法隆寺-(11/15)

西院伽藍の主な建築物


画像をクリックすると拡大されます。

No. 画像名称説明

1

南大門

なんだいもん:国宝
南大門は、中門と同時に建てられ、当初の位置はもっと中門に近いとされていました。長元4年(1031) に現在の位置に移設しましたが、永亭6年(1434)頃に焼失し、永亭10年(1438)に当初の建築スタイル を保って再建されたと言われています。

2

聖霊院、東室

しょうりょういん、 ひがしむろ:国宝
東室は、法隆寺の僧侶が共同生活する9室の僧房でしたが、保安2年(1121)頃 再建した際、前方の3室を聖霊院とし、聖徳太子の像を安置したと言われています。その後、弘安7年 (1284)に建て替えたのが現在のもので、このとき棟を高くし、東室とは別棟のようにされました。

3

妻室

つまむろ:重要文化財
東室や西室が上級僧侶の生活空間で、高級な部材を使用して建てられているのに対して、妻室は下級 僧侶の生活空間と考えられています。
(下記参照)

4

上御堂

かみのみどう:重要文化財
上御堂は、舎人親王の発願によって建立されたと言われています。現在の上御堂は、元亨4年 (1324)に再建されたものです。堂内には、釈迦三尊像、四天王像などが祀られています。

舎人親王(とねりしんのう:676-735)
天武天皇の第3子で「日本書紀」の編纂責任者

5

綱封蔵

こうふうぞう:国宝
綱封蔵は寺の宝物を納める建築物として建てられました。昭和16年(1941)4月に大宝蔵殿が完成する まで、この綱封蔵に宝物が納められていました。(大宝蔵殿は現在の大宝蔵と別の 建物で通常は非公開となっています。)
綱封蔵の構造は高床式で、湿気防止のために、中央下部から空気が循環するような構造になっています。 正倉院の校倉造りと違う点は土壁で収納室を造っていることです。

6

食堂

じきどう:国宝
我が国最古の 食堂(下記参照)

7

細殿

ほそどの:重要文化財
細殿は、食堂の付属施設と考えられています。
(下記参照)

8

三経院、西室

さんぎょういん、 にしむろ:国宝
西室は、元々中門を中心にして、東室と対照的に建てられたが、承歴年中(1080頃) に焼失し、寛喜3年(1231)に現位置に再建されたと言われています。その時に、西室の前方を三経院と して仏像が祀られています。
三経院は、聖徳太子が法華経・維摩経(ゆいまきょう)・勝鬘経 (しょうまんきょう)を解説したことに因んで名付けられたものです。

9

西円堂

さいえんどう:国宝
「峯の薬師」とも呼ばれる西円堂は、橘三千代の発願によって建立されたと言われています。現在の堂 は、鎌倉時代の建長2年(1250)頃に、再建されたものです。

橘三千代(たちばなのみちよ :?-733)
7世紀末から8世紀初めの女官、藤原不比等の妻、光明皇后の母。元明、元正、聖武3代 (707-748)の天皇の後宮において絶大な権勢を持っていた。

10

西大門

さいだいもん
当初、 長元8年(1035)〜長歴3年(1039)頃に建てられましたが、江戸時代の元禄10年(1697)に再建され ました。

11

ウォーナー塔

ウォーナー博士 (Langdon Warner:1881-1955)は、東洋美術に造詣深い米国人学者で、何度も法隆寺を訪れ、その美術品 の価値を世界に知らしめたと言われています。第二次世界大戦中、京都、奈良が戦災を免れたのは、 彼が文化財保護のため、空襲しないよう米国政府に進言したためと言う逸話が残っています。 (この逸話は誤解であり、実際に進言したのは、陸軍長官ヘンリー・スティムソン(Henry Stimson) 氏)
右側にあるのは、明治時代の法隆寺研究家、平子鐸嶺(ひらこたくれい:1877-1911)氏の墓で す。



創建以来、寺には200人以上の僧侶が寺の中で住み、修行をしていました。このため、境内には僧侶が生活するための色々な建物がありました。
しかし、11世紀の初め頃から、法隆寺の周り(現在土壁で囲まれている)に子院(しいん)が建てられ、僧侶は子院に移り住むようになりました。
僧侶の共同生活時代の、現存する施設は、東室、西室、妻室、食堂、細殿及び大湯屋(重要文化財;非公開)で、現在はいずれも生活のためには使われていません。