「あれでイイんですか・・・?」
そう小声で尋ねて、コニャック・ボンボンはサンジからの答えを待たずに
口を閉じる。

サンジは、壁に凭れたまま、徐々に迫ってくるあの不気味な気配のするほうへと
注意を払っていた。

「・・・ボンボン。メスと、オスの区別はどこでつければいい?」
「エ?」

サンジにそう聞かれて、コニャック・ボンボンは答えるより先に、
(・・・どうしテ、そんな事を聞くんだろウ?)と思った。

さっき、サンジが怒鳴っていた、「相手がオスなら皆殺しにしてやる、」と言う言葉が
コニャック・ボンボンの頭の中で再生される。
裏を返せば、「メスは殺せない」と言う意味でもある事に急に気付いた。

「あのウ・・・。もしかしてメスは殺せないんですカ?」と念のために尋ねると、
サンジは至極真面目な顔で、
「当たり前だろ。相手が虫だろうが女性に足を上げるなんて有り得ねえ」と言う。
「・・・はア・・・」
府抜けた返事をしたきり、コニャック・ボンボンは呆れて声も出せない。

てっきり、ウソップを怒らせる為の方便だと思ったのに、本気でそんな事を
考えているなど、思いもしなかった。
ただ、驚きすぎて、呆然とサンジを見上げてしまい、聞かれた事に答えるのを
すっかり忘れてしまった。
「おい。メスとオスの区別は?」
サンジはゆっくりと立ち上がりながらもう一度、コニャック・ボンボンに同じ事を聞いた。

「目の色で区別すルんです。紫色がメス、黄色がオスです」
「・・・そうか。そりゃ、わかりやすくていい」

サンジがそう言って立ち上がった時、小屋の中にいるのに、
あのガサガサ・・・・と言う不気味な、おぞましい音が聞こえて来た。

「お前は、ウソップの後を追い駆けて、逃げ道を教えてやれ」
「俺は、オスを殺して、それから、メスの足止めをして・・・それから追い駆ける」
サンジにそう言われても、コニャック・ボンボンはその言葉に従うのに躊躇する。
「でも、それじゃあ・・・」
自分が側にいたところで、なんの力にもなれないと充分、分かっている。
だが、怪我を負っているサンジを、仮初めでも飼い主と決めた人間を、
凶暴な虫の大群の中に一人残して、逃げ延びるのは、とても気が咎める。
何も出来ないけれど、離れるのはイヤだ、と言う想いがある。
だが、サンジはコニャック・ボンボンの首根っこを掴んで、自分の鼻の前まで持ち上げた。
間近にサンジの顔を見ると、血の気の薄い顔色はしているが、目の力は強い。

コニャック・ボンボンの迷いを払うようにサンジの目は柔かく微笑んでいる。
「俺は、動きが早いから、肩に乗っかったって振り落とされちまうぜ」
「・・・お前は、俺の怪我をウソップにばれないよう、ウソップが無事に逃げられる様に気を配ってくれたらいい」
「背中に穴が開いてようが、・・・俺は自分の身くらい、自分で守れる」
それが、飼い主の言葉なら、コニャック・ボンボンはその意思に、従順に従うだけだ。
「わかりましタ」

その言葉にサンジは頷いた。
そして、ドアを開ける。

目の前の鬱蒼と茂った木々がざわめく。
ガサガサガサ・・・ザザっ・・ザザ・・・っと足音は一秒ごとに確実に近づいてくる。

「黄色がオスだな」
そう言ってサンジはニヤリと笑った。
森の中から這い出るように、もう人間の姿などどこにも留めていない、
人の大きさ程の巨大な茶色の虫、その大群がサンジの前に姿を現した。

コニャック・ボンボンはとりあえず、一番側の木に駆け上がる。
そして、ウソップが逃げていった方向へ向って、樹の上を駆け出そうとした。

けれど、やはり気になる。
足を止めて、足の下ではじまった、虫とサンジの戦闘を見下ろした。

目の黄色い、オスに変体した個体だけを狙って、サンジは動いている。
それも、目を凝らしていなければ、目に捉える事が出来ないほど早い。

サンジがオスの頭を狙う。それを迎え撃とうと、オスの口から毒の弾が凄い勢いで
発射される。サンジはそれを紙一重でひらりと避ける。
その後ろには、メスの個体がサンジを背中から襲おうと牙をむき出し、棒立ちになっていた。ブシュッブシュっと音がして、メスの体に穴が開く。
そして、痛みに怒り狂ったメスがめくらめっぽうに毒の弾を無差別に乱射する。

サンジを狙う個体はサンジを仕留めようと攻撃してくる。

それを利用し、サンジは自分の身を的に狙わせて、「殺さない」と決めているメス
に対して、間接的に攻撃を仕掛け、結果、群れを大混乱に陥れた。

こうなると、彼らは一体、何を追い駆けて、何を目的に動いているのかわからなっている。図体はでかいが、所詮は虫だ。

「・・・はあ・・・・。はあ・・・・っ・・・」

ようやく、虫達の注意を完全に振り切って、サンジはひとまず、地面を蹴り、
側の大きな樹の枝に登ってきた。

太い幹に片腕を回して俯き、荒い息を吐いている。
バランスを取るためには、足の力もいるし、体全体に神経を行きとどかさねばならない。
それすら辛いのか、サンジは片腕を太い幹に回して、樹にしがみつく格好になっている。

コニャック・ボンボンはもうウソップを追って行ったとばかり思っている様で、
側にいるのに、気付きもしない。

「・・・くっそ・・・痛っえ・・・」
そう声を絞り出し、サンジは自分の右足を手で押さえた。

酷く痺れた足に何かが当たれば、とても痛い。

体の中に徐々に穿っていく針の痛みもさることながら、今は虫の毒が下半身を冒し始め、
足に痺れが出る頃だ。

痺れる足を力任せに振り回していたら、虫の硬い体を蹴り砕いていたその衝撃がそのままの
強さで、激痛に変ってもおかしくはない。

「・・・あの、大丈夫ですカ・・・」

恐る恐る、コニャック・ボンボンはサンジの側に近寄りそう声をかけた。
大丈夫には見えないのに、何故、そんな事を言ってしまうのか自分でもよく分からない。

「・・・なんだ、お前・・・ウソップを追い駆けろって言ったのにっ・・・」
「・・・でも、気になっテ・・・」

顔を上げたサンジの顔には脂汗がびっしりと浮いていた。
戦闘で動いた故の汗でないのは、人間の汗の匂いの質でコニャック・ボンボンには
嗅ぎ取る事が出来る。

言いつけを守らなかった、と詰られたら・・・とコニャック・ボンボンは少し
怯えていたが、そんな下らない心配をしている場合ではなかった。

「・・・まあ、いいか」と言ったサンジの顔が歪んでいる。
無理に強がって笑おうとしているような顔だ。

そして、サンジの指が、地面の上の虫同士の殺し合いの現場を指差す。
「・・・勝手に共食い始めたぜ。見ろよ。あんな簡単な事で共食いするなんて、
やっぱり虫ってバカだよな」

コニャック・ボンボンは、樹の上から虫達が死んでいく様を見下ろした。

自分と同じ種を、
もしかしたら、自分が生んだ子かもしれない、
自分を生んでくれた親かも知れない、それなのに、そんな事すら考える
脳味噌を持たず、ただ怒りと空腹と、本能の赴くままに、牙を剥き、口から毒針を撒き散らし、腹を食い破り、内臓を貪り食っている虫達を見下ろしていると、
心の底から(・・・ざまあみロ・・・)と言う感情が込み上げてくる。

そして、コニャック・ボンボンの目は、まだしぶとく生き残っている、
一際大きな一匹の虫に釘付けになった。
それはメスの個体。頭部の色艶、体の大きさからして、おそらく成虫になって
数年経っている個体だ。

その個体の、足の付け根。
6本の足の、右の一番上、人間の姿に擬態した時、腕になる部分に、
それは巻きついていた。

じっと身動きせず、ただ凍て付いたようにその虫だけを凝視している
コニャック・ボンボンを見て、サンジは訝しく思ったに違いない。
「どうした・・・?」
「・・・あの虫の・・あの足に巻きついている、あレは・・・」

コニャック・ボンボンはそれ以上、言葉に出来ず、視線を向けて、自分が見ている個体をサンジに教えた。
「・・足になんか絡まってるな?・・・」
そう言って、サンジは目を細めた。
「青い・・・珠か?」

コニャック・ボンボンの胸の中で、怒りが一気に膨れ上がる。
そのエネルギーが体の中の血管と言う血管に行き渡って、わなわなと小さな体が
震えた。

飼い主と過ごした日々の数々の思い出、
その光景、飼い主の優しい笑顔、
大きな掌、真っ黒に日焼けした耳、
甘えてこすりつけると痛かった硬い髭の感触が一瞬でコニャック・ボンボンの頭の中で蘇える。

遠すぎて、サンジの、人間の目ではそれは青い珠にしか見えないかもしれない。
だが、コニャック・ボンボンには、その青い貝殻を連ねた紐ははっきりと見えていた。

「あれは、ボクの主人の、腕輪でス!」
「あいつが、ボクの主人を殺したヤツでス!」

体中の毛という毛が逆立った。
自分から幸せな日々を奪った虫が、ずっと復讐してやると思い続けていた虫が
目の前にいる。

後先も考えず、コニャック・ボンボンは樹を駆け下りた。
「おい、無理だ、ボンボン!食われちまうぞ!」と言うサンジの声も、耳には聞こえたが、
頭に血が昇ったコニャック・ボンボンを止められない。

飼い主の腕輪を取り返すつもりなのか、
飼い主を殺した虫に一矢報いるつもりなのか、すら決めないで、コニャック・ボンボンは
虫に飛び掛った。
虫の目玉に思い切り、ガッと牙を突立てる。

「シャーッ」と虫は身の毛もよだつような声で、悲鳴を上げた。

牙が脳髄まで届けば、虫を殺せる。
そう思って、コニャック・ボンボンは無我夢中で腕輪をはめた虫に食らいつく。

「このバカリス!」

サンジの怒鳴り声が聞こえたかと思ったら、コニャック・ボンボンは虫の目玉を咥えたまま、地面にコロコロと蹴り転がされていた。
ハっと我に返ると、サンジが苦痛に顔を歪めながら、数匹の虫の顎を一気に蹴り砕いて
いるのが目に飛び込んで来る。

サンジは、虫達の間を駆け抜けて、コニャック・ボンボンを片手で拾い上げた。
そして、掠れ、絞り出したような声で

「・・・あのメスの動きを止めてやるから・・・すぐに腕輪をかっさらえ」とだけ言い、
まだ十数匹、生き残っている虫達の群れの中に突っ込んでいく。
けれど、その動きは明らかに最初に虫達に突っ込んで言った時よりずっと鈍っている。

痛みも、痺れも、血が失せていくに従って消耗していく体力も、
もう限界に近づいているのかも知れない。

サンジは、狙いのメスの真正面から突っ込んでいく。
襲い掛かってくる牙の下を潜り抜け、腹の下へと地面スレスレに滑り込んだ。
仰向けに滑り込み様、胸にコニャック・ボンボンを抱きこんだまま、
目の前の柔かい虫のじゃばらのようになっている腹を上へ向って蹴り上げる。

「・・・うあっ・・・っ!」

蹴り上げたと同時に、サンジの喉から悲鳴があがり、しなったその体は、ビクビクッと痙攣するように
細かく震えた。


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