菊花の約・二



 月日は早く経て、下枝の茱は色づき、垣根の野ら菊も匂いやかな九月になった。
 総司が奥州に帰ってから戻る日を指折りつつ数えて過ごした歳三は、九日はいつもより早く起き出して館を掃除し、黄菊と白菊を二枝三枝ばかり小瓶に挿した。それから僅かばかりの持ち金をはたいて酒や魚を買い、馳走の仕度を始めた。
 喜六はこの様子を見て、腕を組んだ。
「歳三、総司の国は此処から百里は離れているという。そんな遠い所から戻ってくるんだ、今日帰り着くとも思えねぇ。彼が戻ってきてから仕度をしても遅くないんじゃねぇか」
 歳三は魚を捌く手を止め、兄に目を向ける。
「総司は今日帰ってくると言った。あいつは誠ある武士だから約束を違えるなんて事はねぇ。」
「そうは言ってもな」
「兄さんはあいつの姿が見えてから仕度をすりゃあいいと言ったが、そんなことをすれば、俺があいつを信用してないみてぇじゃねぇか。そんな恥ずかしい真似出来るか。
 総司は絶対帰ってくるさ」
 そう言って再び仕度に取り掛かった歳三に最早何も言うまじと、喜六はその場を離れた。
 やがて総司を迎える為の馳走も出来上がったので、酒と共に厨に置き、彼の帰りに備える事にした。
 此の日はよく晴れて大空には雲ひとつなかった。
 街道に出てみると、旅行く人々が口々に道中の事を語りながら過ぎていく。それを横目で見つつ歳三は総司の帰りを待った。
 しかし日が真上に来て西に傾いても待ち人の姿は見えない。
 日暮れになり宿をとろうとする人が忙しなく行くが、それでも総司は現れない。
 日が落ちてから喜六がやってきた。
「彼がもう戻って来ないという訳じゃねぇが、菊の花は今日だけでなく、暫く咲いているものだろう。或いは菊が散ってからでも戻ってくりゃいいじゃねぇか。今日のところは諦めて、また明日を待て」
 言われて歳三は、とりあえず家に戻ったが、やはり総司の事が気に掛かる。そこで兄が寝入ってから再び表に出た。
 空には月が出て、その明かりで辺りを冷たく照らしている。月明かりで他の星々は霞み、軒を守る犬の吼える声は澄み渡っている。やがて月も西の山の際に沈んでいき、辺りは輝き始めた星明りが照らずのみとなった。
 諦めて家の中に戻ろうと歳三は戸に手をかけたが、ふと後を振り返ってみた。
 闇の中、こちらに向かってくる人影がある。もしやと思って目を凝らすと、待ち焦がれた沖田総司だった。
 歳三は踊りあがる心地して彼に駆け寄った。
「今朝は早くからお前が帰ってくるのを待っていたんだ。盟を違わずに戻って来てくれたんだな。さあ、入ってくれ」
 総司はただ頷いただけで、何も喋らない。歳三は総司が此処に居る嬉しさに、物も宣わない彼を訝しいとも思いもせず、表座敷に進み、座をつかわせた。
「なかなか帰ってこねぇから兄さんも待ちわびて、明日こそ戻るだろうと寝ちまった。起こしてこようか」
 それに総司は首を横に振るだけで答えた。
 歳三は首を傾げるが、すぐに笑みを浮かべて
「遠い所を昼夜歩んで来てくれたんだ、心も足も疲れただろう。一献やってから休んでくれ」
と、酒を温め肴と一緒に勧めたが、総司はその匂いを忌むかのように袖で顔を覆った。
「俺が拵えた物だから善き馳走という訳じゃねぇが、どうか食ってくれ」
 総司は猶も黙っている。溜息をつき、顔を上げ歳三の顔を見つめた。
「あなたの誠ある馳走を嫌がっているわけではありません」
 そして再び目を伏せて溜息をついた。
「今更欺くわけにもいかないので本当の事を言います。怪しまないで下さい。私はこの世の物ではありません、亡霊の仮に見せる姿なのです」
「何言ってやがる」
 歳三は掠れた声で叫んだ。両の手を上げて総司の肩に触れ、次いで頬にも触れた。
「お前は此処に居るじゃねぇか。何でそんな事を言いやがる」
「あなたと別れて国に下りましたが、国人の多くが阿部能登守の勢いに服従してしまっており、元の主の恩を顧る者などありませんでした。
 従兄の沖田林太郎が阿部城を訪れた時に利害を説いて私を正備に謁見させました。形だけでも従兄の言葉を受け入れて安部能登守に仕える風を装いながら彼の行いを見ていましたが、正備は戦に優れ士卒の扱いも上手いものでした。ですが、猜疑心に凝り固まっていて彼に絶対服従するような家臣など居ません。そんな所に長く留まっても仕方がないでしょう。 それにあなたとの約束もある。正備に菊花の約があることを語り国を出ようとしました。しかし正備はそれを恨み、林太郎に命じ、私を本城奥から出さずに閉じ込め、終に今日になってしまったのです。
 この約束を違えたらあなたは私を如何思うだろう、蔑むだろうか。それよりも悲しむかもしれない。あなたの悲しむ顔を思い浮かべると苦しくて仕方がなかった。それでも城から遁れる方法はない。
 古の人は『人一日に千里を行く事あたわず。魂よく一日に千里をも行く』と言ったそうです。此れを思い出して自ら腹を斬り、夜風に乗って遥々菊花の約に赴きました。
 どうかこの気持ちを汲んで下さい」
 言い終わると総司は涙を流した。彼は歳三を見て微笑み
「お別れです。兄上によくよく仕えて下さいね」
と言い、座を立ったと思えばその姿はかき消えて見えなくなってしまった。
 歳三は慌てて留めようとしたが、巻き起こった風に目が眩み、再び瞼を開いた時には既に行方は判らなくなっていた。
 虚しく空を切った手を床につき、そのまま俯伏し倒れて声をあげて泣いた。
 涙は止め処なく溢れ、頬を伝っては床に落ちる。
 その泣き声に覚醒した喜六が起き出してきて、伏し倒れている弟に驚き、駆け寄ってきて何事かと訊いてきた。
 歳三はただ泣くばかりで、答えはしない。
「総司が約束を破った事を恨むんなら、明日戻ってきた彼には言い訳など出来ないだろうに。そんな子供みたいに泣くんじゃねぇ」
「違う」
 未だ溢れ出る涙を手の甲で擦りながら、歳三は声を出した。
「違うんだ、あいつは今宵、菊花の約を違えずに戻ってきた。俺は酒と肴を振る舞って迎えた。」
 そして今先程総司が語った言葉をつらつらと述べ、彼が消えてしまったと告げた。
「こんな夜中に眠りを覚ますような声で泣いちまってすまねぇ」
「歳三」
 喜六は弟に語りかけた。
「落ち着け。『牢獄に繋がれた人は夢で許されるを見、渇する者は夢で水を飲む』というだろう。お前も彼に逢いたいが為にそういう夢でも見たんだろう」
 しかし、歳三は頭を振り、
「夢なんかじゃねぇ。総司は此処に居たんだ」
と、また泣き入った。
 その様子に喜六も最早疑う事はせず、二人揃ってその夜は泣き明かした。
 明くる日、歳三は兄に向かって言った。
「早くに両親を亡くした俺を息子のように育ててくれた兄さんに孝行を尽くす事もなく、かといって名声を挙げる事もなかった。それに較べ総司は、一生を信義の為に終えてしまった。誠を尽くしてくれたあいつの亡骸を弔ってやる為に、俺は奥州へ行こうと思う。暫くの留守を許してくれ」
「判った」
 喜六は答えた。
「お前がそこまで言うなら反対はしねぇ。だが、出来るだけ早く帰って来い。行ったまま帰らぬという事などないようにな」
 歳三は頷き、兄の身を案じる言葉を述べ、家の戸を出た。彼は先ず、日野宿の姉の許を訪れ、自分の出立を告げ、石田の家族の事を懇ろに頼み込み、そして北に足を向けた。
 奥州に向かう道中、飢えても食を選ばず、寒くても衣を忘れず、夜まどろめば夢にも泣きあかしつつ、一月程かけて阿部藩に辿り着いた。
 歳三は土地の者に沖田林太郎の邸を問い、教えられた場所に向かった。門で自分の姓名を告げ、林太郎に面会を願う旨を述べると、やや暫し待たされてから門の中に通された。
 客間に通され、そこに現れた林太郎に歳三は、総司の亡骸を供養したいと告げた。林太郎は驚き、
「翼のあるものが伝えた訳でもないのに、如何して彼が自害したと知っているのだ」
と、しきりに返答を求めた。
 歳三は答えて言う。
「武士たる者は富貴や消息のことを容易く言うべきじゃねぇ。ただ、信義をもって重しとする。総司は一度交わした約を重んじ、魂だけになっても俺の許に帰ってきてくれた。それに報おうと、日夜歩き続けて此処に下ってきたんだ」
 ここで一旦言葉を切り、林太郎を見据えてから続けた。
「俺が学んできた事で、あんたに尋ねたいことがある。答えて貰えまいか」
「聴こうか」
 林太郎は先を促した。
「昔、魏の宰相が病に伏せていた時、魏王が自ら詣で手を取って告げた『もし、お前が死す事があれば誰をして国家を守らせたら良かろうか。教えを残せ』宰相それに応えて言う『商君年若いと言えども奇才あり。王がこの人を用いないのならば、此れを殺しても国境を出してはならない。他の国に行かせてしまえば必ず後の禍となる』そして、商君を密かに招いて『私は王にお前を薦めたが王は聞き入れる様子がないので、用いないならばお前を殺すようにと教えた。此れは主君を先ず重んじ、臣下を後にするという心からの行いだ。お前は速く他の国に逃げて害を逃れなさい』という。この事をあんたと総司と較べて如何思う」
 林太郎は言葉もなく頭を垂れた。歳三は目の前の男を睨みつけた。
「総司は旧白河城主の旧交を思って阿部能登守に仕えたんだ。此れこそが本物の義士じゃねぇか。対するあんたは旧主を捨てて阿部に降った、それは士道に基づいてない。総司の菊花の約を重んじ、自ら刃に倒れ身体を失っても戻ってきた行いは誠ある限りだ。
 あんたは安部能登守に媚びて従弟を苦しめ自害させた。それは誠のある武士のする事じゃねぇ。正備が強く留めたとしても、総司との親交を思えば宰相商君の誠を尽くすべきだろうに、ただ、利欲にのみ走る愚かな行いをしたのは、それ即ち阿部の家風だろうが。そんなだから総司は此処に留まろうとしなかったんだ。
 俺は信義を重んじて此処に来た。あんたは不義の為に汚名を残すがいいさ」
そして言い終わらないうちに抜き打ちに斬り付ければ、林太郎は一太刀でその場に倒れ臥す。
歳三は刀を鞘に収め、家臣が騒ぎ出す前に邸から逃れ出て行方をくらませた。
半刻後、安部能登守正備はこの由を聴いて、兄弟信義の篤さを哀れみ、歳三の後を敢えて追わせる事はなかった。



ああ、軽薄の人と交わりを結ぶべからずとなん。





『雨月物語』でいちばん好きな話です。
最後の一行は冒頭に対する文なので余り意味はありません。
物語では左門(歳三)の方が宗右衛門(総司)よりも5歳年下だったり
舞台も播磨の国加古だったり、宗右衛門の郷は出雲だったりするんですが。
因みに、日野から奥州までどのくらいの距離なのか調べずに書いています。
すみません。

配役
丈部左門(はせべさもん): 土方歳三
赤穴宗右衛門(あかなそうえもん) : 沖田総司
赤穴丹治 : 沖田林太郎 老母 : 土方喜六
丈部の娘 : のぶ
尼子経久 : 安部能登守正備



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2004.3.9