国際交流学

作・若井美香家 世理 

(関西交流大学 第30回講座 勝手に補講 その1)

「国際人って言うのはどういう人だと思います? 
英語をしゃべれたら国際人、っていうのは少し違うと思う。」

「国際人っていうのは、違う文化を受け入れられる
柔軟な心の持ち主のことじゃないの?」

 大雑把なところですが、
第30回公開講座講師、エリ・ベルグマンさんの問いかけです。

(★第30回公開講座終了リポート ←詳細はこちら!)

 先日の公開講座のお話に、
名前だけでも「国際交流」を称した学生時代のサークル活動を思い出し、
ついでに滞り気味な会員義務の原稿提出を果たそうと、
無謀にも「補講」などと銘打った寄稿をいたしました。

 事務局にも幹事にも相談も了承も得ず、
―一応編集長に原稿を出すお話はしましたが―、

「勝手に」「補講」などと名づけていますが、
なんのことはない、要は、公開講座で聴いたお話をつらつらと思い出し、
ついでに自分の考えを少し話させてもらいたいな、という趣旨の寄稿。
しかしながら、当然補講っぽく、反論、ご意見、いただけるなら感謝に耐えません。

 一応、4回連続を計画していますが、続けられるか、ちと不安……。
テーマはあまりビジネスには関わりなさそうですが、
4回目にはそちらに持ってきたいと思っています。
でも、例えビジネスに関わりなくとも、ちょっと、寄っていってみませんか? 
 では、どうぞおつきあい下さい。

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さて、文頭のお話ですが。
 エリさんのご意見には、多くの方が頷かれることでしょう。
でも、英語を喋ってこそ国際人、というイメージが強いのも、事実です。
サークル時代、友人に言われたことがあります。
「英語も喋れないで、何が国際交流なの?」。

 ここでは、「国際交流」という言葉の意味について、
簡単に整理したいと思います。
「国際人」にしないのは、「国際交流」のほうが概念の幅が広く、
その分、読まれる方の発想も広がりやすいと思ったからです。
……決して、そのほうが資料が集めやすかったからではありません(笑)。

 では。

 「国際交流」という日本語、実は結構歴史が浅く、
初めて用いられたのは、明治時代です。
時代はまさに文明開化。
流行語は、「富国強兵」「殖産興業」、そして「国際交流」。

「国際交流」という語は、当時の日本の国策と極めて強い関係にあります。
「鹿鳴館」「脱亜入欧」と続けば、よりわかりやすいでしょう。旧い伝統を捨て
、欧米と対等に。これが現代日本の「国際交流」
の始まりです。それも、国策と絡み合う形で。

 しかしながら、「国際交流」という言葉が生まれる前に、
日本人が外国と出会ったことがないのかと言えば、
決してそんなことはないのは直ぐ想像がつくかと思います。
渡来人、遣唐使、元寇、倭寇、フロイス、山田長政、支倉常長、
等々。有名どころだけでこれだけあるのですから、
庶民レベルでは、どれだけあったでしょうか。

 ただし、言葉が生まれたということ、
それは同時に認識が生まれたということでもあります。
 明治時代になって初めて、日本は一部の人だけでなく、
一般の意識として「自国」と「他国」を意識し、
その境を越えることを意識したわけです。

ただ、この場合、そこに至る経緯から、「他国」は欧米であり、
「越える」とは相手に同一化することを意味した、でしょう
……ここらへん、推測ですが。

 この流れを汲むのが、日本的な意味での「国際人」と思われます。
英語を自在に操り、「自国」と「他国」の物理的な距離を越えて活躍する人、
という語感です。

 ※ちなみに、「国際」とは、「一国だけでなく諸国家にかかわりがあること。」
(三省堂『例解新国語辞典』) 「国家」というあたりがポイントです。

 では、「違う文化を受け入れられる柔軟な心の持ち主」
という「国際人」のイメージは、どこから来たのか? 

 こっちの根っこは、ちょっとわかりません。
とりあえず、日本で目立ち始めたのが1980年代。
「多文化教育」と呼ばれ、やがて「地球市民教育」を生み出す流れが、
このイメージに近いものを持っています。

 推測でいいなら、おそらく始まりは基本的人権の誕生のあたりでしょう。
他者にも自分と同等の価値があると認めるところから、
相手の文化に自分の文化と同等の価値を認めるようになるまでは、
それなりに近く見えます。……実際はずいぶん時間がかかりましたが。

 もちろん、それ以前から、そんな心の持ち主はいたでしょう。
盛んになってきた、ということです。

 このような2つの流れを汲み、さらにいくつかの要素を取り込んで、
「国際人」「国際交流」という言葉は、いくつもの意味を
持つようになります。お近くの国際交流協会でその地域の国際交流団体の名簿を
見せてもらえば一目瞭然です。

(関西の市レベルでは、たいてい市内の団体の名簿を作成しているようです。)
 実にさまざまな活動内容の団体が、
「国際交流」の名でひとくくりにされています。
 ペンパル、援助、英語、料理、ホームステイ、教育、留学生支援、
在住者との交流 etc.。

平成14年12月7日

(関西交流大学 第30回講座 勝手に補講 その2)
―外国相手でなくても「国際交流」― 

 「多文化教育」とは何かといえば、
さまざまな立場からの定義や説明がありますが、
「ある特定の文化だけを価値あるものとする態度を改め、どの文化も等しく
価値があることを、教育を通じて教えようとするもの」
(http://www.gifu-u.ac.jp/~terasima/undergraduate.htm)というのが、
最もわかりやすく且つ最大公約数的な説明でしょう。

 歴史的に見れば、アメリカ1960年代の公民権運動の中で、教育の不平等の
問題がマイノリティから告発されたときに始まり、日本では1990年代に入って
から学校で本格的に取り組まれはじめました。(無論それ以前に、各種民間団体や
個人レベルでの研究や実践がおこなわれていました。)

 始めの頃、日本の学校では、外国人生徒に日本の学校への適応を指導する、狭い
意味での多文化教育が主流だったようです。ただし、最近になってこうした方向は、
「日本人も含めた全ての児童生徒の自己実現と共生をめざす」ものへと変わりつつ
あるようです。(http://ttakano.hp.infoseek.co.jp/ 参照ください。)

 この変化は、多文化という概念の捉え方の変化と重ねて見ると、
よりわかりやすくなります。

 多文化という言葉は、
元は民族文化やエスニック文化としての理解が通常でしたが、
やがてそれだけではなく、さまざまな「差異」を、「多文化」として捉える流れが
生まれてきました。(当初の多文化教育が、人権教育のカテゴリに含まれる傾向に
あった影響かと思われます。)

 これはいわば広義の多文化主義で、性別、身体的条件、年齢、地域性などの個人
のもつさまざまな属性―別の言い方で言えば、特徴―を、その人の固有の文化と
して捉え、それを認め、尊重していこうとする考え方です。

 国際交流とか、多文化とか言われると、浮世離れした話に感じる人も、この視点
で、話を自分にひきつけてみると、ぐっと身近な話になるかと思います。

 女性という理由でお茶汲みコピーを仕事と言われる人、世代の違う先輩後輩との
コミュニケーションで失敗したことのある人、関東に転勤して関西弁の使用を
ためらう人。そういう経験のある人の、苦労や努力が、まさに、国際交流に通じる
ものであり、それらに惑わされないで個人の能力を把握し、最大限引き出そうと
努めることが「国際人」としての姿勢につながるものに見えてくるからです。

―利を求める必要があるので、必ずしも「尊重」とか「共生」となるべきかどうか、
断言し得ない、という点が、ビジネスでは違ってきますが。(それとも、そうでも
ないかもしれません。この点については、次々回で。)


 「国際」というのは、もっとも認識やすく、また、実感しやすい「差異」の
ひとつではあります。国境を越えた仕事の多い昨今では、
直面することも多いかもしれません。

 でも、その壁を越えるための行動は、
結構日常的にしていることと変わりありません。

逆に、日常的にそんな行動をしていれば、国の壁も、たいしたことはありません。
……そんな、考えかたの紹介でした。

平成14年12月14日

(関西交流大学 第30回講座 勝手に補講 その3)
-日常と理論と仕事と理想、可能なら結果も〜 -

 前回では、「国際」というのは、人と人との間にある個々人のさまざまな違いのひ
とつで、普段どおりの生活のなかで感じる軋轢とさして変わりない、という考え方を
ご紹介しました。今回は、この考え方に立って、具体例を見てみたいと思います。

 エリさんは、日本在住の外国人仲間で日本で困ったことが話題に上ったとき、
タクシーに乗車拒否される、という話で盛り上がったことがある、と話されました。
ご自身もそのような経験を何度もされているそうです。
ただ、それを差別として捉える意見に対して、
エリさんは、いや、違う、言葉を喋れないからサービスができない、
それを恐れるためだ、と捉えているそうです。

 信号で停車中のタクシーに乗り込んだとき、運転手さんと、
「いやあ、お嬢さん見ため、ガイジンさんやから、どうしようか思たけど、
日本語しゃべりはってよかったわあ。」
「いやあ、そうやろ、そうやろ。」
『はっはっは!』
と、盛りあがった経験を話されました。

 外見が外国人=日本語を喋れない → 話が通じない → 仕事(サービス)がで
きないので停まらない

という図式ですが、運転手さんは、「外見が外国人であると、日本語を喋れない」と
いう前提があったところに、エリさんのように、「外見が外国人だが、日本語を喋
る」という例に出会ったわけです。

 では例えば、これが、韓国や中国からの旅行者であればどうでしょう。或いは、日
系米国人であれば? 
 逆の意味で、運転手さんの予想は裏切られたことでしょう。

 相手をいくつかの特徴で捉え、それを元に予想を膨らませて相手を判断する、とい
うのは誰もがすることですし、実際、必要なことでもあります。ですが、それは同時
に「誤解」というリスクを含みます。

 中国製の製品は、ユニクロの影響か、昔ほど「悪い」という印象はもたれていない
ようです。それでも、私の勤務する某メーカーでは、まだまだ「悪い」という印象が
ありますし、それはデータや実物から見て、事実でもあります。

 ですが、その理由を聞いたとき、「作り方が悪い」「部品が悪い」等々と言いつつ
も、最後はたいてい「作業者が中国人だから。」という結論に落ち着きます。

 別に、嘘ではありません。嘘ではありませんが、例えば、日本の中卒・高卒の人に
同じ作業をさせて、果たしてどの程度の差があるか、という点は疑問です。(中国広
東省の工場作業者のほとんどは同年齢の女性です)。
それも、ドライバーを持ったこともなく、
機械をいじったこともない人が、簡単な説明を受けて、見たことのない製品を作ると
なると。

 目の前の回答に飛びつくだけの思考停止なのですが、それが「確かに違いがある」
という1点(この場合は国籍)で正しいと、
正当性あるものとして受け入れられがちです。  

 その違いが年代であれば、「あの年代は。」、性別であれば、「しょせん女は(男
は)。」ということになります。

 ちなみに、エリさんの場合は、運転手さんと実際に喋ることで、
1つの「境」を乗り越えました。 
それで運転手さんが、手を挙げる外国人の前に停まるようになるか
といえば、とてもそうは思えませんが。

 でも、エリさんと運転手さんは、お互い、ちょっぴり良い結果を手に入れました。

平成14年12月21日

(関西交流大学 第30回講座 勝手に補講 その4)
〜ビジネスとの接点〜

 「国際交流」という言葉には、どこか、胡散臭さや、きれいごとの
臭いがつきまといます。1995年以前の「ボランティア」という
言葉にあったのと同じ臭いです。

注)1995年…マスコミの言うところの「ボランティア元年」。
 これ以前は、ボランティアをしているといえば、ほとんど
 聖人君子か相当の変人か、という目で見られたものだが、
 この年以降、急速に認識が変化し、現在では、ごく気軽に
 おこなわれ、また、口に出される言葉になっている。
 (それでも、どこかきれいごとして受け止める空気は残っている
 ように感じますが。)

 それほど大層なものではなく、日常の延長にすぎないという見方を、
前々回・前回とご紹介しました。けれでも、まだ多くの方は、
「国際交流」に心理的な距離を感じているでしょう。


 「ああ、いいことだね。」
 何かを見聞きしてそう思うことは、日常、多くありますが、
それを実際におこなうことは思うほどありません。日常にまぎれたり、
現状に満足したり、理由はいろいろありますが、結局は、
「そんな余裕がない」わけです。
 「現実」に対するのに懸命で、きれいごとは、否定する気はないが、
かかわりを持ちたくない、そんな気持ちでしょう。
 今回は、それらが、自然にかかわりを持てないものなのか、考えて
みたいと思います。


 接点として、まず一番に思いつくのが、グローバル化でしょう。
外国との取引や付き合いが増え、あるいは近未来の労働力不足対策に、
外国人、高齢者、女性、等、従来の日本の会社では、戦力として
扱われることの少なかった人々の活用の必要性を口にする企業トップや
評論家が多くいます。当然、そこには国際交流の技術や知識が
必要とされるでしょう。

 ですが、ここではその話はよそに任せ、別の接点の可能性を考えてみます。
 参考にするのは、エリさんの話の中の「大阪城の堀でトライアスロン」のエピソード。

 エリさんの尊敬されている国際スポーツ界の重鎮の方が大阪の
五輪誘致(だったかな?)で大阪に来たとき、大阪城の堀を見て、
「ここでトライアスロンをしたい。」と言ったそうです。同行の日本人たちは、
口々にとんでもない、こんな汚いところではとても無理です、
と言いました。私もそう思いますし、
普通はそう考えるだろうとも思います。でも、彼は違いました。
「じゃあ、きれいにすればいいじゃない。」
そのとき、大会開催まで、約2年でした。

 五輪の理念の一つに、「環境」があるそうです。
 彼は、それをお題目にせず、大会を利用して現実に落とす方法を示したわけです。、
「○○(オーストラリアのシドニー近郊の地方都市です)で五輪を開きたい。
なぜなら、○○に新幹線を引きたいから。」という会話をしたエピソードも紹介されました。
 彼は、「きれいごと」と現実とを結び付けてみせました。

 それは、何気ない日常に、商機を見つける目と同じ目ではないでしょうか。

 理想は、「利益」「共生」と異なり、手段は「ビジネス」「国際交流」と
異なっても、実行の技術は同じであり、目的を実現する道を見出すための視点も
同じであり、主体となるのも、同じ「人間」です。

平成14年12月29日

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