ライがやっと、タキの所ヘ帰れた時、もう、既にルリは荼毘に附された後だった。
亡骸を見ていない所為で、夢を見ている様な気がした。
静か過ぎる我が家。まだ、ルリが使っていた様々なものがそのまま、
自宅に残っていた。
「申し訳ありません。」とタキは言った。
まるで、任務での大失態を詫びる部下のような口調だった。
どうして、こんなことになったんだろう。
ライの心の中は、どうしていいのかわからない、悲しみと戸惑いで一杯で、
タキにどんな言葉をかけていいのか判らない。抱き締めあって、涙を流す事が
出来るのなら、それだけでいいと言う事さえ判らなかった。
向かい合って、立ち尽したまま、言葉を詰らせてただ、泣く事しか出来ない。
タキが辛かったことを思い遣る前に、ライはただ、愛していた娘が死んだ事が
悲しかった。
大きくなったら、こんな事をしよう、と夢見ていたことがたくさんあった。
タキと三人で、幸せになる事だけを考え、生きて行く意味をやっと、見つけたと
思っていた。それらの全てが跡形もなく、あまりにあっけなく、消えてしまった事に、ライの理性がついていかない。
涙が止まらないのに、夢を見ている様な気がしていた。
この小さな家のルリ用の小さなベッドの中で眠っているだけの様な気がして、
何度も空のベッドを覗き込む。
「どんな風に?」と気分が落ちついてから静かにタキに尋ねた。
タキは小さく首を振った。「判りません。」
タキはそれ以上、何も言わない。自分も病に冒されていて、危険な状態だったとか、
海軍の軍医の言動など、様々な要因が重なったと、ライに訴えるのは、
言い訳だと思った。真実は、ルリを死なせてしまった。それだけだ。
二人して、海軍を辞めて、別の仕事についていれば、ルリは死なないで済んだかも
知れない。ライにそんな風に考えて欲しくなくて、タキは口を噤む。
「僕が側にいれば、」と呟いて、ライは掌で慟哭を漏らさないように、口を覆う。
それでも、喉が小さく鳴った。
表情も、感情の起伏も殆ど人に晒さない、冷静な上司だった。
部下が死んだ時も、同僚が死んだ時も、誰の前でも、瞳を潤ませる事は有っても、
それを零す事もなく、まして、人前で慟哭する姿など、想像すら出来ない。
そのライが涙を隠す事もなく、ルリの死を悲しんで涙を流していた。
どれだけ、ライがルリを愛していたか、自分達が築いていた家族の形を保とうと
必死だったか、その涙を見て、タキは痛いほど感じた。
少し勇気を出して、手を伸ばし、ライを抱き締めて、一緒に泣きたかった。
(でも、私にはそんな資格はない)とタキは自分を責めていた。
ルリが死んだ、と聞いた時、一瞬でも、自分を苦しめた男が
タキの心に残した呪縛から解かれたような感情を持った、そんな醜く、
薄情な自分がライの純粋な、娘を失った父親の涙を受けとめられない、と
タキは体を強張らせたまま、ライの側に立ち尽くしている事しか出来ない。
二人は、それから、新しい墓碑の立つ、ルリが埋葬された海軍の墓地へと
出掛けた。
悲しみ抜いて、禄に食事も取らないまま、現実味のない感覚で、
あっという間に三日が過ぎた。やっと、ルリの死だけしか見えていなかったライの目に、
タキの姿が映り出す。
「タキさん、」二人して、ルリの荷物を整理しよう、としていた時、
ライは唐突にタキに向き直った。
「二人で、医者に見てもらいませんか。」思い掛けないライの言葉に
考え事をしていたタキは驚いて、声を出さずにライの方へ顔を向ける。
「僕は、その・・・。」とライは口篭もった。どこから説明すればいいのか。
詳しく説明する必要があるのか、と咄嗟に考えて、手短に説明する事にする。
「昔色々有って、人に素手で触れる事が出来ないんです。」
「だから、いつも手袋を」とタキは初めて知った、と言う顔で相槌を打つ。
「僕達は夫婦だし、本当に僕らの子供を作る為にも、専門の医者に治療を受けようと
思うんです。」
「このままじゃ、いつまで経っても子供を作る事なんて出来ないし。」
タキはライの言葉を呆然とした顔で聞いていた。
ライの子供好きはずっと前から知っていた。そして、一緒に住んで、短い間だったけれど、一緒に子供を育てて、ライがどれほど、愛を注ぐ相手を求めていたかを知った。
夫婦である為に、子供がいる、と言っているのではない。
ライは、自分が生きる目的、生きる意味が欲しくて、子供を愛したいのだ。
人間として欠けた伴侶を探す、と言う愛情を諦めて、それに変わる形をライは
求めている。それでも、他の誰かではなく、「タキさんと」と言ってくれた事は
間違いなく、タキは嬉しかった。
誰の子供でもいい、と言うのではなく、「タキさんとなら、きっと嫌な過去の事を
乗越えて、幸せになれる」とライは言う。
懸命に、一緒に治療を受けて二人で乗越えよう、と言ってくれるライを見つめて、
その灰色の瞳の中に、自分が出会う前にライがどれだけの傷を心に抱えてきたかが透けて見えるような気がして、
この人を幸せにしてあげたい。
タキは、胸が張り裂けそうなくらいにそう思った。
でも、自分には出来ない。ルリを抱いて、幸せそうに笑っていたライの笑顔が
瞼に焼き付いている。あんな風にいつも笑っていて欲しいとタキは思うのだ。
ライの事を誰よりも愛している。
心の中で、そう叫んで、タキは涙が零れ落ちないように瞬きをしてライの瞳を
見つめ返した。
「ライさん。」とタキはギュっと掌を握り締める。
「別れて下さい。」
「どうして。」とライは突飛なタキの言葉に思わず、声を荒げた。
「私じゃ、ライさんを幸せに出来ないからです。」
こんなに好きな相手だからこそ、幸せに出来ないのが辛い。
「ルリを生む時、私は子宮を摘出しました。」
「どんなに努力しても、もう、子供は作れないんです。」
「子供が出来ないって言うのが別れる理由になんかならないでしょう。」
ライはタキの言葉を聞いて、一瞬だけ頭が真っ白になったが、すぐにその理屈を
覆そうとした。だが、心の中ではタキの言葉に激しく動揺している。
タキを女性として愛しているか、必要としているかと聞かれたら、
はっきりと「YES」と断言出来るかと言われたら、どう答えていいか判らないが、
人間として必要としているかと聞かれたら、答えは「YES」だ。
「私はライさんに幸せになって欲しいんです。」
「また、赤ちゃんを抱いて、笑って欲しいんです。」
「でも、それが出来ないのに、ライさんの側にいるのは辛いんです。」
幸せにしたいと思っているのに、自分ではその力がない。
その辛さをライが知らなかったら、タキの血を吐くような言葉を理解出来なかっただろう。
けれど、ライは知っていた。
自分がどれだけ努力しても、想っても、その人を幸せにする事は絶対に出来ないと
知った時の切なさ、辛さ。
遠く離れている場所であっても、幸せでいて欲しい、と願う気持ち、
それを今だに持ち続けているからこそ、タキの言葉はライの心を大きく揺さ振った。
「あなたが好きだから、側にいたら私は幸せにはなれないんです。」
そう言って、タキは泣いた。
そんな事はないとライは言えなかった。
タキの気持ちが判り過ぎるほど、判った。
「そんな事、急に言われても答えれません。」とその時は答えを濁したけれども、
ライには、タキの真っ直ぐな言葉と心を覆す理屈を考えつく事は出来なかった。
こんなに、心の中に別の人間への愛を住まわせ続けている自分を、
まるで、サンジを想う強さと同じくらいの愛情で、タキは自分を見つめているのに、
それに応えられないもどかしさにライは胸が痛む。
タキを心から愛したいと思うのに。
そう思えば、思うほど、自分の魂にまでこびり付いた本当の愛が浮き彫りにされる。
どうして、こんなに辛い時にサンジの顔ばかりが瞼に浮かぶのだろう。
今、会いに行けば、それこそ悲しみや、タキを愛せない苦しさから逃げただけの
みすぼらしい姿を見せてしまうだけだ。
ライの特別な休暇が終わる日、二人は、答えを出した。
ライの側にいるのが、苦しく辛いと言うタキを、出口の見えない迷路のような
愛を胸に抱えた自分が縛りつけていられる筈がない。
「夫婦としての契約は破棄しましょう。」とライはタキに別れを告げる。
「でも、夫婦じゃなくなっても、僕の事を理解してくれる女性は君だけだと言うことを
どうか、忘れないで欲しい。」
「君が僕の幸せを望んでくれるのと同じで、僕も君の幸せを望んでいる事も、」
そう言うと、タキは悲しげな笑みを浮かべて、頷いた。
鏡に映した、自分だった。
そんな自分が愛せなかった。
鏡に映した自分だった。
そんな自分を愛し過ぎた。
「不幸だと思っていません。」
「私は十分幸せでした。」
そう言って、傷だらけの心を抱えている筈なのに、
彼女はライに向かって微笑んだ。
なぜ、こんなに綺麗に微笑む人を愛せないのだろう。
そんな自分の心が歯痒くて、ライは彼女から目を逸らす。
僕は僕の道を 君は君の道を
想いは想いのままで。
二人は別々の道を 生きる目的を捜す旅を歩いて行く。
その先で、また 交差する事もあると 信じていたから。
さよなら、と言う言葉は言わなかった。
(終り)