青々(せいせい)たる春の柳、家園(みその)に種ることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐めや。軽薄の人は交りやすくして亦速やかなり。楊柳いくたび春に染れども、軽薄の人は絶て訪ふ日なし。
武蔵の国石田村に土方歳三という者がいた。家業の薬の行商をする傍ら勉学を怠らず、なお清貧に甘んじて過度の調度をよしとしていなかった。
彼は豪農の兄・喜六の許に厄介になっていた。喜六の妹・のぶは同じ国の日野の佐藤家に嫁いでいる。この佐藤の家は日野宿の御大尽なので富も有り非常に栄えていたが、土方家の人々を慕い、のぶを娶って親族となり、しばしば事に寄せて物を贈ろうとしてくれたが、
歳三は「一家の生計の為に人を煩わすわけにはいかねぇ」とそれを受けることは無かった。
その日も歳三は薬の入ったつづらを担いで近郊の何某の許を訪れていた。家伝の石田散薬を売ったついでに色々と積もる話をしていると、壁を隔てて人の苦しむ声が聞こえてくる。
歳三は首を傾げ、この苦しげな声は何かと家の主の問うた。主は壁の方をみて
「多分、北の国の人と思うが、お連れさんに遅れたのか一人で我が家を訪ね、一夜の宿を求めてきたんだ。見るからに武家の御子息らしく卑しいところなど無かったから泊めたんだがな。その夜、熱を出して起き上がれなくなってしまいおった。もう3.4日も臥したままだが、気の毒で追い出すわけにはいかねぇ。全く厄介なものを背負い込んでしまったもんだよ」
と途方に暮れたように言った。
歳三はそんな主を見、そして壁に目をやる。
「こんな所で病に苦しむなんてな。お前さんも心安かねぇだろうが、その御武家さんも知る人も無い旅先で倒れて、人の家の厄介者になっちまって心苦しいんじゃねぇか」
そして、腰を上げた。
「どれ、俺が診てやるか」
それを主は止める。
「流行病は人にうつるから止せ。うちの子ども達もあの部屋には近付かないようにときつく言ってあるんだ。歳さんも病人に近寄っちゃなんねぇ」
それを聴き、歳三は眉を顰めて
「流行病なのか」
と問う。主は、判らぬと答え、しかしもしもの事があるから近付くなと言う。
「人の生き死には天に定められたものだから、恐れる事は無いさ。此処で病に罹って死ぬような事があれば俺はそれまでだったって事だ」
言って笑みを浮かべると、歳三は病人の臥す部屋の戸を開けて中に入った。
苦しげに胸を上下させて息をする病人を見てみると、なるほど主の言葉通り武家の出と思われる身なりをしている。
病人は歳三に気付き充血した目を向けた。
「すみませんが、湯をくれませんか」
言われて歳三は彼の傍に寄って湯を差し出した。病人は痩せた手でそれを受け取り口に流し込む。年は歳三よりもいくらか若い。そんな青年が病に苦しんでいる様が哀れに思えた。
「大丈夫だ、そんな病。必ず治してやるからな」
歳三が言うと病人はうっすらと微笑んで
「無理ですよ。私は此処で死ぬ運命らしい」
と諦めたように呟いた。
「何を弱気になってやがる」
そう言うと歳三はつづらから薬を選び、それを病人に与えた。苦いと文句を言うのを無視して呑ませ、更に粥を作って差し出す。病人は嬉しげに歳三を見、例を言って粥を啜った。
「ちゃんと食って、薬も飲んで寝ていりゃあ、病なんて何処かへ行っちまうさ」
と、粥を食う病人に言い聞かせた。
歳三は暫く此処に滞在し手厚く看病をした。その甲斐あって病人は二.三日もすれば熱が下がった。
「峠は越えたようだな。もう大丈夫だ」
歳三が言うと、彼はその手をとり深く頭を垂れた。
「何処の誰かも判らないような私にこんなにも良くして頂いて感謝しています。死んだとしてもこの御恩を報いたいと思います」
「何を気弱な事を言ってやがる」
歳三は青年に向かって言う。
「凡その疫には重たい期間がある。それを過ぎりゃ命に別状はねぇ。だが、まだ起きるんじゃねぇ。毎日看病に来てやるから」
そう約束し、歳三は一旦石田村に帰ったが、言葉通り毎日何某の許を訪れて青年の看病を続けたので病はすっかり良くなった。青年は主に宿の礼をし、歳三にも感謝の言葉を述べ、その生業をも訊ね、そして自分の身についても語った。
「私は奥州安部藩の生まれで、沖田総司という名です。
剣術に秀でていた為、城主に仕えていましたが、大晦日に安部能登守正備の兵が押し寄せてきて戦となり城を奪られ、主も討ち死になさいました。弔い合戦をするべしという声もありましたが、世継ぎが見かけ倒しの愚将だったのでそれは果たせませんでした。私は新しい城主によって国に留めさせられましたが、じっとしているのは性に合わない。そこで国を抜け出して江戸に物見に行ってみましたが、その帰りに病に倒れてしまったのです」
「礼には及ばねぇよ。仇討ちもいいが、もう少し此処に留まって養生した方がいい。此処の主には俺からも言っておくからさ」
そう言われ、総司はもう暫く何某の家の厄介になることになった。
彼は毎日訪れる歳三に剣術の指南をし、又互いに学問について語り合い、親交を深め、終には兄弟の盟を交わす迄に至った。
歳三の方が総司よりも九つ年上だったので、総司は彼を兄のように慕った。
ある時、総司は歳三に向かってこう言った。
「私は父母に判れて随分経ちます。土方さんの兄上は私にとっても兄ですから、御挨拶したいと思います」
歳三は喜んで
「兄さんは俺が独り身なのを憂いているからな。お前という弟を連れて行けば喜ぶんじゃねぇか」
と、総司を伴って石田の家に帰った。
喜六は弟の友人を恭しく迎え、今後も歳三に色々と指南してくれるようにと頼んだ。
総司の聡明な人柄は土方家に快く受け入れられた。彼は家の様々な事を手伝い、歳三の行商を助け、また自分の知る兵法の事などを語った。
そうこうするうちに月日は経ち、多摩川に咲く桜も散り、梅雨の雨も去って夏の気配が訪れた。
初夏の風が吹くそんなある日、総司は濡れ縁に寝転んだ歳三に
「国から抜け出してきたものの、その後藩が如何なったのかが気になるんです。一度下向しこの眼で安部藩の様子を見に行きたいのですが」
と、言った。歳三は上半身を起こし総司を見つめる。その瞳が不安げに揺れているのを見て総司は歳三に微笑み言葉を繋いだ。
「藩の様子を見た後は再び此処に戻ってきて、あなたの為になるように働きたいと思っています。だからそんな目をしないで下さいよ」
歳三は俯いて膝に置いた手をぐっと握る。
「じゃあ、いつ戻ってくるんだ」
「月日の経つのは早い。夏の間に戻って来るのは無理でしょう。ですが、此の秋を過ぎると云う事はないでしょうね」
「秋か」
歳三は顔を上げて総司を見た。
「秋のいつの日を定めて待っていればいいんだ。出来れば約束して行って欲しい」
そうですね、と総司は空を見上げる。いい日が思い浮かんだのだろう、彼は歳三に向き直り
「重陽(ここぬか)の佳節(菊の節句、陰暦の九月九日)の日に戻ってきます」
と告げた。
「必ず此の日に帰ってこいよ。一枝の菊花に薄酒を備えて待っているからな」
「ええ、待っていて下さい」
総司は柔らかい笑みを浮かべ歳三の白い頬を撫でる。約束した事で安心したのか歳三も彼に微笑み返した。
総司は喜六らに暫くの暇を告げ、奥州に帰って行った。
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