誰にも邪魔されずに同じ部屋にいるのに、それだけでは満足できない。
片時も離れず、サンジの温もりを体のどこかで感じていたい。
指先でも、掌でも、頬でも、髪でもいい。
サンジに触れて、その温もりに触れて、その体が確かに規則正しい鼓動を打っている事を、
一秒一秒確かめていたい。
自分達を引き裂く何かがあるとすれば、もう二度とそんなモノに引き離される事が
ないように、ずっと、サンジの手を握っていたい。
「…ホントに色々あったんだな」
そう言って、サンジはゾロの手を握り返してくれた。
その力強さと温もりは、直接ゾロの心にも届く。
サンジの手を握り、サンジの声を聞いて、サンジが目の前にいる。
それが夢ではなく、紛れもない現実だと言う事を、ゾロの心まで包む掌が教えてくれる。
「とりあえず、今夜は差し向かいでメシを食うか?」
そう言われて、(そう言えば、昼食も食べずにこいつを連れ出したんだったな)と
ゾロは思い出す。腹が減っている事も急に思い出した。
「そうだな。何か腹に入れるか」とサンジの言葉に頷く。
何を食べたか、何を飲んだか、そんな事は多分、すぐに忘れてしまうだろう。
けれど、その時に交した、本当に他愛ない会話や、それを話した時の
サンジの表情の一つ一つが、ゾロの目と心に焼きつく。
サンジが選んだ店の、サンジが選んだ料理だったけれども、
それはサンジが作った料理ではない。
どんな豪華な料理よりも、今のゾロは例え一欠けらのパンでもいい。
サンジの作ったモノが食べたい。
「…口に合わないのか?」
いつもよりも食事の速度が遅いゾロに、サンジは怪訝な顔でそうに尋ねた。
「そうじゃねえよ、」
今、この瞬間も、サンジは自分だけを見ている事が嬉しくて、
ゾロは席に前もって用意されていた白い布で口を拭い、食事の皿を見ていた目を上げた。
サンジの顔が目の前にあって、自分を見ている。
自分だけを見ている。
ただ、それだけの事なのに、それでも嬉しくて、勝手に笑みが頬に浮かんだ。
「これが、お前の作ったメシだったら、もっと美味エだろうなって思ってた」
「やっぱり、…俺はお前のメシ以外、味が分からねえ」とゾロは素直に言えた。
「…何が食いたい?」サンジはそう言って、照れ臭そうに目を伏せる。
なだらかな瞼と、その先の睫毛が瞬くのを見つめて、
「お前が、俺にために作ったモノなら、…なんだっていい」と言うと、
サンジは上目遣いにゾロを見て
「そうか…、じゃ、握り飯でも作ってやるか」と微笑んだ。
食事が終わりに近づいた時、ふと会話が途切れた瞬間、サンジは席を立った。
小用を足すのだろう、とゾロは思ったものの、
サンジの姿が目の前にいないそんな僅かな時間が、今のゾロには異様なほど長く感じる。
(…小便するだけにしちゃ、遅すぎねえか?)
別に一気に飲んだつもりもないのに、サンジが注いだ酒をいつの間にか飲み干してしまっている。
それに気がついた時、ちょうど清潔な身なりをした若いウエイターがゾロに近付いて来た。
「…お食事はお済ですか?食後のお飲み物を」と言いかけたのを遮り、
「俺の連れを見かけなかったか?」と尋ねる。
「お連れ様…、」ウエイターはサンジの事を思い出すのに、数秒考えたが、すぐに思い出し、
「あの金髪の男性ですね?」と聞き返してきた。ゾロが「そうだ、」と短く答えると、
「先ほど、カウンターで煙草をお求めになり、外へ吸いに行かれました」
「店内で吸われても差し支えございませんよ、と申し上げたんですが、
お連れの方がうるさいから、外で吸う、と仰って」
「そうか。じゃあ、飲み物はここに運んでおいてくれ」
そう言って、ゾロは立ち上がった。
「お呼び致しましょうか?」と言うウエイターの気遣いを「いや、いい」と断り、
サンジが吸いに行ったと言う外へ出る。
(俺がうるさいから外で吸う?当然だ、まだ煙草なんか吸っていいワケねえだろ)
(悪イと思ってるなら、なんで吸うんだ、あのバカ)
扉を押して外に出た途端、(…なんだ?)と、どこかざわついた空気を感じ取る。
秋の夜に吹く、冬の寒さが混ざった肌寒い風の中に、かすかだけれども、紛れもなく、
人が争い、傷つけ合っている気配が混ざっていた。
枯葉が舞い落ちた石畳の上を小走りで、その殺気の余韻の様な気配漂う路地の奥へと
向う。
隣り合った建物の壁に街灯がへばりつき、か細い光で路地の奥を薄暗く照らしていた。
ほの赤いその光の下で、明らかに堅気ではなさそうな身なりの男達が数人、
石畳の上で呻き、転げまわっている。
けれども、一人の男がゾロの気配に気付かず、背を向けて、
煙草を口に咥えたまま、灯りの下にいるサンジの前に仁王立ちになっている。
その姿勢から、男がサンジに銃を向けている、と瞬時にゾロは察した。
だが、後ろから無言でいきなり斬り付けるのは、剣士として恥ずべき事だ。
「…そいつに傷一つでもつけてみろ」
「てめえの体、骨まで木っ端微塵に切り刻むぞ」
ゾロは剣を抜きながら、男を威嚇する。
***
「…情けねえ」
サンジは、部屋に帰るまで一言も喋らなかった。
だが、部屋に帰り着き、二人がけの椅子に深く体を沈めた途端、
疲れ切った様に、そうため息をついた。
「お前を襲ったヤツら、多分、漂流して偶然、この島に流れ着いた海賊だな」
そう言って、ゾロはサンジの隣に腰を降ろす。
知識も教養もない、荒くれた男達が日々の糧を得る職業などこの島にはない。
再び海に出たくても、そんな粗暴な海賊を乗せてくれる船もない。
この島で出来る事と言えば、医者や代金を支払いに来た患者の家族を狙って金を
せしめる事くらいだろう。
「…あんなヤツらにてこずるなんて…」
サンジはそう呟いて、両手で顔を覆った。
半年の間眠り続けていた体には、少し出歩くだけでも きっと相当な疲れを感じる筈だ。
その上に、凶暴な男数人を相手にしたのだから、
数日飲まず食わず休まずに働きづめたくらいにサンジは疲れ切ってしまった様だ。
疲れと衰弱は、人の心に影を呼ぶ。
心の奥にある余計な悲しみや落胆、悲観を引き寄せて、心から光を奪ってしまう。
なんとか慰めたくて、ゾロは顔を伏せて覆ってしまったサンジを見つめる。
上着の左袖が刃物でスッパリと斬られ、その下の皮膚にまでその刃は届いて、
真っ赤な血が白い腕を伝って流れていくのが見えた。
「…お前、腕…」思わずゾロは手を伸ばし、傷ついているサンジの左腕を掴んで
引き寄せ、上着をたくし上げた。
「いつの間に…?」
切っ先で皮膚を掠っただけの様な細い傷だが、痛みを全く感じなかった筈がない。
腕を斬られていた事を忘れてしまうほど、サンジにとっては
明らかに格下の海賊相手を一撃で倒せなかった事、一時とは言え追い詰められた事が、
大きな衝撃だった。
だが、ゾロも大きな衝撃を受けている。
例えかすり傷でもようやく取り戻したサンジをまた守れなかった事への
悔しさが、腹の底から込み上げて来て、それが止まらない。
負ける事の悔しさに匹敵する、ぶつけようのない悔しさにゾロは唇を噛み締めた。
「…痛いか?」
どんなに守りたいと思っていても、海賊として生きている以上、
これくらいの傷ごときで動揺などしていられない。
そんな事は、頭では分かっている。
けれども、半年の間待ち続け、愛しさを凝縮させて ここにいるゾロに
とっては、傷の深さ浅さは関係ない。
痛さ、辛さ、悲しさを感じさせる全てのモノからサンジをただ、守りたいと思うだけ
なのに、どれだけ願っても、どれだけ望んでもそれは決して叶わない。
それを思い知らされた。
そしてそれはゾロにとって、己の無力さを思い知ったのと同じだ。
その気持ちが、おそらくゾロの表情に表れていたのか、珍しく
「…悪かった…」と、
サンジがゾロに腕を預けたまま、そう言って自分の油断と迂闊さを詫びた。
「…謝るな。謝られたら、気味悪くて怒れねえだろ」
そう言って、ゾロはサンジの気持ちを宥める為に無理に笑って見せる。
俺だけを見てくれ、と言ったのだから、サンジはその言葉どおり、ゾロをずっと見ている。
そうすると、ゾロは心の中の悔しさや悲しみを全部サンジに見透かされる。
痛いと思うのは、体だけではない。ゾロの痛みを覗き込み、そしてサンジはきっと
その痛みを吸い込む。そうすれば、サンジの心も痛くなる。
そうならないように、ゾロは言葉をたくさん使って、自分の心を隠そうとした。
「半年眠りっぱなしで、三日前に眼が覚めたばっかりのヤツが、大の男を何人も
蹴り伏せるなんて、並みの人間にゃ出来ねえ事だぜ」
「ほんの一月前に死に掛けたヤツだなんて、到底信じられねえよ」
「死に掛けてた?俺が?」
迂闊に滑った言葉にサンジは敏感に反応する。
…ああ。急に熱が高くなって、何日もその熱が続いて…
その間、俺は一生分、お前の名前呼んだ
そう言いかけた言葉をゾロは慌てて飲み込む。
そんな話をして、この二人きりの時間を無駄にはしたくない。
そう思うのに、その時の光景や感情がゾロの中に蘇えってくる。
短く、性急で苦しそうな呼吸を和らげる事も、寒気を呼ぶほどの高熱を下げる事も
出来ずに、ただ必死に
サンジを失いたくないとひたすらに思い、
サンジの命が燃え尽きない様にとその運命に向って祈り、
サンジの魂が苦しさに負けてしまわない様に側にいて名前を呼んだ。
その時感じた心の痛み、苦しさをゾロはまだ忘れられない。
けれども、その代償としてサンジと共に生きる時間がいかに大切かが
身に染みた。
時がたって、その痛みを忘れても、手に入れた代償は決して忘れたりしたくない。
いつの間にか、ゾロはじっとサンジの傷を見つめていた。
「…おい、…ゾロ?」
サンジは、黙り込んだゾロに、訝しげな声音で名前を呼んだ。
その声にゾロは、ハっと我に返る。
余計な気遣いはさせたくない。
自分が顔を曇らせれば、きっとサンジの顔はそれ以上に曇る。
「…煙草は肺に悪イ。蹴りが元通りに出せるようになるまで、吸うな」と言って
お互いの心の痛みを消し去るように、微笑んで見せた。
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