獣の嗅覚は、人間の嗅覚よりもはるかに優れている。
分厚い布袋の中にいて、目は塞がれていても、リスの嗅覚は虫臭い匂いの中に、
何か違う匂いが混ざっている事をすぐに嗅ぎ取った。
(・・・このヒト達をどうにかして助けないと・・・)
コニャック・ボンボンはリスの頭で懸命に考える。
が、ねじ込まれた袋の中は狭く、色々なモノに体をギュウギュウ押されて、
背中や前足の付け根、耳の先っぽが痛くて全く集中できない。
しばらくじっと動かなかったけれど、いきなり袋は「よし、行くか・・・」と言う、
黄色い頭をした、頭の良さそうな方の声がして、動き出した。
と、思うと、体が、・・・周りの道具がフワリと浮いた。
リスだから、落下する事には怖いとは思わない。だが、あまりに唐突だったし、周りが全く見えなくて、自分が上を向いているのか、右はどっちで左がどっちなのかわからず、
思わず、コニャック・ボンボンは「キキキーーーーーーっ」と悲鳴を上げてしまった。
ほどなく、「バシャン、」と水音がした。
それから、袋がぱっくりと開く。
外も夜だから、真っ黒なのは代わりはないけれど、月や星の明かりが出ている分だけ、
コニャック・ボンボンには袋の中に閉じ込められているよりは、ずっと明るく感じた。
ぬっと腕がその開いた口から入ってきて、また鷲づかみにされ、袋の外に
引っ張り出される。
「やれやれ・・・。飛び降りルなら一言、言ってくだサイね。肝が冷えましタ」
堀を音も立てずに泳いでいる、黄色い頭をした、頭の良さそうな方の、その頭のてっぺんにコニャック・ボンボンはちょこんと乗せられた。
(・・・これは・・・赤い体液の匂い・・・)
コニャック・ボンボンは、ふと、後ろを振り返る。
月明かりが落ちる堀の水面には、人が静かに泳ぐ波紋が浮き上がっていた。
自分を頭に乗せてくれている人間の泳いだ後を追い駆けて出来る波紋の上に、
ゆらゆらとうっすら赤が混ざっているのに、コニャック・ボンボンは気付く。
「あのゥ・・・」
「逃げたいんだろ。だったらお前は黙ってろ」
泳いだりして大丈夫ですカ?と尋ねようとしたら、とても怖い、低い声で頭の良さそうな
方はそう言った。その声の凄みに、コニャック・ボンボンは震え上がる。
怪我をしている事にコニャック・ボンボンが気付いた事、
そして、その気遣いを、この頭の良さそうな方の人間は、既に察している。
しかもどうやら、その事をもう一人の鼻の長い方に知られたくないらしい。
(・・・やっぱり、頭がイイみたいでス・・・)コニャック・ボンボンはそう思った。
それなら、「・・・私はコニャック・ボンボンです」ともう一度改めて自分の名前を言い、
代わりに名前を教えてください、と言うと言う意図もきっと汲んでくれるだろう。
そして、その予想は間違っていなかった。
門も橋もない方に泳ぎ着き、二人は這い上がった。
コニャック・ボンボンは、頭から肩へと移動する。
すると、思ったとおり、頭の良さそうな方は、見上げたコニャック・ボンボンの目をちゃんと見て、
「俺は、サンジ。鼻の長い方が、ウソップだ」と、やっと、名前を教えてくれた。
「よろしくお願いしまス」
そうして、自己紹介を済ませて、二人と一匹は森の中へ一度身を隠す事にした。
さっさと港町へと戻る方がいい。
けれど、港町に出たところで、助けてくれる人間がいるワケではない。
虫たちの方がずっと足が速いし、個体によってはそう高くはないけれど、
飛べるヤツもいる。
まともに逃げても、すぐに追いつかれるだけだ。
コニャック・ボンボンの提案で三人は、港町とは逆の森の中へ逃げる事にした。
森を突っ切って、島の端まで行き、ぐるりと海岸伝いに逃げれば、遠回りだが、
港まで帰れる。
「港まで行けば、俺達の仲間がいる」
「こんな虫なんか、なんとも思わねえ、心強いヤツらだ」
「それに、そこまで逃げなくても、絶対に助けに来るようにしてやるさ」
サンジの意見は、尤もかも知れない。
だが、慌ててもどうしようもない、焦っても無駄な理由がある事を、
ウソップは知らないでいる。
「でも、・・・虫達の注意が全く間逆の方角へ向いているのも、時間の問題だろ」
「暢気に歩いてりゃ、すぐに気付かれちまうぞ」とウソップが言っても、
「・・・やられっぱなしなんて、我慢ならねえんだよ、俺は」
サンジは忌々しげにそう呟くだけで、足を早めようとはしない。
コニャック・ボンボンは、サンジの肩から降りて、二人の間を歩くことにした。
サンジは、背中か、腰にあの虫の針を受けている。
それがどの程度の怪我なのかわからないけれど、あの針は・・・いや、針と言うよりも、
先の尖った弾は、哺乳類の体にねじ込まれると、体を麻痺させる毒素を出しながら、
少しづつ肉を抉って内側へめり込んでいく。
掠っただけなら舐めておけば治るけれども、体の中にあるのなら、
早く取り出さないと、動けなくなるし、肉が抉られていくのだから、壮絶に痛むはずだ。
(・・・どうして、それを言わなイんだろう?きっと、トテモ痛いのに・・・)
それがコニャック・ボンボンには不思議でもどかしい。
怪我に気付いたとしても、確かにウソップには何も出来ないかも知れないが、
こう無神経にズカズカ先に歩いていかなくても、少しくらい、怪我を負っている
サンジを気遣う時間くらいはある筈だ。
コニャック・ボンボンの飼い主だった船乗りは、
「歩き方がおかしい」だけで、コニャック・ボンボンの足の裏にトゲが刺さっていた事に気付いていくれた。
人間は皆、あの優しかった飼い主の様に、誰もが気が効いて、優しいのだと
コニャック・ボンボンはそう思っている。
だから、サンジの体から血の匂いがしている事にも、歩き方がおかしい事にも、
だんだん口数が減ってきている事にも、全く気付かないウソップが不思議でならない。
けれどもそれ以上にサンジがその怪我を隠そうとしている事は、もっと不思議で
理解できなかった。
かつてはちゃんとした道だったけれど、今は誰も使わなくなってかなり経つ山道だ。
ただでさえ歩きづらいのに、怪我をしていたら、細かい枝を避けたり、
太い根をまたいだりしなければならないこの道を歩くのは、かなり辛い筈で、
だんだん、ウソップとサンジの間に距離が開いていく。
「おい、・・・リス」サンジがコニャック・ボンボンを呼び止めた。
「・・・リスではありませン。ボクは、コニャック・ボンボンでス」
サンジの事は心配だが、リス、と呼ばれるのはどうにも我慢できない。
飼い主に愛されていた証として、「コニャック・ボンボン」と言う名前は、
リスのコニャック・ボンボンにとって、かけがえのない、たった一つしかない命と同じくらい、大事な財産だ。
それをないがしろにはされたくない。だから、きっちり名前を呼んで欲しい。
そんな気持ちを篭めて、コニャック・ボンボンはサンジを見上げる。
「悪イ、そうだったな、ちゃんとした名前があるんだっけな・・・」
苦笑いをして、サンジはコニャック・ボンボンを見下ろした。
その声が少し掠れている。呼吸も痛みを堪えるようにつめている。
夜目でも、額に汗がびっしり浮いているのも見えた。
飼い主が体を壊しているのに無理に働いていた、その時の様子にそっくりで、
コニャック・ボンボンの小さな胸はズキン、と痛くなる。
「ムシュボンボン、どっか・・・少し、落ち着いて休めそうな場所はねえのか」
「はい、今から向う場所なら、横になれる場所もあると思いマス・・」
それから、10分ほど進めば、くぼ地があるのをコニャック・ボンボンは知っている。
そこへサンジとウソップを案内し、朝まで身を隠そう、と考えていたのだ。
森が途切れて、いきなりそのくぼ地を見下ろす場所に着く。
ウソップは小さなカンテラを捧げ持ち、そのくぼ地の中を用心深く照らした。
ぐるりと高い柵に囲まれていて、そこはまるで牧場の様にも見えた。
その柵の中に、朽ちかけたいくつかの小屋がうっすらと浮かび上がる。
「・・・なんだ、ここは・・・村なのか?牧場なのか?」とウソップは首をかしげた。
「・・・ここは、食べるために人間を肥やしたり、増やしたりする為に
虫達が作った牧場デス。人間の繁殖力が自分達ヨり弱い事とか、生まれタ赤ん坊が充分に
自分達の栄養になるまデ育つより、自分達の寿命が短い事に気付いテ、
もう、人間を飼わなくなって、今は使われていませン」
ウソップの疑問にコニャック・ボンボンはそう答えた。
「ボクの飼い主は、ここから虫達に連れて行かれて、それから、いくら待っても
帰って来ませんでした」
適当な小屋に入り、カンテラを灯し、中で火を焚いて、三人は一時の休息を取る事にする。
ウソップは、壁にもたれて、コクリ、コクリ・・・と居眠りをし始めた。
異様な緊張感をずっと感じっぱなしで疲れているのだから、居眠りするも無理もない。
そう思うけれど、コニャック・ボンボンは怪我をしているサンジの方こそ、
しっかり休ませなければならないのに、・・・と、歯痒くて居た堪れなくなる。
けれど、何故か、サンジの言う事に従ってしまう。
「・・・何か、草を燃やしましたネ?いい香りがしまス」
「ウソップは鼻がいいからな・・・。こうしないと、血の匂いに気付く」
サンジはそう言って、何時の間に摘んだのか、細い葉っぱをパラパラと
火にくべた。柑橘類の様な、花の様なさわやかな匂いが火を焚いている小さな暖炉から香ってくる。
「・・・飼い主がここにいた時、庭に毒消しの薬草を植えていましタ」
「まだ生えていルかも知れませン。ちょっと採って来ましょウ」
コニャック・ボンボンはそう言って、一度小屋の外に出て、今は雑草だらけの庭から、
飼い主が植えていた薬草を探し出して、もう一度、小屋の中に戻る。
口と前足を使い、分厚い皮を剥げば、中から透明なぷにゅりとした葉肉が出てくる。
とても苦いが、それは火傷とか、切り傷、虫刺されのかぶれなどによく効くと言う薬草だ、とコニャック・ボンボンは飼い主から教わった。
「・・・どうして、言わなイのですカ?」
その薬草を渡しながら、コニャック・ボンボンはそうサンジにそう尋ねた。
「・・・喧嘩したからな。その・・・落とし前がまだツイてねえんだよ」
サンジは黒い上着を脱ぎ、濡れたシャツも脱ぐ。
コニャック・ボンボンはサンジの背中に回りこんで、傷の具合を見、思わず息を飲んだ。
「・・・これはヒドイ・・・」としか言えず、直視すらできずに
思わずすぐに目を逸らす。
けれども、針弾を食らった跡が、五箇所はあるのは見えた。
と言う事は、五発その背中に弾がめり込んでいる、と言う事だ。
裸の上半身には、暖炉の炎の熱が伝わっているはずなのに、コニャック・ボンボンの目には、全く毛皮の生えていない、すべすべしたむき出しの白い肌がとても寒そうに見える。
「・・・喧嘩したからって、どうして怪我をしている事を隠す必要があるんですカ?」
とコニャック・ボンボンが尋ねると、サンジは深く、辛そうにため息をついた。
「・・・・言ったところで、どうしようもねえだろ」
「手当てして貰えるワケじゃないし・・・」
そう言ってサンジはとても億劫そうに体を起こし、自分の背中に右手を回した。
その手にべっとりと血がついているのを見て、サンジは眉をひそめる。
けれども、静かに、そして、コニャック・ボンボンにしっかりと言い聞かせるように、
「・・・もしも、これ以上、俺の足が遅くなって、クソ虫どもに追いつかれるような事があったら、」
「ウソップには、仲間の助けを呼びに走ってもわなきゃならねえ」
「その時、怪我をしてる仲間を置き去りにして逃げる、なんて事考えたら」
「ウソップの足が鈍る・・・。だから、黙ってるんだ」と言った。
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