する“常盤曲輪”は、やはり柳澤時代に改名された雅名で、それまでの本多家時代には“本丸法印曲輪”と称され ていた。法印の名称は遠く豊臣秀長の家老で50,000石取りの横浜一庵良慶がここに邸地を与えられたことにちなんでいる し、また、梅林門ももとは“一庵丸門”と称したのである。以下は、「本丸常盤曲輪・玄武曲輪絵図」↓を参照されたい。なお、曲 輪名の「常盤」は、柳澤藩政期の資料に記される用字をそのまま用いているので、筆者は、「常磐」とは表記しない。
常盤・玄武曲輪図
 豊臣秀吉の弟秀長(1540-1591)は、天正13年(1585)9月に郡山へ入城し、大和・紀伊・和泉三国で100万石の太守とし てこの地に君臨したが、兄の政治を輔けて大概は大坂城の西の丸にあった秀長屋敷に詰めていたので、実質上、郡山の政治 向きのことは一庵(横濱氏)良慶・羽田長門守(小泉城)・小川下野守(郡山城下)ら三家老ほか八老中にゆだねられていた。 この時代、10,000石の藤堂高虎や、5,000石の小堀正次(慶長5年(1600)には備中松山代官16,000石)らも、ともに 秀長の家臣として郡山に居住した。ちなみに高虎の6女は横浜一庵(晏)へ、7女は小堀政一(遠州/正次の子)の正室であ った。高虎は、郡山城内の一郭を与えられて、その諱からその地を“与右エ門丸”と称したという伝承が残っている(注2.)。天 正3年(1575)、長浜において秀長に仕えて10年、このころには秀長の股肱の将として有能な高虎の名がみえてくる時期であ る。ただ、その曲輪が郡山城のどこかは今もってわかっていないが、憶測すれば、三の丸の五左衛門坂ではなかっただろう か。
 常盤曲輪の面積は2,573坪あった。曲輪内東南の角には、高さ3間3尺の石垣上に、この曲輪唯一の二重(二階)の追手 東隅櫓(写真は東面・は西面入口)があり、下の重が2間5尺に3間2尺5寸、上の重が2間2尺に2間5尺(南北棟) で、石落しが2か所、窓5つ、鉄砲狭間が5か所あった。また、この隅櫓につづいて梁間2間半に桁行19間の東多聞櫓が北側 に取り付いている。さらに隅櫓の西側に梁間2間半に桁行21間半の多聞櫓がつづき梅林門の二階部分につながっていたの である。このうち追手東隅櫓と東多聞櫓は、梅林門に引きつづき昭和59年11月に復原されている。
追手東隅櫓写真東隅櫓
 “十九間東多聞櫓”の北方へは長さ13間の狭間塀が建ち、矢狭間2、鉄砲狭間5つが東方柳曲輪の桜門向きに設えてあっ た。この狭間塀から北側は郡山城の鬼門(東北角)に当たる石垣が一段高く(約2m)積まれていて、この石垣隅には“鬼門除 け”のため東北両辺とも10mを測る入角(凹み)がこしらえられている。この石積みの台地は、その結構から当初は明らかに櫓 台として構築されたと考えられるが、正保の絵図にもあるように櫓は置かれなかった。そして、矢狭間11、鉄砲狭間28か所、 延長32間3尺の狭間塀をめぐらせた石垣の台(以下、本稿において「物見台」という)となっていたところである。
 物見台北部の石垣は崩落したまま今日に及んでいるが、明治以後の崩落ではなく藩政時代からのようである。ここの土居の 総高は7間1尺あった。ここから玄武曲輪との境にある南の土居上を西へ、そして玄武曲輪の西端にあった玄武門まで狭間塀 がつづき、その延長は61間2尺4寸5分で、そのなかに矢狭間15、鉄砲狭間29か所が玄武曲輪方向へ向けて口を開けてい た。さらに、玄武門取り付けから厩曲輪との境までの左京堀を臨む土居上には、62間3尺1寸の狭間塀に矢狭間が10か所、 鉄砲狭間34か所が切ってあったのである。
 なお、このほか常盤曲輪(近世)には建物はなく、広大な広場となっていたのである。
 
080◇常盤曲輪石垣修理工事
 常盤曲輪の北東の一部と、玄武曲輪角の物見台の東側石垣は昭和20年代から傷みが激しく一部に崩落箇所もあった。昭 和46年9月の台風29号に伴う大雨などのによりその傷みは一層顕著となり非常に危険な状態になっていた。このため第一 期修理(修復ではない)工事は、昭和47年5月に着工し、同年8月29日竣工した。この第一期工事により、五軒屋敷堀北端 の堀留から常盤曲輪下段の犬走り下の高さ2間半の石垣は、北端から南へ約30mメートルのところで、50cmほど東へ突き 出した出角であったが、工事の関係で石垣面をもとの石垣の堀側に出してこれを積み替えられた。したがって、現状では角石 と石垣面はほとんど一面になったように見える。また、引きつづいて第二期修理工事が翌48年1月に契約されて同年6月の竣 工された。この工事では、常盤曲輪の物見台の東北面二面の石垣高さ2間、天端値で延長約15m分の積みなおしと、物見 台から半間下がってなお南へ十九間多聞櫓手前の入角(横矢)までつづく約20m分の石垣は、このときの工事で、原状高1 間半の低い石垣を、石垣底部からつづいていた土居面(地山)を切土して、高さ約6mの石垣に大きく改変(写真)され、ため に積み石量も大幅に増加することになり新規の花崗岩を相当量用いられたのである。
常盤曲輪犬走り写真
 この地区は古代の“昔堺海道”であったことは本稿において何度ものべているが、この修理工事中に地山の存在を確認でき たことと同時に、この上段部の石垣と土居は、地山の中ほどから上を石垣とし、下部を土居とした構造であったことも改めて確 認することができた。また、上段石垣の底部の根石を固めるため通常用いられると考えていた枕木や杭などは傾斜地であるに もかかわらず一切発見されず、地山に直接根石を据えて築造されていたことは大きな驚きであった(松陰門参照)。
 なお、施工された積み石が新しいため、遠くからでも見えるこの石垣面は古城の景観を損なうとして積み石に古色付けをされ るというハプニングがあり、これは石材の産地や岩石種の検討が不足したものと思われるが、30年を経た今日ではほとんどわ からない状態になっている。このことは同時に、壊れ難い石垣と“野面積み”を誇る郡山城において、一旦崩壊があればその復 原には適正な技術(穴太積み)と費用の裏づけが必要になるという大いなる悩みのあらわれである。
 また、“打ち込みはぎ”や“切り込みはぎ”と呼ばれる石積みをもつ城郭、たとえば大坂城や他の城跡の石垣修復に見られる ように、現在の感覚ではあとから付加された石積みは、古色付けなどはしないのが常識となっている。なぜなら古色は年月と ともに自然に付くし、何よりも後補箇所を明確にしておくという考えに立脚しているからである。しかしながら、当時担当された 方々の努力の結果であることに心しなければならない。
 ここで述べた常盤曲輪東北部の修理工事に関連して、注意が必要なのは、本稿の<10陣甫曲輪>(常盤曲輪下の犬走りの 項。)のところで述べているように、正保の絵図に見るこの辺りの結構は、元禄の絵図以降、また、現況とはあまりにも違いす ぎるということと、さらには、前項で述べた物見台北部石垣の崩落は、すでに藩政時代のものと推考したのは、崩落の状況か ら見ての判断であるが、その何よりの証左は、柳澤家入部のころ普請奉行支配の棟梁が城内の要害廻りを維持管理(伺い書 を必要としない繕い)するため毎月見廻りをしていたことである。その箇所のなかには“桜門西方の本丸丑寅隅”が指摘されて いることに注目しておきたい。
 なお、工事地区は一時農耕地とされたためもあってか大量の遺物が投棄されていた。このため、筒井・豊臣・水野・松平・本 多・松平・柳澤など各城主家の家紋押しの鐙瓦や軒瓦片などの瓦礫で集積地をなしていた。中でも松平(忠明)家の九曜紋 (大久保長安ではない。)や水野家沢瀉紋、本多家立葵紋、松平(信之)家の酢漿草紋、柳澤家一っ花菱紋などは濃い遺物で あった。筆者も小・中学生のころ幾度となく訪れたところで昭和28年夏には、飛鳥時代の山田寺(奈良県桜井市山田)型の “せん仏”片(写真)を発見している。付近には「殖槻寺址」があることから殖槻寺のせん仏ではという話しもあるが不明であ る。
せん仏写真
 ここから左京堀を北へ越えた堀之側一帯は殖槻寺跡(和銅2年(709)“植殖の道場”推定地)とされる地区で、同寺には山田 寺と同范の“せん仏”が用いられていたのかも知れない。ついでながらこの辺り左京堀の東西に走るラインは、平城京九条大 路の跡で、ここから直線約1km東に羅城門跡がある。
 とにかくここにあった瓦礫は大量で、瓦片をとりあげては割り、その断面を観察してこれを繰り返すことによって一定の類型的 傾向、つまり、土質・礫砂の混じり具合や焼成、わけても瓦製作の過程でおこなわれる“蹈鞴”(たたら)癖は、非科学的な方法 であるにかかわらずそれを特定することができた。ことに豊臣時代のものは一見して判別できる特徴を持っていたことを今も覚 えている。
 ところで現在、常盤曲輪には市立の市民会館(城址会館)が建っている。この建物は、明治41年(1908)に最初の奈良県立 図書館として奈良公園内に建てられたもので、昭和43年ここに移築された、城跡とはゆかりのない建物である。ときの奈良県 技師橋本卯兵衛によって設計された木造総松・八棟造りの近代和洋折衷様式をもつ数少ない建造物として平成9年3月に県 指定文化財となった。

081◇追手東隅櫓、多聞櫓の発掘調査
 現在の追手東隅櫓・十九間東多聞櫓は、梅林門(追手門)に引きつづき復原された櫓であるが、事前の発掘調査が昭和59 年1月23日から同年3月8日までの間、大和郡山市教育委員会によって実施された。担当は服部伊久男技師であった。この 発掘は多くの事実が明らかにされた意義深い調査となったが、そのなかでも、ここでは追手東隅櫓に附櫓が存在したというこ とに注目しておきたい。というのは、発掘調査報告書(注3.)に続櫓(附櫓)の存在の証左として引かれている「郡山城古図」 注4.)と、いま一つの「郡山城之図 明治初年」(注5.)は、残された数少ない資料のなかでも、附櫓の有様(平面図)をよく伝 えているものとしてここに紹介しておきたい。絵図類には、その特性から建物などを特定するうえで、ことに精度の点で多くは期 待できないという一般的評価があるが、この発掘調査によってあながちすべてがそうではないという実証が得られたことと、わ けても、その精度の高さが評価されたのは「郡山城之図 明治初年」(前出)である。この図は絵図類のなかではもっとも新し い部類に属し、筆者は明治3年のころには成立していたと考えている。それは、郡山藩が太政官に願って、明治3年(1870)3 月、“城郭を爾来破壊にまかせて修理しないこと”を条件に城郭建物の存続を許可されたころまでには成立していたと推考した からである(以上、絵図成立部分訂正2006.10)。本図は今後の郡山城城郭史研究に欠くことのできない史料として注目される べき絵図(192×189/平面図)であるとともに、このように考古学的実証から残された史料の再評価がなされることは意義深い ことであるといわなければならない。 なお、確認された附櫓については、近世初頭の正保期郡山城には存在しなかった建物と して、復原追手東隅櫓には反映されていない。
 また、追手東隅櫓下の上下二段の石垣は、ともに出角付近で石垣全体におよぶ大きな積み替えや、継ぎ足しが確認でき る。中でも櫓台の南東面はきわめて顕著であり、恐らくは地盤の沈下、あるいは東隅櫓の建て直しの際、同続櫓の基礎部分 である石垣の天端をそろえる必要から、継ぎ足された痕跡のあることや、同時に、櫓下の石垣に関しても、地震等のためか上 部石垣などに崩落があって、下段の石垣をも破壊(出角部分)したもののように筆者は推考しているところである。
 
082◇本丸搦手の馬場先門
 馬場先門は、郡山城二の丸と本丸との間を仕切る関門であることは本稿<09>の厩曲輪のところで述べている。門の建築様 式は、冠木門(高麗門)で名称は“北仕切門”などと呼ばれたが、第二次本多時代は“栗の木門”と称されていたので、単なる 雅名ではなく、用材が耐久・耐湿性に優れた“堅木”の栗であった可能性は高い。ここも柳澤家入部によって馬場先門と改称さ れたのである。
 その構造は北の左京堀境から南へ12間(天端/土塀狭間無し)の短冊形の土段に表側に当たる厩曲輪側を石垣とし門内 東側は土居となっていた。また、これと対応する反対側(南東)の土段(狭間塀4間3尺5寸、矢狭間1、鉄砲2)も門外側を石 垣とした同仕様で、これらを食い違いとした間に、門を設ける仕切門様式である。石垣等の高さは不明であるが2間程度と思わ れる。現在は、内堀回りの城址北西部をめぐる散策道の傍らに門跡の碑が建てられているのみで、その痕跡はとどめていな い。
 なお、馬場先門から堀下へ内堀にかけての土居のなかに、石垣を積んだ犬走りを上下二段に設えてあったし、馬場先門脇 から内堀を横切り、天守曲輪下の犬走り上までには、本丸と二之丸の曲輪境として二重の矢来が結われて浸入者を防いでい たところでもある。
 このほか常盤曲輪に関しては、現在の散策道東口の近くに庭園跡と考えられている三角形の池跡がある。この池跡からは 鯱瓦片が出土したことがあり、これまた柳澤文庫に保存されているところである。なお、その南側に短冊形の小池があるが、こ の曲輪が昭和20年代から畑として使用されていたときに掘られた用水池であるが、どのような旱でも水が枯れない不思議な 池として知られている(「本丸常盤曲輪 玄武曲輪絵図」↑参照)。

083◇玄武曲輪は水之手曲輪か
玄武郭
 本丸玄武曲輪へは常盤曲輪の西部にあった“しとみ”の“一文字土居”によって南から東への枡形を形成、その東に玄武門 (冠木門(埋め門)を設けて、ここから曲輪へ出入りしたが、ここで間違えてはならないのは玄武門の東側、つまり、玄武曲輪が 常盤曲輪より城外側であることだ。曲輪が袋地の行き止まりの“捨て曲輪”であることからこのような錯覚が生まれる。つまり、 「郡山藩記事」(注6.)にあらわれる納戸曲輪門の“東向”は正しいのであって、“東向”をして、玄武曲輪の東に門があったとす るようなとんでもない推量になってしまうのである。
 常盤曲輪と左京堀の間に位置して、北方に2mほど一段低いところに東西約80m、深さ約2mの水堀をうがち、北方への備 えとしていた(写真↑/古石垣の崩壊が見られる曲輪東北部)。玄武曲輪内水堀の北側の狭い東西の平地には、練り土蔵5棟 を設けて塩硝(焔硝)を備蓄してあった。そのうち、梁間3間に桁行3間半の土蔵が3か所と、梁間2間に桁行3間の土蔵が2か 所が建てられていた。ここには年寄支配のうち、御納戸御用役兼帯の武具奉行の支配下、佃富之助が塩硝拵役(注7.)として 勤めたところである。
 この曲輪は、先代の本多時代の前半には“納戸曲輪”と称され、柳澤家への引き継がれたころには“塩硝蔵”と記している。 やがて柳澤時代に“玄武曲輪”と改められたものであるが、古く正保の絵図にもこの曲輪(曲輪の名記載はない)中央に水堀 が確認できることからも近世郡山城の築造当初から、計画され縄張りがおこなわれた曲輪であったことがわかる。
 ところでここで考えておかねばならないのは、焔硝蔵には必ず防火手段などの事由から水堀が必須の条件かといえば、そう ではないだろう。つまり、この曲輪が当初から焔硝蔵として構築されたのかどうかについても検証しておかなければならないと いうことである。さらに、ここを“山里丸”とするものまであって問題をさらに複雑にしている。ところが、名称の“玄武”は四神の 一で、北方に配する水神といわれている。こうした考えに立てばこの曲輪ははじめから単なる焔硝蔵を構えたのでなく、むし ろ、城内の飲料水をまかなう井戸(湧水/七つ井戸参照(後述))を設けた“水之手曲輪”であったと推考することもできるので ある。なぜなら、隣接する左京堀を構築したとき、掻き揚げによる掘削でこの地付近が地下水に恵まれた湧水地区であることを 臭覚鋭い先人が、わからないはずがないからである。それほどにこの地区は湧水に恵まれたのである。
 今1つは、郡山城内の玄武曲輪の位置が本丸の北南側の重要な防衛線でありながら、左京堀を越えるとすぐそこは内城外 の侍町であることや、地形上、北方(大坂口方向)の総構えからの攻撃に対して、備えに幾分の弱点があり、これを補うために 設けられた守備上の要所としての腰曲輪(納戸曲輪)であるということが、この東隣につづく堅固な石垣(正保の絵図/前述) の存在とともにそのことを物語っている。また、曲輪入り口の玄武門は同時に埋め門でもあり、“捨て曲輪”としても機能すべく 考えられていたのである。
 以上のように、わずか719坪の腰曲輪が郡山城のなかでも重要な拠点であった証としてとらえておく必要があるということで ある。なお、玄武曲輪北方の左京堀に面する土居上には、延長63間1尺狭間塀が屏風折に設けられ、狭間数は、矢20、鉄 砲36を数える。
 玄武曲輪の水堀は現在、空堀状態で西部の過半は埋め立てられて旧城内高校の弓道場となって使用されていたところであ る。また、左京堀を望む土居上の狭間塀跡は、今は朽ち果てて粘土の高まりとなってわずかにその跡をたどることができる。

084◇七つ井戸と内堀の井戸
 郡山城は昔から各所で湧水に恵まれていた。その1つの典型が“七つ井戸”の水道である。
 第二次本多時代には水道奉行がこれを支配していたが、のちの柳澤時代は、藩が水道株仲間(掘削権利者)による運営を 許可した。寛政13年(1801)には、井戸の数33か所あったという(注8.)。七つ井戸の水道は飲料水ということと同時に、当時 の酒造業と大きく関わっていたから、水道株仲間というよりも酒造株仲間の強い影響力が働いていたとみなければならない。
 ちなみに、享保9年(1724)のころの郡山における酒造屋は38軒、その造り高は合わせて3280石で、中でも本町の永原屋 八右衛門(160石)をはじめ、同町の笹屋甚七(130石)・扇屋彦十郎(120石)、堺町蝋燭屋六兵衛(120石)などは、この 水道水を用いて酒造業を営んだ豪商であった(注9.)。
 “七つ井戸”の水道系統図(注10.)によると、七つ井戸は、堀之側の侍町の多田内記・永田隼太の両屋敷(安政年間/現、 郡山保健所と老人センター。)の向かいの左京堀土居のなかほどにあった。その跡地は、県道城廻り線の道路工事の際、幅 員拡張のため昭和30年代に埋め立てられて今はその跡を見ることはできない。(現、法務局郡山出張所前に七つ井戸の碑が 建てられているが井戸は200mほど西に当たる。)
 この井戸は文字通りの七つあって、これを3系統に分水された水道で、七つ井戸の西端にあった大井戸1基からは、堀之側 の侍屋敷に1軒、下流の本町の北側2軒に給水。また、中央の4基の井戸からは、袋町(北郡山町)角の南町奉行所(役宅) に2口、その向かいの侍屋敷への2口から、さらに6口に分水し、また、末端は木屋の口(北郡山町)と塩町の合わせて6口が 商家へ給水していた。さらに、七つ井戸の東端の2基の井戸からは、竪町(北郡山町)侍町辺へ給水されていたようである。
 また、この七つ井戸の水道とは別に植槻筋(植槻町)の侍町の小路各所にあった“元井”約5か所からは、本町の北側3軒 と、堺町へ2軒、新町、中町(現、新中町)へ約3軒給水されていたのである。この植槻筋の水源となった近くは、大和郡山市 水道事業発祥の地として、昭和13年(1938)の事業の開始から今日まで大和郡山市水道局本局が置かれているところであ る。この付近一帯に掘り替えられた深井戸数本からは今も水が汲み上げられ、主に郡山地区に給水がつづけられているので ある。このため、冬暖かく、夏冷たい“美味しい水”として親しまれてきたところである。なお、七つ井戸の水道管となった竹筒や 樋、継ぎ手は道路工事などによって発掘され、水道局で保存されている。
 なお、馬場先門下の内堀にあった井戸(「本丸常盤曲輪 玄武曲輪絵図」↑参照)は、奈良県立郡山園芸学校(現城内高 校)のころか、実習畑用の用水としてポンプで揚水して使用されていた。この辺りの内堀には各所に湧き水があり、昭和30年 頃までは鉄気の水が湧き出していたところであるが今は枯れている。

085◇毘沙門曲輪の結構
@ 毘沙門曲輪は、本丸天守曲輪(本城)の東方に位置する面積1,899坪半の曲輪である。正保のころは、「二の丸」と称 し、第二次本多時代に本丸二之曲輪と改称、そして、柳澤家のとき公儀に本丸二之曲輪、通常を、毘沙門曲輪と称した。「 丸毘沙門曲輪絵図」↓を参照いただきたい。
毘沙門曲輪図
 本城への表口に位置する曲輪で、その名称からもおろそかにはしていないことが知れよう。毘沙門は天部四天王の毘沙門 天をあらわす語であるが、居城の曲輪名に、これを選んだ柳澤家にとって特別な意味を有する曲輪である。
 それにはまず、曲輪への唯一の入り口である“久護門”について先に述べておく必要がある。というのは、柳澤家のいくつか ある江戸藩邸のなかで、駒込の下屋敷には、今日も“和歌の名園”とうたわれる“六義園”(むくさのその)がある。ここでは、柳 澤吉保の公用日録である「楽只堂年録」にその根源を求めておかなければならない。すなわち、元禄15年(1702)10月21日 の条のなかで、六義園の丑寅(北東)に設けた“久護山”(ひさもりやま)に毘沙門堂を設けて毘沙門と称し、かつ、“六義園の 記”にみえる名所“久護山”を吉保は次のように説明している。「毘沙門と“ひさもり”とは五音相通(50音の同行、同段の音。) である。播磨を“はりま”、雁(がん)“かり”と読むように、毘沙門(天)は北方多聞(天)といって、須弥山(『倶舎論』)の丑寅を 司るために、鞍馬(寺/本尊毘沙門天。)も京都の丑(北北東)の方角にある。久護山の方位は道理にかなった相応の土地で あって、六義の園を長く久しく守(護)り給うべき霊地である。」(注11.)。また、遠く武田信玄公の躑躅ヶ崎館の天守台上に祀ら れた毘沙門堂も柳澤家との関係から憶測して故なしとしない話しである。また、信玄生涯の宿敵となった上杉謙信公の春日山 城にも毘沙門曲輪の郭名を見出すことができる。
 このようなことから吉保の子柳澤吉里は、ここ郡山城においても長く久しく城(家)を護り給えと祈念して毘沙門を郭名としたと みてよい。したがって久護御門を、“くごごもん”ではなく、“ひさもりごもん”と唱えるのがふさわしいといえるわけである。
 また、毘沙門を郭名とするからには、ここには毘沙門堂が無くてはならないと考えることに不自然さはない。毘沙門天に関し ては、断片的な記録ながらその存在を示す史料がある(注12.)。史料不足ながら二三の記録をもとに、ここにあえて1つの考察 を示しておきたい。
 毘沙門曲輪の久護門(冠木門)を入ると左側(東)に、かつては“久護御門御番所”があった。ところが、明和4年(1767)3 月、“御省略”のためこの番所は締め切り(閉鎖)とされた(注13.)。つまり、藩費倹約令「御身代建直し」のため各部・各所でお こなわれた省略のなかの1つで、城代支配の常設番所であった久護門番所が閉鎖となって、以後曲輪内は、城代組番士の見 廻りに改められたのである。(関連/『和州郡山藩家中図 安政年間』(前出)に番所として朱色に彩色されているのは、“御小 姓具足入蔵”(後述)を誤って番所としたもののようである)このことは、毘沙門曲輪を常時監視下におくことができず、また、何 よりも日常的におこなわれた毘沙門天の祭祀に不便を来すことを意味している。
 はたして、その5年後の明和9年(11月16日「安永」と改元。)7月5日、それまで御納戸預りとなっていた毘沙門天像を大 書院の庭にあった第二次本多時代の“御涼所”跡に安置されている。これは、数年間にわたって実施された藩費倹約に一定 の成果をみた三代藩主柳澤伊信(1724-1792)が、この年参府の発駕前におこなったことであり、かつ、伊信はこの翌年の安 永2年(1773)10月3日、隠居して家督を柳澤保光に相続している。つまり、家の代替わりに先立って計画的に消化された諸 事の1つとしておこなわれた毘沙門天の安置であったととらえることができるのである。
 毘沙門堂は、こののち藩政時代を通じて二の丸屋形の東南部の一隅にありつづけたのである。なお、毘沙門堂がもとあった 比定地として毘沙門曲輪の中央東寄りにあったとされる小池辺りを推定地としておく。
A 次に、久護門の右側(西)にあった鉄砲土蔵について話題を移したい。鉄砲土蔵は梁間(南北)3間に桁行18間の建物 で、常盤曲輪と毘沙門曲輪との境をなしていたが、土蔵へは毘沙門曲輪から入った。
 ちなみに郡山藩15万石の軍役は、本役で兵士240騎、弓90張、鉄砲500挺、長柄230本、旗30本とあるから、すべての 鉄砲がこの鉄砲土蔵に常備されていたわけではないが、藩の鉄砲数をとらえるうえで参考にはなる。幕末のころは、家臣がこ こから当時新式のケベール銃などを借り出して順次様式調練をおこなっていたから、藩砲術師範家の各流派も次第に古式の 火縄銃から新式銃の採用とともに洋式の調練を取り入れて行ったのである。1868年当時、郡山藩の鑓奉行で銃隊総監兼帯 の近藤亘理助は南蛮流の名手として江戸でも著名な人物であった。このほか藩師範の流儀は、藤岡・荻野・武衛で、江戸藩 邸においては高島流砲術を採用していた。
B さて、久護御門番所(前述)の奥には、梁間(南北)3間に桁行11間の“御小姓具足入御土蔵”があった。小姓具足は、城 主に付き随って近侍する番方の扈従(こしょう)組の具足を、公儀軍役に基づいて藩側で常備したので最低限240領はあった ことになる。郡山藩では、自前の具足を持たない家臣のうち役儀を問わず、かつ、扶持米取りの者から100石に満たない知行 取りの者に適用した現物貸与制度である。言うまでも無いが、100石以上の家臣には具足などを設えておく義務があったこと になる。小姓具足の実数は国元で727領(内、江戸分113領)ほどはあった。また、具足や武器類の調整・修繕・管理などに ついては、二の丸屋形表長屋内に武具役所があり、幕末のころは、年寄支配のうち武具師として山下運平が、具足師として 明珍半左衛門ほか1人が勤めたのである(注7.)。
C 毘沙門曲輪内には櫓が2基あった。その1つ追手向櫓は、すでに述べたとおり梅林門向かいに位置する二重櫓で、下重 の平面規模は城内でもっとも大きく4間2尺に5間で、上重は2間半四方(南北棟)である。
 今1つは、曲輪の東南角にあった弓櫓で、その規模は下重が3間半に4間、上重が2間5尺5寸に3間(南北棟)となってい る。ところが、この櫓は西と北両翼に続櫓(多聞櫓)をともなっているため一階はL型の平面をもっていた(注14.注15.)。北側の 続櫓の旧状については窺い知れないが、西側については、弓櫓下の南面石垣が南東角から西に天端値で約14m(7間)分 のところまで出角となっており、この位置までが続櫓の基礎部分であったことがわかる。なお、この出角はわずか天端で1m足 らずの西向きの横矢掛かりとなっている。弓櫓は、慶応元年(1865)の大地震により、櫓の東側下重で桁行5間分崩落し、これ につづく北の続多聞櫓も梁間2間半、桁行5間が倒壊、櫓下の石垣も上の方で長さ12間4尺、下の方で長さ11間、その高さ 5間が崩落するという大きな被害を受けている。藩(柳澤保申)はただちに同年6月、公儀に対し“以連々朱引之通、如元正保 修補仕度奉伺候”と伺いの絵図を提出している(15.)。この絵図は現在、独立行政法人国立公文書館(内閣文庫/千代田 区北の丸公園)に正本が、柳澤文庫にその控えが、各一葉ずつ所蔵となっているが、この絵図面により弓櫓とともに続櫓の存 在を確認することができる。なお、この崩落箇所はのち修復されているが、積石の不ぞろいだけでなく積み方が稚拙で、同じ石 垣面を構成している北側の“打ち込みはぎ”の美しさとは比較にならないほどで、今日もその痕跡(写真↓)を明確にとどめてい ところである
毘沙門積み直し石垣
D また、毘沙門曲輪には延長96間半の多聞櫓あった。その内訳は、南方の二の丸屋形向きの多聞が32間半、窓7か所、 鉄砲狭間19か所と、それに出入り口の切戸が1か所あり、このうち長さ10間分は毘沙門曲輪南西の角から内堀を渡って天 守曲輪の竹林橋櫓下の石垣に突き当たる二重の多聞櫓である。二重だからといって天守曲輪との連絡通路ではない。ここ は、明治39年(1906)に毘沙門曲輪跡へ柳澤邸(現、柳沢文庫。)が建築され、これにともなって天守曲輪の東側の多門櫓跡 を一部切り通し、その積み石を二重多聞櫓跡へ継ぎ足して毘沙門曲輪とレベルを整えられて通路となったところである。現在、 柳澤神社から東の柳澤文庫に向かうところに“一つ花菱”の鏡板の付いた瀟洒な小門があるのがそれで、二重多聞の原状 は、今の石垣面の下約1.8mのところにある天端石(転用材)の列によってその痕跡を明確にとどめている。
 つづいて、毘沙門曲輪東部の弓櫓から追手向櫓まで、長さ51間半、梁間2間半の多門櫓が石垣に沿って連なっていた。窓 10か所と鉄砲狭間20か所が陣甫曲輪に向かって開けられていた。
 また、追手向櫓から梅林門取り付けまで、2棟折れ曲がりの多聞櫓は、合わせて長さ12間半(内、梅林門横の多聞櫓約8 間)、梁間2間半(第二次本多家時代の推定値(後述)。)あり、窓5つと鉄砲狭間5か所があった。
 なお、このほか毘沙門曲輪西部には、本丸天守曲輪の表門である白澤門に渡る極楽橋が掛かっていたし、また、文久2年8 月、毘沙門曲輪の松に落雷したという記録が見えることなどから、曲輪内の多聞櫓の後方には植え物として“しとみの松”が植 えられ、曲輪内を包み隠していたのである。
E 毘沙門曲輪の現柳澤文庫南の内堀に面している石垣は、中央で石垣崩落のあと(現況は一部土居。)が見られる。また、 そのつづき西寄りの曲輪の南西角近くから石垣全面に滑り込みが認められる。もともと地山を掻き揚げた堅牢な地盤と思われ ることから、不同沈下などは考え難いところであり、同時に郡山城跡では石垣全面の滑り込みはこの地点だけに実にめずらし い。堀底の地業に手抜きがあったためか、地震などの天災によるものかはわからない。こうしてみると、現在、柳澤文庫への坂 道のところも石垣崩壊の跡であることを考え合わせると、やはり、毘沙門曲輪は元和拓修の度合いが、その石積みの“打ち込 みはぎ”とともに大きな地形変更を受けた可能性を示唆しているのかも知れない。
 なお、この部分に関して興味ある史料として、数ある全国城郭(下)絵図のなかで「日本城図」(注16.)の大和国郡山がある。 『主図合結記』(注17.)の描写などに比べて現実離れしたようなラフなところも見受けられるが参考にはなる。これによれば竹 林橋を極楽橋と誤って書き入れ、二の丸屋形表通りから毘沙門曲輪へ渡された“中ノ橋”というのが画かれている。木橋2ッと いう郡山城データを内堀の“隠し堀”(前述)の存在を知らずに橋の員数をここで合わせたものとみえる。かといって、城郭の縄 張りとして件の中の橋の存在を肯定することはできないのである。なお、毘沙門曲輪の石垣崩落が修補されていない箇所は、 崩落等が近代に起こったとみるのが至当であろう。
F なお、毘沙門曲輪跡南部には、“財団法人郡山城史跡・柳澤文庫保存会”車寄写真左)、前庭と奥に天守台方向を望 む)がある。
柳沢文庫玄関   文庫亭
また、同文庫の前庭にある亭(ちん)は、堀之側の柳澤別邸内(植槻町)に明治33年創設された柳澤養魚場にあったものを、 昭和に入ってこの場所に移された建物である。もとは藁葺きの瀟洒な建物で、亭を取り巻く庭内の菱形の構築物は、家紋を模 して築造された金魚池の跡で、東の内堀からポンプで汲み上げた用水を、コンクリート製の濾過槽から金魚池に入れ、西側の 内堀に排水される仕組みになっていた。各種の優良な金魚が飼育されていたこの金魚池写真は、当時、“金魚の町郡 山”の象徴として内外の著名来訪者が絶えなかった。山口誓子や橋本多佳子など文化人も多くここに佇んだのである。
 また、この亭の南西隣にある建物のうち、南端(東西5間、南北2間)の建物は、平成2年のころ雨漏りのため屋根全体をル ーヒングに変えられたが、もとは瓦葺で文久3年(1863)の銘のある鬼瓦があった。入母屋の妻格子(狐格子)や出格子窓付き で、改造が見られるが武家風の特徴ある意匠であることは一目瞭然である。これは堀之側邸表長屋門の西半分をここに移築 したもので、今日残る旧藩政時代の数少ない建物(もとは家臣屋敷)の1つである。保存・活用を願うのみである。
 (追記/2007.5.24) ここで紹介した旧柳澤養魚場から移築された亭は、現在、屋根の葺き替え工事がおこなわれており、7 月には竣工予定となっている。

086◇追手向櫓、多聞櫓の発掘調査
追手向櫓跡発掘
 この地区についても昭和60年8月の試掘調査ならびに、翌年6月から7月にかけての1か月間、大和郡山市教育委員会(調 査担当服部伊久男・山川均両技師)により追手向櫓・多聞櫓の復原のための事前発掘調査(18.)がこおなわれている( ↑)。検出された遺構は上層、下層、さらに建築物や石垣の積み替えの度数などを慎重に検討して考察がなされている。そ れにしても、跡地はのち農耕地となったこともあって遺構面は錯綜した状態であった。
 この発掘によって明らかにされた注目すべき遺構と、これに関連した話題を2点ばかり述べておく。
 前者は、追手向櫓の東北面に当たる現況石垣の天端石のレベルよりも、これに対応すべき同櫓西南側の礎石列が1mあま りも低い位置から検出されたという事実と、後者は、発掘地区の南部隅近くから検出された転用材の五輪塔(地輪)が、現況 の石垣天端石ラインから想定値の約5m(2間半)より予想外に遠い約8mの位置から出土し、かつ、遺構面より80cm掘り込 んで据えられていたことである。
 前者に関しては、平成8年9月に実施された城内町地内の下水道工事のため、毘沙門曲輪の南部に位置する柳澤文庫前 から同所坂下まで開削工法による掘削がおこなわれた際、同所車寄せ前において掘り下げられた約2.5m四方、深さ約1.8 mのうち、現レベルより1.5m低い地中部分に約50cm厚におよぶ瓦礫の層が四方に存在したことを筆者は確認している。そ のなかには豊臣時代の焼成と思しきものも含まれていたことを付け加えておく。ここは追手向櫓・多聞櫓の発掘現場からほぼ 南の約60mの位置に当たる。
 もちろん、前記の発掘調査やこの下水道工事の状況のみで結論づけることはできないが、郡山城における近世初頭の拓修 によって織豊期の石垣や曲輪の地形などにも、それ相応の手が加えられた可能性を念頭においておく必要がある。附言すれ ば、現城址一円の石積み、“野面積み”のみをもって織豊時代とは言えず、むしろ石垣のほとんどが積み替えられたと考えると ころから出発して考察を進めていかなければならないと思うのである。
 後者の礎石に転用材された五輪塔(地輪)に関しては、正保の絵図(前出)に画かれた城郭建物の再検討が必要ではない かということである。この絵図は測量データが書き込まれているほか、城郭建物を一見して模式的に描写しているように見え て、注視すると少なからずそこには時の郡山城の特徴がこと細かく画き込まれていることがわかる。その1つが梅林門横の西 側に取り付く西部の多聞櫓の図(部分)である。
 この多聞櫓は、総延長222間(第二次本多家末期の数値/近世初頭の正保2年にはさらに22間は長い)の郡山城“総多 聞構え”の一部をなしていたわけであるが、この部分の多聞櫓だけが他と比較してきわめて規模が大きく画かれ、かつ、独立 している。つまり、梁間が他の多聞よりかなり大きく、ために建物高も他と比べて高くなっていることがわかる。また、格子窓の 形や柱形まで見え、まるで城門のように見て取れる。なぜこの多聞櫓だけがこのように大きくて立派なのだろうか。もちろん、 本丸追手を構成する建物の1つということを割り引いてもそれはあまりにも異様である。安易な憶測は慎むべきなのだろうが、 ここでは伏見城からの移築を彷彿される大型建物として問題を提起しておきたい。
 郡山城における多聞櫓の梁間については、常盤曲輪の追手東隅櫓・多聞櫓発掘調査の成果などから2間半(郡山城は6尺 5寸を一間とする/約4.9m)を測ることができ、また、ここ多聞櫓の発掘でも同様に2間半の位置に礎石が検出されていて、 かつ、その他ほとんどの多聞櫓についても同程度であるといえる。ところが、追手向櫓・多聞櫓の発掘で検出された礎石に転 用されたと考えられる前記五輪塔(地輪)の位置関係は、現状石垣の天端までの計測値(梁間)約8m(4間)を数えることがで きる。さらに、同等距離に抜き取られた礎石の跡が遺構として残されていることからも整合できると思われる。このことは建築 度数の検討という点でも、正保の絵図に見る梁間の大きい(4間)多聞櫓を、元和度の近世第一期とし、また、特定できないが それ以後に建て替えられた梁間2間半の多聞櫓を仮に近世第二期ととらえることができる。
 いずれにしても、こうした部分的な事前発掘調査のみでは郡山城の全容はなかなか見えてこない。総合的・計画的な学術調 査の必要性を調査報告書の跋とされた、執筆担当の山川均技師の強い意欲を頼もしく思うのである。
 そして、追手向櫓、続多聞櫓は昭和62年3月、遺構を復原に活かした(写真は、その南面)かたちで建築(正保復 原/木造)されるに至っている。
追手向櫓写真追手向櫓南

(注1.『郡山城追手門発掘調査終了報告』奈良県立橿原考古学研究所 昭和58年。注2.『伊賀上野城史』(財)伊賀文化産業 協会 昭和46年。注3.『大和郡山市埋蔵文化財発掘調査報告書第4集-郡山城跡第7次-追手東隅櫓・多聞櫓跡発掘調査報 告書』大和郡山市教育委員会 平成5年。注4.注5.注6.柳澤文庫蔵。注7.『分限帳上・中・下』柳澤文庫蔵。注8.『郡山町史』郡 山町 昭和28年。注9.奈良県同和問題関係史料第六集『大和郡山藩郷鑑』奈良県教育委員会 平成12年。注10.、「御家中 屋敷小路割名前図 宝暦四年」柳澤文庫蔵。注11.「楽只堂年録」柳澤文庫蔵(筆者が私に文意を要約した。)。注12.注13. 「新古見出并留方」(豊田家文書)大和郡山市教育委員会蔵。注14.「郡山城之図 明治初年」柳澤文庫蔵。注15.「大和国郡 山城絵図 慶応元年六月」柳澤文庫蔵。注16.『日本城図』天理図書館所蔵。注17.『城郭図譜 主図合結記』矢守一彦著 昭 和49年。注18.「大和郡山市文化財調査概要6-追手向櫓・多聞櫓発掘調査概要報告書-大和郡山市教育委員会 昭和62 年。 参考)
★次回は<13 ◆<本丸 天守曲輪>を予定しています。
13 ◆本丸 天守曲輪
<・本城は渦郭式縄張・郡山城本城の結構・近世郡山城の復興前夜・近世郡山城の復興と本丸御殿の成立・将軍行 殿の成立・その後の上洛殿・第三の木橋・郡山城の抜け穴・本丸から出土する瓦・ 静山公頌徳碑>
087◇本城は渦郭式縄張
 例のとおりここでは「本丸天守曲輪絵図」↓を作成して読者の参照に備えている。
天守曲輪図
 郡山城本城を囲繞する内堀の形状は、梅林門虎口前の堀留にはじまり、時計廻りに毘沙門曲輪から西方へ、そして、天守 曲輪を一周して南突き当たりにあった二重多聞櫓裏の堀留まで407間1尺8寸5分(1.)つづいていた。郡山城が“渦郭式” 注1.)縄張りといわれる由縁である。
 ついでながら、ここの二重多聞櫓は郡山城の他の多聞櫓がすべて一重なのに対し二重であったことはすでに述べたが、この ことは結果としてその背後(北)にある建物の一部やことに内堀の存在を隠していることになる。従来から意図的な構築であっ たかどうかは曖昧なまま、“隠し堀”の伝承があるとのみ理解していたが、近頃「郡山藩記事」(注2.)を精査したところ、先代の 第二次本多時代、この二重多聞櫓を“埋渡櫓”と称していることが判った。伝承の出所はどうもこのあたりにあったと思われる。 すなわち、この渡櫓の“埋(うずめ)”の語義は“外から見えなくする”ということをも指しているのである。
 明治13年(1880)、二の丸に創建された柳澤神社が、明治15年に本丸跡の現在地(写真↓)に移されることになった。
柳沢神社
 これは当時二の丸跡へ大阪府師範学校分局郡山学校が開校の運びとなったためであった。このころには本丸跡から二の丸 屋形跡前の道路に渡されていた竹林橋はすでに取り払われていたので、このとき竹林橋跡の位置に新しい土橋が構築され た。これによって内堀は、今日見るように二分されたのである。このため現況の水面は雨水の流入により変化するものの、平 均40cmほど西方の天守曲輪側内堀の水位が高くなっているので、大雨のあとには竹林橋櫓台下の石垣底部から東の内堀 へ漏れ出る水流を確認することができる。要は本丸天守曲輪廻りの石垣が今日に見るそれより積み石一石分ほど高かったと いうことである。参考に内堀の水深をここに記すと、毘沙門曲輪堀留の近くで7尺8寸、竹林橋下で6尺、坤櫓下角で5尺、天 守台廻り下で2尺弱と次第に浅く変化して、堀留めの近く白澤門下では5尺となっていた(正保の絵図/注3.)。なお、竹林橋 の橋桁を受ける深いほぞ穴が左右とも積み石のなかに残されている(写真↓“竹林門趾”標石の左奥の石垣にほぞ穴が見え る)。
竹林橋写真

088◇郡山城本城の結構
 本丸は、“本城”と表記されることが多い。近世においては国主・城主大名が本拠とする居城の縄張りのなかで、本丸の中核 を形成する郭をあらわす語である。郡山城でも本丸とか本城などと記されたが、柳澤時代には“本丸天守曲輪”と郭名を変え た。
 天守曲輪は、南方の“下之段”(仮称以下同じ)部分と中央の“中之段”部分、そして“天守之段”の三っの部分からなってい る。このことは、天守曲輪下の段を本丸御殿の表向きの敷地に、中の段を本丸御殿奥向きの敷地に、そして、天守台を守る天 守の段とそれぞれ機能別に区分して一二三段となるよう意図してプランニングされていることを物語っている。また、曲輪全体 の形状は、東北・南西方向の両鬼門に対し陰陽道の“鬼門除け”を施したため、曲輪はおのずから東南から西北に向けてクラ ンク状を呈することになる。その規模は東西43間半(35間とも29間とも。)、南北69間(78間とも)あり、面積は2,083坪で ある。
 曲輪の北部奥に位置して上下二段に積み上げられた天守台の形状は、下の段石垣の高さは約2間半を測り、上の段天端ま で総高は4間5尺8寸(5間2尺(正保の絵図)・6間斗(天和の絵図)とも)で、天守台上の段の平面規模は、東西8間に南北9 間半(9間に10間(正保の絵図)、8間四方(「天和の絵図」)とも)と記録されている。そして、天守之段の内堀を臨む石垣の周 囲は、多聞構えとせず狭間塀をめぐらせてあったが、その延長は64間3尺7寸5分あり、矢狭間15箇所、鉄砲狭間27箇所が 要所に配られていたのである。
 なお、狭間塀下の石垣は高さ6間であるが、堀の石垣底部には天守台(閣)を守る必要から犬走り(兵学的守城構築物か、 石垣の築造のためか)をめぐらせてあり、その形状から類例を引き藤堂流(高虎)の犬走りと称されているところであるが、犬走 りは南西側に高さ約2間半、北側を高さ約2尺、東側では高さ約5尺となっている。ただし、現況は犬走りの石垣の崩れや逆に 土砂の堆積などが認められ、ここに示した数値はいずれも現況ではなく絵図類から類推して求めた水面上のものである。な お、天守台(天守閣)の考証については別に述べる予定でここでは記さない。
 本城天守曲輪各所の石垣の高さは、今述べた天守之段の石垣で6間、西方の厩向櫓付近で6間4尺、東方月見櫓下で6間 半、南方で6間となっていた。
 また、曲輪内にあった諸建物などの詳細は次のとおりである。ただし、史料により誤記と思われるデータもあり、本稿におい ては現状にもつとも近い数値を用いている。

○木橋(掛橋)
 ・極楽橋(表門前)、(参考。幅約3間半、橋下堀幅11間)
 ・竹林橋(裏門前)、幅3間、長さ15間半

 郡山城内において木橋が掛けられていたのは、ここ本丸天守曲輪の両橋のみで、有事の際に本城最後の守りとしての必要 から設けられていたことはいうまでもない。つまり、橋全体を落としたり、一部木橋の踏み板を除いたりして渡れないようにする ものである。なお、“はしり”(走り木)と称して橋桁を渡ろうとする敵兵を阻止するために城内側からころがす丸太などの備えも あったと『太平記』にみえる。
 本城の大手である極楽橋(白沢門櫓前)には、当然ながら防衛のうえで巧みな仕かけが施されている。以下、「本丸天守曲 輪絵図/↑」を参照されたい。
 ここで、白澤門や極楽橋辺りの石積み(写真↓)についてぜひ提起しておきたい問題がある。それは、あまりにも異なる石積 み工法が見られるうえ、用いられている岩石種や積み石にばらつきがあり、石垣の一体感を妨げているからである。推考する に、豊家築造の石積みが、元和期に受けた拓修の結果、ここら辺りにその象徴的な痕跡として遺しているといえそうである。け れどもなお、今後とも注意深い観察が必要である。
極楽橋
 極楽橋と白澤櫓門との位置関係は、同門櫓に対して極楽橋を北側に寄せて架橋してある。このことは、犬走りに残された橋 脚を受ける石杭(礎石)から見てとることができる。これまた南側側面の横矢角から適度の距離をとっているからにほかならな いのである。なお、白澤門櫓台積み石の左右には1か所ずつ橋の欄干からつづく手すりを受ける“ほぞ穴”が今も残されている ことを付記しておく。
 極楽橋の名称は伏見城松之丸や大坂城山里丸などにもその用例はある。“極楽の東門”からくる仏教思想にちなむと思わ れるがよくわからない。なお、白澤門櫓台(写真↑/手前から極楽橋が架けられていた。)の北側石垣の角石には永仁6年 (1297)7月、“衆生皆成仏”と銘文(勧進聖仙蓮、大施主一源入道、大工橘友安)のある大きな宝筺印塔(供養塔)の基礎が 2つ割にして積み込まれてあるが、この橋名とあいまって意図的に積み込まれたとさえ思えてくるのである。こうした転用石材 が無数としかいいようのないほど積み込まれている城郭は、仏教国大和の象徴的存在、かつ、全国においても稀有である。こ のような点でも国指定の是非が論じられることは識者の見識である。
 昭和50年にまとめられた南村俊一氏の調査(前述)による石垣壁面に使われ、それと確認できるものの数は726基である が、そのほか積み石のため表面から確認することが不可能なものや裏込めに使用された五輪塔空輪などを含めれば、その数 知れずというのがまさに当を得たるかなである。
 極楽橋は明治初期にとり払われて今は無いが、この付近の内堀と石垣の構成美は郡山城の美観スポットとして、また、こと に石垣に積み込まれた宝塔芯礎や宝筺印塔、五輪塔などなどおびただしい転用石財個々の美しさとともに見どころの一つとな っている。わけても、毎年おこなわれている石垣面の草木が刈り取られる11月初旬がもっとも美しい時期である。なお、極楽 橋は柳澤吉里の入城によって“白澤(沢)門”と改称されている。柳澤期より数えて約100年前、二代将軍秀忠と三代将軍家 光の上洛行殿である本丸御殿(一・二期)が郡山城内にはあった。こうした故事に因んで文人大名吉里が“白澤”と称え改めた ものと筆者は考えたい(後出)。
 さて、本城の今1つの掛橋である“竹林橋”は、享保入部の柳澤家によってそれまでの“台所橋”を改名したものであるが、留 意しなければならないのは、竹林橋は本城から二の丸屋形の表通りに渡された搦手の木橋であることだ。つまり、元和年間に 二の丸屋形が形成されたのち、鉄門からのアクセスに何らかの変更(前述/二の丸への坂路ほか関連)がなされた結果、縄 張りや二の丸屋形前から目前に臨む竹林橋のありさまは、あたかも本丸表門に架かる木橋と錯覚してしまうからである。この ため絵図にわざわざ白澤門“表門”、竹林門“裏門”と併記してあるほどで、当時から錯誤に備えていた証となっている。なお、 現在竹林橋北詰の竹林門両台の下部には、竹林橋の橋桁の入っていた左右対の“ほぞ穴”が大きく口を開けている(087話 に前出/写真18−2)。橋は総欅造りの立派な橋で、安政5年(1858)12月26日に上棟、間もなく竣工している。(「竹林橋 新規掛替上棟幣串」(注4.))また、竹林橋には“廊下橋”(屋根の付いた掛橋。)の異名も伝えられるが、極楽橋であるともい う。

○櫓門、埋門
 ・白澤門櫓、梁間3間に桁行10間、窓4
 ・竹林門櫓、梁間3間に桁行4間、窓2
 ・埋門(天守郭大手門)
 ・埋門(月見櫓続多聞櫓)
 白澤は、古来中国の想像上の神獣で、江戸時代の儒教思想とともに武家社会においてことに好まれた。柳澤時代に改称さ れた白澤門の前名は“極楽橋門”、第二次本多家時代および柳澤家入部直後の享保9年(1724)には“玄関前門”とする旧記 もあるが、底本が混用され情報が錯綜している傾向がある。
 竹林門は前名を“台所橋門”といったが、門上を渡る櫓は台所橋櫓と複合したかたちで、厳密な区分をすれば、正面(南)より 向かって左(西側)と中央が櫓門(竹林門)の部分で、右側は二重隅櫓の台所橋櫓(後出)である。
 また、天守台の両脇にそれぞれ埋門(うずみもん)があった。埋門は有事の際、土砂や礫で門の内側を埋めて敵の浸入を防 げるように構築された門である場合と、塀などに設けられる穴門である場合がある。ここの埋門は上記の埋渡櫓(二重多聞櫓) と語意を同じくして外から見えなくした門ということであったように思われる。つまり、構造上積極的な意味をもつ埋門とは考え 難いからである(下記「◇第三の木橋」参照)。ただし、東の月見櫓側の埋門は多聞内の一部を門とした構造であつたことがわ かっている。

○櫓
 ・月見櫓、下重4間に5間、上重3間四方(南北棟)、石落し1、窓3、鉄砲狭間4
 ・厩向櫓、下重3間に5間、上重2間四方(南北棟)、窓5、鉄砲狭間2
 ・坤櫓(本丸坤櫓)、下重5間に3間半、上重3間四方(東西棟)、石落し2、窓4
 ・台所橋櫓、下重2間5尺に3間、上重2間半四方(東西棟)、石落し2、窓4

 月見櫓は着見櫓(着到櫓)と混同されることがよくある。厳めしい城郭のなかで山里丸とか月見台・月見櫓など風流に親しむ 施設の例は全国各城に数多くある。そのなかで建物の開口部を大きくしたり、高欄付きの出し縁を設けているような月見櫓は 明確にそれと理解できるが、他の櫓となんら変わりのない武骨なたたずまいや意匠(石落しや狭間)をもつ月見櫓もなくはな い。郡山城の月見櫓が高欄付きであったかどうかはわかっていない。ただ、郡山城に本丸御殿や家光行殿が存在した江戸初 期には奥向きの風呂屋などと接した月見のための櫓であったかも知れない。
 台所橋櫓の建築意匠については他の諸櫓と唯一の相違点がある。それは二層に唐破風の建築意匠をもっていたことであ る。建築様式は木造土居葺下地本瓦葺の二層二階造、大壁白漆喰塗込め、押し縁下見腰板張りの外壁で、一層には千鳥破 風が付いていたことなどは正保の絵図(前出)から読み取ることができる。なお、その後、老朽や災害による建て替えなどによ って変更されたためか、各絵図間には微妙な描写の相違点がある。詳細な櫓の指図類が発見されていない現状では明確な ことはいえない。なお、台所橋櫓台の高石垣下で、東南角の堀際近くには、有名な頭塔(興福寺の僧であった玄ムの首塚と伝 えられるピラミッド形の塔で、奈良市破石町にある)に使われた同様式の五尊石仏が1基転用石材として積み込まれ、織豊期 築城の際郡山城へ運ばれたと考えられている。
 厩向櫓と北続きの多聞櫓は、天守の段南部石垣の下段に設けられた犬走りの方向にも対応した横矢掛かりの櫓であったこ とはその位置(絵図参照。)から明白である。
 また、二の丸屋形と対面する二基の本丸坤櫓・台所橋櫓には共通点が一つある。それは狭間が切られていないことである。 この方向は“味方撃ち”になるためと考えられるが、有事の際は窓からの射撃も可能であることや隣接する多聞櫓には狭間配 りがなされていて、強いて必要ではないと考えたのだろうか。それは、二之丸屋形前の道路を通行する来城者などや、“味方 打ち”を考慮したものであったように思われるが、どちらにせよ多聞櫓の狭間を“隠し狭間”としなければならないだろう。

○多聞櫓(一重渡櫓)
 ・月見櫓西方、長さ11間半(梁間約2間半)、窓2、鉄砲狭間4
 ・白沢門より南方、長さ16間半(梁間約3間)、窓3、矢狭間4、鉄砲狭間9
 ・坤櫓から竹林門まで、長さ18間(梁間約2間半)、窓4、鉄砲狭間8
 ・坤櫓から厩向き、長さ39間、窓9、矢狭間7、鉄砲狭間8。(下(南方)の段約25間、中の段坤櫓まで約9間(以上梁間約2 間半)、厩櫓から埋門まで約5間(梁間約1間半/天守の段への埋門を含む)

 郡山城総多聞櫓の延べ222間というデータは、近世後期の第二次本多時代から柳澤時代のものである(前出)。ところが、 それより以前、近世初頭に存在した多聞櫓の一部は、江戸中期のころには廃止されている。すなわち、白澤門から月見櫓ま での間は、のち、狭間塀(22間4尺、矢狭間6、鉄砲狭間11。)に改められているのである。その時期を示す史料を欠くが、正 保の絵図および天和2年の絵図(この絵図は元禄の絵図とされているが、筆者は天和をとっている。(前述))においては、この 多門櫓は存在している。ところが、元禄15年(1702)の絵図ではすでに狭間塀に変わっているので、まずこの20年間までは 特定できることになる。
 そして、第2次本多家、能登守忠常(1661-1709))の藩政時代の宝永4年(1707)10月4日に発生した“宝永の地震”のう ち、15日の南海沖地震によりここ郡山においても大きな被害を受け、城郭も大破状態であったことは楽只堂年録の「和州郡山 并城下領内地震付破損之覚」(注5.)に詳しく記録されている。しかしながら、一城の主要建造物である多聞櫓(22間余)がな ぜ廃止されたのであろうか。
 「如元修補仕度奉伺候」が武家諸法度のいうところであったはずで、ただの省略とは考え難いのである。なぜ一部の多聞櫓 が廃止されたのか、公儀の特許でもなければならないところである。というのは、もともと武家諸法度の“城池の修築”規定は、 その運用面からもプラスであってもマイナスであってもならず、「如元修補」が鉄則であり、さもなければ公儀に認可は得られ ず、もちろん、伺い(願書)なき修補などは「改易」につながるとして諸手続きは厳しく徹底されたからである。しかし、これらは 徳川政権確立の過渡期と、その後の「武家諸法度」の改定、さらにいえば当該大名家によっても公儀の運用は違ったものであ っただろうことは用意に想像できることである。
 なお、維持管理のための「小普請」は許されていたが、御用番老中の“好み”(解釈)により取り扱いも大同小異ながら変わる ことがあり、物理的に「常普請」でなくては維持がおぼつかない山城として特許を受けた大和国高取城などを除き、ほかは怖い ようにして公式に伺いを出したのである。蛇足ながら、この月見櫓から白澤門櫓までの間の多聞櫓は、外観上からいえば本丸 の中央部にあることから、城外からそれを望むことはできない位置にあったことも何か関係するのかも知れないが、家光行殿 (上洛御殿/後述)との何らかの関係性も考えられなくもない。
 そして、もとあったこの月見櫓から白澤門まで続いていた多聞櫓の土段は廃城後に削り取られ、天端石も随分堀底に落とさ れて今ではその痕跡をみることができない。
 また、昭和56年(1981)1月9日、本丸天守曲輪白澤門の南の多聞櫓跡へ、もと白澤門跡にあった公衆トイレが移されること になった。このとき、東の内堀を臨む石垣の天端石を含めて1.8mのところまでうしろ込めの五郎太石層が認められ、ことに現 在も地表に遺存している五輪塔地輪(45cm四方)の北続きに大きな礎石(自然石縦1.6m×1.2m×厚さ25cm)が埋没し ており、両礎石の中心線は東石垣の天端から5.7m(約3間)を測ることができた。このことは、ここに存在した16間半の多聞 櫓が、台所櫓に付属する附櫓としての機能や、台所施設のうえからか他の多聞櫓とは違い梁間が少し広かったということを物 語っている。

089◇近世郡山城の復興前夜
 遠くは天正13年(1585)、郡山豊家100万石の拠点として拓修された城郭は、のち慶長5年(1600)9月25日、223000 石の増田長盛(1545-1615)の除封(収公)により、同年10月6日徳川方に明け渡されている。城請け取りには本多正信 (1538-1616)・藤堂高虎(1556-1630)らがこの任にあたっている。このとき郡山城の開城に武人として主君長盛の名を辱め なかったのは、“槍の勘兵衛”こと渡辺了(号水庵/1562-1640(後述))である。のち勘兵衛は藤堂高虎に請われてその家臣 となり高禄20,000石を給されたことはよく知られている。
 また、この年の関ヶ原の合戦により伏見城を守る留守居役鳥居元忠(1539-1600)・松平家忠(1555-1600)らもあいついで 戦死し、ついに8月1日堅城伏見城は落城している。戦後早々に新たな徳川家による慶長度伏見城の修築のため、郡山城内 の天守をはじめとする諸建物は移築と決まり急ぎ解体され運ばれて行った。やがて翌年(1601)には伏見城は完成し、慶長8 年(1603)2月、徳川家康(1542-1616)は伏見城で将軍宣下を受ける。
 この間、郡山城は代官大久保長安(1545-1613)の在番となり、なおまた、慶長15年(1610)から山口直友(1546-1622)支 配の番手城(廃城と混同するのは誤り)となった。郡山城下小川丁(町)にその与力36人衆が屋敷地を構えたのはこのときで ある。やがて慶長19年(1614)、直友のあと福須美定慶(1587-1615/順慶の養子)が名跡を継ぎ、筒井家を再興、定慶はそ の弟慶之とともに本貫の地郡山の番手を命じられて与力36騎を附属されて郡山城を守った。しかし元和元年(1615)、大坂夏 の陣のとき、大坂方西軍の風評が錯綜するなかの4月26日、暗峠(大坂街道)を越えた箸尾高春を大将とする西軍の夜討兵 2000人余りを大軍とみて、定慶はここはいったん退き大和諸将と糾合して巻き返すべしと福住(天理市)に帰った。そして慶 之も奈良にのがれている。翌27日、九条口と奈良口から二手に分かれて攻め込んだ西軍は、守城兵のない郡山城を見て、 早々郡山城下に放火して東軍を恐れて早々に大坂へ帰っている。この郡山焼き討ちは、東軍主力到着の数日前のことであっ た。そして、5月8日大坂城はあっけなく落城して、やがて10日、定慶は恥をすすいで福住において自刃、慶之も果てた。ここ に家康に名跡を惜しまれた大和武士の名門、大名家筒井氏は絶えたのである。
 
090◇近世郡山城の復興と本丸御殿の成立
○水野勝成の入封
 大坂夏の陣の論功行賞の結果、元和元年(1615)7月22日、水野勝成(1564-1651)が三河刈屋から60,000石をもって 郡山へ移封となり、これによって近世徳川政権下における郡山城の復興が槌音高くおこなわれることになったのである。郡山 城の復興は大工事になった。それは、慶長5年以来15年もの長きにわたり番手城となっていたうえ、建物などは先年伏見城 へ移されて城郭は廃城同然に荒廃するところとなっていたからである。このため経始をはじめとして城郭の主な構成要素であ る石垣や要害(土塁)廻りなどの普請は公儀の直営により突貫工事でおこなわれた。このことは、大坂・郡山・伏見・淀など畿 内における豊家の余光を完全に払拭し、新政府たる徳川幕府のオーソリティを天下に示す「元和偃武」を確かなものにするため の軍事的統制の必要からであったといえる。そのために、元和元年閏6月、家康は「一国一城令」を発したのである。
 やがて、公儀による普請の進捗とともに入部した勝成は、いち早く本丸に居屋敷の造営に取り掛かり、城内の諸建物の作事 にも着手、「旧記類」によれば城下洞泉寺(洞泉寺町)に仮居して、三の丸に仮屋を設けるとともに、本丸御殿のほか、一庵 丸、台所長屋、梁間3間に100間の20,000石入りの米蔵(御城米)、二の丸台所隅櫓、三の丸や家中侍屋敷などが整備さ れたと伝えている。
 本丸居屋敷の結構は、玄関前門(白澤門)を入ったところ(下之段)に御殿玄関があり、武家書院造りの座敷配りに法り、玄 関・式台・遠侍・対面所(大書院)・表居間・台所のほか御用部屋等の役所(藩庁))向きが造営され、そして、本丸中之段に は、藩主の私邸に当たる奥廻りの広式・奥居間・寝所の間・風呂屋・長局など諸座敷が配置されていたと容易に推考はでき る。しかし、いずれにしても確たるところは今後の研究にまたなければならないが、殿舎表向きに付随する台所向きについて は、竹林門横の“台所橋櫓”および同所から北へ続く多聞櫓をあててよいと考えている(前述)。
○松平忠明の入封
 元和5年(1619)7月22日(10月)、水野勝成の転封と入れ替わりに大坂から120,200石余で郡山に入封の松平忠明 (1583-1644)は、折から廃城となった伏見城から城門五基を拝領、新たに二の丸へ居館を経営、また、三の丸(五軒屋敷)に は侍町を置くなどして、今日に見る近世郡山城の威容が整いをみせたのである。

091◇将軍行殿の成立  
 元和9年(1623)7月27日、将軍宣下のため徳川家光(1604-51)の上洛があり、それに先立って家光は南都見物をおこなっ た。このとき、老中など幕下一行を従えた家光は大坂城を経て京への途上、同月13日には郡山に到着、これより2日の間、家 光は郡山城にあった。(以下、将軍来城部分訂正2006.11.05)
 実は、このように伝えられる元和9年(1623)7月の徳川家光(1604-51)郡山城逗留の逸事には誤伝(旧記類)がある。それ は、この年の家光将軍宣下という大事を前にして公儀においても抜かりない準備が進められていた。ところが、5月27日予定 の首途は家光の不例によって延引し、6月の将軍秀忠の上洛に遅れて、7月になって家光も伏見城へ入っている。そして、同 27日徳川家光は三代将軍となった。この将軍宣下の前後は朝廷・公家衆などとの祝儀典礼に何かと多忙を極める。それは大 御所秀忠も将軍家光も同様である。このような大事を直前にしての南都見物は、故事に照らしても理に適わないことである。
 はたして、新将軍となった家光は、8月19日伏見を出発、大坂城から堺を巡覧して同23日に伏見へ帰り、閏8月8日には菅 沼定芳(1587-1643)の膳所城に止宿、やがて、同24日には江戸城へ帰着している。
 ではなぜこの年、新将軍の郡山逗留が伝えられているのだろうか。それは、二代将軍秀忠と三代将軍家光の郡山城来城が 後世において記された旧記によって混同されたからである。

○二代将軍秀忠の郡山滞在
 元和5年(1619)9月9日、二代将軍秀忠(1579-1632)は郡山城に来ている。秀忠は、同7日伏見城を出て、8日には大坂 城に滞留、このとき戸田氏鉄(1576-1655)の尼崎城の新築の様子を巡覧、そして、9日郡山城を旅館としたのである。秀忠は 翌日早朝南都春日社へ参詣すべく、さきの右大将源頼朝卿の春日参詣の故事を問わせたところ、社人・社僧らはこれを知らず 答えられなかったという。そして10日、将軍の春日社参詣がおこなわれたが、服装は衣冠ではなく道服のままで、猿沢の池 から、南大門、金堂などを巡り、祓社から輿を降りて弓・鑓・長刀などはそこにとどめて、本社拝礼に供奉するもの5、60人であ ったという。両社参拝ののち、東大寺大仏殿を経て、伏見城へ帰っている。伏見で残務をさばいた秀忠は、やがて10月6日江 戸城に城着している。
 これが松平忠明時代の初度の郡山城への将軍光臨である。さかのぼること、天正16年(1588)8月28日の徳川家康郡山 城来城から31年目のことである。

○三代将軍家光の郡山来城
 寛永3年(1626)6月、新造の二条城行幸御殿及び中宮御殿の完成を待つての大御所徳川秀忠の上洛である。つづいて8 月2日、将軍家光も上洛して二条城に城着。そして、後水尾天皇は9月6日から10日まで二条城行幸御殿に留まられたが、9 月8日の儀式において将軍家光らは後水尾天皇を奉迎している。このとき、松平忠明も東照宮の猶子のゆえをもって別勅あっ て禁色(きんじき)と網代の乗り物を許されこれに供奉している。
 やがて、9月17日家光は大坂より二条城への帰路、郡山城に立ち寄りあって、忠明これを饗し、家臣らにも拝謁を許されて いる。そして、将軍家光は9月25日、京を立ち、10月9日に江戸城に城着している。これが、忠明時代の二度目の郡山城将 軍の光臨である。

 このようにたびたびの将軍家の来城は、いかに松平忠明への信任が厚かったかがわかる。忠明は、奥平信昌(1555-1615) を父とし、亀姫(徳川家康の長女)を母として生まれ、のち家康の養子となって松平を称した徳川一門である。こののち秀忠の 遺言で家光を補佐して幕政に参与する地位となる。
 この家光上洛にともなう郡山城逗留は、当然のことながら事前に公儀より通知され、家光の“上洛御殿”を改めて新築、忠明 はこれを迎えたのである。このことは同時に、大名の居城として畿内に並びない郡山城の確固たる地位を天下に示すこととな ったのである。
 ところで、柳澤文庫所蔵本の旧記類のうち「郡山記」(写本)がある。その中の松平下総守の条には、“元和9年7月13日に 将軍の上洛があり、このとき供ぞろいして郡山城へ入り、二日滞在して、南都に見物あり、これに供奉するものは酒井雅楽頭 など大勢であった。寛永3年9月6日の上洛のときは、郡山へも来城の由にて、公儀より本丸普請等あり。”とある。前述のよう に、元和9年は、元和5年の誤りであろうが、筆者が注目しているのは末尾の「従公本丸普請等アリ」である。これにより、やは り、郡山城本丸の家光行殿は、公儀により普請等(作事)がおこなわれたことを示しているといえるだろう。

 それでは家光の行殿(上洛殿)とはどのような結構をもっていたのだろうか。
 「郡山藩記事」(前出)によれば“本丸御殿”は、御上段ならびに御寝間、御居間、三之御次、堯之絵之間、御風呂屋があっ たと伝えている。この史料は、これより150年後の安永3年(1774)に記された旧記類の一つで、郡山城下に住んだ町医楠本 玄格が記したものである。楠本家は代々この地で医業を営んだ家で、1868年の分限帳(注6.)によれば「御目見町医師」とし て楠本玄東の名を見出すことができる。
 この上段の間は将軍出御の“御成書院”の主室であり、寝所、居間および“上り場殿付き”の風呂屋は奥向きの建物では一 連最小限の部屋廻りを標記していることになる。また、ここでいう“三之御次”は書院の一の間(下段の間)、二の間、三の間を 指しているのではないかと筆者はみている。そうすれば、次に記された“堯の間”もおのずから解けてくる。これは、『帝鑑図 説』(明の張居正(1525-82)編著)により為政者の鑑とすべき中国故事として、江戸時代ことに狩野派の台頭とともに柳営 (「帝鑑之間」)の障壁画の極地として好まれた「帝鑑図」で、したがって各上洛殿などにも用いられた図で、ここ郡山城の上洛 行殿(御成書院)には、堯(帝、堯)の障壁画が描かれていたという推測が成り立つことになる。
 そして、この論を展開すれば、上段は書院の規矩準縄である3間四方の18畳敷きを同定でき、上段には大床、書院棚、帳 台構えと反対側に付書院のある結構を想定できる。さらに、一の間(18畳)など諸室の廻りには最低1間半の入側廊下が付 属するので、総建物おおよそ梁間50尺に桁行70尺程度の一棟の書院であるとの察しがついてくるのである。これに表向き (式台・玄関・広間)、台所向き(上台所・膳立)が付属するくらいは容易に推定できることになる。
 さらに、これを郡山城本丸の上下二段の地形に割り付けることはそんなに難しいことではないが、しかしながら、これらはどこ まで進めても机上の空論に過ぎない。昔日の結構をつぶさに知るには、こうした文献史を裏付け、実証できうる発掘調査を含 めた総合学術調査が必要なことは本稿において多言を費やしているところである。

 以来、郡山城本丸御殿は、家光の“行殿(上洛殿)”としての新しい性格を有することになる。つまり、忠明が城主として本丸御 殿を使用することは憚りあるものとして以後維持管理のみがおこなわれることになったのである。このことは大和国郡山城が、 名実ともに徳川家による元和偃武の象徴的存在として変貌をとげたことを意味している。

092◇その後の上洛殿  
 松平忠明が寛永16年(1639)3月、播州姫路に移封となり、入れ替わって姫路から本多政勝(1614-71)が知行あわせて1 90,000石で郡山城へ入った。近世郡山藩のなかではもっとも大藩の入部ということになる。ところが、寛文11年(1671)の 政勝没後、その遺領をめぐって“九六騒動“(あわせて15万石に減知)がおこり、家を二分して政長(1633-79)、政利(1640- 1707)両家が分立して一旦は落ち着いたかにみえたが、やがて政長が没して忠国(1665-1704)が相続、延宝7年(1679)6 月、忠国は陸奥福島へ、政利は播磨明石へそれぞれ転封していった。そして、また入れ替わりに明石から松平信之(1631-86 /藤井氏)が80,000石で郡山へ入部したのである。
 家光の郡山城逗留から既に半世紀、この信之入部のとき、いまだ「家光御殿」は大破のまま郡山城内本丸に存在していた。 信之は入部早々公儀の許可を得て、大破していた行殿の一部をたたんで(解体)用材として本丸の傍らに保存した。おそらく、 信之は、“憚りながら大猷院様、元和御上洛の節、南都へ御微行、大和国郡山城にお召しの御殿これあり、代々城主大切に 修補仕り来たりおり候処、五十有余年にも相成り候故、当時は御殿の端々にて大破に及び、この侭には差し置き難く、恐れな がら御指図あるべく候”と願い出たのであろう。このように家光御殿の取り扱いについては、代々城主とも公儀には神経をとが らせていたことは容易に推量できる。なぜなら、家光の行殿であるということはもちろん、郡山城の家光御殿は公儀の所管であ ったということも副次的な事由である。
 やがて、信之は雁の間詰から老中に抜擢され、貞享2年(1685)6月、封地を下総古河90,000石に移された。このわずか 6年間という人事には多分に、前藩主本多家の御家騒動が影響していたものとみられる。とにかくも、めまぐるしく城主は変わ ってこの年9月、本多忠平(1631-95)が下野宇都宮から120,000石で郡山へ入る。この3年後の元禄元年(1688)には、忠 平により伺いのうえ家光御殿を次第にたたみ、同4年8月にさらに願い出てこれらの用材を多聞櫓(特定できない。)の修復に 用いている。つづいて元禄12年(1699)のころ、郡山藩二代の藩主本多忠常(1660-1709)が、江戸藩邸類焼のため許可を得 て用材として御殿の遺材を送っている。さすがに贅を尽くした上洛御殿は長い年月を経て跡形も無くすっかり取り壊され、郡山 城本丸は空洞化したのである。
 以後、本丸(天守曲輪)は一城の象徴的・精神的な存在となっていくことになる。ちなみに柳澤時代には城代組支配となり、 城代組見廻りや普請・作事のあるときのほかは、本城の出入りは何年かにあるかないかの出来事として直属の上司から城代 組支配の留守居番兼役に許可を得て立合の上おこない本城に保管された物品などの在り処へ出向いて用務をおこなったので ある。先規・先例のないときは年寄衆へ上申のうえ所定の手続きをとっている。このことから居館が二の丸へ移ってなお時代 が下ると、いかに本城への出入りが稀有の珍事となっていたかを知ることができるのである。

093◇第三の木橋
 天守台(閣)の項で述べようと考えていたが、本丸の木橋や諸門を紹介した都合もあって“天守之段”の部分についてここで 少し話しを進めておきたい。
 というのは、天守之段の内堀を臨む西方の石垣上部には明らかに埋め戻されたところがある。天守曲輪を廻る散策道が整備 され平成13年春に供用されたので、この埋め戻し部分は誰でも目にすることができるようになった(写真)。
天守西埋め戻し写真
 この凵(かん)の字形の埋め戻しは、高さ約2m、上部の幅5m弱、下部のならし石(転用材の反花石。)の列のところで幅約4 mほどである。ただし、西方から見て左(北)側は角石の算木積みがはっきりしないし、さらに石垣を積みなおしたとき、落とし込 みが見られるのでもう少し幅があったとみてよい。逆に南側の角石はもとあった算木積みがそのまま顕著なかたちで残ってい る。なぜ天守台廻りの石垣にこのような埋め戻しの痕跡が残されたかは明らかにはなっていないが、とりあえず、これを本稿に おいて“郡山城の謎【その6】”として、その一考察を次に記す。
 この凵(かん)の字形の埋め戻し部分があるのは、「本丸天守曲輪絵図に示したとおりである。図でわかるように結論から いえば、ここには木橋が掛けられていたのではないかということである。仮にそうだとすれば、橋の長さは20間ほどの長橋に なり、天守曲輪側と厩曲輪前の高低差も橋のレベルで約1間ほどと問題はない。また、堀から橋桁までの高さが約5間にはな ると考えられるが、ここ天守曲輪南の竹林橋の架橋ができるのであるから技術的には何ら問題ではない。ここに“第三の木橋” と題して雑ぱくな推論とその可能性を提起しているのは、ほかにこの問題に対して的確な答えを導き出せないからに他ならな いが、この推論が成り立つとした場合、今ある天守台そのものの地位・位置にも波及する大きな問題を生むことになると言えそ うだ。
 そして、この考察の至った決め手は天守台の左右両脇にあった2つの埋門である。つづめていえば、両埋門の方向(表、裏) についてである。このことは、門によって区切られた“天守之段”と、その南手前の“中之段”の地位にかかわる問題であるから だ。
 ここで郡山城の現天守台について述べておく必要がある。「本丸天守曲輪絵図」↑を参照されたい。本来郡山城天守へはそ の南方から入り口の石段があって中之段へ上り、そこからさらに真っ直ぐ天守台上に登る石段があったことは、残された絵図 類によって明確なことである。それは、現在の天守台へのアプローチとは大きく相違している。現在は、天守台東北部から台上 へ登る石段が付けられているが、大体が鬼門に当たる方角から天守台へ登るようなことは論外であっただろうし、現状の天守 台のあり様を鵜呑みにして短絡的な研究に走ることには注意をしなければならないだろう。あえてここに明記しておくと、今日 のようになったのは明治27年(1894)2月のことである。すなわち、現在天守台下の段(上の段・下の段ともに仮称、以下同 じ)に祀られている静山公社(柳澤保申公を祭祀する/現在は「祖霊社」)が、当時、堀之側(植槻町)にあった柳澤家郡山本 邸から、旧家臣の会の「柳蔭会」によってここ天守台下の段に遷座され、同時に天守台への坂路をも整備されたものである。こ のため、参道の入り口付近はU字型に南方へ回り込んだかたちに設えてあることがわかる。
 そして、もと南側にあった天守台への入り口石段も、このとき埋め戻されていて、今も天守台下の段の南面石垣にその痕跡 を求めることができる。向かって右側(東)には明らかにそれと分かる隅石が7個分上部に残され、中ほども明治以後と断定で きる落とし込みによる石積みで埋め戻されていることがわかる。ただし、もとあつた遺構が明確でないのは、石垣の崩壊なども 念頭に注意深く観察する必要があろう。それは、この天守登り口の石垣の南西部(写真左端に続く石垣)の横矢出角が、昭 和20年代に崩壊して積みなおしになっているからである。
天守埋め戻し写真
 さて、本論を埋門に戻して、「郡山城之図」(注7.)によれば、西方の埋門部分は書き入れが無くてよくわからないが(もと厩向 櫓からL型に折れ曲がって続く多聞櫓の一部に埋門が設けられてあった)、東側の月見櫓から続く多聞櫓内には埋門の平面 図が記されて残っている。そして、この図によれば門扉の位置が北奥の天守の段を表として画かれているのである。そのうえ 「郡山藩記事」(前出)の書き込みによれば、“天守台脇両門 北向”とあり、これも前者と符合して北側から南へ入る関門であ ったことは明らかである。このことは、天守の段を城外側(二の丸)の扱いとしている明確な証であり、玄武曲輪のところでも同 じような趣旨の説明を述べたが、やはり、ここ天守の段においても本丸中、城外側に位置するというわけである。なお、西方の 埋門を“天守郭大手門”と記したり、天守之段を“天守曲輪”とする家中図なども当時からあって、曖昧な絵図が複写を繰り返す ことにより問題をさらに惹起する結果になっている。
 江戸時代郡山城(他の城においてもか)において天守台は、一城の守護神のいます神代(かたしろ)として神格化された聖域 であり、このため当然のことながら台上へは登れなくしてあったのである。

094◇郡山城の抜け穴?
 郡山城には抜け穴伝説がある。1つは木島(このしま/城の西北/現在奈良市)に抜けるものと、今1つは外川(とがわ/城 の南西/外川町)に抜ける2か所である。いずれも城西を流れる富雄川端にある村落で、大坂方向に退路をひらいたかたちで ある。このことは豊家以来、ここ郡山城が大坂の藩塀として立地したということと符合している。全国各城郭につきものの伝説 と言ってしまえばそれまでであるが、城にまつわるロマンとして今日まで語り伝えられてきたのである。
 この2か所という根拠は、どうやら本丸天守曲輪の東西両面の石垣のなかに一か所ずつぽっかりと口を開いた穴があるから らしい。実はこの穴は絵図にも示しておいたように本丸の大井戸につけられた地下排水路である。先に述べたように本丸は多 聞櫓の土壇が周囲をめぐっているために、このように石垣内に排水口を設けなければならなかったのである。むやみに排水路 を堀に導くとそのために石垣をいためたり、下にある犬走りに大穴を開けてしまうことになるのである。
 筆者も子どものころこの“抜け穴”に何度か入った経験者の一人である。東側(写真左↓)のものは月見櫓跡の石垣近くにあ り、穴のなかは2m弱で上部から石材が崩落して進めず、また、西側(写真右↓)のものは本丸下の段の多聞櫓下にあって、 こちらは柳澤神社の社務所横の泉水に抜けることができた。ここは近年社務所等の建て替えに伴って通れなくなっている。
東抜け穴写真   西抜け穴写真
 なお、今日でも石垣にその穴が残っているので城跡散策のときにでも探してみるのも一興である。
 このような話しもある。それは“天守台上に四つの大石が置いてあって(今もあるが東北部1つは天守台下に落ちている)、そ のいずれかの大石を開けると立坑があり、入っていくと刀の鞘が落ちていた、なお、そのなかは薄暗くて底が知れない。気味 が悪くなってそれ以上はやめた。という楽しい話しである(H.M氏談)。この話しには“天守台四石”にまつわる伝承という裏づけ があることも確かだし、かつまた、井戸ないしは穴蔵を想像させる話しでもある。
 また、先に述べた西門土橋の南面にある排水口(対土圧)は、ことに木橋の少ない郡山城にあって、城外への抜け穴構築に つながる伝説の生まれやすい構造と立地をもっているものと言える。
 伝説はそれなりの根拠らしい事物を求めることができて興趣があるのだが。このように古老が昔語りに伝説を話して聞かせる ようなシステムは、今日では廃れて耳にすることも無くなってしまった。文明のみを追い求めて、文化を蔑ろにしたことが今日よ うなすさんだ世の中をつくってしまったと言えないだろうか。この国、いや人類は21世紀に何を目指していくのだろうか(閑話休 題)。
 
095◇本丸から出土する瓦
 本丸天守曲輪各所から出土する瓦類の傾向は、特徴的な豊家時代の八重十二弁菊文軒丸瓦(径122mm・天守の段東部 出土(写真左))をはじめ、尾長左三つ巴文軒丸瓦(径152〜162mm(写真中↓/大坂城同范))や、退化唐草桐文芯飾軒 瓦(上部差し渡し290mm、縦幅60mm、芯飾り桐葉幅60mm(写真右↓)/1991柳澤神社社務所建築現場付近出土)など で、その他江戸時代の瓦類は数知れない。しかし、いわゆる金箔押しの瓦は城内で発見されたとはいまだ耳にはしない。な お、ここに掲げたものは発掘調査によって検出されたものではなく、大量の雨水のため削り取られた本丸の表土や、たまたま 工事中の土中から現れたものばかりである。これらは現在柳澤文庫において保管されている。
      
【追記】ここで退化唐草桐文芯飾軒瓦について述べておこう。
 奈良市の佐保川西町に興福院がある。同院は、もとは尼ヶ辻(奈良市興福院町)にあって、天平勝宝年間、和気氏の学問所 となり“弘文院”と称したとその口碑にあり、のち天正年間に筒井順慶の一族、自慶院宝誉心慶尼をその初代とする尼寺とな り、二代藤誉光秀尼が豊臣秀長の室であったことが知られている。そして、三代藤誉光秀尼のとき徳川将軍家の庇護のもとに 寺観が調い、寺号を「興福院」と改められた。やがて寛文5年(1665)、四代教誉清信尼のとき、将軍家綱により境内地が寄進 され現在地に移っている(『興福院のしおり』」参考)。筆者がかいつまんで興福院の寺歴を紹介した意図はすでに理解してい ただけるものと思う。つまり、同院は筒井氏と豊臣氏に深い所縁をもつているからである。
 現在の興福院の建物は本堂・山門・書院・霊屋・茶室ほかがあるが、ここで注目したいのがその山門に葺かれた軒瓦であ る。
 一方、郡山城から出土する退化唐草桐文芯飾軒瓦には、筆者の知るところ異范に4種類があるが、そのモデルと同のもの が興福院の山門に遺存しているのである。同院山門の葺瓦は後補の軒瓦が見られるなか、古式の桐文芯飾軒瓦が現在もそ こここに見受けられる。また、山門脇には“筒井梅鉢”を芯飾とする軒瓦もありその由緒をとどめている(20070406)。
096◇静山柳澤伯頌徳碑  
 本丸にある柳澤神社社殿の東北に南面して建つている大きな碑は、藩政時代最後の郡山藩主となった柳澤保申(1846- 93)の頌徳碑で、明治30年(1897)10月に建立されたものである(写真↓)。
静山公碑
 篆額(題字)は、伏見宮邦家親王の第八王子で当時、参謀総長陸軍大将の小松宮彰仁(あきひと/1846-1903)親王であ る。碑文はこのとき枢密院副議長で伯爵東久世通禧(1833-1912)の撰文になる。また書は、柳澤家分家で安政3年(1856) 4月に家を継いだ越後三日市八代藩主、当時子爵の柳澤徳忠(のりただ/1854-1936)が書し、鐫刻(せんこく)した流麗な筆 致である。
 東久世通禧(みちとみ)は、尊王攘夷をとなえた政治家で、文久3年(1863)8月の討幕の政変に敗れ、三条実実・三条西季 知・四条隆謌・壬生基修・錦小路頼徳・沢宣嘉らとともに、官位を奪われたうえ長州に落ち延びた、いわゆる、「七卿落ち」の一 人としてことに有名な人物である。のち王政復古により新政府に入った通禧は、外国事務総監や神奈川県知事、侍従長などを 経て明治4年(1871-72)の岩倉遣外使節団の理事官として欧米を巡ったことでも知られる。
 また、柳澤保申(やすのぶ/1846-93)は、嘉永元年(1848)わずか3歳で郡山藩151200石を継ぐ。安政5年(1858)の皇 陵修理に出捐し、文久元年(1861)第一次東禅寺事件に功績あって英国エリザベス女王から金牌を贈られている。また、同3 年8月の大和吉野の天誅組事件には他藩とともに出兵し、その緩慢な行軍に彦根藩から“おくれ山勢”といわれながら、王政 復古の大号令が発せられるや、慶応4年(1868)正月、高野山に討幕活動をして錦旗を授けられていた侍従鷲尾隆聚(わしの おたかつむ/1843-1912)に従い新政府側につくことを決断(注8.)、こののち戊辰戦争に従軍した。ちなみに、このころ郡山の 支藩である越後四日市・黒川両藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府に対峙していたのである。明治2年(1869)、保申は いち早く版籍を奉還して郡山藩知事となる。
 同4年2月、一條忠香の二女明子と婚姻。同18年(1885)久能山東照宮宮司をなどを務めるかたわら郷土郡山の教育・産業 振興に力を尽くし、明治20年(1887)黄綬褒章、同24年(1891)授産資本の出捐などにより藍綬褒章を受章、そして、明治26 年(1893)正三位に叙せられ、同年10月2日、48歳で卒去した。静山はその号である。
 幕末の動乱期をともに生きた通禧は、若くして逝った保申を惜しんで頌徳の文を撰んだのである。ときに通禧64歳、なお80 年の天寿を全うすることになる。

○新選組隊士橋本皆助
 ここに前項の余話として紹介しておきたい人物がいる。それは、高野山の“鷲尾隊”に属して活躍した陸援隊の一員のなか に郡山藩からの脱藩者がいたといわれていることである。橋本皆助の変名で元治元年(1864)3月の“水戸天狗党”による筑 波山挙兵に参加し、敗れてのち慶応2年(1866)に“新選組”へ入隊して活躍したが、翌年には伊東甲子太郎(1835-67)とと もに“御陵衛士”に転じて水野八郎を名乗り、やがては“土佐陸援隊”に入り、そして、慶応3年12月の鷲尾隆聚の高野山挙 兵に陸援隊士としてこれに加盟した藤井勇七郎(1835-71)その人である。幕末・維新のアナーキーな時代を生きた勇七郎は のち藩籍に復して、明治4年4月16日病死し、大和郡山市西岡町の常光寺に葬られている。生前の勇猛さからか、参拝する と“腹痛”がなおると言い伝えらて来た藤井勇七郎の墓の側には、その変名である「水野八郎墓」の碑も建てられてある。な お、脱藩して復籍を許されるということは、藩に対し相応の功績者であったものとみるのが至当であろうし、そうなればみえてく るものもありそうである。

(注1.NHKブックス<カラー版>『城の日本史』内藤昌著 昭和54年。注2.「郡山藩記事」柳澤文庫蔵。注3.『和州郡山城図』公 文書館蔵。注4.個人蔵。注5.「楽只堂年録」柳澤文庫蔵。注6.「分限帳上・中・下」柳澤文庫蔵。注7.「郡山城之図」柳澤文庫 蔵。注8.『青山四方にめぐれる国ー奈良県誕生物語-』奈良県 昭和62年。 参考)

★次回は<14 ◆<郡山城の天守【その1】を予定しています。
14 ◆郡山城の天守【その1】
<・天守台復原の考察 ・天守台下の段の復原 ・天守台上の段の復原 ・天守台上の青石 ・伝平城京羅城門礎石  ・逆さ地蔵尊>
097◇天守台復原の考察
 このような設題をおいたのは、現在の天守台が江戸時代のそれとは少なからず変化しているからに他ならない。
 また、郡山城天守台の復原を研究テーマとした文献は残念ながらいまだ目にすることができないことや、天守台の総合学術 調査についても現在に至るも実施されていないのが現状であることをこの項の冒頭において述べておく必要があろう。
 
 天守台への坂路については明治以後において新たに付け替えられていることはすでに述べたし、同様に旧天守台登閣口の 埋め戻しについても前述のとおりである。
 もとよりこのようななだらかな石段を天守台に構築されるはずがないことは城郭の意義を一考すれば明々白々のことである し、陰陽道に鬼門とされる艮方向からの天守への坂路を選ぶことも、天守築造の当時としては通常考えられないことであった だろう。
 それでは、ここに使用されている石材の数量や岩石の種類などに注目しながら天守台への坂路をたどってみよう。
 天守之段に位置する天守台東部の坂路の入り口は、現状では一部損なわれたが、石段によって南から北向に導かれてい た。程なく石段は左へUターンして南に向きを変え、天守台上の段(「下の段」とともに本稿において筆者の仮称、以下同じ)の 東壁を成す石垣に沿ってなだらかな石段を15段ほど登ると、やがて天守台の下之段の東北部に至る(写真)。
天守登り口写真   天守上段へ写真
 そして、下の段にあるひときわ大きな花崗岩の寺院礎石?のところを右折すれば、さらに石段は西方に登って上部で北方に向 きを変え、合わせて14段で天守台上の段に到達するようになっている(写真)。重ねて述べるが、この下の段から上の段 へかけての坂路は、明治27年(1894)の構築になる部分である。なぜこのように多言を労しているかはいうまでもなく、天守台 復原の考察に致命的な過ちを犯すことになるからである。
 さて、ここに得難い文献がある。それは、「郡山城之図」(前出)と、『大和 郡山城天守台石垣岩石種調査報告書』(1./以 下本項において『岩石種調査報告書』」という。)である。前者は旧天守台のありようを明確に伝えてくれるし、後者は天守台に 使用されている岩石種や転用石材などの詳細や石垣の様態を的確に把握することができる有効な資料となっている。
 現場を踏査してこの石段付近を注意深く観察すれば、その石材なども外部から新たに持ち込まれたものでないことは容易に 判別がつくし、明治から大正にかけて設けられた下の段「祖霊社」の手水石、献燈、鳥居、敷石や、上の段中央にある「植松 桜碑」(明治33年建碑)の青石1基を除き、ここにあるすべての石材は江戸期から天守台上(上・下の段)に積み込まれていた ものであって、他から持ち揚げられた石材ではないことは明白である。
 それでは、移動された積み石の数がどの程度になるか考えてみよう。先ず天守台への坂路については、現状における石垣 表面に現れている、いわゆる“見掛け”の積み石を数えることでその把握は可能である。上の段と下の段をあわせてその数は 330個で、これに石段の踏み石分70個を加えて400個ということになる。さらに、天守台上の段の青石(前出)の台に使われ ている積み石40個および“天守台上四石”(前述)の4個と、天守台登り口付近で失われたものを加えると460個は下回らな いといってよい。しかも、これらは見掛けの積み石の数であって、坂路築造や旧天守台登閣口の埋め戻し(前述)に使用された 土中の五郎太石や土砂の量についてもはじき出すことは難しいことではないが、概観しても相当の量に及ぶことは瞭然のこと である。
 ちなみに、『岩石種調査報告書』による見掛けの積み石総数は、天守台全体で2,716個とある。これに調査外(城壁以外) となった130個を加えると2,846個となり、これを比率にすると16.1パーセントである。さらに、この計算外となった旧天守台 登閣口の階段部分の積み石82個分、つまり、明治以後天守台の改変によってもとあった積み石が何らかの変更により移動し た実数を加えると542個で、実に天守台石垣の2割近くにもおよぶことがわかるのである。
 それでは、これらの石材はもと天守台上のどの部位に積み込まれていたのだろうか。以下にその各論を述べる。

098◇天守台下の段の復原
 天守台の現状における実測値は次のとおりである。ただし、現状の天端であって復原値ではないことと、石垣の糸巻き型の “ひずみ”や高低差により必ずしも正確性は確保できていない、目安の概数であることを断っておかなければならない(写真↓/ 東南方向から見る天守台。左の松が立っているところがもとの天守台登り口で、画面左奥と手前中央の石垣から右側には、 両方に埋門があり、ここを通らなければ“天守台廻り”へは入れなかった)。
天守下の段写真
 ・天守台上の段
   東面17.0m、西面16.8m、南面16.1m、北面14.9m
 ・天守台下の段(外側)
   東面16.9m、西面13.2m(坂道分を除く復原値)南面19.4m(西寄り横矢出角7.0m+南寄り12.4m)、北面3. 9m
 ・天守台下の段(内側/天守台上の段に沿う部分)
   東下(南北)1.1m、南下(東西)13.1m(坂路を除く復原値)

 天守台全体の結構は、先に述べた鬼門除けを施したために“鬼門角”を欠き、まるで二枚の折り紙を斜め(西北から東南)に スライドさせたようなかたちになっている。これによって、天守台に丑寅(東北)側と未申(南西)側に自ずから入角ができること になり、これを横矢掛かりとしていることのほか、天守台下左右に設えられた2つの埋門の地位をも決定づけている。すなわ ち、天守曲輪(中之段)から天守之段に対し、向かって左(西)側の埋門が表門(大手側)に当たり、反対に右(東)側が裏門 (搦手側)ということになるわけである。
 さて、明治以後天守台に加えられた何らかの変更による542個の石材が、もと天守台のどの部位に積み込まれていたのか を解き明かしておかなければならない。
 それには天守台の旧状を知る史料を求めなれければならないが、全国に残されたおびただしい郡山城の各種絵図類や史料 のなかでも、天守台の詳細を明確に語ってくれるものは極少ない。その一級史料とも言える絵図が本稿において何度も述べて いる「郡山城之図」である。
 幕末から明治初年の頃(下っても明治3年頃)と推定できるこの絵図によれば、天守台は現状のかたちとは随分違うことがわ かる。天守台上の段もそうであるがここでは先ず下の段において変更された結構について述べる。すなわち、その1点は天守 曲輪(中之段)から天守へ登閣する階段の位置を明確に示していることと、下の段西端には南北に帯状の石垣の壇が存在す ることの2点である。
 @登閣口の階段
 天守台下の段東南角から5.8m西寄りの南面石垣に、南から北に向かって台上へ登る石段の登閣口があった。このことは 総論のなかですでに明らかにしているところであるが、注目しておきたいのは、この石垣の西寄りに横矢の出角(天端で1.3 m)を構えていることである。言うまでもなくそれは天守登閣口の守りを考慮した結構であることは明らかである。
 登閣口は、絵図から間口約1間半(約3m弱)にはなるので石垣天端ではやや広がって約4mにはなる。ここの石垣高は2間 半(5m弱)で、石垣上の登閣口の平面奥行きを、少し急峻の矩勾配をとった場合、同数の5m弱ということになるが、登閣口に は門扉があったから、その分の控え(約1.5m程度)を取っておく必要がある。なお、石段の“蹴上げ”を40cmとすればその 段数は12、3段であることもわかる。
 A帯状の石垣
 実測復原値(上の段南に取り付く石段部分を除く)は、南北の長さ約13.2m、幅は絵図から見て天端で1間(約2m)、石垣 の“敷き”(底辺)で約3m弱である。ただし、高さが不詳であるのでこれは推定値を2mとみた場合であることを断っておかなけ ればならない。
 この帯状の石垣の存在は、2つの事柄を物語ってくれる。1つは、もと天守台下の段には天守の附櫓が存在していたというこ とであり、1つは、西方に対して意識的に堅固な構えをとっているということである。このことは、ここから西方に位置する天守の 段南西側(写真)の石垣下にL型の犬走りが設けられてあることと無縁ではないように思われ、天守台堀際の犬走りとともに 守りの相乗作用を期待して構築されたと考えられるし、また、憶測している豊家時代の“第三の橋”(前述)の方向(西)に対し ても意識的な働きを感じさせてくれるのである。
天守西犬走写真
 ただ、問題となるのは帯状の石垣の高さについてである。上記のとおり一応のところ2mとしたが、その目安として考えられる のは、天守台上の段との高低差ということになる。この標高差は3.8mであるが、それはあくまでも現状においてである。した がって、このことは上の段とあわせて考察しなければならないので、次の「天守台上の段の復原」のところで述べることにした い。
 なお、下の段南面の西寄り出角は昭和26年頃崩壊して積み直されたところで、もとの石垣に積み込まれていた一部転用材 (汎字石)はそのとき除かれている。また、下の段の東南部についても時期については特定できないが、ことに稚拙な積み直し がこおこなわれた痕跡を今にとどめているところである。
 なお、図説の都合上、本考察によって得られる藩政時代の郡山城天守台の結構を、ここに概念図「本丸天守台復原図」↓ して示し、読者の便宜に供したい。
天守台復元図

099◇天守台上の段の復元
 上の段の現状は前述のごとく中央に青石の「植松桜碑」が、もと天守台積み石約40個余りをランダムに積み揚げた上に建 てられている。記念碑の建立は明治33年(1900)で、恐らくは、このときにもともと石垣の天端にあった石を碑の周りに腰掛け 用として配置されたのが“天守台四石”といわれる伝説のもととなったのではないだろうか。なお、この四石は宝筺印塔庇部分 1(写真↓/前述の抜け穴)、五輪塔反花石1、自然石1でかなり大型のものであるが3個とも扁平石であることからみてもとの 天端石ではなかったか。残りの1つは転用石材の短冊状割石で、近年もとあったところから東真下の天守台登り口へ落とされ てしまった。
天守四石写真
 ともあれ、「本丸天守台復原図」に見るようにここには“穴蔵の間”が存在した。「郡山城之図」は平面図であるため、高さにつ いては一切わからないが、同図の色分けにより穴蔵があったことは疑いもない。また、穴蔵の深さについては、別史料「天和 の絵図」(前出)の記述を読み解くことでおおよそのことはわかってくる。このことを具体化して以下に述べる。
 郡山城の天守(上の段)の規模は、時代(1間の縄違いもある)や史料により一定しないことは088“郡山城本城の結構” おいてすでに述べている。
 ここでは、とりあえず実測値をとることにして、仮に江戸期の1間を6尺5寸縄で換算すると東西8間、南北8間半ということに なる。ここに、「天和の絵図」のデータから四方に1間(約2m)ずつを取ると、中央部の穴蔵の間は7間に7間半である。ただ し、天守台南面には天守穴蔵への入り口があり、その位置は天守台東南角から西へ約3mの位置から、幅約1間半(3m弱) を推定することができ、同時に、穴蔵の底部のレベルについては現状の上の段レベルから約1m下とすることができる。という のは、この穴蔵入り口に当たる部分の現状における石垣には、その入り口を整える“天端ならし”の石材が明確に認められる からである。 
 ところで、現状の天守台上は旧状のレベルであるとも、ここで述べた穴蔵の底部レベルとも言えない。もちろん、穴蔵を特定 できる痕跡は台上の状況からは窺い知れない。加えて現状の天守台の東西南北4方向の現状の天端には、もと天端となるべ き石が一つも無いのである。つまり、一般に積み石として使用される比較的丸みをおびた石材と、“天端ならし”の石材とでは 明らかに違うことはその形状から一目瞭然だからである。それは、扁平石かあるいは丸みがある場合でも長辺が平滑な面をも っているのが普通である。
 それでは、穴蔵を成す高さ5尺(/絵図のデータ/1.515m)の石垣分のうち約1m分は、ここで述べたように天守台上南面 に残る痕跡からこれを差し引き、残りの約50cm分は、天端石とともに他へ使用するため削り取られたと推考できるのである。 それを読み解く鍵は、やはり前述の明治以後において天守台に加えられた変更による積み石542個分である。
 これらの復原の作業としては、@天守台下の段南面にあった登閣口石段部分の復原。Aその西部にあった帯状の台の復 原。B次に現状天守台への上下二段の坂路に使用された石材の復原。C天守台上に残るその他の石材の復原、ということに なる。平易に換言すれば、542個の石材と相当量の土をもとあったと考えられる天守台の各部位へ返す、まるでジグソーパズ ルのような作業をしなければならないということである。
 これを試算すれば、下の段の復原は容易くできる。また、上の段について上記の約50cm分は復原可能であることもわか る。ただこの場合、天守台に築造されていた幅1間、高さ5尺の石垣のうち、外周側のみの積み石はこの542個から充当でき るが、内側の石垣に関しては、それを補って余りあるところまでは至らない。積み石の個数が不足するということである。しかし それも大量ではなく、また、現状の天守台上が平滑であるところから推考すれば、当然、内側の石垣もとりはずさなければれ 平面にはならないことになる。つまり、内側の積み石の一部は天守台の穴蔵を埋め戻すために使用されたとみればこの問題を クリヤすることができる。
 こうして、天守台現状の地中には穴蔵の間が恐らくは約50cm分ほどは埋まっているという結論を得たのである。ただし、こ れらは概数をつかんだに過ぎずもう少し深い可能性もなくはない。
 このように、筆者が石材や土の量にこだわって述べているのは、岩石種や転用材の様態ばかりではない。あたりまえのこと ながら、石材を下へ落とすことは容易いが、持ち上げることはたとえ1mでもしがたいことである。一尺四方の石の重さは20貫 (75kg)というのが石大工でなくとも石を扱う者の常識である。それは藩政時代でも明治以後でも変わりはしない。違うのは時 代の背景となった社会構造にある。天守台に変更の手が加えられた明治中期ともなれば著しい需要の減少に伴って技術的退 化が進行したことは、ことさらのことといえるからである。
 以上、ここで述べたことは復原の一考察であって絶対的なものではもちろんない。やはり、行き着くところは郡山城の総合学 術調査ということになろうが、ここでは近代における変化をとらえて“天守台”の復原を検証した拙稿にわずかな意義を見出して いるわけである。
 なお、郡山城には江戸時代を通じて天守閣は存在しなかった(織豊期には存在した)。それゆえに、長い年月天守台上は雨 ざらしの状態であった。それでも、旧藩時代は降雨浸透による土圧を緩和するため表土を粘土とするなどある程度の防水・導 水が施されていた可能性も考えられる。また、現に地盤の影響もあってか石垣にいたみがあって、ここ天守台の南・西・北面は 石工棟梁が毎月の点検・修補に余念が無かったところでもある。しかし、明治以後にはここで述べたとおり石垣に大きな変化 の手が加えられ、ことに台上は著しいものがあった。かつまた、石垣面の近くに樹木(松)の植栽が幾度となく繰り返され、その 根の張りや枯死なども影響してか石垣の各所で“はらみ”や“ゆるみ”を生じている。台上に有効な防水・導水のための保存策 を講じる方途もあろうかと思われるのだがいかがであろうか。これとても調査をおこなったうえでなければ制度上難しいのかも 知れない。
 とまれ、いかに堅固といわれる“野面積み”といえども昨今の地震活動とあいまって今では危険箇所となり、みだりに石垣下 に近づくことは禁止されているので十分の注意を要する。

100◇天守台上の青石
 明治33年(1900)10月建立になる慶祝記念碑である。この年5月10日、皇太子嘉仁親王(大正天皇)と公爵九条道孝の 四女節子(さだこ/貞明皇后)が結婚、その御成婚を郡山市民挙って恭賀し、郡山城跡一帯に松および桜を植樹した記念の 「植松桜碑」(しょくしょうおうひ/写真↓)である。なお、城跡ではめずらしい石材であるため、“天守台上の青石”と呼ばれてい るのである。
天守台上の青石
101◇伝平城京羅城門礎石
 天守台の各所には転用石材が積み石として無数に使用されているが、ことに有名なのは平城京の表門から運ばれたと伝え られる“伝羅城門礎石”3基である(写真↓/黄色く見える石。右の立て札近くには“逆さ地藏尊”が積み込まれている)。
羅城門礎石写真
 礎石は凝灰岩で丸柱の精巧な造り出しが見られ、天守台東北の角石としてその底部から3基一列に積み込まれている。こ の状態から憶測すれば、白術呪(安鎮)を施されたのかも知れない存在である。
 羅城門跡はここから東約1kmのところにある。朱雀大路・羅城門跡・下ッ道の現状は、佐保川の流路変更によって(時期は 特定できていない)、その河川敷と塘付近一帯の地中にある。そして、今また実施されている佐保川の大規模な改修工事によ って、門跡近くに架かっていた来世橋(らいせばし/石橋)が取り除かれ、近隣にある“来世墓”(らいしょばか(方言)/寛永9 年(1632)創始(龍巌寺管理))のかたわらに大和郡山市教育委員会が掲げた説明板が建っているのみである。該地は昭和4 4年(1969)から47年にかけて発掘調査が実施されたところである。基壇のほか朱雀大路や九条大路の一部が検出され、そ の結果羅城門は5間に3間(2間とも)の重層門であると推定されている。また、昭和60年代には佐保川の改修工事に先立っ て、残されていた河川敷内の事前調査がこおなわれている。その際、昭和10年の発見以来その所在が確認されていて、渇 水期に川面に顔をのぞかせていた凝灰岩1基(造り出しなど無い)が掘りあげられて、現在も独立行政法人奈良(国立)文化財 研究所に大和郡山市の寄託扱いになっている。何時の日にか里帰りをする機会があるのだろうか。
 郡山城址には同質の凝灰岩でできた転用材は各所に15点ほどある。一名を“松香石”(奈良県当麻町と大阪府太子町にま たがる二上山産出の石)といわれ、黒色のピッチストンが入った黄色い石なので積み石のなかではすぐそれとわかる存在であ る。

102◇逆さ地蔵尊
 石垣のなかに像の表を下にして積み込まれた地蔵尊なので、“逆さ地蔵”(写真↓にマウスをあててみてください。/南村俊 一氏撮影)と呼ばれている石仏である。天守台下の北北東に石材の1つとして積み込まれている。大永3年(1523)7月18日 と刻され、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ立像で、像高は90cmである。また、逆さ地蔵尊に限らず、このほか石仏の類が城 址一帯ではもっとも濃い転用材である。
逆さ地藏

(注1.奥田尚編集 柳澤文庫発行 1983年。参考)
★次回は<15 ◆<郡山城の天守【その2】を予定しています。
15 ◆<郡山城の天守【その2】
<○筒井家時代の郡山城-(筒井城から郡山城へ・順慶による郡山城拓修と城下の経営・順慶の築城と天守・) ○ 豊臣家時代の郡山城-(秀長による郡山城拓修・豊臣時代の郡山城縄張についての一考察・秀長の天守築造・秀長 の薨去と秀保の家督・郡山城移転の議)
 郡山城の天守について述べるにあたり、中世郡山城の濫觴から豊臣時代に至る築城に関してその流れを整理をしておかな ければならない。
103◇筒井家時代の郡山城(順慶・定次) 〔天正8年(1580)〜天正13年(1585)〕 
○筒井城から郡山城へ
 織田信長(1534-82)の力攻めに講和を図った顕如(1543-92)が大坂から紀州雑賀に移ったあと、石山本願寺へ残したその 子教如(光寿/1558-1614)が和約を破ってなお籠城をつづけたが、やがて自らも石山本願寺に火を放って雑賀に落ち延び、 これをもって世にいう“石山合戦”は終焉している。石山本願寺は天正8年(1580)8月2日から三昼夜燃えつづけ壮大を誇った な伽藍もここに焼け落ちている。信長は同月4日ただちに“城割”を発布し、筒井順慶(1549-84)には摂津・河内・大和三国の 諸城を破却するよう命じた。順慶はこれらの城割りを合力してのち河内から同月16日には筒井に帰った。その翌日には大和 一国は郡山を残してすべて破却の旨、使者によって信長の命が正式なかたちで達せられ、これによって筒井家本貫の中心筒 井城は同月19日に破城となる。さらにこの25日には大和国に“指出(検地)”を命じた信長により次第に在地勢力の粛清がお こなわれていくことになる。やがて、この年11月9日、順慶に“国中一円筒井存知”の朱印状が与えられ、同12日には順慶は 郡山城に移ることになる。
 ところで、郡山城は筒井家一族となった小田切春次(井戸氏)によって明応2年(1493)にはじめて築城されたとする。そし て、順慶の大和統一の少し前、天正2年(1574)ころの郡山城の様子は、「小田切(郡山辰巳之介)宮内殿(四世春政)御知行 地方ニ而千町凡壱万六千石(一万七千石とも)ニ当ル、只今之御本丸カキ上堀御居城二ノ丸御家中衆百姓交リ也」(『和州郡 山委細書』(1.))と伝えられ、掻き揚げの土塁や堀などで構築された居館でいまだ本格的な城郭ではなかったようである。
 そして、順慶の築城はこのころ筒井家の麾下小田切新左衛門こと郡山宮内少輔春政の郡山城(現在の本丸)に新たな築城 のための経治をはじめたということである。今日、郡山城史に関する文献(後世に書かれた旧記類。)をひもとくとき、郡山城の 創築者(城主)を順慶とせず、厳密な意味において順慶の叔父小田切春政(一世春次)を初代城主として記されることは当然 のことと言える。
 とまれ、順慶にとっていかに本貫・堅城といえども、もはや平城(ひらじろ)の筒井本城よりも大和一国を支配する枢要として 郡山城が不可欠の立地となっていたのである。
 それにしても筒井城は遠く永享(1429〜)には史上に名をあらわす古城であるうえに、平城として、東に佐保川、西に富雄川 を“総河”とする天然の要害に地選し、巧みに営まれた中世の代表する堅城である。ことに近年の研究により、もと富雄川の流 路が筒井から西北の満願寺町(大和郡山市)附近から南東方向に地なりに流れ下り、やがて筒井城の東南隅(現、須浜池)を 通過、さらに城南約1500mの長安寺(大和郡山市)近くで佐保川と合流していたことが明らかにされた(注2.)。この筒井城に 関する城郭研究の成果は、今後の筒井城址に資する貴重な文献となった。これによって郡山城に勝るとも劣らない中世の名 城であることが明確にされたのである。平城ということをもって軽視される傾向は筒井城のあり様をみても過ちであるといわな ければならないだろう。ここに順慶公の面目や躍如して貴しの感がある。
 さて、大和を知るうえで欠くことのできない基本的な文献に『多聞院日記』(注3.)がある。文明10年(1478)から元和4年 (1618)の間、奈良興福寺の塔頭多聞院代々の院主によって記録された日録である。
 その天正7年8月の条(長実坊栄俊)、「奈良中の人夫ニ申付、此間“筒井”へ多聞城(奈良市/松永久秀(1510-77)築城) の石を運ぶ」の記事の筒井は郡山(城)のことであると指摘されているほど、このころすでに順慶によって郡山城の要害は着々 と築城の手が加えられていたのである。そして、順慶の死去となる天正12年8月11日までわずか4年足らずの間、ひととおり の郡山城は完成をみていた。
 ○追記
 大和郡山市教育委員会(担当山川均技師)の手でおこなわれていた筒井城址の発掘調査で、このほど(平成16年3月24 日まで)井戸跡が見つかり、大量の瓦礫や土器類のなかから、唐草文・連珠文宇瓦ならびに左三つ巴尾長鐙瓦などが検出さ れ、同時に出土した土器(14世紀末〜15世紀初)から、筒井家ゆかりの寺院の可能性ありとのコメントが出されている。(『奈 良新聞』3月25日/20599号)

 ○順慶による郡山城拓修と城下の経営
 順慶による郡山城拓修は、基本的には小田切家時代の本丸・二の丸(柳澤藩政期の毘沙門曲輪。)を中核として、そのうえ に縄張を改められたと筆者は考えている(三の丸(五左衛門坂)は、古城要害として温存)。それは、順慶の城下町経営過程 においてその要因を認知したからである。また、先に述べた天正7年、多聞城“城割り”の石垣を郡山に運んだという指摘によ っても、順慶のこの構想は入城のかなり以前から温めていたものと思われるのである。すなわち、順慶は往古からの「昔、堺 海道」を小田切時代の二の丸下の「札の辻」前を南北に貫くの位置から東方、現在の堺町のラインに移し替え、明確なかたち で三の丸(のちの「五軒屋敷」)に取り込むことで曲輪を拡張し、かつ、本町の西端辺りに新たな追手虎口をも整備したと推考 できるのである。ただ、この推論にはのち通称五軒屋敷と呼ばれるこの地が、いかなる状況にあったかについも本来は明確に しなければならないが、この問題は城下町の形成過程と深く関連していると推考されることから、その一考察を後日に述べるこ ととして話題を次に進めたい。(「城下町百話」/001◆概説 城下町郡山(その1)−○筒井時代の城下町(八町の成立。参 照)。
 ということで、順慶によって進められた郡山築城は、同時にその城下町の形成をも意味している。天正12年ころには、味噌・ 塩・米はもちろん、魚・野菜・木綿・クロメ(海草)や暦に至るまで郡山の市(六斎市システム)で商われ、大和の人々はここ郡 山へ買い物に来ていた。これも信長の朱印、“国中一円筒井存知”による筒井家の大和守護という支配と政策の一環であった ことを物語っているといえる。そして、順慶の城下町経営は知見をはるかに超えたかたちで急速に整えられて行ったのである。
 なお、筒井家にまつわる「元の木阿弥」や「洞ヶ峠を決めこむ」などの諺は、父順昭の死去を隠して家を護ったり、順慶と信長 との間を執り成した明智光秀の誘いに、秀吉の動静を勘案し日和見した“山崎合戦”の秘話として伝えられているように、とか くの俗説があるのは、当時の畿内がいかに日本の趨勢を左右する歴史的な舞台となっていたか、むしろ“下克上”の時代を凛 然として威儀を正した名将順慶や、それをささえた筒井家の人々の姿が見えて来る証左として捉えるべきである。蛇足を加え るまでもないが、とかくポジ(事実)のネガティブ化は俗世の習いではある。 

○順慶の築城と天守
 翌9年(1581)5月には奈良中の番匠(大工)をことごとく郡山へ呼び寄せているので、石垣などの普請も一定進捗してこのこ ろには居館や櫓などの作事に取り掛かっていることがわかる。また、この年8月19日には、信長の命によって明智光秀(?- 1582)が人数百ほどを従え郡山城へ普請の見舞いに来ているから、かなり工事も進んでいたといえそうだ。
 ところが、天正10年6月2日、織田信長のうえに禍事が起こる。“本能寺の変”である。これによって信長は光秀に自刃させ られてしまう。
 同年7月、順慶は豊臣秀吉より改めて大和国を安堵されて、翌11年4月の『多聞院日記』(前出)には、「二二日、筒井ニハ 今日ヨリ天主俄ニ被上云々、世上大事と存歟」と記され、これをもって郡山城における天守の濫觴とされている。同24日にも、 「郡山テンシュ上トテ人夫出、明日出陳(陣)付人夫ナラ(奈良)中、アサマシアサマシ田舎ハ作毛トテ除故也」とあり、出陣に 明け暮れする間隙をぬっての天守の作事は予定より遅延していたありさまを多聞院の栄俊はこう綴っている。
 やがて、36歳で逝った順慶の跡には実子が無かったため、従兄弟にあたる猷子小泉四郎(慈明寺順国の子/1562-1615) をして、秀吉から筒井家相続を許されたのは天正12年10月である。四郎は筒井定次と名乗り、その後、紀州根来・雑賀攻 め、四国攻めに従軍、武名を馳せる活躍をしたが、やがて、天正13年(1585)閏8月18日、近江坂本(大津市)における論功 の場において秀吉から伊賀へ国替えを命じられることになる。大和武士の棟梁筒井家の大和支配はここに終わりを告げ、畿内 を重視した秀吉の政策のもとで自らの弟羽柴秀長(1540-1591)を播磨・但馬両国から、大和・紀伊・和泉(百万石余)における 太守として封じている。このことは寺院と複雑に絡む大和における在地旧勢力の一掃を企てたものにほかならない。興福寺の 衆徒の出であった筒井家はもはや大和には必要としないという社会変革が断行されたことを物語っている。そして、同月19日 に高取城、また、23日には郡山城も秀長家老の伊藤掃部に渡され、定次は翌日伊賀へ移ったのである。
 ところで、順慶時代の郡山城や天守の規模を知る史料はここで紹介した『多聞院日記』の「今日ヨリ天主俄ニ被上云々・・・」 よりほか無く、それゆえにさまざまの憶測がなされ、三の丸五左衛門坂を筒井時代の郡山城本丸とする説さえありこのあたり の研究は進んでいないのが現状である。

104◇豊臣家時代の郡山城(秀長・秀保)  〔天正13年(1585)〜文禄4年(1595)〕 
○秀長による郡山城拓修
 かくして、多聞院の栄俊は8月「十九日、今朝筒井四郎被帰了、伊賀へ被仰付了、当国ハ美濃守(羽柴秀長)御扶持云々、 今日鷹島城渡之云々、郡山右往左往也、先以寺門、奈良中ハ可有殊儀云々、安堵了、但難測事也」と記し、郡山城は定次 から秀長の家臣伊藤掃部に引き渡され、やがて、天正13年9月3日、秀長は兄秀吉とともに五千人を従えて郡山へ堂々の入 城を果たしたのである。
 こうした状況のなか、太守秀長の入城で郡山はことさらに急激な発展を遂げることになる。はたして、天正13年10月には奈 良中の一切の商いを禁止する布令を発し、やがて、町の形成とともに段階的な城下繁栄のための政策を矢継ぎ早に執り行 い、たとえば酒造の規制や商業の保護、専売などの特許を町々に与え、さらに、創成期の城下町を十三町と定めて、十三町 の町々に自治制度ともとらえられる月番制による“箱本の制”を布した。なお、二代秀保は、“地子免除”をおこなったとされてい るが、この地子免は秀吉の大坂市中より4年ほども早い施策であった(地子免除令は秀長の政策であって実際はあと数年は 早いと筆者は考えている。)。
 このように秀長による城下町の経営がおこなわれるなか、同時進行というかたちで本格的な築城がおこなわれ、翌天正14 年には、まず本丸および二の丸の縄張りが改めておこなわれている。
 さらに、秀長による郡山城の拓修が本格化するのは天正15年に入ってからである。同年3月6日、紀州根来寺(和歌山県岩 出町)の南大門を海路大坂から淀川をさかのぼり木津川(京都府木津町)まで回送、これに奈良中の人夫を集めて引き、この 前後4、5日はさらに国中の人夫を徴して郡山へ運んでいる。
 根来寺の“南大門”と特定できたのは、和歌山県文化財センターによって昭和60年(1985)8月からおこなわれた発掘調査 の成果である。南大門は、根来寺の伽藍より南に離れた“前山”の丘陵上にあり、このため秀吉の根来寺焼き討ち(天正13 年)に焼け残っていたことが解明されている。発掘によるその規模は三間一戸八脚門で、間口が10.5m、奥行き6mで、桁 行の柱間は中央において4.5m、脇間3m、梁間3mの等間を測り、しかも、礎石や瓦ごとすべて引き移されて行ったことがわ かっている。当時発掘にあたられた菅原正明氏によると、南大門は根来寺に残る伽藍図から単層入母屋の八脚門というこで、 郡山城の二の丸の表門(柳澤時代の梅林門、あるいは鉄門か)として設置されたのではないかと推考されている。とにかく根 来寺の南大門は豊家の権力を象徴する存在となって郡山城に現前として移築されていたのである。

 以下、『多聞院日記』から郡山築城の記事をひろってみよう。(私に訳文)
・天正15年8月10日、奈良春日の水屋川(水谷川)から大石を運ぶため、多くの車が徴用された。
・同12日には、石の運搬がことに物々しくおこなわれた。
・翌13日、水谷川の石取りは本格的になり、野田(現奈良市春日野)に陣取っておこなわれた。ところが、御山(春日山)の木 を切ると奇怪な事が次々と起こりはじめ、木を火にくべると人が死にかけ、もとへ戻すと生き返えった。また、手木(シメギ)の用 にと木を切ると、手の指を三つ切り落すなど恐ろしいことが起こるので、ついに、郡山からの石取りも、大小四百ばかりを取った ところで、ついに神の御心が恐ろしくなって早々に退散して行った。神威とはありがたいことだ。
・翌天正16年正月21日、奈良中の家並みに五郎太郎石(ゴロタ石)を差し出すよう達があって、二十荷ずつということで各所 で大騒ぎになった。
・天正17年6月8日、石垣の根石を奈良中へ徴され、山内(春日山など東山)よりその取り出しがあって騒がしくなる。この炎 天下にうとましいことだ。
・同18日、興福寺山内の石(礎石など)、ことごとく郡山から車で取りに来た。ものの道理も無くまことあさましいことだ。

○ 豊臣時代の郡山城縄張についての一考察
 以上、本稿において述べて来た各説から、天正期の豊臣秀長による本格的な郡山城拓修に関連して、豊家郡山城の縄張 のあり様について一つの考察を加えてみたい。それは、本稿において“郡山城の謎”とした部分の、筆者が自身に課した懸案 に対する大部分の解消作業とも言える。

 以下は結論の列挙である。秀長の拓修になる城郭の状況は次のとおりである。なお、案内のため城内の名称は柳澤家藩政 時代の呼称で統一してカッコ書きで示した。

・ 「秀長郡山城拓修とその後の柳町村」
 秀長は、城郭の拓修に先立ってもと城の内にあった(麒麟・厩・緑の各曲輪辺り。)郡山村本村を城下柳町に移した。このとき から郡山村は柳町(村)と呼ばれるようになったといわれているが、それは入国の早い時期、翌天正14年中のことであったと 思われる。これによって柳町村(郡山村)は二分され、もとの村領でその西北部につづいていた土地は枝郷(大職冠・大坂口) となった。これらは、今日も柳町領のうちに大職冠・幾知山・松ノ下の字名をとどめているわけである。
 柳町村はもと千石以上もの土地であったがこのときの村の分割と、その後も城下に取り込まれて“文禄検地”では306石5 斗3升(「町村鑑」(注4.)にまで減少した。のち寛永6年頃、松平下総守忠明がおこなった二割半無地高増制によれば383石 1斗6升3合となっている。なお、麒麟曲輪の地にあったと推定している「昔、郡山ノ宮」(天文5年(1536)以前「郡山城主中尾 氏」勧請鎮座と伝える)は、一旦は城下の綿町に移され、さらに文禄2年(1593)ころ、柳町4丁目の城下南端に勧請された。 今日の郡山八幡神社である。また、枝郷となった柳町村の鎮守(御旅所)は、今日、尼ヶ池北の丘の東突端にあり、本社のほ か稲荷社など摂社二社が祀られている。
 これによって城下の柳町に移された旧村の人たちは半農半商の状態となって行ったが、その後も城下町の発展とともに拡大 した「外町」として柳町から分立した柳裏町・外矢田町・南大工町・東岡町・西岡町・外五町目のほか侍屋敷町や、「内町」に編 入された車町・洞泉寺町など、もと柳町村領の多くを城下町に取り込まれている。このため柳町(村)は、ますます農業から商 業に転じる人々がおびただしく、延享頃ついには農家一軒というありさまにたち至り、これでは村の運営も出来かねるというこ とで、延享5年(1747)、9軒の農家で“新村”を設けることを認可された(注5.)。これが“裏タンボ”(今日の柳町)の始まりであ る。
 このように郡山城下の発展やその過程は、柳町村(郡山村)の歴史そのものとして郡山の研究に欠かせない存在となってい るのである。
 なお、こうした城下の普請や主に民政に手腕を揮ったのは、大和・和泉・紀伊三国の郡代をつとめ、やがて家老となった小堀 新介正次(小堀遠州(政一)の父)である。ともに秀長の家老として民政に功績をあげた横浜良慶(一晏法印)の女(娘)は正次 の室である。

・ 城郭東部の拓修と用水路の整備
 筒井順慶時代、新規に縄張された三の丸(柳曲輪)を囲む堀(左京堀・堺町裏堀・大手堀)のほぼ中央に構成された、本町 西端の追手口を、80m北の塩町近くに移動させるとともに、三の丸(柳曲輪)の西部、「昔、堺海道」の土居下に東西400m の中堀(五軒屋敷堀)を穿って石垣を築き、その上部の西北に位置する二の丸(毘沙門曲輪)内堀との間に腰曲輪(陣甫曲 輪)を設け、その北部の台地に石垣を積み、新規に一庵丸(常盤曲輪)を設けた。また、これによって新規にできた三の丸の中 堀(五軒屋敷堀)には、順慶時代の虎口を廃し、それよりさらに南方(鉄門附近)に土橋と虎口枡形を構築した。
 また、三の丸(柳曲輪)の南端に新しく追手虎口枡形を構築するため、城郭南西部の谷筋(鰻堀・鷺池堀・蓮池堀)の溜池 (中世の“古池”)を利用した“大堀”(筆者仮称)からの水路を本格的に整備し、追手門前の堀(大手堀)を広げて追手門ならび に追手前を整え、追手西南に設けた曲輪(菊畑)の東南隅に櫓(巽隅櫓)を建てて追手前後の結構を整えた。(「郡山城百話◆ 06“郡山城の謎”【3】関連)
 そして、それまでは西方の谷筋からほぼ真っ直ぐに東方へ流れていた水路を追手堀から柳町一丁目へ迂回させ、ここに分 水の樋を設けて、さらに柳町を南下させる(柳営)用水路と、今1つは、もとあった東への水路を整えてここに紺屋町を造り、そ の流れは、城下東方の秋篠川に落ちてこの(紺屋川)用水路を完成させた。この“古池”用水には古来から郡山庄(柳町村)と 高田庄(高田村)が放水権を確保していたので、秀長入城によってもと城内の西の丸(麒麟・緑・厩曲輪)周辺にあった郡山村 (柳町(村))が、城下柳町へ移転したのちも慣習によりその放水権を留保したのである。

・ 城郭北部の拓修
 すでに順慶によって中世薬園殿城跡(現、幸町辺)を北限として穿たれていた堀(平城京九条大路の堀川跡)からさらに西 へ、概ね平城京九条大路の堀川跡に沿ったかたちで丘陵地のため深く掘り下げて掻き揚げの中堀(左京堀(人名に由来))を 穿った。

・ 城郭西部の拓修
 北部中堀(左京堀)をさらに西部へ回らせて、西の土橋と虎口枡形(西門)を設け、往古からの溜池である“古池”(鷺池)の 西北部にのびる谷筋(鰻堀)をさらに掘り下げて西の虎口とつなぐ“大堀”とした。その形状は今日とは違って幅広い長刀形で、 中央部(現在の南門付近で、南門枡形は未だ形成されていない。)の堀幅は約90m、南の三の丸(二の丸屋形)の中ほどか ら、直線状(舟入・松蔵曲輪・薪曲輪はこの堀の中)に西の門近くまでつづく一つの“大堀”を開いた。(「郡山城百話◆07“郡 山城の謎”【4】関連)

・ 城郭南部の拓修
 順慶によって堺町通りとして移動され、城郭に取り込まれた往古“昔堺海道”の道筋であった鷺池と蓮池間の塘を利用して、 その北詰(菊畑)には南の虎口枡形を結構し南門とした。また、ここから南方にある中世からの“古城”(アホ次郎三郎・孫七・ 兵三郎(辰巳殿館))を三の丸の一曲輪として周囲の堀を整備して、東に虎口を開く一方、蓮池と三の丸(柳曲輪)中堀(五軒 屋敷堀)に開いた新しい虎口(鉄門附近)まで堀を穿ってこれをつなぎ、他方、蓮池から三の丸(五左衛門坂)の東虎口門外か ら追手堀に水路を回して、その堀の内の一隅に家臣屋敷(「福地三河守」)を設けた。また、往古の“古池”(鷺池・鰻堀)を利用 して、“大堀”を西門虎口までつないだことは前述のとおりである。(「郡山城百話◆05“郡山城の謎”【1】関連)

・ 城郭内郭の拓修
 雑ぱくな仮説ながらあわせてここに記しておく。これは、次の話題である「◇106石積み工法の概要調査」から導き出した各 所石積の工法やことに石垣面に残された継ぎ足し・埋め戻しなどから総合的に推量してみた結果である。
 本丸(天守曲輪)とその東方の二の丸(毘沙門曲輪)との間には、北部において(月見櫓下)その過半を空堀とし、南部の本 丸追手門(極楽橋)周辺までは深い水堀とした。また、北部空堀の北側の本丸回りの水堀から東方の一庵丸と二の丸(毘沙 門曲輪)との間に水堀を回らせて、二の丸追手虎口枡形を開いて追手門(梅林門)前で南からの内堀(毘沙門曲輪東側)につ なぎ、虎口前には木橋を架けた。本丸の中央部東寄りのところ(月見櫓南附近)に天守台を築造して、七重(穴蔵付)の天守閣 を建築した。また、その北部の曲輪(現天守台とその廻り)西部に木橋を西の丸(厩・緑・麒麟曲輪)へ渡し搦手門を設けた。そ して、別に本丸南(竹林橋)にも木橋(長橋)を架け、これによって本丸南の木橋内と、東の二の丸からの極楽橋門(白沢門)内 の間の広場に枡形を結構して、その虎口を南向きに開いた。
 このような城郭の普請関係には、秀長・秀保に仕えて武名を馳せ、また縄張りを得意とした重臣藤堂高虎の関与があったこ とは十分考えられることである。なお、高虎の六女は家老横浜一晏法印良慶の室である。
(「郡山城百話◆09“郡山城の謎”【5】・(「郡山城百話◆10“郡山城の謎”【6】・「郡山城百話◆15“郡山城の謎”【7】関連)

○秀長の天守築造
 旧記類のなかの多くには天守の築造に関する部分があるが、大同小異で同じ趣旨のことを述べているのでそのなかから比 較的詳しいものをここに紹介しておく。(私に訳文(注6.))
 「天正14年、本丸と二の丸の堀や石垣の普請などがおこなわれ、天守の材木には生駒鬼取山(生駒市鬼取町)から伐採が おこなわれた。この山は昔から深い山で“魔所山”といわれて人々は恐れて入ることが無かった。このたびは国主の厳命によっ て木を伐ることになったが、伝えられていたとおり、やはり山神が怒って伐採のとき山は震動して雷電することおびただしく、土 石を降らして人夫を襲った。人夫は斧・鉞(まさかり)を投げ出して逃げ去った。この様子が大納言秀長様の聞こえるところとな り、“国中の山河、草木、獣は言うに及ばず、雲の上、大地の底まで我が領分とするところなれば、山神とて何ぞこれを妨げる ことがあろうか。ただ国主の威光を真っ向にかざして伐れば何の障りがあろうか”、と仰せ付けられてからは、その後はわけな く御用木を伐り出して天守の普請が始まった。近国の大工たちの働きで各層もすでに竣工間近となったが、今少しというところ でにわかに大地震が揺り天守は崩壊してしまったといわれている、そののち天守は建てられることは無く、今に石垣のみが残 っている。さすがの猛威の国主も為す術もないことである。」  
 以上、旧記類から引いた天守築造に係る顛末であるが、仏教国大和にふさわしく一巻の絵巻物にでもできそうな物語であ る。もちろん、末尾の部分は江戸時代に築かれ現存する天守台との“つじつま”合わせの浮説に過ぎない。
 このように、豊家による郡山城の結構ばかりかその天守竣工の時期さえ、当時の一片の史料も見出せず一切のことはわか らない。推考によれば、秀長時代に完工したしたとするのがもっとも妥当性はあるが、前述のとおり天正17年6月には未だ石 材を徴していることからしても、やはり天守が成就するのは秀長没後、その遺志を継いだ二代秀保の天正19年頃ではなかっ ただろうか。事実は今もって明らかになっていない。

○秀長の薨去と秀保の家督
 豊臣秀長は、天正13年入国の年10月には参議三位中将から、翌年11月中納言に昇り、さらに翌15年8月大納言に叙せ られて、秀長よく兄秀吉を補け豊臣政権の公儀向きを一手に掌握してその基礎を築いた。ところが、同年末から病を得て療養 につとめたが、やがて危篤となり翌年10月19日には、郡山城の秀長のもとへ秀吉も駆けつけて見舞ったが、ついに天正19 年正月22日郡山城中に薨じた(大光院殿)。在城わずか6年に足らず、その齢52であった。
 これより前の天正16年(1588)に豊臣秀長の養子となっていた三好吉房の三男秀保(1579-95/甥)が、秀長の病没に際し て郡山豊家の家督を継いだ。秀長の遺領のうち大和・紀伊二か国を領し、同20年には中納言従三位となる。“ 文禄の役”に は名護屋(佐賀県鎮西町)に出陣、文禄2年(1593)10月に郡山帰陣している。しかしながら同4年には痘瘡にかかり、4月1 6日あえなく病死、17歳の若さであった(瑞光院殿)。またに十津川(奈良県)において水死(横死説)したともいわれているが 権力者の末期につきものの妄説であるといえよう。

○郡山城移転の議
 ところで、『多聞院日記』の文禄3年3月18日の条には、「群(郡)山城ヲ多聞山へ引クト云、クワヰカ峰ト云二説ト云々」とあ って、かつて松永久秀(1510-77)が築いた多聞山城(天正元年(1573)12月25日陥落、翌年3月22日織田信長入城/同4 年廃城/奈良市)と、会ヶ峰(天正8年閏3月順慶築造の鉄砲鋳造(蹈鞴)所のあった丘陵地/大和郡山市)の2か所がその 候補地にのぼったが、結局この話しは沙汰止みとなった。郡山城は平山城といえども統治支配上の枢要であり、軍備のうえか らは要害堅固な高取城を詰の城とし、順慶時代(後期)には大和一国の、秀長時代には三国支配の詰城として、今日に日本 三大山城の一とうたわれる名城高取城(奈良県高取町)を備えていたからである。同年3月7日には、大坂城を秀頼に与える べく秀吉が伏見に普請を起工したり、淀城を廃城とするなど豊臣政権を確かなものとするため何かと畿内要所の見直しがなさ れていた時期であった。
16 ◆<郡山城の天守【その3】
○増田家時代の郡山城(郡山城総構えの創築・四大門と四口・渡辺勘兵衛の活躍と郡山城天守)○その後の郡山 城天守
105◇増田家時代の郡山城(長盛・盛次) 〔文禄4年(1595)〜慶長5年(1600)〕
 文禄4年4月16日、豊臣秀保急逝のため郡山豊家は二代10年で絶家となり、秀吉は文禄4年、増田長盛(1545-1615)を 郡山200,000石(223,000石)に封じたので、同7月13日長盛は郡山へ入部した。間もなく長盛は大和・紀伊・和泉を預 けられて三国の支配となり、豊臣五奉行の一人となって主には民政に力を尽くし、その辣腕をいかんなく発揮した。なお、増田 家の入部は、三国預かりとあいまって城主であるということよりも実質的な豊臣の城番であったといえよう。
 長盛は入部早々の8月17日、秀吉の命により“総国検地”(「文禄検地」)の実施、また、同年12月には国中に夫役を課して 郡山城“総構え”の築造に取りかかっている(「郡山城総構の図」↓参照)。翌年(慶長元年)には本格的な総構普請が始まるな か、年内に遅れた“十津川組中”(現、奈良県十津川村)に対して長盛は、年頭13日、“油断之至候”と督促している。(『十津川 宝藏文書』所収「増田長盛人夫召状」 
○郡山城総構の創築
 総構は、本城、二の丸、三の丸など城郭の中枢(内城)の外側に形成された城下町や武家町を囲繞する外構で、総堀と総土 居、そして、その虎口である総門(大門)からなる。当時、郡山城は自然の要害としてその“総川”を、西部は富雄川に、東部は 秋篠川及びさらに東方の佐保川に求めていた。富雄川は現在の生駒市高山町付近を源流に郡山西部を流れ大和川に合流、 やがては大阪湾に注ぐ。秋篠川は、奈良市登美ケ丘付近を源流に大和郡山市柳町(地字古川)で佐保川に落合い、やがて、 大和川の本流初瀬川に合流する。また、佐保川は奈良市春日奥山の鶯滝(花山/はなやま)付近を源流として郡山東部を流 れている河川である。
 総構えの普請は当時の土木技術を駆使しておこなわれた。城下町の東限を間近に流れていた秋篠川をフルに利用して、江 戸・京・奈良街道に口を開く奈良口近くの九条領(字山本)から秋篠川の流路を利用する計画とし、まず、ここから東方の佐保 川へ新しい流路を約700m分開削して秋篠川の水流をこれに落とし、旧流路を仕切って現在の小川町付近から、中鍛冶町 (寺町)、南鍛冶町、西野垣内町、高田口町(高田口大門)までの1230m(濠中央での計測値)を外堀とした。奈良口の新秋 篠川には大橋が架けられたので、人々はこれを“奈良口大橋川の川違え”と称えて語り継いだのである。ここに示した「郡山城 総構の図」のなかで、画面右上から真っ直ぐ流れ下っていたのが秋篠川の旧流路である。

郡山総構図

 ここで高田村の水利権について触れておかなければならない。古来、高田村(高田庄)は、秋篠川からの引水に権利を有して いた。ところが、ここで述べた秋篠川の外堀化に伴い、その権利問題が発生するので、長盛は、佐保川からの分量を高田村に 与え、また同時に、城堀となった“古池”(鷺池・蓮池)水系からの放水権も古来の慣習によって留保されている。
 そのほか丘陵地の外堀は、もとからあった各谷筋に穿たれた溜池をたくみに利用し、それらを連結して築造されている。これ らは農耕地(年貢地)の水利としても機能するため、あらかじめ計画に盛り込まれていた施策の1つとして捉えることができる。 前記のうち、水利権の存在する池床としての機能を終えた高塚(鷹塚)池や蛇ヶ池、番鐘池は現在では埋め立てられている が、ほかは今も機能しつづけている。
 外濠の幅については最も狭いところで5間(大職冠の“狼谷”附近)、平均で8間はある。また、内側には土居(土塁)を設けて あるが、その底辺(敷き)の幅は平均6間から広いところで10間はあり、高さは平坦部で1間半、最高は三間半(大職冠、箕山 地区)である。水深は地形により水量の変化もあるのでさまざまであるが概して浅い(注7.以上『和州郡山絵図』)
 第二次本多家から柳澤家へ引き継がれたころの外堀の総延長は、50町13間(6尺5寸間/5,935m)、東西719間、南北 570間である(注5.)。(長盛創築の惣延長は48町13間。(後述))
 土居上には“しとみの松”が、いわゆる城郭の“植えもの”として植栽されていたので城内外からこの松がよく見えた。明治以 後すでに国有地となっていた土居や堀池は、一部では枯渇して農業用水として機能を失い荒地となったり、ことに平地での土 居などは水害の要因として、大正15年(1926)3月以後、郡山町はこれを大蔵省に請願して払い下げを受け、土居は取り除か れ、一部の堀は埋め戻されていずれも宅地化し、土居の松も用材として民間に払い下げられた。近在の農家建築のなかで は、これを用いて立派な“指鴨居”として今も遺存しているのはこのためである。
 残されていた老松は、近年まで長い間町の人々によって、“御土居の松”(おどえのまつ/方言)と称され大切にされて来 た。昭和27年(1952)の調査時には樹齢300年をこえる老松ほか10数本はあり郡山の風物詩の一つとなっていて、ことに広 島池を臨む“御土居の松”は有名で最後まで市文化財審議会や有志の人々が、その保存のため手を尽くされたが老松のため 昭和50年代にはすべて枯れてしまった。大和郡山市の木が「黒松」(昭和44年(1969)11月選定)なのはこうしたことにちな んでのことである。

○四大門と四口
 外堀から街道筋への要所には城下町の内外を分ける大御門(おおごもん)が設けられる。郡山城下には、南の“高野海道 (堺海道)”方向に「柳町大門」、東の“伊賀海道”に「高田町大門」、北東方向の“東海道(奈良海道・江戸街道)”(注8.『郡山 城古図(貞享)』)へは「鍛冶町大門」、そして、北方に七条・尼ヶ辻(奈良市)への「九条町大門」も設けられていた。のち、九条 町大門は朽損し以後は建てられなかったという。この城下町への“四大門”は慶長年間、伏見の総門を移したとものと旧記は 伝えている。
 ところで筆者は、この「九条町大門」に関して少なからず疑問をもっている。それは、大門と町の関係が豊臣時代から江戸時 代を通じて城下町において執られた“箱本制度”を抜きにして考えられないからである。つまり、九条町大門を除く三門は城下 町内に存在し、“大門詰箱本”に(内町地子免地の対価的義務)において管理されていた。近世の大門詰箱本による管理体系 は次のとおりであった。鍛冶町大門には、本・茶・藺・魚塩・奈良・鍛冶・雑穀・西奈良口の八町が、高田町大門には、材木・紺 屋・今井・綿・矢田の五町が、柳町大門には、柳町1丁目から5丁目と堺・豆腐・車の八町がそれぞれ預けられていたのであ る。
 ところが、九条町大門ではこのあたりの事情が大きく違う。もともと城下町でない武家地区である九条口(竪町)に大門が設 けられたのは、門外の街道筋に“かけ作り”によって形成され、九条村から分立した町屋である何和町(もとは“九条町”と称す る)・平野町(“割九条”と称し九条の枝町。)が存在したためと思われるが、それにしても両町は「外町」の年貢地であり、“箱 本の制”のおよぶところではない。
何和町・平野町が「外箱本」として内町に近い取り扱いを受けるようになるは、このあと50年余りも後の慶安2年(1649)のころ である。以上をして九条町大門の存在が誤伝であるかなどと述べているわけではないが、町衆の管理になる他の三大門とは そのあたりの事情が大きく異なっていたので、1つの疑問点としてここに提起しておきたい。と同時に九条町大門が朽損ののち 再建されなかった事情も少なからず箱本のありようと関連しているものと考えられる。ただし、創建当時の世情を鑑みて郡山城 の守りという観点から九条町大門の意義を考えるとき、郡山城の弱点ともいうべき北方の守りの要として大門の存在は必須の 条件であったことは確かである。やがて、時代の変遷とともにその重要性も薄れて行ったと解すべきであろう。
 また、総構えには城下町地区のほか武家地区に臨んで四つの“口”があった。南から“堺海道”へ通じる「箕山口」、南東方 向に矢田寺(金剛山寺)に至る「矢田口」、西に富雄川伝いに木嶋(奈良市)への「大職(織)冠口」、北に富雄川から砂茶屋 (奈良市)さらに暗越え大坂街道への「大坂口」である。
 なお、このほか些細なことながら、小川北町から広島町(武家地)に外堀を渡るバイパスである“小川町切通し”の木橋が、江 戸初期の「正保の絵図」に見られ、このころは広島町も十六軒であったが、のち第二次本多時代には30軒以上となり、さきの 切通しも廃止されて、鍛冶町大門裏近くの外堀から広島町への木橋が架けられた。さらに、のち柳澤時代にはこの橋は除か れ、もとの小川北町の切り通しに戻されているという経緯が各年代の絵図から見て取ることができる。

○渡辺勘兵衛の活躍と郡山城天守
 増田長盛は、慶長5年の“関ヶ原の戦”では西軍に属して大坂(後詰め水口出陣)を守ったが、しかし西軍の敗北となり、同 年10月2日、領地を没収のうえ高野山に追放された。郡山へは同月6日、兵を率いて本多正信(1538-1616)・藤堂高虎 (1556-1630)両使が郡山城を受け取りに来ている。
 このとき郡山城の留守を預かっていたのが長盛の客人分で10,000俵の合力(注9.「大和軍記」)で名将とうたわれる渡辺 勘兵衛尉である。名は了(さとる)、致仕号を水庵という。
 当時、郡山の篭城軍は3,000人を数えたが、早くも欠落者が多く出るなか勘兵衛の麾下の者はびくともしない。ところが、 篭城の侍分のなかから相談のうえ連判して、これ以上の欠落者を防ぐために天守にある金銀を全部残った者に分配するという ことになったところへ、他出していた勘兵衛が帰ってきて、この話しを聞くや、「主人(長盛の)下行(下行文)無く、金銀を、下と してわつふ(配分)の事、沙汰の限り(言語道断)に候」と申し渡したところ、このことに宮木新太郎も同心して、以後も要求はつ づいたが頑として聞き入れずに終わった。
 それから勘兵衛は自分の持ち場である三の丸に帰って、両親と妻を連れて、“天守の三重目”に詰めて本丸を固めていた長 盛の城代橋與兵衛のもとに行き、両親と妻の3人を証人(人質)として差し出し、決死篭城の覚悟を城内軍に示した。このことを きっかけに11人が次々と同心して証人を出し、本丸はいよいよ固まった。これらの人々はのち長盛から「無二の覚悟」と感状を 賜った・・・。このあと主人長盛の命があるまで勘兵衛は開城を拒否し、そののちも城明け渡しに受取側の非礼などもあって、こ れを咎めて事理を正すなどして、あっぱれの開城を終えている。
 これは、「渡邊水庵覚書-渡邊事記」(注10.)に渡辺了が自ら書き綴った回想戦記の前段部分の概略である(筆者が私に要 約)。覚書の奥が慶長19年(1614)11月なので、多少の潤色はあるにしても虚構はない書としてよく引かれる文献である。こ の郡山開城に赴いた藤堂高虎が、勘兵衛の致し方に当時自身の知行120,000石のなかから20,000石の高禄を給して までも惚れ込んだ武将である。ともあれ、ここでは天守について述べているので専らの関心事は、「てんしゅに在之金銀」、「殿 守の三重目めへ罷り上がり」”の記事である。この記事をして郡山城“殿守”の存在を確認することができるが、これ以上のこと はこの文献からは見出すことはできない。

105◇その後の郡山城天守
 このとき受け取られた郡山城の建物は、慶長5年7月晦日に焼失の伏見城再建のため移築されて行った(「大和記」(前 出))。また、伏見へ運ばれた郡山城の建物のなかで、天守建物について二条城に移されている。すなわち、『元離宮 二条 城』(小学館/昭和49年)のなかで、川上貢博士の「二条城の規模と建築の変遷」(二、慶長創築の二条城)に、二条城の普 請にあたった中井家(藤右衛門)に蔵される文書のうち、覚書『二条城御造立之事』(注11.)を引用され、著された学恩の賜に よって豊家郡山城の天守が七重で、慶長6年(1601)築造の二条城の天守として移築されたことなどが知られるようになった。
 さらに、この慶長創築の二条城天守は、『洛中洛外図屏風』(注12.)にその姿を観ることができる。
 この七重の天守が、たとえ外観五重、内部の七重と考えても、現在の郡山城天守台の広さが小さくて三重くらいが妥当とい われて来た。しかし、この考えの前提条件は現天守台の大きさとの対比で成り立っているわけであるが、ところが、現天守台 がただちに豊家時代のものと鵜呑みにできるかというと、そうではないと言えそうなのである。また、その規模に関しても、さら に、天守台の位置に関してもまた然りである。
17 ◆<郡山城の天守【その4】
○ 石積工法の概要調査 
◇106石積み工法の概要調査
 すなわち、現在我々が目にすることのできる郡山城跡の石垣のなかで、自然石や転用材の分量、あるいは石積の工法をの み概観して、わけても本丸が受けた拓修の度合いが低い傾向にあると考える見解には、ただちに賛成はできないということで ある。
 そこで、本稿においては現況における郡山城の石垣工法の分布を、つぶさに検証して考察の備えとしている。
 石積の工法は、野面積みを天正から文禄期とし、打込接ぎを慶長年間、切込接ぎを寛永年間以後と分類されることが一般的 となっているが、その場合であっても隅石積みの工法を抜きにしては成立年代を見誤ってしまう恐れがある。それは、多くは石 材の切り出しに用いられる「矢」の穴によっても見分けられるし、隅石や鎬石の箇所に施される算木積工法の完成の度合いに よっても違いがある。もちろん、このころ日進月歩の発達を遂げた積み石の技術、あるいは地域性の観点、さらには施行者の 力量や、諸城における類例などから得られる見識など、さまざまと考えてあわせておかなければならないことは多々あるが、こ こでは石積工法の分布状況から次のように推考することができる。
 @ 近世(元和期/以下同じ)の拓修は、天守台や本丸・二の丸もまた、それ以外の箇所同様に大きく拓修され豊家郡山城 の原状の姿を変えた。
 A 近世における拓修により、豊臣築造の天守台は、もとあった位置(現在の天守台の位置)に積み直された。(隅石算木積 と矢穴)
 B 豊臣時代の天守台は、他の位置から現在地に移された。(天守台廻り西側に残る石垣埋め戻し・第三の木橋(前出))

 現在に至るまで徳川による郡山城の拓修は、比較的大規模なものとは言えず、むしろ極端に言えば豊臣時代と徳川による 郡山城とはさほど大きな変化もなく、同地表上にあるとさえ考えられて来た。それは多分に標高差、また、自然石や寺院など から運ばれた転用材が多く使用され、かつ、“野面積み”の工法が随所に見られることなどがその主なる要因となっているよう である。ところが、現在残されている城址の石垣だけでなく縄張りについても豊家時代のあり様とはかなりの違いがあると考え られるのである。
 つまり、秀吉の大坂城がそうであったように徳川政権による新たな拓修は、ことに「一国一城令」が布かれた元和元年 (1615)6月以降の畿内諸城において顕著であり、このことは大和における郡山城にとってもその例外ではなかったはずであ る。
 たとえば、昭和34年(1959)実施の「大坂城総合学術調査」で本丸地表下から7.33mのところから検出された豊臣大坂城 のみごとな野面積みの石垣は、それまでの大坂城の研究に大きく一石を投じることとなり、話題となったことは記憶に新しいと 思う(昭和35年1月4日号『讀賣新聞』)。だからといって郡山城も同じ規模の拓修を受けたとはもちろんいえないが、しかし、 郡山城も大きな拓修を受けたといえる証左は、ここで述べている残された石垣がその事実のすべてを物語っているということで ある。
 ちなみに郡山城の石垣の工法とその分布には主に次のような傾向がある。
 ただし、自然石や転用石材を多く用いる部分においては、自ずから“野面積み”あるいは似たような石積み(復古的工法の存 在)にならざるを得ず、これのみをもって織豊時代築造とはいえず、また、先に述べた隅石・鎬隅に用いられる“算木積み”の完 成の度合い、ことに「矢穴」の有無、さらには拓修の痕跡を明確に(刻印石)残す部分や、計画の変更と考えられる部分(4箇 所)、石垣の底部附近のみが古式の工法で、そのうえに“打込接ぎ”で継ぎ足したところなども多分に混在しているので、これ らを簡単に分類・解析することはできない(組織的「総合学術調査」の必要性と近隣大学の学融合的研究活動への模索)。
 また、現状の石垣の一部を除いてほとんどは近世の拓修と言い切れるが、以下、各所の石垣の様態から必ずしも厳密な工 法の明確な分類ができない状況もあるもので、この点に関しては単にその傾向を述べるに過ぎないことを断っておかなければ ならないだろう。とまれ、以下は筆者のこのうえない物理的優位性を駆使して長く見つづけきた結果である。
@野面積み工法         
  本丸天守台および天守台廻り写真左↓)。本丸の南方の竹林橋の下部(写真中↓)と、白沢門跡(写真右↓)まで。梅林 門枡形内の一部。玄武曲輪艮から十九間多聞櫓下。追手東隅櫓東面下段。陣甫曲輪鉄門付近。西門土橋。南門土橋および 鰻堀薪曲輪西面(堰堤工事のため損なわれ今は目にすることができない)。
天守台廻写真頭塔積み込み写真白澤門写真

A打込接ぎ工法        
  @とBを除くすべての箇所。(ただし、石積みの度数ごとに、同工法であっても隅石に施される算木積みがほぼ完成する文 禄期以後のものと、そうでない完成度の高い月見櫓出隅周辺(写真↓)のようなところも認められる) 
月見櫓台写真
  また、打込接ぎ工法をとっている区域は郡山城内において概ね三期に類別することができる。すなわち、南門枡形南・西部 の部分と、帳場割りを示す刻印石を残している松陰門台およびその南続きの区域、そして毘沙門曲輪の南・東面部分(写真 ↓)など城址一円である。
毘沙門東写真
 なお、本丸南・西部については、自然石や転用材などが多く使用されているために、基本的に野面積みに包含するものとし て取り扱っているが、厳密な意味においては野面積みと打込接ぎの混合タイプとみるべきなのかも知れない。
B落し込み積み・間知石積み工法   
  天守台下から台上に付加された明治期の石段部分のすべて。天守台下の段南面(崩落/昭和20年代積替)。毘沙門曲輪 弓櫓跡(慶応元年大地震修補部分のみ)。桜門並びに菊畑巽櫓跡(近鉄電車軌道敷設工事(大正9年(1920))による切り通 しなど積みなおし箇所。
 以上、郡山城の現状における石積工法の分布については別図、「郡山城石垣工法分布図」↓を作成しているのでその概要 を参照されたい。
郡山城石垣分布図
○ 豊臣時代の天守台
 「093第三の木橋」のところで豊臣期の天守台の位置関係にも関わる問題として“郡山城の謎【その6】”投げかけておい た。これは、「天守の段」の西方に設けられた横矢枡形の隅石から連続して北側へつづく石垣上部には、もとは、凵(かん)の 字形に築造され、のち埋め戻され、平滑に改められた部分が遺存していることに関してである。
 この埋め戻しの底部に反花石転用材が列を成しているということは、もとの天端の位置を明確に示すなによりの証左である。 埋め戻された高さ約2m、上部の幅5m弱(北端が明確ではないので推定値。)という形状・遺構から推量できることは、本丸 (本城)において第三の木橋が架けられていた可能性が高いと捉えたわけである。
 関連して今1つの問題がある。それは残された天守台が構築されている土壇となっている天守の段の広さである。それは天 守台に対してあまりにも狭く、窮屈とさえいえる。土木技術のうえからも天守の段がよほどの堅牢な地盤でない限りことに難し い天守台築造であったはずである。その証に天守東北部石垣の“孕み”および一部修補の跡を示す“間知石積み(落し込み)” の箇所がある。
 また、ことにその南西隅は、天守の段廻りの石垣天端にあまりにも近く狭隘でしかも高く、たとえ天守台根石が予想外に浅く て地表に見える隅石の下と地下あと2石ほどで構築されていると見積もっても、控えが不足してとても磐石とはいえない。これ ゆえにか、天守の段下の南西部に「犬走り」をつけている事情も、将来の石垣の“孕み”を防止する(か、または孕みが起きた) ために講じられたとさえ思えてくるのである。以上のことから、「豊臣七重の天守」が築造されていたとされる復原天守台の位 置は、これを他に求めなければならないことになる。かと言って、豊臣時代の本丸・二の丸の形態さえ明確でない現状のなか で、その比定はわけて至難と言うべきである。ただ、ここに示した「郡山城石垣工法の分布」概要調査の結果、前項のA(打込 接ぎ工法)のなかで、筆者が最も疑問視しているのが月見櫓跡下の北面と白澤門近くまでの東面高石垣の部分である。城内 において最も完成度の高い“算木積み(打込み接ぎ/68°)”と、比較的小さい積み石ながら“打込接ぎ”による築石が見られる この辺り(本稿において“郡山城の謎【その7】”とする)の近傍を、豊臣期における天守台の候補地として、ここに過ちを恐れず あえて記しておく。その位置関係と、石垣に施された工法の丁寧さゆえにかえって拓修の度合いが尋常ではないと逆説的に 考えたからである。
18 ◆<郡山城の天守【その5】
◎(附記) 付け替えられた外堀と江戸時代の堀水放水権) 近世郡山城の規模(便覧)  ・<郡山城百話のあとが き>
◎附記
107◇付け替えられた外堀と江戸時代の堀水放水権
 このことは別の機会に記す予定でいたが、期せずして話題が外堀に移ったのでここで附記しておく。
 文禄5年(11月27日「慶長」と改元)に起工した惣構えの普請は、慶長5年(1600)9月の“関ヶ原の戦”までには完成してい た。この増田長盛創造の郡山城総構の惣延長は48町13間(計算値)である。
 それでは、なぜ2町(120間)もの差が生じるのだろうか(旧434m(220間=3町40間)−新670m(340間=5町40間) /6尺5寸間/濠中央値)。
 これは、近世における鍛冶町大門が北鍛冶町と西観音寺町の間に位置していたのに対し、長盛築造の鍛冶(屋)町大門の 位置は大きく異なっていたということである。長盛は旧秋篠川の流路を利用して惣堀を築いたから、当然、外堀は奈良口西方 から、柳町(古川)の佐保川近くまで直線的なかたちを呈していたわけで、したがって、この時代の鍛冶町大門は現在の位置と は違うことになる。これらの傍証を固める史料はいくつかある。
 その経過をたどってみよう。天正16年(1588)の『郡山惣町分日記』(注13.)にはすでに本町の枝町として“鍛冶屋町”が「内 町十四町」に名をつらねていたが、「郡山町旧記」(注14.)により、同19年11月、鍛冶町を南・中・北に三分割されたことや、 南鍛冶・中鍛冶両町とは違い、北鍛冶町はいまだ別所の外町(堀外の年貢地。)の扱いであったこともわかる。さらに、かけ作 りの(西)観音寺町も古くは東側のみの“片町”であったことのほか、ことに、寛永16年(1639)本多政勝が入部の翌年、南鍛 冶町の南東、茶町に隣接していた野垣内村を、ここから北東方向(西観音寺町東隣)の惣堀外へ移していることなどを伝えて いる。
 また、「大和郡山旧記」(注15.)の寛永16年(1639)の条にも、“観音寺町、鍛冶町内外にかけ作りの町屋”として城下町か ら外の街道筋へかけ作りの西観音寺(観音寺村は年貢地)が次第に伸延し、一方の鍛冶町は大門の内側に南・中鍛冶町(内 町)と、外側の北鍛冶町(外町)に分かれていた様子を読み解くことができる。なおまた、町名からもの傍証もある。それは、本 町と茶町が交差する十字路の北に位置するゼリ(世里)「川中丁」(注16.「御家中屋敷小路割名前図」)であり、本史料が当初 作成された少なくとも宝暦4年(1754)までは、これを町名としていたといえる。
 つまり、近世郡山において最も大藩となった本多政勝の入部は、当然のことながらその家臣団(2,757人)なども急激に膨 れあがり、家中屋敷など城下の拡張が必要となった。このため、このころまで鍛冶町の東南にあった野垣内村(20軒/年貢 地)を、西観音寺町東方に移して、野垣内村跡(明治22年(1888)、大字西野垣内となり現在に至る)ならびに北鍛冶町を堀 の内に取り込むため外堀を幅約450m分、東へ約120mスライドさせる付け替えがおこなわれたために、もと真っ直ぐに伸び ていた外堀はこのとき東へ張り出したかたちになった。これによって、大門を西観音寺町との境近くへ移築し、かつ、門前に虎 口枡形を設けて濠には木橋を架けている。新たに城下郭内となったところへ家中屋敷や町屋、それに本多家菩提所の浄真寺 や良玄寺を置いたのである。なお、北惣堀の外に代官町が形成されたのもこのときである。

・江戸時代の堀水放水権
 前述のように総延長約5,935mにもおよぶ外堀や一部の中堀には、古来から厳密な放水権(水利権)が存在した。こうした 村々の束ねとして“御堀郷総代”を勤めたのが柳町村(大職冠(地字))である。郡山城の築城にあたって中世の郡山村(近世 の柳町村)がその村領の大部分を城地として召しあげられ、換地として与えられたと思われる初期城下町東南部の村領も、や がて城下町の拡大とともに次第に町屋敷として宅地化し農地は失われて行った。こうした事由は古格となり、堀水の放水に関 して柳町村は特権を与えられていたのである。
一方、藩は時に応じて“堀浚え”をおこないその管理にあたっていたが、なかでも、水量確保の問題が一層顕著となったのは “天明の大飢饉”ののちである。たとえば、寛政12年(1800)におこなわれた“堀浚え”には、“御堀郷”の“分水訳け”が柳町 村と高田村(注17.)、柳町村と観音寺村において見直されている。後者の観音寺村はかねてから農業用水に苦慮していた が、このときはじめて“御堀水被下村方”として村名を連ねている(注18.)。なお、明治に入って観音寺村は清涼院廃寺(廃仏 毀釈)の跡地を中心に新池(セイロン寺池/近年埋立)を掘って安定的な水利を確保している。
 “御堀水被下村方”の概略を示すと、柳町村は10か所に、そのほか、高田村に5か所、野垣内村5か所、九条村3か所、新 木村1か所、そして、観音寺村に1か所の堀に放水権が認められていたのである。

108◇近世郡山城の規模(便覧)
 ここでは、「郡山城百話」の締めくくりとして柳澤家藩政時代の城郭の規模などについて、その概略を記して便覧に供したい。
◎内城
  総郭坪数  76157.5坪 (東西6町14間、南北5町4間)
   内、総曲輪  34394.5坪、総堀・土居・石垣・道とも〆 41764坪
  塀2口〆 2075間4寸5分
  狭間数  1316 (内、鉄砲狭間948・矢狭間368)
  総塀〆  1731間4寸5分
  本丸  櫓7  天守曲輪4 (坤櫓・台所橋櫓・月見櫓・厩向櫓/(二重))
           毘沙門曲輪2 (追手向櫓・弓櫓/(二重)) 
        法印(常盤)曲輪1 (追手東隅櫓/(二重))
    門櫓3 天守曲輪2 (台所橋門・白沢門)
            毘沙門曲輪1 (梅林門(追手門)
       埋め門3 天守曲輪2 (天守左右埋門)
              玄武曲輪1 (冠木門(玄武門))
       多聞櫓〆 222間(天守曲輪・毘沙門曲輪・法印曲輪)
       附 焔硝蔵(5)玄武曲輪内
  二の丸 屋形 (表向-玄関・松の間・大書院・小書院・能舞台・折入・表居間・鑓の間。
                    役所向・台所向・広式向・奥向 の諸部屋、門など)
       櫓2 (砂子の間前櫓/(三重)・坤櫓/(二重))
       附 菊畑・大腰掛・松蔵(内蔵)
       門櫓2  陣甫曲輪1 (鉄門)
             緑曲輪(新宅)1 (松陰門)
       門2  (南門・西門)   
          麒麟曲輪
          薪(蔵)曲輪
  三の丸 (五左衛門坂を含む)
       柳曲輪(五軒屋敷)
       門櫓2 (柳門(大手)・桜門)
       柳蔵(城米蔵4000石常備/外蔵) 4ヵ所九戸前
◎外堀総延長 50町13間 (東西719間、南北570間)   ★以上“6尺5寸間”

(注1.『郡山町史』所収。注2.『筒井城に関する復元的研究』山川均 関西近世考古学研究W抜刷/関西近世考古学研究 1996。注3.『増補続史料大成』所収。注5.「延享五年辰正月柳町村新屋舗記録」個人蔵。注6.「和州郡山之城旧記」、「和州郡 山城主覚書」(『郡山町史』所収。注7.正保城絵図』公文書館蔵。注8.発志院蔵『郡山市史』所収。注9.10.『續群書類従』所 収。注11.中井忠重氏蔵。注12.林原美術館蔵。注13.「春岳院文書」春岳院蔵。注14.天理図書館蔵。注4.15.16.柳澤文庫蔵。 注17.「分水訳ヶ之事」個人藏。注18.「秘書」柳澤文庫藏。 参考)

・郡山城百話の“あとがき”                                                      
 「郡山城百話」も数えて108話となり、城郭のことに関してはこれをもって一応の区切りとしたいと考えています。とりとめもな く、かつ、雑ぱくな文章ながら「みんなの知らない大和郡山城」を心がけて先学諸兄の学恩の賜のうえに、可能な限り新しい見 解を述べるべく、ことに、地の利を活かして精一杯努力したと思っています。
 なおまた、つづいて旧城下町の紹介を、「城下町百話」と題して綴ってゆく予定をいたしておりますので、引きつづき「大和郡 山城ばーずあい」へ遊びに来てください。
 本稿はいまだ擱筆の域には達しておりませんので誤謬などにより変更する箇所が今後ともあるものと考えています。また、新 項目を追加することもあるかと存じますので、あわせてご了知ください。なお、本稿をご覧いただいた諸賢の御批正を賜れば幸 甚でこざいます。

・附 城郭をこよなく愛好され本稿をご覧いただいた方へ。
 城郭への憧れを少しでも満たしていただきたいと、ささやかなロマンをご覧に供したいと思います。それは本稿で述べた多く の史料・文献(注)により、筆者が知見を得て考察したなかから、作図した「豊家築造の郡山城天守(七重)」↓の雄姿です。層 塔式建築物における形態の必然性や時代背景などを考慮したものです。


いかがでしたでしょうか。
 このように絵を描くことは容易いことですが、しかし、あくまでもイメージの域を出るものでないことをお断りしておかなければな りません。それは、大和郡山城天守を明確に指し示す史料が見出せないことや、とりわけ、天守建築の基礎となるべき現天守 台が、元和以後大幅な拓修を受けて豊家創建のものではないとみなければならない根拠が現に遺存しているからにほかなり ません。
 今後とも史料の検索を進めるとしても、つまるところ、総合的な学術調査の実施にまたなければならないのが史跡(及び周知 の遺跡)郡山城跡の現状における課題ということがいえると思います。

注.『探訪ブックス〔日本の城5〕近畿の城』(松岡利郎) 小学館/1989。『復元大系 日本の城D近畿』 ぎょうせい/1992 (平井 聖・松岡利郎・宮上茂隆)。 
  郡山城百話 【了】 Hiroyoshi Yoneda.
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