期限は3日。
 2日目の夜。
 八戒の背に腕を回して必死で縋り付いた、快感に溺れた夜。
 不安に押しつぶされそうになる、自分。
 ぎしっと、ベッドから降りる。
 あの店を思い出す。

―時の止まった、世界。

「…どうして…記憶がないんだろう」

 忘れてしまったら…その時の気持ちはどこへ行くんだろう?
 今の、気持ちは何なんだろう?


 
 隣で目を閉じて眠る八戒を見つめる。
 均整の取れた躰に、なんども縋り付いた。
 貫かれる痛みと、抱かれる愛を感じさせてくれた人。

 涙が溢れてきて、悟空は慌てて手の甲でその涙を拭う。このままここにいれたらいいのに…。
 あのオルゴールのように…寄り添え会えればいいのに。でも…それだけじゃ…自分は多分……

―幸せ?

 その二人は…幸せなのは、背中を寄り添い合わせているから?ふれ合っているから?


「…難しいね」

 そう呟くと、悟空はオルゴールから視線をそらせて、部屋のドアへと進める。
 八戒が着せてくれたのだろう、パジャマのままで。





 訪れる、情事の色をまったく残せも出来ない部屋の静寂。
 八戒はゆっくりと、起きあがる。
 小さな溜息が大きな重荷になって部屋を押しつぶすかのようで。
 そんな苦しい空気すら、八戒は笑い飛ばす。
 嘲笑、苦笑。
 つきんっと、腕に鈍い痛みを感じて視線をやる。
 紅いえぐったような引っ掻き傷。
 繋がった瞬間の衝撃に耐えるように、悟空が自分を縋って残した傷。
 後でいつも、泣きそうな顔をして謝る悟空を思い浮かべる。

―ごめんなさい、爪立てて・・ごめんなさい

 普段の彼からは知ることもできないような、頼りのない声。震える躰。

―どうして…謝るんですか?

 そういって夜抱き続けた愛しい躰を、再びその腕に包み込んで。耳元で言い聞かせるように、呟く。
 心を込めて。でも、きっと愛しいこの子には、その言葉は聞こえていないだろうと。
 哀しいほどに純粋で、壊れやすい存在だから。



 八戒はふっと息を吐くと、腕の傷にあてていた指をすっと、自分の隣のシーツへと映す。微かに残る、体温の温もり。けれど、これもほんの少ししたら、感じられることはなくなる。

「何が、怖いんですか?悟空…」

 すべてを無くした『記憶』を『持つ』自分。
 すべてをなくしてしまった、少年。

 過去が、少年を呪縛する。
 封印された過去が、少年を、狂わせていく。
 その枷が少年に課された「罰」なのだろうか?
 流れのある「時」に悟空を存在させても、本当の悟空は時がずっと止まったまま。
 五行山から解き放たれた時。三蔵の手を取ったときも…まだ「心の時」は止まったまま。


 自分の「時」も、一時期止まっていた。

だけど。

「再び動かしてくれたのは…あなたなんですよ、悟空」

そう、何もない空間に向かって呟き、重い息を吐く。
ベッドのかたわらに置かれたサイドテーブルに手を伸ばし、モノクルを填める。ほとんど視力の失ってしまった右目。
 最愛の女性を映し続けていた、瞳。


 八戒は壁に掛けた備え付けの小さな鏡に己の姿を映し見る。
 何も映さない瞳と、未だ映し続ける瞳。
 何も見えなくて良い、と。
 こんな瞳、消えてしまえばいいと思っていた。
 映すものが、ないのなら。
 見る必要なんて、ないのだから。

 けれど。


―キレーな色だと思ったんだよ


 にっこりと微笑む姿。
 嬉しそうに、自分の名を呼んでくれた存在。
 もう、名を変えないでと言ってくれた声。

 縋り付く腕、しなやかな躰、無垢な心。
 守るから。
 あなたの、流れる時を…ずっと……


 窓の外は、まだ薄暗い。
 黒のカーテンはまだ世界を支配する。
 その中で金色に輝く月は映えていて。
 イヤが上でも、あの存在を思い出させる。
 悟空の、呼び声を聞きつけた人。
 悟空が、呼び続けたあの存在。
 
 どうして、自分ではなかったのか?
 悟空の過去の「存在」に自分は無関係だから?
 けれど。
 今は。

 もう…過去じゃない。
 今は今なのに。どうして。

「…呼んで下さい、悟空。」

 すべてを捨ててでも、行くのに。
 金色の髪を持つ青年ほど、自分は何者にも囚われるものはない。
 教典も、敵も。

―あの、金の瞳の少年の存在に比べたら…

 どんどん自分が矮小な存在になっていくように感じられて、八戒はふっと瞳を伏せる。
 そして目を閉じる前に鏡に映った、見慣れないものをその中に発見する。

「…?」

 鏡の中の部屋、窓際におかれた書斎机の片隅に、ひっそりと置かれたあるものを見つけた。
 軋むベッドから降り、その窓際へと移動する。
 ベッドサイドのランプをつけようかと思ったけれど、外の光だけで十分だと考え、そのままテーブルの上に視線を落とした。

「これは…?」

 ひんやりとした手触りの、複雑な飾りを施した「彫刻」を手に取った。
 台座の辺りにネジがあることに気付き、そしてそれをゆっくりと回す。
 ネジを巻き終わった後、テーブルの上に戻す。
 ゆっくりと回り始める、少年と少女の彫刻。
 心地よい短音の旋律は透明でいて、どこか懐かしくもの悲しい。
 昔聴いたことのある、メロディラインだということに気付く。流れるような、短調と長調が交互に混ざり合った、この音楽。
 以前、学校の先生をしていたときに、音楽教諭から一枚のレコードを聴かせてもらったことがあった。
 そのレコードに収録された曲は、ずっと西の国で作曲された、ピアノ曲だと。
 そして、確かこの曲は……


「エリーゼの…ために」


 音楽教諭は嬉しそうに、そう曲名を話してくれた。
 作曲家が、恋した女性のために捧げた曲。
 こんな風に、その時の気持ちはずっと込められていくのね、消えることはないから、と。
 
 その女性と作曲家が幸せになったのかどうかは分からないけれど…その時の作曲家の、女性への気持ちは真実だったから。こんなに人々の心をうつ曲が作れたのね……

「エリーゼの…ために、ですか」


―あなたのために、あなただけの為に…


 この想いが永遠だということを、伝えるために……

 背中を合わせて寄り添う二人。
 このようになれたら、どうなんだろう…
 今の自分では、こんな背中を寄り添わせて幸せでいられるなんて…思えない。


「過去のない、アナタも。過去があるあなたも…あなたでることには変わりないのに」


 たとえ、過去のあなたが誰を愛していたとしても。それは関係ないことなのに。
 金色の瞳に惹かれたのは、自分の意志。
 笑い顔、透明な涙、純粋無垢な心を手に入れたいと思っているのは、自分だから。

―ごめんね、八戒、ごめんね…

 情事の後に、いつも寝言で呟く少年に気付いていた。
喘ぎと嬌声を発していた、紅い唇から漏れる謝罪の言葉。何度も重ねた躰は、ココにあるのに、どこにもなくて。

―誰に謝っているんですか?

 どうして…聞こえないのだろう?
 愛しい人が、こんなに苦しんでいるのに。
 過去の鎖で、血を流しているのに。
 
―悟空

 と、何度も呼んでいるのに。
 どうして…自分の声は届かないのだろう?
 それでも、自分は…あの少年を。

「愛しているんですよ、悟空」

 その微かな穏やかな声と共に、オルゴールの音楽はゆっくりとフェードアウトしていく。
 オルゴールの小さな音すら止んでしまった部屋に、再び冷え切った沈黙だけが残される。
 なんの息吹もかんじられないような、隔離された空間。
 夢の中とは言い難いほどの、突きつけられた現実感。
 
―……

「…?」

 冷えたベッドの上に戻るのも躊躇われ、八戒が再びネジを巻こうと、そのオルゴールに指を触れた瞬間。

 耳から聞こえる「声」じゃない、もっと心の奥の方から、微かに聞こえてくる声に…体を強ばらせる。
 目を閉じて、ゆっくり神経を集中させる。
 控え目な、小さな声。
 …消えてしまいそうな、声。
 けれど……

―……い

「…呼んで、いるのですか?」

 誰を?
 どうして、僕に?


「・・!?」


 強い、押しつぶされそうなくらいに重い、重圧が心臓を押しつぶすように何かが、そこに流れてくる。
 圧倒的な、暗闇。
 強迫的な、孤独。
 永続的な、悲しみ。

 そして…… 

ひたむきな…想い。

 指に触れた震動なのか、オルゴールの音楽が、最後の力を振り絞るようにして1フレーズ流れる。
 それとともに、彫刻の少女の顔がちょうど自分の目の前にさらされた。

「…これは?」

 幸せそうに見えていた少女の表情が。
 静かに微笑んでいるのが。
 どことなく寂しそうで…儚げで。
 まるで……


「悟空」


 優しく、強く呼びかける。
 控え目に、自分を呼ぶ少年。
 もっと、強く呼んでも構わないのだから…
 あなたのために、僕は……

 重くのしかかる心臓への重みを振り切って、八戒は顔を上げた。
 出窓からはいる月の光は、燦々と降り注いでいたけれど。
 八戒はオルゴールを手にし、そして視線を月へと向ける。挑むように向けられる、深緑の瞳。

「もう、ジャマしないでくださいね、」

 口調は穏やかで丁寧だったけれど、瞳には剣呑な光が宿っていた。
 月と同じ色の髪を持つ青年、そして、なぜだか分からないけれど、感じてしまった…悟空を過去に繋ぎ止めている男もきっと、あの色を持っていたのだろうと。

「僕が、守りますから。あの子を」

 少し唇をあげて、月を睨め付けた。
 空で、見ているだけの月。
 でも、自分は。

 見ているだけじゃ…変わらない。
 背中を合わせて、静かに寄り添っているだけじゃ、本当の心が分からない。


「そうですよね、君も思いませんか?」
 
八戒はそう言って、手の平のオルゴールの少女に静かに微笑みながら、呟いた。

 きぃっと開く扉と、ぱたんと閉まる扉。



 誰もいなくなった部屋は、まるで時を止めているようで。でも、確実に、時間は流れている。たとえ、見たところ何も変わることがなくても。

『生きて』いる、から

……この、世界は。
そして、この世界で。





―愛してますよ、あなただけ

 涙が出そうなくらい嬉しい言葉。
 哀しくて死んでしまいそうなくらい、残酷な言葉。

 返せない、気持ち。返したいのに、答えられない気持ち。
 心は受け入れられないから、体は愛してくれる人に捧げる。

 最低、最悪。
 けれど、自分を腕の中に閉じこめて、愛撫して、キスを落として、貫いてくれるときは。
 あなたの瞳が。あなたの心が。
 本当に傍にあると実感できるから。
 自分の気持ちが、あなたを想っていると実感できるから。

―ごめんね、八戒……

 涙も枯れてしまって、もうでないけれど。
 きっと、失ってしまった過去に、涙も忘れてしまったのかも知れない。
 大声で泣ければ、楽なのに。
 何がなんだか、分からないと、喚き散らせれば良かったのに。
 それをできるくらい、自分は子供じゃなくなっていて。
 でもすべてを抱えて処理していけるほど、オトナでもない。

「……どうして、あそこから出ちゃったんだろう…・・」

 暗い暗い、闇の中。
 冷たいけれど、何もないから…何も感じない。
 あそこに閉じこめられていることが、「罰」なんだと思ってた。あの場所から連れ出されて…もう、オレの「罪」はなくなったのかと思ったけれど……

「こっちの方が、めちゃくちゃヒドイじゃん……」
 宿屋の壁に背中をもたれさせて、悟空はゆっくりと月を眺めた。
 金色の瞳が、その光を浴びて濡れたように光る。
 滴が頬を伝っておちていくように…

「いっそのこと、戻れればいいのに」

 金色の髪の青年を思い浮かべる。
 自分の呼び声に答えてくれた人。大切な、人。
 けれど…その奥に重なるあの人は、誰?
 呪縛するように、自分を捕らえるあの、人。
 失った記憶を持っていた、自分が愛した人?
 自分を愛してくれた人?

 そして、もう1人のひと。
 緑色の瞳。
 愛してると、言ってくれた人。
 今の、ここにいる自分を愛してくれた人。
 囚われる、心…
 でも、だけれど…

「ねぇ…オレにどうして欲しいの?
 オレ、どうすればいいの?」

 音をたてて崩れるほど、何も残っていない自分の心。

 ダメダと思っていても……呼んでしまう……
 あの、人を。

 綺麗な、瞳の…あの……


    ****************

 暗い道。
 一本に伸びた道。
 市場へと続く道。
 昼間の喧噪は形を顰めていて、今はただ静寂だけが存在する夜の道を悟空は、何かに導かれるように一歩ずつ歩いていく。
 夜の空には月が掲げられていたけれど、今はその姿を見るのが苦痛で、月の光を浴びないようにと、市場のアーケードの影を進む。
 まるで違った場所にいるようだけれど、あの店への道は体が覚えているかのようだった。
 まだ2回しか行っていないのに…明日の朝でも良かったのに…どうしても。あそこに行きたくなってしまって。

 アスファルトで部分舗装された道を行く。
 固い感触がなんだか冷たい空気を助長するように感じられて、小走りに切り替える。
 幾つかの角を曲がり、いくつかの通りを過ぎ、そしてあの店のある路地裏に着く。
 「閉店」と掲げられた看板をかけた店をいくつか通り過ぎ、そしてあの店のドアの前に立つ。
 扉のノブは、固く閉ざされていたけれど。その扉には、「開店中」の札が掛けられていた。
 
 ノブに手を掛けることに躊躇して少し離れたところでその店をただ眺めていると、なんだか周りがさっきよりも薄暗くなっているような感覚に襲われ、無意識にその視線を空に向けた。


「……月が」
 隠れていた。


 夜の世界に柔らかい光を灯してくれる優しい光はもう消えていて。
 自分が、拒否してしまっていた光なのに。
 隠れてしまったことに、不安と恐怖が混じり合う。




「月が、隠れてしまったのぅ…」

 はっとして悟空は視線を声の方向に戻す。
 いつの間に、そこにいたのだろうか。
 店の唯一の窓際に、老人が葉巻を銜えて静かにたたずんでいた。
 窓が開けられてはいたが、店内は薄暗く、よく見えなかったけれど。オルゴールの鳴り響く音はまったくしなかった。

「…来ちゃったよ……」

 かつんっと、足下にあった小さな小石を悟空は悪戯に蹴る。微かな音をたてて、それは店のドアに当たって簡単に砕け散る。
 ばらばらに砕けた破片が、まるで自分の心の様で、見つめる瞳に苦痛が浮かぶ。

 月を眺めるように上方を向いていた老人は、ゆっくり窓越しに悟空の顔を見つめる。
 少し悲しそうに、しかしその深く刻まれた皺のある顔は柔らかく笑みを浮かべていた。

「入りたいのなら、入りなさい。ドアはいつも開いたままじゃ」

 白い煙が空気を漂い、外気の流れでゆっくりと窓の外へかき消されていく。そのたゆたう白い煙を、悟空はなんとなしに見つめ続けていた。

 目の前にある、ドアノブが…今までのようにすんなり手に取れないのは、どうしてだろう。
 いつもと同じじゃないか。
 どうして、そんなに躊躇うの?

 朝になれば…気も落ち着くから。今日も、心を隠して、あの人に笑えるだろうから。
 朝になれば、帰ればいい…ドアを開けて…出ていけばいい。

 ドアノブに手を伸ばそうとしたときに。
 老人は静かに、声を掛けた。


「昨日の帰りに言ったことを…お前さんは覚えているかい?」


―ここは、ずっと変わらないから…出なさい……


 その言葉の意味。最後に見て、感じた違和感の正体。動かない、針。時間を指さない、時計の針。
 扉の向こうに広がる世界が、今自分がいる世界と少しだけ違っていて。それはほんの少しだけ。けれど、とてつもなく大きな、たった一つの違い。
 
 悟空は大きく息を着くと、気を抜くと震えてしまう腕を必死で伸ばし、その木で出来たドアノブに自らの指を静かにかける。
 不思議なくらいなにもかんじさせない『感触』が手を通して伝わる。波動すら、止まってしまった世界のもの。
 きぃっと軋んだ不協和音が夜の帳に響く。
 自分しかココに存在していないという、ぞくっとするような感覚。
 開かれる、扉。
 けれど、いつものように、扉が開くと同時に入ることは出来なくて。徐々に目の前に広がる、オルゴールの棚をただ静かに視界へと受け入れることしかできなかった。

 窓際から、床の微かな音をたてて扉の方に近づく足音がして、扉の開いた「向こう側の空間」に老人が立つ。

「…オレ……」


 穏やかな瞳に悟空は何かを言おうとするけれど…その次が告げず、ただ黙ることしかできなかった。
 扉の奥、そう、ここは……
「時が、止まった世界」
 悟空の唇が、自然に音を発する。

時の流れが止まった世界。そう、ココは…ココこそ…

「コレが、オレの望んだ世界?」
 
時は流れないから。恒久的に「今」だけだから。
過去なんて概念も、未来なんてカテゴライズもなく。
変化もない、ただ、そこにあるだけの、世界。

―それを、望むの?
本当に、それが、望んだ世界なの?

足が凍り付いたように動けなくて、店の奥をただ凝視するしかできなかった。
 そんなかちんかちんに固まってしまった悟空の心を溶かすように、老人は穏やかに、そして真摯に悟空へと言葉を伝えた。
「時を止めてしまうことが幸せなら、ここに来なさい」
 その言葉に悟空はゆっくりと、真意を測るように老人の深い黒い瞳に金色の瞳をあわせた。
 無意識のうちに、悟空の右足がゆっくりと、そのドアの方へと引き寄せられていた。

「けれど」

 突然の厳しい声に悟空ははっと、その老人を反射的に見遣る。

「もし、少しでも…変化を、そして不変であることを『感じて』いたいのなら…『そこ』にいなさい」

 悟空のぎゅっと握りしめられる拳が、徐々に震えを大きくしていく。
 頭が割れるように痛かった。
 もう、どうしていいのか分からなかった。

 『愛してる、ずっと…』
 そんな言葉、信じられなかった。
 だって、覚えてる、覚えてるから。


「ずっと、昔、誰かにオレ、確かに言ったんだ……」

 
― ずっと、愛してる…待ってる


 哀しかった…けれど、本当の気持ちだった。誰に言ったのかも、どうしてそんなことを言わなきゃいけなくなったのかも分からなくなっているけれど。
 
 初めは、三蔵かと思った。オレを、闇から救ってくれたヒト。懐かしく感じた光。
 愛してくれた、あの人も。三蔵も、オレを愛してくれたけど……
 でも、チガウ…と、心が叫ぶ。軋む、コワレル。

 過去の自分は、失った記憶に生きていた人を愛した。
 今の自分は…?


 深緑の、青年。
 失うことのコワサも、何も持たないことの淋しさも、そしてそれを乗り越えた強さすら持っている人。


―愛してますよ
 優しい、優しい声。
 真摯で、偽りのない心。

 どうして?どうして、オレなの?
 過去も失って、ずっと1人だった自分。
 支えだったのは、微かに、ほんのかすかに残っている金色の…存在。

 ずっと、それだけを支えにして生きた。
 それがあったから、壊れなかった。

 ズキズキと痛む頭、つきんと指すような苦痛を帯びる胸。
 ドアに縋り付いていた指すらも、力が抜けていくようで。その場に、力無く座り込む。
 固くて冷たい石の感覚。

「本当の、オレの気持ちは…どこ?」

 目を閉じる。
 ずっと、ずっと思っていた。
 初めて、あの人から愛してますと言われたときから、思ってた。
 

―あなたの、ために……


 オレは、どうしたいの?
 オレは、あの人に…どうしてほしいの?




石畳についた両手に、何か温かいモノが落ちる。

「…オレ……」

次々に、落ちてくるもの。
手の甲を伝って、石畳に幾つかのシミを描く。
まるい、大きな……

「……涙?」

 空気が少し動く。老人の低い声が、近くで優しく響く。大きな優しい手が、悟空の茶色の髪をゆっくりと撫でた。
 優しい、感覚。激しさも強さもないけれど、穏やかで静かな気配がゆっくりと自分を癒してくれるようで。

「自分の中の時を止めてしまうのと、不変であり続けるのは違う…」
 
 頬を伝う涙。隠していた、心がどんどん現れてくる。心の底、水底へと沈ませていた気持ち。
 今の、自分の…

 時を止めてしまえばいいの?
 それで、解決できるの?
 時を止めてしまったら…もう、先はないのに?


―それで、幸せで、いられるの?


 心の奥。ずっと、隠してきた。ずっとすり替えていた。怖かったから…幾重にも、重ねて重ねて、封印してきたけれど……

『オレは、今…誰を呼んでるの?』

 誰を…?

 脳裏に蘇る、色。
 綺麗な瞳だったのに。
 それを自分でえぐり取って、捨ててしまった人。
 その瞳に映る人はもういないから、未練もない。
 もう、生きる意味もない。
 そう、絶望の淵で血にまみれていた、あの人は。


 まるで、もう1人の自分……

―キレイなんだから…

 今度は、オレを映して?
 その瞳に、オレを映して?

『オレだけを、映して?』

―じゃあ、アナタの瞳にも…

『僕だけを映してくれますか?』


「その人を愛していたという事実は変わらない。
 過去の自分の気持ちも本当のものじゃろうて。
…でもな」

 嗚咽を繰り返し、膝の上に顔を埋めてしまった悟空の背をゆっくりなでさするように、それだけを言って、老人の手の平は動く。

 それから少しして、ほんの少し視線を通りの向こうにやると、柔らかい笑みをその顔に浮かべる。
 何かを承知したかのように、小さく頷く。
 しゃっくりを盛大にあげて、泣きじゃくる少年に顔を上げるよう指示した。
 金色の瞳は赤く充血していて、すんすんと鼻水も盛大に出てしまっているようだった。
 幼い子供のような悟空に、くくっと苦笑しながら、老人はゆっくりと言い聞かせた。

「過去も、大切だろう。けれど、過去に縛られて、前に出ていこうとしないのは…それは違うぞ。
 今は、今じゃ。
― お前さんは…今、誰を求めているんじゃ?」

ずっと、ずっと苦しかった。
隠していた、本心。
溢れそうになるたびに、必死で必死で隠した。
水底に沈めようとした。


―愛してる

 愛してるって…本当は自分も言いたかった。
 でも、その勇気が持てなかった。
 もし、愛してるっていって…
 いつか自分のことを愛してくれなくなったとき、自分はどうしたらいいんだろう?
 また1人になってしまう。

 今度、愛した人から離されてしまったら…きっと耐えられないよ。壊れちゃうよ?

 だけど……

「…はっかい……」

 小さく、小さく呟いてみる。
 初めて、声に出して呼んだ、あの人の名前。
 ずっと、ずっと心の底で呼んでた…
 けれど、ずっとずっと、隠してた…

「はっかい……」

 ひくっと大きな嗚咽が上がる。
 それとともに、悲しい思いが浮上してきてしまう。

「でも、もぉ…遅いよ……だって。オレ……ずっと八戒に……」

 自分に、認める勇気がなかったから。
 過去のあの人への気持ちと、今のこの気持ちをどう扱っていいのか分からなくて、ひどく傷つけた……


「きっと…もぉ……嫌われちゃったよ」


 ぽろぽろっと後から後から涙が零れる。いくつものシミが一つになって、大きな円を描くほどになっていた。

「どうしてじゃ?
 ……ちゃぁんと、お前さんの本当の心は伝わっているじゃないか」

 その妙に確信を持った老人の声に悟空は、ほんの少し目をぱちぱちさせる。訝しげに見つめる悟空の金色の瞳をその手で隠す。

「…心で、呼んでみなさい。
  今、一番会いたい人、『今』一番望んでいる人を」