その命を、消すのも、育むのも、自分の腹一つ。
それほど、儚い存在が、目の前にある。
何故、その命を奪おうと、微塵も思わなかったのか、それはゾロにはわからない。
けれど、特に愛しいとも思わなかった。
うるさく騒ぐ口を塞ぐなら、何か食べさせなければならない。
けれど、それが何か分からない。
「うるせえな!なんだ、てめえは!」と牙をむき出して怒鳴っても、
小さいくせにそのヒナは、全く動じないで、
「親なら何か食わせろって言ってるんだよ!」と、さらに騒いだ。
どうにも持て余し、ゾロはとにかくそのヒナを頭に乗せて、寝床を出た。
ついでに、自分の腹の中に納める獲物も獲るつもりで、縄張りの中をうろついてみる。
(…なんで、俺がこんな事をしなきゃならないんだ?)と思うけれど、
見殺しにはしたくない。食べたところで、腹の足しにもなりそうもないからなのか、
不思議と食べたいとも思わなかった。
「へえ、珍しいモノ持ってるじゃない。美味しそうねえ。私にちょうだい」
山猫のナミにそう言われたけれど、ゾロは「ダメだ」とだけ答える。
そう答えて、ゾロはハっと気付いた。
(…こいつは、誰のモノでもねえ。俺のモンだ)
生きるも、殺すも、自分の腹一つ。
自分の手の中、その狭い世界でしか生きられない頼りない命。
強くなりたい、と思う気持ちしか持っていなかった自分が、初めて、
「自分のモノ」だと思えるものを持っている。
それが、腹が減りすぎて、騒ぐ気力が失せて大人しくなった、頭の上のヒナだ。
自分が食べる為に獲った肉を噛み砕いてやっても、体が受け付けないらしい。
一旦は飲み下すのに、しばらくすると、苦しそうに吐き出して、時間を追う毎に
どんどん弱っていく。
「どう、拾った卵から孵ったヒナの様子は?あなたじゃ、持て余してるんじゃなくって?」
山猫から聞いたのか、森一番の知識を持つ、オウムのロビンがゾロの寝床を訪れてくれた。
ゾロが気になったのではなく、きっと同じ鳥のヒナの身を案じての事だろう。
それにしても、ゾロに食べられてしまうかもしれない、と言う危険を冒しても
アヒルのヒナを心配して来てくれたのは、ゾロにとってあり難かった。
「…虎がアヒルのヒナを連れてどうするおつもり?非常食かしら?」
「…どうしたいのか、俺にもよくわらかねえ。死なないようにするにはどうすればいい?」
私が連れて帰って育てましょうか?
そう言われたけれど、ゾロは首を横に振った。
「…こいつを死なない様にする為に、俺がどうすればいいか教えてくれればいい」
「どうして虎のあなたがアヒルのヒナなんかを育てようとするの?」
ロビンにそう尋ねられても、まだゾロは、
「育てる気なんてねえよ。死ななきゃ、それで…いいんだ」と曖昧に
答える事しか出来ない。
***
ロビンが教えてくれたとおり、水草を細かく食い千切り、それを唾液で緩め、
口移しで食べさせると、ヒナの「サンジ」の体はみるみる回復した。
ぐったりして目を閉じている様子と、腹が膨れて、満ち足りて眠った顔の区別がつく。
(お前なんか、俺がその気になれば、一口で食っちまえるんだぜ)
(そんな事、夢にも思ってねえんだろうな)と
夜の冷気に冷えない様に抱えた腕の中で眠る「サンジ」を見て、そんな事を思う。
無防備な寝顔を見て、ほんわりと温くて柔かい体を抱えていると、
一人きりで生きていたほんの少し前には知らなかった感情が、ゾロの心の中に
溢れてくる。
せっかく手に入れた自分の魂と体以外の大切なモノを、失わずに済んだ事が、
ゾロは嬉しかった。
眠っているだけなのに、その命の確かさが実感できる。
そんな、なんの見返りも代償もない事が、無性にゾロは嬉しかった。
(…良かった。この分だと、明日も生きてる)
明日もきっと、サンジは生きて、元気に騒いで、ゾロの生活を掻き回すだろう。
「強くなる」事しか見えなかったゾロの目に、鮮やかな色を見せ、
敵意と殺気しか聞き取れないゾロの耳に、賑やかな命の音を聞かせるだろう。
そして、その世話を焼くのに振り回されるゾロを、森の獣達が嘲笑うだろう。
それでも、ゾロは明日が待ち遠しい。
***
サンジは、あっという間に、成長した。
今では勝手に水草をついばみ、ゾロの助けがなくても、図々しく逞しく生きていける。
それでも、まだ大人になりきってはいない。
虎で言えば、そろそろ乳歯が抜けて、永久歯が生えてくるぐらいの年の頃だ。
そんなある日。
「…俺、昨日、川の向うに変な動物を見た」
「変な動物?」
朝、ねぐらの中で目を覚ました途端、サンジが急に思い出したようにゾロにそう言った。
「昨日の事は昨日言えよ。鳥の癖に、よく覚えてるな、そんな前の事」
欠伸しながらゾロがそう言うと、サンジは、
「お前、昨日の夜は餌を捕りに行って、さっき帰って来たばっかりじゃねえか」と
口を尖らせて、ゾロをなじった。
(…昨夜は、ロビンとナミが一緒だったから留守にしたが…。やっぱり心細かったのか)とサンジのその不満げな顔付きを見て、そう思ったが、それは口には出さず、
「…変な動物ってなんだよ」と、サンジの方に向き直りながら、
ゆっくりと起き上がった。
すると、サンジはゾロを真っ直ぐに見、
「耳がピンと立ってて、ゾロみたいな牙が見えて、ベロを出してハアハア言ってるんだ」
「それが、五、六匹いて、それから、黒い筒を持った猿に良く似たヤツが三匹」
「その話をロビンちゃんにしたら、虎さん、最近、どこで狩りをしてるの?って
急に顔色を変えたんだ」と、少し不安げな声でそう言った。
「狩をどこでしてるかって?ロビンがそう言ってたのか」
「ああ。水牛とか、豚とか、そういうのを食べてないかって」
(水牛とか豚?)ゾロは首を捻る。
ロビンが危惧している事と、サンジが見たという奇妙な動物と、一体なんの
関わりがあるのか、さっぱり分からない。
「俺は俺の縄張りでしか狩りはしねえ」
「まあ、少しづつ広げてはいるがな、誰の狩場かわからねえところで勝手に狩はしねえ」
「そこの主と勝負して、勝てばその縄張りは俺のモノだが、それをしねえで人の
狩場を荒らすような事はしねえよ」
そんな虎の生態を、サンジは子供でも、アヒルでも もうしっかりと理解できる。
「川向こうは、お前の縄張りじゃねえもんな…」と言って、サンジも首を捻った。
それでも、まだ気に掛かるのか、
「ロビンちゃんの話じゃ、川向こうは、その猿みたいなやつらが、水牛とか
豚とかを食べる為に育てて増やしてる場所があって、」
「そう言う豚とか、水牛を、虎が襲って食い荒らしてるんだってよ」
「だから、その猿が虎を懲らしめる為に、黒い棒を持って歩いてたんだろうって…」と
僅かに眉を曇らせる。
「へ、犬連れてようが、棒を持っていようが、猿は猿だ」
「虎相手に何が出来るってンだよ」とゾロはサンジの心配を鼻で
笑って見せる。実際、サンジが何を心配しているのか分からないし、
猿相手に、心配するサンジがバカだとすら思った。
けれど、ロビンとサンジが心配していた災いが、ゾロの身に降りかかって来た。
猿の持つ黒い棒は火を吹き、そして、目にも見えない早さで、鉄のつぶてが飛んでくる。
そして、とても嫌な焦げ臭い匂いがゾロの嗅覚を鈍らせた。
その鉄の棒の前には、ゾロの鋭い牙も、爪も役に立たない。
犬は、全て噛み殺したつもりだけれど、鉄のつぶてを食らった体がだんだん重たくなる。
(仕損じてねえだろうな…。このまま、ねぐらに帰ったら犬どもが…)
鉄つぶての痛みにまだ耐えていられた内は、まだそんな風に、冷静に物事を
冷静に考えられた。
けれど、体の中にじわじわと毒を溶かしながら食い込んでいくその痛みが、
ゾロから思考を奪っていく。
枯れ葉を踏みしめる足の下でカサカサと鳴る小さな音ですら、傷ついたゾロの気を
酷く掻き乱した。
既に平常心など保てない。
戦意ではなく、壮絶な怒りにゾロの体は震えていた。
自分が猿ごときに追われ、逃げ惑っているこの状態が何よりゾロは許せなかった。
逃げる?俺が?あんな猿から?
自分の匂いを隠す為に風下に向っていた足をゾロは止めて、後方から迫ってくる
殺気を振り返る。
ギリ…と、自分の牙を食いしばると、喉の奥から血の匂いがした。
(…あの猿…、刺し違えても、噛み殺してやる)
そう腹を括った時。
「ゾロ!」
森の中から、凛とした声が響く。
鬱蒼と茂る森の木々の間を透かし見れば、白い翼が羽ばたいているのが見える。
(…サンジ…?!)
朝、川へ水草を食みに行ったサンジがどうしてここにいるのか、ゾロはすぐには
分からなかった。
だから、自分が見ているのが幻覚なのか、現なのかも分からない。
けれど、その声はゾロの魂に直接木霊した。
「…ゾロ!こっちだ!」
「こっちの茂みに来い!」
その声に導かれるように、ゾロはサンジの指し示す茂みに近付き、
サンジの言うままに身を隠す。
(クソ、…頭がくらくらする…)
だが、サンジの声を聞き逃してはならない、とゾロは気を張った。
「殺気を殺して、そこから様子を見てろ」
「…絶対、勝たせてやるから…。猿なんかにお前が負けるなんて我慢ならねえ」
小さな葉っぱの隙間から、サンジの小さな白い翼が見える。
やがて、その向うに鉄の棒を持った猿の気配が近付いてきた。
(…どうするつもりだ…?)
自分でさえ、太刀打ち出来なかった鉄の棒相手に、アヒルのサンジが立ちはだかった
ところで、時間稼ぎにすらならない。
それぐらい、サンジにも分かっているはずだ。
それでも、(俺の盾になって死ぬつもりか?そんなの無駄死にだってくらい、
あいつなら分かるはずだ)
そこまで考えて、ゾロはサンジの言葉を思い返してみる。
「絶対勝たせてやる」
(何か、…策があるのか?)じりじりと焦る気持ちを必死に抑えて、
ゾロは言われたとおり、殺気を抑えて茂みの中にじっと身を潜めた。
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