鏡に映した、自分だった。
そんな自分が愛せなかった。

鏡に映した自分だった。
そんな自分を愛し過ぎた。

だから、二人は別れた。
けれども、心は多分、誰よりも繋がったままだった。

「不幸だと思っていません。」
「私は十分幸せでした。」そう言って、傷だらけの心を抱えている筈なのに、
彼女はライに向かって微笑んだ。
なぜ、こんなに綺麗に微笑む人を愛せないのだろう。
そんな自分の心が歯痒くて、ライは彼女から目を逸らす。

話しは2年前の秋に遡る。

ライはその日、肩先にずっと電伝虫を乗せている。
場所は武装した船の上、グラインドラインのある海域で海賊を捕縛する為に
追走している最中だった。

(今日が予定日の筈)
いつ、駐屯地の病院から連絡が入っても良い様に、と
ライは、ポケットに電伝虫を入れていた。それが何時の間にか這い出てきて、
肩先にちょこんと乗っている。

待ちに待って、その日の夜にライの妻、タキが元気な女の子を産んだ、と
言う知らせが届いた。

(やった)

とライはその知らせを聞いて、思わず人前であるにも関わらず、
ニンマリと笑ってしまう。
ライが露骨に笑う顔など同じ職場でも殆どみた事がない同僚達は正直、驚いた。
タキとライが結婚した経緯も殆どの者が知っている。タキの子がライの子ではないと
知らない者はヒナの部下にはいないくらいだ。

だが、誰もその事を表立っては口にしないが、ライが「なさぬ仲の子」を育てる苦労を
気の毒がっていた。
そんな事はライは百も承知だったけれど、自分が父親になる事、
誰の遠慮もなく思いきり愛情を注げる対象が出来た事が嬉しくて嬉しくて堪らない。

ライがタキのところへ帰艦したのは、
その子が生まれて5ヶ月も経ってからだった。

新婚生活も禄にしていなくて、子供が生まれたと言う知らせを受けるまで、
タキに手紙らしい手紙など書かなかった癖に、ライは子供が生まれた途端、
ヘタクソな文章ながら一生懸命タキに手紙を書く様になった。

タキさん、元気な赤ちゃんが生まれたと言う報告を受けました。
きっと、大変辛い思いをしたと思いますが、
その後、タキさんの体の調子はどうでしょうか。
今は、1日も早く帰って、赤ちゃんとタキさんの顔を見たいと思っています。
それより、名前はどうしましょうか。
なんだか、男の子が生まれるような気がして、男の名前ばかり考えていたので、
どんな名前が良いのかわかりませんが、
僕の髪の色は、「瑠璃色」と言う色に似ているとある人から教えて貰ったことが
あります。だから、ルリ、はどうでしょうか。

体の調子が良い時でいいから、返事、待ってます。

数はそう多くはなかったけれども、ライが出した手紙の中身は、
以前の報告書のようなものではなく、温かな気持ちが篭っていた。

「ルリ」と名づけられた赤ん坊は、誰の目から見ても、あきらかにライの子供ではないとはっきりと判る容姿だった。
褐色の肌、下品なほどにべったりと濃い山吹色の髪。

「ルリ」の出産は非常に難産で、タキの肥立ちが悪かった。
そして、なにより、タキがルリを普通の母親が愛するようには愛さず、
ライが帰艦した時は、5ヶ月の赤ん坊よりもずっと小さく、
か細く、発育も良くなかった。

帰艦して、ライはタキがとても痩せて、やつれている事にまず、驚く。

今まで、苦しい恋心に悩んだり、自分の仕事で落ちこんだ時、
タキの明るさにどれだけ救われたか、をライは思い起こして、
(今度は、自分がタキさんを支えてやらねば)と改めて思った。

夫として何をすべきか、父としてどうあるべきかを考えるよりも、
自分の家族を家族として存在出来るように、その基礎をしっかり固める努力が
必要だとライは考える。

海軍の家族は厳重な警備の下で、定められた地域に居住しなければならない。
海賊の逆襲から海軍の家族を守る為の措置だ。
故に、タキとライの新居もそう言った基地の中にある。

初めて、家族で夕食を囲む、タキがその支度をし始めた。
ところが、ルリが泣いている。

タキは抱き上げるでもなく、まるでルリが泣いている事など気にもしないようで、
自分の用事の手を止めようとはしない。

「タキさん、ルリが泣いてます。」
ライは耳を塞ぎたくなるほどの大声で、
顔を真っ赤にして泣く、ルリを恐々抱き上げて、タキの真後ろに立ち、
そう声を掛けた。

「さっき、ミルクも飲みましたし、オムツも変えたところです。」
「放っておいて大丈夫です。」とタキはルリの方を向きもせず、
淡々とそう言った。

「そうですか。」とライは腕の中で体を反らせるほどの力強さで泣くルリを
しっかりと抱き直して、
「じゃあ、散歩にでも行きましょうか。」と言って台所を出た。

「タキさんも。」何を着せれば良いのか判らないので、ライは
自分のジャケットにルリを包む様にして抱き、もう一度、タキの上着を持って、
台所に入った。
「でも、夕食が」とタキは困惑した様にやっと、振り向いた。
「準備は後で僕も手伝います。一緒に来てください。」とライはタキに上着を手渡した。

もうすぐ冬になる空は、息を飲むほど紅い。
オレンジ色に染まる雲が明日の天気の良さを教えてくれる。
ライは、基地を出て、
海を見下ろせるなだらかな丘へとゆったりした足取りで昇って行く。
海から吹き上げる潮風が少し冷たい。
丘へと続く石畳の上に、ライとタキの黒い影が伸びていた。

「寒くないですか。」と、ライはルリに向かって話し掛けた。
甘いミルクの匂いがする。初めて会う、ライの顔をルリは不思議そうに見上げて、
ようやく泣き止んだ。

「泣き止みました、タキさん。」とライは後から何かに怯える様な気配で
歩いてくるタキを振りかえる。
「はい。」とタキは困ったような笑みを浮かべて頷いた。

「昔、僕を育ててくれた人が言ってたんです。」
「腹が立つ事があったら、散歩に行けって。」

ライは誰にも言った事がない、自分の幼い頃の話しとタキにする。
「僕は、賞金稼ぎに育てられたんです。」
「その頭を父とも師匠とも思っていて、元、海兵でミルク、と名乗っていた。」
「その人が教えてくれたんです、」
「散歩すれば、下らない苛立ちはすっきりするもんだって。」

タキは隣に立ってライに尋ねる。
「それで、散歩を?」
「なんだか、怒ってたみたいに見えたから。」とライはルリを見ながら、
そう答えた。

軽く、揺すってやると、ルリはライを見て、初めて笑った。
「可愛い」と思わず口をついた言葉をタキは強く否定するような口調で
「そんな事ないです、」と遮った。

「可愛いものですか。」
「顔も髪も、可愛いと思う場所なんかこれっぽっちもありません。」

ライはそのタキの言葉に驚いて顔をタキの方に向けた。

生まれた時から、ずっと自分が側にいて、一緒に、ルリを育てる事が出来ていたなら、
きっとタキはこんなに痩せる事もなかっただろう。
逃げ出す事も投げ出す事も出来ずに、弱音さえ吐かずに、たった一人で
たくさんの辛い事に耐えて、ライを待っていてくれた。

一緒にいられるのは確かに短いかも知れないけれども、
「幸せになる努力をしよう」と誓いあった、タキは、特別な存在だ。
大事にしなければならない、大事にしたい、とライは思った。

「可愛いですよ、目許も、ほら、口の形も」
「タキさんにそっくりで。きっと、美人になります。」

タキさんの目許に似てて、可愛い。
可愛い、タキさんにそっくり、と言うような意味にもとれる。
ライの何気ない一言がタキの頬を真っ赤に染めた。

普通の女性なら、夫が自分を抱こうとしないのなら、不満を持つ筈なのに、
タキも、出産のショックと、ルリの顔がどんどん自分を犯した男に似てくる所為で、
ライと同じに、性的交渉に恐怖を覚えるようになっていた。
けれども、その事をライには言わずに、隠していた。
ライに自分の傷を曝す事は逆に塞ごうと努力している傷に
劇薬を塗りつけるようなもので、タキは本来、二人で越えていくべき問題から
目を逸らしたのだ。ライが、自分の傷を誰にも言わずに抱え続け、
今ではもう、誰にも癒せない程の深い傷になってしまったその同じ過ちを
タキも繰り返そうとしている。悲しい事に同じ経験をしているライが
その事に全く気がつかないでいた。
けれども、そのおかげで、夫婦仲は逆に円満かのように見えた。

実際、タキもライも自分達は並の夫婦となんら変わらないと信じきっていた。
初めて、家族三人で囲んだ夕食。
本当の自分の家族に囲まれて、温かな食事を摂れるなんて、ライには夢の様だった。

「とても美味しいです。」と初めて「夫」として食べた食事を
ライは素直に感想を口にした。
「オールブルーのオーナーから頂いたレシピどおりに作ったんです。」
「レストランでは賄料理だそうですけど。」とタキは嬉しそうに、そして
はにかんだ。

「レシピどおりかも知れないけど、タキさんがこんなに料理上手だって」
「ちっとも知りませんでした。」とライは笑った。

「ライさんが帰ってきたときくらい、うんと美味しい物を作らなきゃ、って思うから」
「海軍の食事は味なんてニの次ですからね。」
二人の会話は上官と部下から、少しづつ、夫婦らしい気安いテンポで進んで行く。
「ルリもいるし、美味い料理もあるし、次に帰って来るのが楽しみです。」

何度もサンジに手紙を書こう、としたけれど、書けなかった。
サンジの事を思い出す度に、今の自分の姿に違和感を感じてしまう。
サンジの事を考える度に、自分の心の中の本当の気持ちをまた、抉り出してしまいそうだった。

今の生活を続けていれば、きっと、きっと、幸せになれる。
サンジの事を思い出してそれに向き合ってしまえば、今立っている地面の、
生活の、何もかもが嘘に見えて来る。
それが怖くて、ライはイルカの首飾りを首から外し、
戦闘服の内ポケットの奥に突っ込んだ。自分の目に触れないように。

「お前の髪は、光り具合で、瑠璃色に見えるな。」と言ったのは、
サンジだ。ずっと昔に胸を病んで、サンジに看病されていた頃の事だ。
「藍色と瑠璃色の違いってなんですか」と聞いた覚えがある。
「よく知らねえけど、ガラスっぽい光りに見えたんだよ、理屈っぽい奴だな。」
そう言って、サンジは太陽の下で笑っていた。

ルリの寝顔を見て、ライは「ルリ、なんて名前つけるんじゃなかったな。」と
小さく笑って呟く。その名前を呼ぶ度に、サンジを思い出すからだ。
それでも、
サンジへの愛を、この小さな娘を精一杯愛する力に変えて、生きて行く、
そうする事だけが、自分もタキも幸せになるたった一つの方法なのだから。

ルリが1歳になるのを待たずに、ライはまた、任務に戻る事になった。

「今まで、死なない様に生きるのが必死で、」
「死なない為に生きてきたような気がするけど、」
「君とルリがいる、と思うとこれから5年先、10年先の事が楽しみです。」
別れ際にライはタキにそう言った。

女性としてではなく、この時、
ライは確かに家族としてタキをはっきりと愛している、と確信する。
キスする事も、手を握る事さえ出来ず、まして口に出す事もないけれど、
ライは自分に偽る事無く、タキを愛していると思えた。

僅かな時間の間に、家族としての礎を築けたと
ライは「パパ」と離れたくなくて泣く娘を抱いて安心し、出立する。

「手紙を書きます。タキさんも、一人で大変でしょうが、」
「二人とも、元気でいて下さい。」

「心配しないで下さい。」とタキは笑ってライを送り出した。
女として、人間としてタキはライに甘えるような事は一切しなかった。

けれども、ライの留守中、同じ駐屯地にいる、他の海兵の妻達からの
口さがない陰口に悩んだ。
予想していた事だけれど、ルリを遊ばせようと母親同士のたむろする場所へ出掛けた時、
聞こえよがしに「海賊の子供と海兵の子供を遊ばせるなんて常識がない」と言う
言葉さえ聞いた。

「ミルクさんも責任を取らされて気の毒に」
「将来、なんて子供に説明するのかしらね。」
(余計なお世話だわ)とタキは思う。

そんな嫌な気分をライからの手紙だけが救ってくれる。
ルリにも、タキにも優しいライからの手紙をもらっても、タキはルリの
日常の事を書いて送るだけで、ライにそんな下らない女同士の嫌がらせについて
何も知らせなかった。

ルリが初めて迎える冬、その駐屯地に悪性の風邪が流行った。
「くれぐれも気をつけて、タキさんも、ルリも」とライからも心配する手紙が届き、
オールブルーのサンジからも、
「悪い風邪が流行っているようだから、いっそ、ライが帰ってくるまで
オールブルーにおいで」という手紙も貰った。

けれども、その手紙をもらった時点ですでにタキがその風邪に感染して、
ルリも例に漏れずに感染して高熱を出していた。

「私の夫はその子の父親に殺されたんです。」
「そんな子に飲ませる薬はありません。」

タキは、自分も高熱で朦朧としていたけれども、
その駐屯地にいた、海軍の従軍医師の診察を受けようと自分よりも先に
ルリをその医者に診せた時、そう冷たく言い放たれた。

「この子は、ミルク中佐の子供です。」と食い下がったけれども、
「戸籍はどうあれ、どこを見たって、ミルクさんの子供なんかじゃないでしょう。」
「あなたもこの子が死ねばいいって本当は思ってるンじゃないの」

体力が万全ならタキはその医者を張り飛ばしていた。
けれどもタキ自身が40℃以上の熱を出していたから、
その場で昏倒し、意識を失ってしまった。意識を取り戻した時、傍らには、
小さな木の箱が無造作に置かれていた。

「赤ん坊は死にましたよ。」とその医者は事も無げにタキにそう告げた。
復讐を果たして、清々したと言いたげな口調だった。

「ライ、落ち付いて聞くのよ。」
そんな騒動の詳細はもちろん、ライに報告される訳もなく、
ヒナのところには、ただ、事実が事実として報告されて来た。

「今、連絡があって、例の病気であなたの娘さんが亡くなったそうよ。」
「すぐに休暇をあげるから帰りなさい。」


続く