プロローグ---律令国家建設への道のり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(a)大和時代
応神天皇までの、大和王権の主な出来事を整理すると、「古事記」や「日本書紀」(略して「記紀」)は、神武天皇が東征を行い大和王権が誕生したという伝説を伝えていますが、後世の創作で神武天皇は実在せず、「記紀」などに10代天皇と記されている崇神天皇(すじん)が実在する最初の天皇です。 崇神天皇は大彦命(おおひこのみこと)ら四人の将軍(四道将軍(しどう))を北陸・東海・山陽・丹波・丹後に派遣して鎮圧し、景行天皇の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)(実際は個人名ではなく大和朝廷が地方に置いた軍事氏族集団「建部(たけるべ)」の皇族将軍の集合人格)による九州南部と東国の辺境征伐の結果、日本国内は平定されました。 国内平定に続き仲哀天皇(ちゅうあい)、神功皇后(じんぐう)による朝鮮半島南部の百済との通交が始まります。そして応神天皇の時代へと続きます。 大和時代は、4世紀中頃から6世紀末まで大和(奈良盆地を中心とした地域)や河内(大阪府東部の地域)の豪族たちが、大王(おおきみ後の天皇)を中心に西は九州から、東は関東地方まで国土をほぼ統一した豪族諸連合政権の時代を称します。古墳がつくられたのも、ほぼこの間であり古墳時代ともいわれています。 |
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(b)飛鳥時代
6世紀末から8世紀初頭までの時代区分です。蘇我氏が物部氏を倒し大臣(おおおみ)となり、飛鳥の地に、豪族の代表者として天皇を補佐して天皇中心の政権を確立し、聖徳太子が推古天皇の摂政として「冠位十二階の制」や「十七条の憲法」を制定したり「遣隋使」を派遣するなど統一国家としての国づくりに着手しました。 つづいて後の天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我氏を滅ぼした「大化の改新」により天皇が政権の実権を完全に掌握し、唐の律令制をもとに天皇中心の中央集権国家を樹立して、それまで大王家や豪族が人民と耕地を私的に所有していたのを止めさせて、すべて国家の所属にするという「公地公民制」を制定し、国司(くにのつかさ)、評造(こおりのみやつこ)(郡 司)などの地方官を設置し、戸籍を整備して田の面積を測り、家族構成に合わせて水田を割り当てる「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」を制定して課税対象を確保するなど「聖域なき構造改革」を成し遂げて、後年の律令制国家への基礎固めが行われました。 その原動力となったのが渡来人(外国人)です。渡来人を積極的に受け入れ、彼らと同化して、彼らを重用して、彼らの持っている先進技術と文化を学び、律令国家を建設していったのです。また、「遣唐使」を派遣して、唐の文化や政治制度などを積極的に取り入れました。 天智天皇の死後「壬申(じんしん)の乱」に勝利した天武天皇がわが国最初の「浄御原律令(きよみはらりつりょう)」を制定し、諸豪族を排して自ら専制君主として政治を統括し、かってない強大な皇権を確立する律令国家への胎動が始まりました。 そして、都は飛鳥から藤原京、そして奈良・平城京へと移っていきました。やがて飛鳥は深い眠りにつき、再び歴史の表舞台に現れるのには、昭和47年3月奈良県立橿原考古学研究所による「高松塚古墳」の発掘まで待たねばなりませんでした。 一方高取町は古代後期の奈良・平安時代、中世の鎌倉・南北朝・室町・戦国時代、近世の江戸時代、近代の明治・大正時代へと主役は変わりますが常に歴史の表舞台にとどまり、躍動感溢れる活動を展開し続けていきました。 |
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(c)飛鳥時代は女帝の時代 飛鳥時代は592年から709年まで、約100年間強の時代区分です。都は、難波(なにわ)と近江に一時(16年間)移りますが、殆どは飛鳥にありました。天皇は推古天皇から元明天皇まで11代で118年間ですが、その内女帝は4代で57年間と半分の時代を統治しました。 日本の黎明期に、中国や朝鮮半島の国々と伍する中央集権国家を建設するには、豪族が各々所有している全国の「土地と民」をいったん朝廷のものにして、それを朝廷から各豪族に再度公平に与えることを最大の目的とする「律令制度の導入」が絶対必要条件であり、それは当時の豪族諸連合国家である大和朝廷にあっては、当然豪族層の反発・離反・反乱が予想されました。 明治維新で新政府が断行した「廃藩置県」は、日本が列強諸国と対等になるため中央集権国家を樹立する絶対必要条件でありました。そして日本は近代国家建設に向けて歩み始めたのであります。 古代における律令制度導入は、廃藩置県に匹敵するいやそれ以上の構造改革であり、それは「プレ明治維新」でありました。 この困難な改革を成し遂げるため「女帝」が求められたものと思われます。人はみな、母の子宮から産まれ出て、やがて母なる大地で眠りにつきます。女性は、地上のすべての生命を生み出す地母神であります。古代の為政者は、新たなものを生み出す女帝を立てることで、何ら反乱者を出すことなく、律令国家を建設していきました。(関連資料5) |
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(d)飛鳥時代の朝鮮半島の国々 百済(くだら)---4〜7世紀頃、朝鮮半島の西南部にあった国。663年倭国・百済連合が唐・新羅連合と朝鮮半島西南部の白村江(はくすきのえ)で戦い大敗して、百済は滅亡した。これを契機に百済から貴族や学者らが大挙して渡来してきて新しい文化を伝えた。 伽耶(かや)---4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった国。加羅の諸小国の連合国家で、4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、任那(みまな)に日本府という軍政府を置いていたが、北の高句麗や新羅に圧迫され、562年滅亡した。 新羅(しらぎ)---4〜7世紀頃、朝鮮半島の東南部にあった国。668年朝鮮半島全土を統一するが、935年高句麗に滅ぼされる。 高句麗(こうくり)---紀元前後から、中国東北地方の東南部から朝鮮北部にわたる地域にあった国で、一時唐・新羅の連合軍に破れ新羅の支配下になるが、935年に唐の滅亡により新羅を滅ぼす。 |