「いにしえの渡来人」が活躍した古代の国際都市高取町 |
@朝鮮半島の百済や伽耶などの渡来人が闊歩していた国際都市高取町 飛鳥は、大和時代中期5世紀後半までは、まだ歴史の表舞台に現れていなかった。特に、檜隅(ひのくま)から高取町域の山野はまだほとんど未開の原野であり、東南の丘陵は深い樹林におおわれてそのまま高取の山並みへとつながっていました。 飛鳥を歴史の主舞台におしだし、そこに最初の仏教文化を開花させたのは、蘇我氏と、そして蘇我氏を多様な先進技術・文化で支えた、朝鮮半島から渡来して檜隅から高取町域に定着した渡来人たちでした。彼らは<漢の皇帝の血を引いている>という伝説のもとに漢人(あやひと)と称するようになりました。 日本列島には、5世紀初頭前後以来数度にわたる大きな渡来の波がありました。まず最初の大きな渡来の波は、朝鮮半島において4世紀末に高句麗(こうくり)が南下政策をとり、伽耶(かや)諸国が被害にあいその国の人々が多数倭国(わこく)に渡来して来て、畿内の河内や葛城、檜隅などに住みつきました。檜隅から高取町地域を中心に住みついた中・小氏族の連合の総称を西漢氏(かわちのあやうじ)と対比して東漢氏(やまとのあやうじ)と称されました。 第2回目は、5世紀後半に百済(くだら)が高句麗の攻撃を受けて甚大な被害にあい多くの人々が倭国に渡来して来ました。大和朝廷は、その中でも優秀な技術集団を東漢氏の支配下に置いて、飛鳥の上桃原(かみももはら)・下桃原・真神原(まがみはら)に住まわせました。 この時期の前後に、檜隅から高取町域一帯は今来才伎(いまきのてひと)をも加えて開発が急速に進みました。豊富な鉄資源を保有している伽耶地域から、鉄ていが渡来人と共に倭国に大量にもたらされ(関連資料3)、鉄を使った農具や灌漑(かんがい)などの農業技術は、地形や土壌が複雑に入り組んだ檜隅から高取町地域の原野を収穫の安定した耕地へと開発していきました。 日本書紀の欽明天皇七月七日条に、檜隅から高取町にかけた地域には今来郡が設けられたとあります。天武天皇の頃には高市郡に統合されました。 高取町は彼ら諸外国から渡来してきた人々が闊歩していて、さながら国際都市の様相を呈していました。(関連資料1、関連資料2) 【用語解説】 ・渡来人---古代において、朝鮮半島の伽耶諸国や百済・新羅・高句麗や中国などいろいろな国から日本に渡来してきて住みついた人々の総称を言います。815年に成立した「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には、畿内に居住する1182氏について、その出自と系譜が記されていますが、そのうちほぼ3分の1が渡来系氏族です。主な渡来人の氏族には、現在の明日香村桧前(ひのくま)から高取町域を本拠地とした東漢氏、現在の大阪府東部の河内(かわち)を本拠地とした西文氏(かわちのふみし)、現在の京都府南部の山背(やましろ)を本拠地とした秦氏(はたし)などがあります。 ・檜隅---現在の明日香村大字桧前。東漢氏の祖とされる阿智使主(あちのおみ)を祭っている於美阿志神社(おみあしじんじゃ)があり、その境内に宣化天皇檜隅盧入野宮跡(せんかてんのうひのくまいおりのみや)の碑があります。 ・上桃原(かみももはら)・下桃原・真神原(まがみはら)---現在の明日香村の石舞台から飛鳥寺のある一帯をさす。 ・今来漢人(いまきのあやびと)---5世紀初頭までに渡来した古来の漢人に対して、5世紀後半に渡来した漢人を今来(新)漢人と称した。 ・鉄てい---短冊状の鉄の薄い板 |
A蘇我氏の台頭と東漢氏の活躍が飛鳥時代幕開けの原動力 蘇我氏は、物部氏(もののべ)や大伴氏(おおとも)に比べ新興の豪族でしたが、先進の技術や文物をもっている渡来人の東漢氏を引き立て結びつきを深めていくなかで、現在の橿原市曽我町の地域を開発し、しだいに台頭していきました。 6世紀初頭に越の豪族から大和朝廷の天皇となった継体天皇(けいたい)は、河内の樟葉(くずは)に朝廷を構え、九州の筑紫(つくし)の磐井王(いわいのおう)の反乱を征し倭国における覇権争いに決着をつけました。 息子の匈皇子(まがりのみこ)を大和から竹内峠をへて河内へ通じる畝傍山の近くの金橋に、高田皇子を紀伊へ通じる檜隅に各自の宮居(みやい)を構えさせました。そして、二人の皇子の強力な後ろ盾となったのが、その地域の新興豪族の蘇我氏でした。 とりわけ高田皇子のいる檜隅は、渡来人集団の東漢氏の本拠地であり、彼らとの強いコネクションを持つ蘇我氏は、高田皇子にとって、なくてはならない後ろ盾となりました。継体天皇の跡を継いだ匈皇子(安閑天皇(あんかん))は3年後に亡くなり、535年高田皇子が即位し宣化天皇(せんか)となり檜隅に檜隅盧入野宮(ひのくまいおりのみや)を構えました。おのずと新天皇の身近に仕えるようになった蘇我氏稲目(いなめ)は、諸豪族を代表する大臣(おおおみ)に任じられ、檜隅にほど近い飛鳥を開発し始め、新しい屋敷もその一角に構えました。 これが、飛鳥が歴史の中心舞台となる第一歩でした。そして、東漢氏も直(あたい)の姓(かばね)を与えられるようになり蘇我氏を支える最大の力ともなっていきました。 やがて仏教が伝来して、豪族を「崇仏派対廃仏派」、「革新勢力対守旧勢力」に二分し、後の「蘇我対物部の決戦」へとつながり、勝利した蘇我氏が大臣として豪族たちを主導して飛鳥朝廷を確立し、大化の改新まで最高権力者として飛鳥朝廷を動かしていくことになり、飛鳥が倭国の中心地として発展していきます。 蘇我氏の成長の過程は、同時に東漢氏の成長の過程でもありました。 【用語解説】 ・氏(うじ)---古代の豪族の一族グループ全体の名前です。古代を代表する氏族は、 (a)大伴氏(おおともし)---天皇に随従する氏族で、天皇の護衛武官として軍隊を掌握していました。6世紀初頭弱体化した大和朝廷を、男大迹(おおどの)大王(継体天皇)を越前より招聘して建て直した大伴大連金村(おおとものおおむらじかねむら)の時代が、一番権力を誇っていたが、朝鮮半島の任那との外交問題で失脚し衰退する。 (b)物部氏(もののべし)---農具や武具などの生産に従事した氏族で、大伴氏とともに軍事権を掌握していた。大伴氏が失脚した後大和朝廷の権力を握っていたが、物部大連守屋(もののべのおおむらじもりや)のとき、蘇我大臣馬子(そがのおおおみうまこ)との戦いに敗れ、衰退する。 (C)蘇我氏(そがし)---新興豪族で、早くから先進技術を有する渡来人を重用し、未開の土地を開拓して次第に力をつけていった氏族で、蘇我大臣馬子の時代に物部氏を滅ぼして、一時代天皇以上の権力を誇ったが、645年大化改新で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に蘇我大臣入鹿(いるか)が誅され、衰退した。 (d)中臣氏(なかとみし)---天皇に従事し祭祀(さいし)を取り扱う氏族で、大化改新で蘇我大臣入鹿を滅ぼして、政権を握り姓氏(せいし)を藤原氏に改め、以後平安時代末まで黄金の藤原時代を築きました。 ・姓(かばね)---大和(飛鳥)朝廷の組織で、古代豪族が政治的・社会的地位を示すため世襲した称号であり、冠位十二階の制を設けるまでは官職は整えられていなかった。「臣(おみ)」「連むらじ)」「直(あたい)」など約三十種があり、姓でその役割を示した。大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)が最高の位で、大臣には蘇我大臣、大連には大伴大連、物部大連がいました。 |
B渡来人がもたらした最先端の技術と仏教文化が飛鳥文化を開花させた 渡来人がもたらしたのは、鉄製品や農業技術だけではなく、陶器、馬具、錦、絵画、古墳の築造、仏教、仏像、瓦の製造、寺の建設など多種多様にわたっています。 とりわけ注目されるのは文字であり、5世紀中葉前後から、東漢氏が朝廷の書記官に任ぜられ倭国の言葉を漢字で表記し、宮廷や大和王権に関わる諸事を、漢字で記録する試みがおこなわれるようになっていきました。 渡来した人々が日本文化に与えた影響で最も重要なのは、倭国の言葉で漢字を表記し諸事の記録を始めたことにあります。倭国の言葉を漢字で表記する試みは、最初は渡来した人々のほかに、漢字を習熟するため倭国から百済などに遣わされた人などにより行われました。そして彼らに指導されて、倭国の人々のなかにも漢文に習熟し、自己の考えを文章にしたり、また中国の典籍(書物)を読解できる階層が広がっていきました。 もう一つ仏教の伝来があります。仏教の伝来に関しては、552年百済王より欽明天皇に金銅仏像一体、若干の幡蓋(ばんがい)や経論が献上された、いわゆる仏教公伝がありますが、それ以前にすでに、渡来系氏族の間に仏教信仰が浸透していました。東漢氏と深く結びついていた蘇我氏稲目は仏教公伝に際し、崇仏の立場を明らかにし、積極的に仏教を信仰し広めていきました。 倭国の人々が崇拝している神々は姿が見えないのに対して、「仏神(ほとけのかみ)」は、仏像という形があり、目に見えるというわかりやすさがあり、仏教が急速に人々の間に浸透していった要因です。(関連資料4) 仏教の伝来は、瓦葺(かわらぶき)の壮大な伽藍(がらん)、聳(そび)えたつ塔の上には九輪(くりん)と鑪盤(ろばん)、堂内に安置された厨子(ずし)は様々な絵で綺麗に飾られ、その内には金色燦然(さんぜん)たる仏像がまし、剃髪した僧侶により香がたかれ、経典を読経されるといった従来の倭国にはない仏教文化の伝来であり、蘇我馬子は飛鳥の真神原に倭国における最初の寺である飛鳥寺を建立し、次いで聖徳太子が難波(なにわ)に四天王寺、斑鳩(いかるが)に法隆寺を建立して、次第に各豪族や朝廷が寺院を建立していき、これにより倭国の仏教文化は大きく花開き、飛鳥文化、白鳳文化、天平文化へと伝承されていきました。 渡来人は日本の古代文化の根幹をなしたものであり、彼らが居住した高取町は、飛鳥文化の源流地としての役割を果たしていったのです。 【用語解説】 ・錦---色糸や金銀の糸を使い綺麗な模様を織り出した厚い高価な絹織物。 ・幡蓋(ばんがい)---寺の金堂の仏像を綺麗に飾る装飾器具(荘厳具(しょうごんぐ))。 ・経論(きょうろん)---仏の教えを書いた書物とそれを註釈した書物。 ・伽藍(がらん)---寺院の建築物の総称をいう。 ・九輪---塔の鑪盤上にある高い柱の装飾。 ・鑪盤(ろばん)---塔の屋根にある四角な台。 ・厨子(ずし)---仏像や経巻を安置する両開きの扉のある仏具。 ・白鳳文化---天武・持統天皇時代をいう。 |
【関連資料】 関連資料1・・・桓武天皇の母は百済王の子孫と続日本紀に-----天皇陛下が誕生日の会見で言及「日本経済新聞の記事」抜粋 天皇陛下が、平成13年12月23日の誕生日の会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と言及された古代天皇家と百済に関する発言が、韓国で新鮮な驚きと同時に政府・マスコミとも好意的な反応を示し、静かな波紋が広がっている。----- 関連資料2・・・奈良県立橿原考古学研究所附属博物館長 河上 邦彦「飛鳥学総論 飛鳥学第一巻 飛鳥の古墳」抜粋 奈良県高市郡高取町は古代飛鳥地域の一部であるが、そのことはあまり知られていない。それは現代の明日香村に古代の飛鳥地域の大半が入り、宮殿跡、寺跡、古墳など、主要な遺跡が多数あるからである。しかし、高取町域にも当時のいくつかの古墳や石造物、遺跡が知られ、また飛鳥時代以前の遺跡や古墳も多い。----- 関連資料3・・・司馬遼太郎「この国のかたちー五 鉄」抜粋 鉄ほど、人類に深くむすびついた金属もない。------鉄は、鋤(すき)や鍬(くわ)に使われることによって、社会の容量を大きくしたのである。それによって農地を深耕することができ、少人数で広域を耕地にすることもできた。食料もふえ、人口もふえた。もっともそのことから、他人の土地を窺(うかが)う欲望がおこった。このため戦争が頻発し、一つの戦闘における死傷者の数も、木や石、あるいは銅の兵器の時代より飛躍した。 しかしながら、一面、鉄は人間に好奇心を教えた。大工道具につかわれることにより便利な建物や船舶ができ、土木道具に使われて強大構造をつくるようになった。 -----ともかくも、このようにして日本に輸入された鉄ていがすこしずつふえてゆくにつれ、歴史は単なる水田耕作社会から、古墳時代へ移る。鉄が、移させた。古墳時代とは、ざっと4世紀に始まり、7世紀ごろにおわる時代区分で、諸方でさかんに堀が掘られ、その末期には巨大な人口丘陵が造られた。 さきに、木の鍬についてふれた。鍬の刃先が木の場合、大の男が力まかせにふりおろしても、さほどに土を穿(うが)つことができない。この古墳時代がはじまるころ、刃の部分に鉄ていが装着されるようになったのである。つまり、鉄ていという短冊状の鉄の薄板をタテに二つ折りにし、刃の部分にかぶせる。両はしは、三角に折って、この"挿し刃"を固着するといった道具だった。わずかこれだけのことで、多くの可耕地が開拓され、水田面積がふえ、いたるところで土豪たちが成立した。 古墳の造営の目的は、かれらの死後の暮らしのためだが、当然ながらその権力をそばだたせ、生前支配した田地の広さーひいては鉄ていの手持ちの多さーを内外に示すためでもあった。------ 関連資料4・・・司馬遼太郎「この国のかたちー五 神道」抜粋 神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底磐根(そこついわね)の大きさを思い、奇異を感じた。畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるか後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。三輪の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐形(えんすい)の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。----- このように、自然をもって神々としてきた日本人が、仏教が渡来したとき、従来の神々が淡白過ぎ、迫力に欠けることを思わざるをえなかった。 仏教伝来のことは、「日本書紀」第十九の欽明紀十三年(552年)にある。百済(くだら)から金銅の釈迦像一体と経綸・仏具などがもたらされた。-----それ以上に当時の日本人をおどろかせたのは、彫刻である。6世紀といえば、古墳におさめるために埴輪(はにわ)がしきりに生産されている時代である。その程度の古拙な塑像(そぞう)しか持たなかった時代に、生きるかごとき人体彫刻が、釈迦像の形をとってもたらされたのである。しかも、鋳銅に金メッキがほどこされていた。金メッキを見たのも、このときがはじめてであった。「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かほ)、端厳(きらきら)し。」と、欽明天皇(きんめい)の驚きの表現が、記されている。----- 関連資料5・・・司馬遼太郎「この国のかたち─三 平城京」抜粋 その前世紀までは、日本の実情は統一国家というより、津々浦々の諸豪族の群立状態だった。豆腐をかためるのに、ニガリが要る。そのニガリの役割を律令制が果たした。日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。 まことにふしぎなことで、この間、軍事力が用いられることなく、地方々々はその権利を放棄した。 こういうふしぎな例は、はるか千数百年くだって明治四年(1871年)の廃藩置県にもみられる。両方とも“いまからはじまる世が、世界の普遍的な文明なのだ”という国民的気分があって、みなやむなく従ったものかとおもえる。島国だけに、普遍性へのあこがれがつよいのである。----- |