眠れぬ夜は君の所為



この海域は「秋」から冬へと季節が以降して行く最中だった。

「海軍の後は賞金稼ぎの軍船、その後、海賊、とフルコースだったなあ」と
やっとめぼしい金品を奪い、追い縋ってくる海賊を振り切ってから、
ウソップが大仰に溜息をついた。

波と風に乗って、海軍を振りきり、賞金稼ぎの船を沈め、夕方近くなってから
ゴーイングメリー号を襲った海賊の相手。今日、1日はあっという間に過ぎて、
気がつけば、薄寒い空に満天の星が輝き、月までが出ている。

十分な食事を摂り、碇を下ろしてやっと休息の時間が訪れる。
おあつらえ向きに波も風も穏やかだった。

だが、見張りは必要だ。いつも通り、ゾロは一人きりで見張り台に登る。
腹は十分に温かい食事で膨れ、体は眠るのに心地よい疲労を感じてはいるが、
眠るわけにはいかない。

(暇だな)と空を見上げてゾロは思った。もう、今日は体を鍛える為の運動は
たっぷりとしたし、これ以上やっても疲労が貯まるばかりで効果などないと経験で
知っているから、ただ、体感温度はまるで、冬の木枯らしとさほど
変わらない潮風から身を守る為の厚めの布を被ってうずくまるばかりだ。

今日、1日の戦闘を頭に浮かべて見たり、ひとしきり瞑想するがごとく、
自分が刀を握って戦う状況を思い描いてみたけれど、さほど、時間が過ぎたとは
思えない。

ふと、自分の息が白いのにゾロは気がついた。
(寒い訳だ)次の島はもう、冬が訪れているかも知れない。

(あいつも、もう寝ちまっただろうな)
別に今日はどうこうしたいとは思っていない。殆ど会話らしい会話を一切しなかった事を急に思い出すと、たった1日足らずだと言うのに、なんだか、酷く
サンジが懐かしい。

同じ船に乗っていて、自分が少しだけ、見張りをサボって男部屋か、
キッチンへ行けば、静かに眠る寝顔くらいは見れるだろう。
だが、寝顔を見たら声が聞きたくて我慢ならなくなるに決っている。
戦闘、船の操舵、食事の支度、女連中の細々とした雑事など、この船の中の
誰よりも動いているのを知っていて、それはつまり、サンジが一番疲れているのだと
知っている事にもなるのだから、自分の退屈凌ぎなんかで起こしていい筈がない。

(おい、クソマリモ!)(おい!)(おい!)
ゾロは頭の中で今日、聞いたサンジの言葉をサンジの声で思い出してみると、
たったそれだけだった。

自分と二人だけで話す時の声を顰めるような小さな声や、ぶっきらぼうな口調でも
その中に優しさや温もりが篭っている、自分だけが知っている声が

今。
欲しい。

(こういう静か過ぎる暢気な夜は嫌エだな、俺は)ゾロは、自分の甘い我侭な想いを
金色の光と冴え冴えとした星明りの所為にして、また空を見上げた。

遠くにいる訳でもなく、数時間後にはいつも通りの日常で見飽きるほど顔を見て、
聞き飽きるくらいに声を聞けるのに、そんな寂しさや恋しさを感じるのは一体
何故なのか、理屈を考えるのも(ったく、馬鹿馬鹿しいったらねえな)とゾロは自嘲した。

明日もまた、今日の様に忙しなく過ぎて、また、静かな濃紺の空に星が輝き、
波が優し過ぎたなら今、この胸の中に小さなすきま風が拭くような感覚に心がどっぷりと冒されるとしても、それは側にいないと寂しいと思えるくらいに惚れた相手が
いるからこそ知り得る寒さや寂しさで、それを知らずに寒さを感じない事よりも
(ずっとましだ)とゾロはそんな風に思う。

頬や額、指先が徐々に冷えてきた。
自分の吐息を温めて掌に吐き出し、暖める。

ふと、甲板に人の気配を感じた。

誰のものかは覗き込まなくてもゾロには判る。
さっき自嘲が浮かんだ頬に今度は温かで柔らかな笑みが自然に浮かんだ。

「サボってねえか」とからかうような下からサンジの声が聞こえてくる。
「誰がサボるかよ」と憮然とした口調を装いながらも、ゾロは甲板を覗き込みたい
衝動を堪えて見張り台の上に居座ったままサンジの声に答えた。

素直に嬉しいと言う感情が心の中に広がって行く。それが声にも顔にも出そうで、
けれど、サンジにそんな様を見られたくないと言う見栄と意地もまるで本能の様に
ゾロの言動に作用するから、ゾロはいつもとなんら変わらない態度を取り繕う。

次の言葉をゾロは待つ。
サンジとの会話を一つ、一つ思い出せるくらい少ないと思っているのなら、
サンジも同じ事を思い、そして自分に呼び掛けて来たのだろうか。
もしもそうなら、飛び上がりたい程強烈ではないにしても、やはりとても嬉しい。

「暇そうだな」とサンジは相変らず、見張り台には登ってこようとはしないし、
ゾロが顔を見せない事もなじりもせずに淡々とした口振りだ。
「まあな」とゾロもまた同じ様な口調で答える。
言葉を交し合う都度に妙な沈黙が挟まれて、二人の会話はなんだかとても間延びする。
けれど、その分時間はたっぷりと掛った。
何を言ってくるか、それにどう平然を装って答えるか、ゾロは単純でも負けると
悔しい遊戯をしている様な気分でサンジとの会話を楽しむ。
声が耳から心へと沁み込んで行くのをしっかりと感じた。

(あいつ、)きっと同じ事を思っている、とゾロには判っている。
先に顔を見せた方が今日、たった1日でさえ相手を独占する時間が一切無くて、
耐えられなかった寂しがり屋だとからかうつもりなのだ。

「じゃあ、見張りサボんなよ、俺はもう寝る」
「お前こそ、朝飯作るのに、寝坊すんじゃねえぞ」

結局、どちらも退かずにどうやらこの勝負は引き分けのような展開になった。
少し、ゾロは拍子抜けしたものの、さっきまで欲しかったサンジの「ゾロの為に割いた時間」と「ゾロだけに話す声」を聞けたのだから、満足しなければならない。
だんだん、遠ざかって行くサンジの足音をゾロは聞きながら、
自分の下らない見栄と意地がいかに必要のないモノだったかを思い出して、今更ながら
そんなモノに振り回されてしまった自分を忌々しいと思った。

サンジが絡んでさえいなければ、欲しいと思ったモノを手に入れるのに躊躇した事など無かったのに、サンジの意地っ張りがだんだん自分にも伝染して来たのか、
どうも、お互いの距離が近いと感じれば感じるほど、その距離をわざわざ広げるか
の様に意地を張ってしまう癖がついてしまっている。

「あ、そうだ、ゾロ!」と何かを思い出した様に、サンジが急にかなり離れた場所で
ゾロを大声で呼んだ。

「ゾロ!」と2度、サンジはゾロの名前を読んだ。
「なんだ」とゾロは見張り台の上からサンジの声のした方へ顔を向け、月と星の
明かりの下にサンジの姿を探す。

ジャケットを肩から引っ掛けたサンジが自分を見上げていた。
煙草を咥えた口は勝ち誇った様な微笑みを浮かべている。

(しまった)とゾロはつい、数秒前まで意地も見栄も張るんじゃなかったと
反省した事をそのサンジの微笑みを見て、すぐに忘れて思わず、舌打ちしそうになった。

そんな駆け引きめいた遊戯だなどと、そんな言葉を何も交わしていなかったのに、
二人はお互いの思いを知って、その上でじゃれていたのだとゾロの舌打ちでサンジにも
伝わる。

「俺の勝ちだな。そんなに俺が恋しかったか?」とやっぱりサンジはゾロをからかい、
勝ち誇った様に笑っている。けれど、それは見下すような目つきなどではなく、
片目しか見えない瞳からは、嬉しさや優しさが零れ出ていた。

「だまし討ちみたいな真似するんじゃねえ。汚エな」
「フン」

ゾロの批難にサンジは鼻で笑った。

「そうでもしねえと意地でもお前、面ア見せねえと思ったからな」と言うと、
クルリとゾロに背を向けた。

「朝飯まで居眠りしねえで頑張りやがれ」と顔だけゾロの方へ向けてそう言うと
スタスタと歩き出す。白く光る甲板の上に真っ黒なサンジの影が延びて行く。
ゾロはそれを短く、「おお」と答えてから、男部屋の扉が締まるまで、黙って見送る。

今、ゾロが上がって来い、と呼び掛けてもサンジは見張り台の上には
絶対に上がって来ないとゾロは知っている。
甘える事も甘えさせる事も、サンジはいつもゾロが「もう少し欲しい」と思う範囲を
知っているかの様で、見張り台に上がってゾロの側に身を寄せる事は
ゾロを過分に甘やかし、そして自分も甘い感情に飲み込まれてしまわないように、と
用心している、そんな風にサンジの行動はゾロの目に映り、そしてそれを否定する
理屈をゾロは思いつかないでいた。

例え、そうであっても自分がサンジの何かを欲しいと思ったのと同じ事を
同じ時に思えるならそれだけで十分、心は満ち足りている。
足りないモノなど何も思いつかない。

自分は見張り台、サンジは男部屋にいる、その状況はさっきと何一つ変わらないのに、
ゾロはもう何も寒さを感じなかった。
手を握り合う訳でもないし、抱き締めあった訳でもないのに、不思議と、
心の中の隅々まで温かくなる。

隣にいるよりももっと近い場所、鼓動が聞こえるくらいに寄り添える距離よりも
もっと近い場所、誰も入り込めないその場所にいつもサンジはいる。
そして、サンジのその場所には自分がいるのだと、さっき見上げた時よりも
少し傾いた月を眺めてそう確信出来た。

もう心の中にはすきま風など吹かない。
変わりに、春の様な心地良い柔らかな優しい空気が静かに揺れている。

きっと、月の白い光りが海に沈み、替わりに太陽の紅色が反対側の水平線を
滲ませる頃、キッチンからは聞き慣れた物音が聞こえて来る。
それを合図にこの船の新しい1日が始まる。

言葉一つ交わせないくらいに命懸け、ギリギリで生き抜く1日か、それとも
今夜の様に静かで穏やかな1日なのか、明けて見ないと判らない。


終り