不意に遮られた視界。
老人の、皺の入った手の平が微かに見える。
老人の深い労りの声に誘われるがまま悟空は、ゆっくりと自分の目を閉じる。
よんでみなさい、と言われても。
どうしていいのかなんて、分からない。
三蔵が、「俺のことを呼んだのはお前か?」なんて言っていたけれど…本当に自覚なんか無かったから。
知らないウチに、呼んでいたのかな?
どうして…呼んでたんだろう?
「自然に、呼んでるんだよ…ちゃぁんと…な」
そう語りかけてくれる老人の声が、優しく耳に馴染む。自然に、呼ぶ…?
深い、深い…山の夏。岩牢の中から、見えていた季節の変化。深い緑が目の前に広がって。
それはとても安心できる、色。
それと同じ色を持つ、青年。
深緑の、瞳。
初めてあったときに…綺麗だと思った…
―はっかい……
心の中で、静かに控え目に…ただ1人を思い描いて求める。
抱きしめてくれた、腕。キスを落とす、唇。
すべての、あの人の行動が…堰を切ったように溢れてくる。ずっと、ずっと、隠してきた想い……
「八戒……」
自然に、口に出てきた一つの、名前。
ふっと、目の前のものが解かれる様な感覚がして、ゆっくりと悟空は金の瞳を空気に晒していく。
「どーし…?」
ふわっと何かに包まれる感覚。抱きしめられる…心地よさ。この感覚は、ずっとずっと知ってる…この腕の温もりは…
「悟空」
「……はっ、かい・・?」
一番、聴きたかった優しい声。
でも、もう聴くことが出来ないと思っていた声。
現実とは思えない、そのシチュエーション。
だけれど、自分をぎゅうっと力強く抱きしめる腕は本物で。
激しい想いが強く、その胸の内から自分に伝わってくるようで、体が熱くなってくる。
「どうして…どうして?」
確かに、確かに呼んだけれど…でも、さっき、呼んだだけなのに?
いるはずのない、存在。
来てくれるとは思わなかった、人。
涙が、再び一筋目尻から零れていく。
「声が…聞こえたんですよ」
―僕だけに、聞こえる……アナタの声が……
その言葉に悟空は胸の中から顔を上げる。
愛しげに、見つめてくる緑色の瞳にぶつかる。
ずっと、この瞳で、告げられてきた。
―愛してますよ
と。
真摯な気持ちに、答えてもいいのですか?
今の、本当の自分は…どうしたいの?
八戒は、自分が望むことをしてくれた。
こうやって、来てくれた……
「悟空、あなたの為だけに……」
「オレ…だけのために?」
悟空の言葉に応じる代わりに、八戒は自分の唇を悟空の、その小さな唇に重ね合わせる。
何度も交わした、キス。
なのに、初めてだった。
こんなに、幸せに感じたのは。
―あなたのためだけに
口づけられる、愛した人に。
心の枷が、溶けて消えていくような感覚に悟空は全身から何かがあふれ出てくる。
ぎゅっと八戒の大きな胸に縋り付いた。
大きくて、広い胸の中だった。
零れても零れても溢れてくる涙。
止めようとしても止まらない、嗚咽。
泣き声。
ずっと、ずっと耐えていた。
どうしていいのか、分からなくて、ただ耐えるしかなかった。
「はっかい…はっか・・い!八戒!!」
悟空の唇から、何度も何度も紡がれる名前。
ずっと、呼びたかった。けれど、呼べなかった。
「悟空…」
わんわんと初めてこの世に生まれたように、泣き叫ぶ悟空に八戒はただ優しくその震える背を抱き寄せて、撫でてやる。
細くて、小さな背に…どのくらいの重荷を背負っていたのだろうか?
「愛してますよ…悟空」
ぶんぶんと、悟空は八戒の胸の中で大きく首を横に振る。
そして。
悟空は突然八戒の胸板を激しく突き放した。
「悟空!?」
「ダメ!やっぱりダメダよ!!」
少年の絶叫に近いような、悲しみを湛えた声が八戒の脳裏をえぐるように突き刺さる。
空気が、一瞬止まって消えて無くなってしまうかと思うほどの強い、衝撃。
ぽろぽろと涙を零しながら、悟空は座り込んだままの八戒を、力のない瞳でただ哀しげに見下ろした。
ぎゅっと握りしめられた爪が、悟空の手の平を傷つける。つつっと、流れ落ちる赤い血がぽたっと、土の中に黒いシミを残して落ちていった。
けれど、その傷に気付くこともなく、悟空の金色の瞳は八戒を正面から見つめる。
そして、訪れた静寂を悟空はゆっくりと掠れた声で破った。
「オレ……八戒のこと、好き」
少し微笑みを浮かべて、深緑の瞳を見つめる少年は思い詰めたように危険な位の危うさを秘めていた。
八戒は悟空の傍に行くため、身じろいだけれど…その金の瞳がそれを強行に拒む。
「今のオレは、八戒が好き。大好き…
けれどね…今は八戒が好きでも、『本当』のオレは好きじゃないかも知れないよ!?記憶があったら、オレ、八戒のこと好きになってないかもしれないよ?!
そんなの、おかしい!分かんない!」
一気に叫ぶ。ずっとくすぶっていた、不安な気持ちの正体。
自分は、誰?
過去の自分が、「愛した人」と交わした約束。
『ずっと、ずっと愛してるから』
一体誰と交わしたの?
その約束まで、記憶の封印で奪われたの?
そして、今「愛してる」人が出来て。
じゃあ、この交わした約束は…?
どうなるの?
気持ちが、分断されてしまう苦しみ。
ウソをついて。気持ちに嘘をついて……
「もぉ…ウソついて…隠すのは…ツライよぅ……」
ぐぐぐっと更に爪が手の平に食い込む。
流れる血は激しくなり、手の感覚もなくなってくる。
こんなこと、叫んでも意味はないのに。
八戒を困らせるだけなのに。
どうして、呼んだの?
どうして…来たの?
空を見上げて、月の光を認める。
西の空に落ちていく月。
ぎゅっと目を閉じる。
涙が頬を伝って、首筋を流れる。
乾いた冷たい風が、その肌を撫でていく。
不変の想いを信じ続けていたのは、自分自身。
記憶の片隅で、封印された記憶の残滓があの岩牢でずっと自分を支えてくれていた。
「どーしたら…いいか…わかん…っん!?」
悟空の唇が強引に重ねられる、奪われる。
紡がれ続けていた、苦しさにまみれた声は八戒の唇ですべて消されてしまう。
「…っぁ…んぁ」
合わせられる唇の隙間から、荒い息づかいが艶めかしく漏れる。
激しいキスが、悟空の最後の力をすべて奪い取ってしまう。くたっと、躰を八戒に預け、彼の腕の中にゆっくりと縋り付く。そのまま八戒は悟空を腕に閉じこめ、地面にゆっくりとしゃがみ込んだ。
そして焦点の合わない金色の瞳を、八戒は深い緑の瞳で射抜く。
「…悟空。よく聴きなさい」
真剣な、声。
悟空は、揺れる瞳を彼に向けた。
「八戒…?……あ…」
どこからともなく、聞こえてくるこの旋律は。
深い愛と切ない気持ちが込められた、静かで激しいメロディ。
「オルゴール……」
「そうです」
にっこりと微笑みながら、八戒はそのオルゴールを地面に置く。悟空は八戒の胸に背をもたれさせながら、そのくるくると回る台座の二人をじっと、見つめていた。
背を寄り添わせる二人。
少女の控え目に下を見つめるその表情が、一瞬、弱くなってしまった月の光でほのかに照らされた。
「……?」
少し、寂しそうに微笑んでいるように見えたのは、錯覚だろうか?でも、この前見たときは、とても幸せそうに見えたのに。
悟空は、じっとその曲と彫刻を見つめていた。
「ねぇ、悟空。この曲がエリーゼのために、という曲名だと知ってますよね。」
ふいに、背中を通して温かい声が悟空の耳に届く。
「でもね、コレは本当は…『エリーゼのために』と言う名前が付いているけれど。『エリーゼ』じゃないんです。」
「…え?」
「この作曲家の愛した女性の名は、別です。けれど、後世の人が間違ってその名を伝えてしまったんです。そして、その間違ったままの曲名が残ってしまった」
悟空は、きゅっと自分の拳を握りしめる。
さっき抉った傷がずきんと、鈍い痛みを発する。
しかしそれに気付いたのか、八戒は悟空の指を取り、そしてその傷口に自分の唇をあてた。
なま暖かい、柔らかいものが傷口に触れて、悟空の体がぴくんっと、揺れる。
「捧げたはずの女性の名前が間違って後世に残っているんです。ちょっと哀しくなってしまうような話ですね。でも…」
八戒は、ゆっくりと手を伸ばし、オルゴールのネジを再びまき直す。
かちかちっという無機質な音が白くなりはじめてきた空気にアクセントを漂わせる。
そして、流れ出す、オルゴール。
「名前がどうとか、そんなことは関係ないんです。それは後世の問題であって、本人達の問題じゃない。
この曲は作曲家とその恋人のためのものなんです。その作ったとき、そして贈られたときの二人の心が真実で愛しあっていたから、こんなにこの曲が心に染みてしまうんです」
八戒は、悟空の体を抱き上げ、自分と向かい合わせになるように、その小さな躰を抱き直す。
悟空は、ただ深緑の瞳を魅入られたように見つめることが精一杯だった。
そして、八戒はそんな悟空の腕を取って、その手の甲に軽く口づけた。
「愛していますよ。悟空」
何度も何度も、きっとこれからも言い続けるであろうコトバ。
でもそれが、八戒の悟空への気持ち。
「僕は、今の悟空だけを愛しているんじゃないです。
過去のあなたというものがいたとしても、僕は悟空、あなた自身を愛してるんですよ」
愛している、という気持ちに偽りはない。
「過去」の悟空も、「今」の悟空も、それは唯一の存在で二分されるものじゃない。
「だから、怖がることはないんです。
僕の目を見て答えなさい」
八戒は少し視線を逸らし、傍らで音に合わせて回る少年と少女を見遣る。
「僕は、この少年のように…背中を合わせるだけで幸せになれるほど…心は広くないです。
僕は、見ていたい。あなたを、正面から…」
その言葉に悟空は少し瞠目する。そして、垣間見た少女の表情の曇りを静かに思い起こした。
―僕の目を見て。
そう、八戒は…いつも望んでいた。
「悟空、今のあなたはどうなんですか?」
今の自分の気持ち。
過去、べつに大切な人がいた。
その人をずっと、ずっと愛していた。確かに愛し続けていた。その気持ちは真実で…
でも、この目の前にいる青年を、本当に愛してしまったのも真実。
「オレは…八戒が好き」
少し頼りないような、弱々しい声しか、口をついて出てこなくて、悟空は少しもどかしくなる。
けれど…それくらいに、怖いから。
この気持ちが、偽りのないものだけれど、でもそれが偽りになってしまうかも知れないから。
だけど…それでも。
もう、自分の中の時が、動き出してしまったから。
さっきの涙が、すべてを隠していたものから、想いをさらけ出してしまったから。
救い出してしまったから……
「悟空…」
少年の細い腕が頼りなげに彷徨うかのように、八戒の首に回される。
ぎゅっと縋るように抱きついた悟空を、八戒はしっかりと受け止めてやる。
細くて温かい悟空の体を、何度もその腕に絡み取ってきたけれど。どうしても掴めなかった心が…やっと自分の腕の中に入ってきてくれる。
「好き…八戒が…好き」
いつか、過去を思い出したとき、この気持ちがどうなるかは分からない。
遙か昔に、「愛した」気持ちは真実。
それは変わらない。
たとえ、今。八戒を愛したとしても…
不変のもの。
人の気持ちほどその言葉からほど遠いものはないかも知れないけれど…でも、その気持ちのベースになる、真実の気持ちだけは、変わらない。
ウソにしたくないから。
きっと、ウソにできない気持ちだから。
愛していたという事実は変わらない。あの時の想いが変わったんじゃない。
今の自分が持ち得た、真実の想い。
何かが、心の中で動き始めたような感覚。
ずっと止まっていた、時間が動き出す。
変化のあるものの中にいてこその、変わらぬ想い。
きっと、自分の心の時間を止めてしまったことで、大切だったはずの「過去」すらも、見ないようにしていたのかもしれない。
自らが、その想いをずっと闇の奥底にうめてしまいいたのかもしれない。
「八戒、オレ、八戒のこと好き。初めてあったときから…ずっと……」
二人の傍らで、静かなメロディを奏でるオルゴール。
その軽やかで透明な音楽が二人をゆっくりと光へ導く。
「この曲の作曲家が、彼女の為だけに曲を捧げたのなら、僕は…」
八戒は唇を、腕の中の愛しい少年の耳元へと寄せる。
ふっと吐息がかかり、悟空はくすぐったさに、柔らかい笑みを浮かべる。
八戒が初めてみた、幸せそうな笑顔。綺麗な、太陽のような光を持つ、美しい表情だった。
「何?八戒…?」
不思議そうに、自分の言葉の続きを待つ可愛い少年の顎に指を沿わせながら、八戒はその唇近くで続きを囁いた。
…この作曲家が愛しい女性に曲を捧げたのなら。
僕は、あなたに…あなただけに……
―この、緑色の瞳を捧げますよ。
ぽんと赤くなる頬に、八戒は柔らかく口づける。
そしてその赤い唇。
重なり合った回数は、確かに数え切れないほどしていたけれど。
きっと、本当に愛しい人とのキスは、これが最初。
ファースト・キス。
くちゅっと、互いの唾液が混じり合う。
一つになった気持ちのように。
悟空の柔らかい口腔を静かに侵略していく。
絡め取った悟空の舌を、柔らかく愛撫して。
そして、唇から離れる。
目尻に朱を帯びたその瞳は、潤みきったもので。
八戒の心をさざめかしてしまう。
「八戒……」
そう唇が紡ぐだけなのに、どうしてこれほどまでに幸せになれるのだろう。
悟空の腕が、するりと離れ、そして頬を八戒の胸元に寄せる。
すっぽりと自分の腕の中で丸まった少年を愛しげに抱く。
「…オレも……アゲル」
「え…?」
腕の中の体温が少し上昇したような感覚。
八戒はゆっくりその視線を腕の中に落とす。
そして交わし、混じり合う金色と深緑の光。
金目には深い安心感と恍惚とした表情が浮かんでいた。その瞳を可愛らしく細めて、八戒に囁いた。
―オレが…八戒のために出来ること……
してあげられること。
「オレも、この瞳…八戒にだけ、アゲル」
八戒だけを映すから……
きっと…ずっと……
失った過去を取り戻したときに、何が起こるのかとかどうなるのかとか、全く分からないけれど。
でもこのときの気持ちは、「今」真実だから。
悟空は自分から、八戒に口づけを求める。
もっと、感じていたかったから。
隠し続けていた、自分の気持ちはとても貪欲で。
唇を合わせる。
かたんと、何処かで何かが倒れる音が聞こえる。
いつの間にか、オルゴールの音が聞こえなくなっていた。
二人だけの、鼓動。
とくんとくん、と。
溶け合って。
互いに繋ぎ合った指先から、伝わる温もりが真実の「今」の想いを伝え合ってる。
東の空から太陽が昇り始める。
目覚めの時刻。
まるで時が止まっていたかのような世界に、また新しい流れが生まれる。
「今あなたが僕を愛しているという想いが嘘になるんじゃないなら…
僕は、たとえあなたの過去が戻って、本当に愛しい人を思い出したとしても」
八戒の腕が、その小さくて華奢な少年の躰を静かに包み込む。
優しく、そして激しく強く。
―僕があなたを愛し続けることには、変わりありませんから……
覚悟していて下さい
自分を見上げてくる少年の瞼にキスを落とす。
そして、ゆっくりと少年も瞼を下ろす。
もう、オルゴールの音は聞こえない。
求めていたものは、手に入ったから。
「八戒、好き。愛してる」
そう、悟空はゆっくりと八戒に伝えた……
―帰ろうか、部屋に。
……一緒に、ね。
************************
「もう、この次元にも長居は出来なさそうじゃ」
薄暗い部屋に、ほのかな朝の光が射し込む。
カウンターの上に、優しいひだまり。
その朝日に照らされる、オルゴール。
少年と少女の彫刻。
老人は優しい瞳でそのオルゴールを見つめる。
時間の止まった世界に、変化がもたらされる。
「幸せに、なりなさい」
オルゴール台の上の少年と少女。
ゆっくりと、回り始める。
幸せそうな少女の表情。
互いに見つめ合った二人。
寄り添うだけじゃ分からないから。
瞳を見て、伝えて。
きっと、それだけで、真実だと分かるから。
もう、オルゴールは聴こえない。
―真実の想いは、嘘にならない
ずっと、ずっと伝わるから。
君のためにできること。
僕だけができること。
探していこう、見つけに行こう。
過去に捕らわれないで。
今の想いを誇れるように。
「ずっと、一緒に。いられたらいいね」
たとえば、それにリミットが存在したとしても。精一杯愛したいから。
空は白く光り始める。
一日が始まる。
― 時は新しく刻み始める……
(了) |