サンジに腹を蹴り上げられたメスは、一旦宙に浮き、無様に背中から
地面にドウッ・・・と地響きを立ててひっくり返った。
サンジの腕の力がゆるりと抜ける。
その瞬間、コニャック・ボンボンは弾丸の様に飛び出した。
仰向けに蹴倒されながらも、ギッギッと関節を軋ませて虫は必死に起き上がろうと足掻いている。
鋭い足の鉤爪に触れない様、用心しながらコニャック・ボンボンはあの腕輪が絡み付いている足に取り縋った。
だが、リスの前足では複雑に絡み合った紐は簡単には解けない。
サンジの言うとおり、「かっさらう」事などとても出来ない。
(でも、食い千切ったラ・・・)コニャック・ボンボンは躊躇する。
もしも、紐を食い千切ったら、多分、連なった貝殻は、バラバラになってしまう。
地面に落ちて転がっても、悠長に拾い集める事など絶対に出来そうにない。
「ギチギチッギチギチッ・・・」
虫が牙を鳴らす音が真上から聞こえた。
反射的にコニャック・ボンボンは音のした方へ鼻先を向ける。
その目の前に、獲物を前にしてあさましくヨダレを垂らし、黄色の目をぎらつかせた、
別の虫の顔が迫っていた。
(!!)
コニャック・ボンボンの体から、一気に血の気が引く。
全身が強張って、尻尾の先さえ動かせない。
けれど、そのオスの牙はコニャック・ボンボンを捉えることは出来なかった。
跳躍したサンジが頭を蹴り砕き、そのまま、地面に横倒しに蹴り倒す。が。
「・・うわっ!」と小さな悲鳴が聞こえ、コニャック・ボンボンの視界からサンジが消えた。
倒れていくオスの体を避ける事が出来ずに、サンジがその巨大な体の下敷きになったのだ。
恐らく、体が痛み、思うように動けない所為に違いない。
オスの頭を蹴った衝撃、その後、着地した衝撃、その両方が強烈な痛みとなって、
一度にサンジの体を襲った。
その為に体が強張り、動きが鈍ってしまったのだろう。
巨大な虫と言っても、人間よりも少し大きいだけで、普通の状態なら少し踏ん張れば這い出す事が出来る。だが、今のサンジにその力が残っているかどうか。
グズグズしていたら、せっかくひっくり返したメスが起き上がって、オスの骸を貪り食べ、
その下のサンジに気付いてしまう。
コニャック・ボンボンは紐を食い千切った。迷っている時間など一秒もない。
プツン、と紐が切れた途端、貝殻は、思ったとおり、地面に転がり、
散らばって地面にパラパラと落ちていく。
目で追う事は出来ても、一つとして拾えない。
(もう、紐だけでもイイっ・・・)とコニャック・ボンボンは思った。
(大丈夫ですカッ)
コニャック・ボンボンは紐を咥えたまま、サンジに駆け寄る。
上半身は下敷きにはならず、虫の体と地面に挟まれているのは、右足の太もも下だけだ。
だが、サンジは足掻いてはいなかった。少しでも体力を回復させようとしているかも知れない。
「はあ・・・はあ・・・・」
大の字に横たわり、空を仰ぎ、胸が大きく上下する。
息を吐くのも苦しそうで、それでも呼吸を整えつつ、独り言のような声で
「畜生、・・・全ッ然、思うように体が動かねえ・・・」と忌々しげにサンジは呟く。
痛みに顔を歪め、額からは脂汗が滴り落ちる。
顔の色は白を通り越して真っ青だ。
ほんの数秒、そのままの格好だったが、
「・・・くっ・・・」と力を溜め、一気にオスの体のしたから這い出す。
あたりは虫自身の匂いと、その体液とで、もう、なんともいえない生臭い匂いで充満している。
小さなリスと一人の哺乳類よりも、一匹の成虫の方が栄養があるのか、
それとも美味いのか、仰向けになっていたメスにもう生き残っている虫達が群がり始めた。
「・・・今のうちに逃げねえと・・・」
サンジはヨロヨロと地面に手をついて立ち上がる。
「全部、蹴り殺してやりたかったのにっ・・・」とサンジは悔しそうに言うけれど、
もうこれ以上、虫を蹴る力は残っていそうにないし、生き残っている虫の中にはまだ
メスのままの成虫もいる。
コニャック・ボンボンとサンジはウソップが逃げて行ったと思しき方向へと足を進ませる。
走っているつもりだろうが、サンジの足は地面を踏んで、歩くだけで痛む様だ。
その足取りは、今にも縺れそうでおぼつかない。
地を這うように地面を覆う木の根に足を取られ、サンジは何度もつまづく。
そして、三度目につまづいた時、サンジは遂にその場所に手を付いたまま、
そこから立ち上がらなくなった。
だが、その目は真正面の森の中に向けられている。
「・・・ボンボン、ウソップの後を追えるか」
そう声を絞り出しながら、サンジは上着の内ポケットをまさぐる。
「・・・匂いを辿れば・・・でも・・・」
コニャック・ボンボンはサンジの体から、戦意が陽炎のように立ち昇っているのを感じ取る。
それから、森の奥から聞こえてくる不気味なざわめきも。
木々をなぎ倒して、その虫はコニャック・ボンボンとサンジに迫ってくる。
そのスピードも、体の大きさも、形も、今まで戦ってきた虫とは全く違う。
同じなのは、目の色が黄色である、と言う事だけだ。
体が緑、二本の足は巨大で鋭利な刃物の様で、一見して獰猛で残酷な性質の虫だと分かる。
ずっと、あの高い城壁に囲まれた町の中で息を潜めて暮らしてきたコニャック・ボンボンも初めて
見る虫だった。
(・・・美味ソウナ肉ダナ)
そう言ってほくそ笑む声が聞こえてきそうな顔つきで、その虫は三角形の頭を傾けて、
二人の様子を窺う。
あの虫達の死臭を嗅ぎつけて近寄ってきたのかもしれない。
コニャック・ボンボンは息を飲んだ。
(今度コそ、もうダメだ・・・)と、目を固く瞑る。
サンジに気力は残っていても、もう体には、特に下半身には麻痺が回っているばかりか、
止まらない血はずっと流れ続けていて、この如何にも敏捷そうで強そうな虫に対抗できる
力は残っていないだろう。今の今まで、意識を保っている事さえ奇跡だと言っていい状態だ。
「くらえ!」
サンジは何かをそのカマキリ型の虫の虫に投げつけた。
バシャ、と音がする。
その後、サンジの手から、火の着いたマッチが同じ場所へと飛んだ。
ボウ!と一瞬だけカマキリの顔に炎に包まれる。
けれども、下等生物であるが故に、その熱さも、顔が焼けていく痛さも虫には感じない。
僅かなライターのオイルなどすぐに燃え尽きる。ほんの時間稼ぎにもならなかった。
大きく振り上げた鎌が、サンジの頭上に振り下ろされる。
思わずコニャック・ボンボンはその鎌の刃先に地面を蹴り、体を投げ出した。
何も考えなかった。ただ、無我夢中だった。
鋭く研ぎ澄まされた凶暴な鎌が、コニャック・ボンボンの体を切り裂く。
筈、だった。
コニャック・ボンボンの体に突き刺さるはずだったカマキリの鎌は、突然爆ぜ、炎が立つ。
(・・・えっ・・・?)
どこからか飛んできた火薬玉が鎌を吹っ飛ばしたのだ、とその時はコニャック・ボンボンには
わからなかった。
わかったのは、森の奥からウソップが凄い速さで駆け寄ってきて、その手に見たこともない
道具を握っていて、その道具から何かを飛ばしている、と言う事だけだ。
「サンジ!えっと、おい、なんとかボンボン!大丈夫か!」
そう怒鳴りながら、ウソップはどんどんと爆ぜて燃える玉をカマキリ狙って飛ばしてくる。
もう助けは来ない、と思っていたところに思わぬ援軍の到着で、コニャック・ボンボンの
体から力と言う力がくったりと抜ける。
力が抜けたのはサンジも同様だった。
コニャック・ボンボンはサンジの側に駆け寄る。
サンジの瞳から、少しづつ、光が薄れるのをじっと見つめた。
それは諦め、絶望して閉じられるのではなく、心から安心したかのような緩やかな動きだった。
コニャック・ボンボンには頼りなく見えるウソップだけれど、サンジは固く信頼している。
だからこそ、もう何も心配ない、と気が緩んだのだろう。
ゆっくりとサンジの瞼が眠そうに閉じられていく。
※ ※※※
「勝手にしろ、お前のワケのわからねえ意地に付き合ってられねえっ」
(あのバカ、虫に女性もクソもあるかよ!)
サンジの言い分に呆れて、ウソップは小屋から飛び出した。
もちろん、見捨てるつもりはない。
サンジの足なら、あれくらいの虫、いくら数がいようと簡単に蹴り殺せる、と思ったからだ。
側にいたとしても、命の危険はないだろうが、わざわざ身の毛もよだつような恐怖を好き好んで味わいたくはない。
(・・・あのバカと利巧が同居してるトコがいいのか?)と走りながら、また余計な事を思い出す。
そう考えて、ウソップは足を止めた。
何かが、おかしい、とその時急に気が付く。
(・・・あいつ、・・・バカだけど、頭いいぞ・・・)
深く信頼しあっている仲間だからこそ、ウソップの心に何かが、引っかかった。
言葉では具体的に何がどうオカシイ、とは言い表せない。
ただ、ウソップの頭の中に、いや腕にサンジを引っ張り上げた時の記憶が急に蘇える。
(・・・そうだ、あの時、・・・)
ぐいぐい力任せに引っ張り上げていた時、サンジの腕の力をロープごしに感じた。
その感触が、一瞬だけ止まった。
それからのサンジの言動、行動をウソップは順番に思い出す。
すると、どこか、何かを隠そうとしているような雰囲気が確かにあった。
あのリスは、何故かずっとサンジに張り付いていた。
動物を見れば、「あの肉はどんな味がするんだろう」とまず言うし、その次に
その肉の料理の仕方を考える男だ。
それに、あんなに気が荒くて、気まぐれな男はそう動物に懐かれる性質ではないと思う。
それなのに、あの偉そうな名前のリスはまるで、主人に付き従う下僕の様にサンジに
纏わり付いていた。
その事だけでも、説明つけられない違和感がある。
(それが・・・なんだよ)と思うのに、ウソップの足は進もうと思っていた方とは
間逆の方へと走っていた。
走りながらウソップは考える。
サンジは何か意図が有って、ウソップを遠ざけようとしたのではないか。
自分は、それにまんまと乗せられたのではないか。
(・・・それは何故だ?)
(あいつは、一体、何を考えて、そんな事をした?)
本当にメス以外のオスを殺すつもり、ただ、それだけなのか。
「・・・俺に守って欲しけりゃ、ここで土下座して謝れ」
「人をホモ扱いしやがって・・・。まず、それを誠心誠意謝ってからだ」
今まで、何度も何度も数え切れないくらい、サンジとは喧嘩をした。
だが、「土下座して謝れ」と言われたのは初めてだ。
それほどに腹に据えかねたのかも知れないが、果たしてそうなのだろうか。
浮かんでくるたくさんの疑問の答えを知る為に、ウソップは走った。
知らないままでは済まされない。
その焦りがだんだん嫌な胸騒ぎに変わっていく。
サンジは、何かを隠そうとしている。
それは何か。
そこまで考えた時、ウソップの頭の中に閃光のように答えが飛び出した。
(・・・多分、弱みだ。あいつ、俺に弱みを見せまいとしてやがるんだ)
それが分かった時、木々を掻き分けて元来た道を走るウソップの目に、大きな緑色の虫の背中が
見えた。
その鎌は、間違いなく、地面に手を付いたまま動かないサンジの頭を狙っていた。
(ヤべエ!)すぐに、火薬星を構える。
そして。
「火薬星!」を、狙いを定めて撃ち込む。
「サンジ!えっと、おい、なんとかボンボン!大丈夫か!」
なんとか、虫を仕留めた後、慌ててサンジに駆け寄った。
※ ※※※
木に崩れるように凭れ、サンジはその格好のまま気を失っていた。
抱き起こしたウソップは、「おい!サンジ、おい!」と呼びかける。
すぐに手にぬるりとした湿り気を感じ、思わず自分のその手を見て、「ギョ!」となった。
「お、おい・・・何時の間にこんな怪我してたんだよ・・・」
「すぐ、船に連れて帰ってやるからな・・・っと!」
そう言いながら、ウソップはサンジを背負う。
その右手から、ポロリと小さな青い欠片が落ちる。
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次回、いよいよ最終回です!多分。