(・・・うわっ・・・!)
ウソップは思わず目を閉じ、頭を抱えて体を丸める。
足技が派手なだけに今まで気付かなかったが、サンジは腕力もめっぽう強い。
片手で荷物を抱えている自分の体を引っ掴んで、床を蹴り、その勢いを足に乗せ、
なんの躊躇もなく、ガラス窓に向ってぶつかっていく。

グワッシャア〜〜ン、と耳を劈く破壊音が聞こえたかと思ったら、体が宙に浮いた。
「うわわわわわっっ」内臓がふわりと体の中で浮き上がる様な感触に、ウソップは
目を閉じたままで思わず悲鳴を上げる。

「3階から飛び降りただけだろ、みっともねえ声悲鳴を上げるんじゃねえよ」
そうサンジになじられて、ドスン、と乱暴に地面に放り出されて、やっとウソップは
目を開けた。

二人は飛び降りてきた窓を月明かりが落ちて白々と光る石畳の上から見上げてみた。
あの得体の知れない気配の正体は、一体何なのか、それを見極める為だ。

だが、見なければ良かった。
少なくとも、サンジはそう思っただろう。

「・・・ギャッ・・」小さく口の中で悲鳴を上げたのは、ウソップではなく、サンジだ。
壊れた窓から二人を見下ろしているのは、夕食を摂る時に見かけた、
サンジが「虫に似ている」と言った、あの女将だ。
いや。女将だった筈の人間の姿をした生き物だった。

それだけではない。宿の窓と言う窓から、たくさんの女達がニタニタ笑いながら
二人を見下ろしている。

「・・・逃がさないよ・・・」と二人を見て、ニ・・・と笑った、その女将を始め、
他の女達の目は明らかに人間の目ではない。白目がなく、眼球全部が紫色の珠だ。
トンボやカマキリの目に良く似ていて、顔の皮膚には白いヒビがたくさん走っていて、
まるで、その体自体が脱皮寸前の殻の様にも見える。

側にいる訳ではないのに、パチパチと火が爆ぜる音に似た音が聞こえてくるのは、
彼女達の体から、彼女達の新しい、真の姿が這い出てくる予兆なのか。
「虫・・・虫に乗っ取られたんだ、体をっ・・・」
恐怖のあまり目を逸らす事すら出来ず、ウソップは思わずそう呟いた。
真実はどうなのかわからない。
「・・・とにかく、逃げるぞ、ウソップ!どっか身を隠す場所くらいある筈だ!」
そう言って、サンジは走り出した。ウソップもその後を追う。

石畳に二人の忙しない足音が響く。背中から、ザワザワ・・・と虫が蠢く音が聞こえて
来そうで二人は振り向く事が出来ない。
宿から真っ直ぐに伸びた狭い道は、両端に人の住居らしい建物がずらりと建ち並んでいて、
人っ子一人通っていない。
だが、その道が大通りに突き当たった時、前を走っていたサンジの前を
黒い影が遮った。
「うわっ」慌てて止まろうとしたけれど、後ろからウソップも全力疾走で走っている。
当然、暗い路地の中、殆どめくらめっぽうで走っているのだから、
「ば、バカ野郎、急に止まるな!」と喚いたけれども、とても止まれそうもない。
「うわ!」
「うわっ・・・と!」
サンジの背中にウソップは体当たりしてしまい、その勢いでサンジは目の前の
影に突っ込んでしまう。

だが、影はひらりとサンジを避けた。
バランスを崩しながらも、サンジはどうにか転がらずにトトト・・・と踏ん張って、
影を振り返る。
その大通りらしい道には街灯が灯り、その女の姿を白々と照らし出していた。
黒っぽい服を纏った、若い女だ。
「失礼、・・・お嬢さん」サンジはまず、自分達の無作法を謝った。
「ちょっと、急いでいたもので・・・」
身なりのよい、その女の姿を見つめたサンジの言葉が途切れ、その顔がみるみるうちに青ざめていく。
(・・・げげっ・・・)
ウソップもその女の顔を見て、背筋に寒気が走った。
紫色の丸いだけの眼球、ヒビだらけの顔の皮膚、パキパキと鳴る不気味な音。
そして、近づいて初めて分かった、湿気を帯びた虫の匂い。
「・・・何をそんなに急いでらっしゃるの・・・・?逃げる場所なんかどこにもないのに・・」
そう言って、女は街灯の薄く白い光に浮かんだ顔をゆがめ、声を立てずに嘲った。

女の顔のヒビが割れる。薄く、乾燥した皮膚が削げ落ちて、中から、いやに艶のある、
茶色の甲殻の様なモノがちらりと見えたと思ったら、あっという間に女の顔は
バラバラに崩れる。三角形の頭、その口からぬらぬらとねばった粘液状の唾液に
濡れた鋭い牙が生え、カチカチと鳴っている。
獲物を前にして、ヨダレを垂らした巨大な虫、けれど体はまだ女のままだ。
「う、うわわ・・・」
恐ろしくて、身動きできない、目も逸らせない。
棒立ちになったまま、ウソップは動けない。
「ウソップ、離れろ!」

そのサンジの声が鼓膜に響いたと思ったら、凄い力で弾き飛ばされる。
背中から石畳の上に叩き付けられ、ウソップは「痛エ!」と悲鳴を上げた。
けれど、痛みで転がりまわっている場合ではない。
石畳の上で何かが弾けてキンキンと金属音のような音が聞こえる。
それは、銃声を消された弾丸が石畳を撃ち抜く音にそっくりだった。

「立て、早く!」
ウソップはサンジに蹴られて、転がっているのだが、蹴られていなかったら、
虫女の毒針は、まともにウソップの体を直撃していた。
サンジは、虫女の横をすり抜け様、地面に倒れこんだままのウソップの腕を掴む。

そして、そのまま、また走り出す。

「・・・なんだよ、あれは・・・・っ!」煙草を吸う余裕もないのか、サンジは
走りながらそう呻いた。
それを聞いて、ウソップは急に我に返る。
「ッって言うか、お前、なんで逃げるんだよ?!あんな虫、お前が蹴ればイチコロだろ!」

例え、口から銃弾の様な小さく細い毒針を出すとは言え、サンジの足技ならの虫くらい
簡単に倒せる。幾分、体も硬いかも知れないが、それでもたかが虫だ。
いくら数が多かろうと、問題にはならない。

ウソップの声を聞いて、サンジは足を止め、ウソップに向き直る。
虫を怖がって、ビクビクオドオドした、あの庇護欲を掻き立てる顔つきに
なってしまっていた。
「・・・あれ・・・虫だと思うか」
「はあ?どっからどう見ても虫だろっ」サンジの言葉にウソップがそう言い返すと、
ついさっきまでの心細そうな表情が消え、強気な顔付きに戻り、
「お前が言ったんだろ、虫に体を乗っ取られてるって。元は普通の女性かも知れねえだろ!」と怒鳴り返してきた。
「そんな事言ってる場合か!あの虫、俺達を食う気だぞ、絶対!」と言ってから、
ふと、ウソップの心に不安が過ぎった。
「・・・まさか、この町の人間・・・皆がああなんじゃねえだろうな・・・」

二人は顔を見合わせた。きっと、サンジもこの町に来てからの事を詳らかに思い出しているに違いない。
火薬を買った店。卵を買った店。ヤスリを買った店・・・そこで話した相手はどんな風貌だったかを思い出して呆然となり、呟いた。
「女・・・俺、女しか見てない気がする・・・」
「俺もだ・・・。男を一人もみてねえ・・・」
サンジもそう呟く。背後の暗闇、その向うからまたガサガサガサ・・・と気味の悪い
足音が迫ってくる。

二人がまた当て所なく逃げよう、とした時。
二人の前に、猫の様な、リスの様な動物が街灯の上からふわりと降りてきて、
その進路を塞いだ。

何か言いたげにそのリスの様な動物は、二人を見上げている。
そして、いきなり喋った。
「・・・この町に逃げ場はありマせんヨ。城壁を越えて、町から出ナい限り・・・」

普通の人間なら驚くだろう。言葉を覚えたての子供の様な声と口調で、そのリスはそう言った。
だが、二人は普段、チョッパーを見慣れている。
驚くよりも先、情報を得る方に神経が向く。
後ろを気にしつつ、黙ってそのリスの言葉を待った。
「ボクも一緒に連れて行ってくれるなら、色々と教えマス」
「わかった。道すがら、色々聞く」

そう言ってサンジはリスを拾い上げた。すぐに走り始めたのに、リスは器用に
バランスを取って、サンジの肩の上に乗る。

「あの虫は、繁殖する為にどうしても哺乳類の死肉が要るのでス」
「だから、私もずっとあの連中に追い駆けまわサれているです」
「・・・で、お前はなんで喋れるワケ?」
ウソップはそのリスにそう尋ねた。
「ボクはある船乗りに飼われていたリスです。名前は、コニャック・ボンボン」
「ボクの大事な、心から愛していた飼い主は、あいつらに食われてしまいました」
「残飯を漁っている間になにかの悪魔の実も食べていたらしくて」
「何故か話せるリスになってしまいましタ」
「でも、頭の中はリスのままなので、あんまり利口ではありまセン」

ボンボンの話によると。

人の姿は擬態で、哺乳類、特に人間を捕らえるための擬態だと言う。

普段は草食だが、今のこの繁殖期になると、メスは体に卵を持ち、産卵せずには
いられなくなる。
産卵した後、体力が落ちる。そうなると、栄養が必要な仲間から襲われて
食い殺される可能性もあるので、早く体力を取り戻さねばならない。
その為に哺乳類の肉を必要とする。
また、孵化したばかりの幼虫に哺乳類の肉を与えればより強く、頭のいい虫になるらしい。

「オスは?俺たちが見たのは・・・女の姿をしてた虫ばっかりだが」
サンジは城壁の前まで来て、ボンボンにそう尋ねた。
もう自分達を追い駆けているのは宿の中で見た虫と、大通りで見た虫だけではない。
この町に住む人間が全てメスの虫で、ウソップとサンジ、そしてボンボンの肉を
狙って徐々に迫ってくる気配を、サンジもウソップも背後に感じている。

「メスでいられる期間はおよそ、10日デス。それぞれバラつきはあっても、
あと二日もすれば、皆、卵を産み終わってオスになる筈です」
「この城壁を越えれば、逃げられるけどよ・・・」

ウソップはゴソゴソと道具袋の中の「オクトパクツ」を取り出してサンジに見せたが、
サンジは首を振った。
「それじゃだめだ。よじ登っている間にあの変な針だか、弾だかで狙い撃ちされる」
「お前、ロープ持ってないか?」
「持ってるが・・・上までなんかとても届かねえぞ?」
「どのくらいの長さだ?」
サンジはウソップからロープを受け取り、長さを確認する。
そして、策が浮かんだのか、少し表情を和ませ、城壁の上を指差した。
「よし、上からこれを垂らせ。俺がそれに掴まったらすぐに引き上げてくれ」
「え?俺が先に登るのか?この城壁を?どうやって?」
だが、そのウソップの言葉に答えず、サンジは肩からボンボンを掴んで、
ウソップの荷物袋の中に捻じ込んだ。
「おい、リス」とサンジの呼びかけると、「コニャック・ボンボンでス」と居心地悪そうにしながらも、
律儀に返事をしている。
「ちょっと狭いが、我慢しろ」

そう言うと、ウソップに向って軽く片足を上げて見せる。
「乗れ、ここに。上手くバランス取れよ」
それを聞いて、ウソップは驚愕する。
「俺を蹴り上げるのか、あの上まで!失敗したら、落ちるだろ、落ちたら死ぬだろ!」
と言ってみても、サンジの案以外に何も思い浮かばない。
「お前をあの高さまで蹴り上げるくらい、どうってことねえんだよ、グダグダ言ったら
ケツを蹴り上げるぞ!」

そう言われて、ウソップは恐る恐るサンジの片足に乗った。
片足で立っていて、しかもその足も決して太くはないのに、
その安定感にウソップの不安は一瞬で消える。
(・・・そっか、こいつ前にゾロを蹴り飛ばしてたっけ。あれだけの脚力がありゃ、
充分とど・・・・)充分、城壁の上まで届く、と思っていた途中でいきなり体が宙に浮いた。
「うわわ〜〜〜わわわ〜〜」
城壁の上よりわずかに高くウソップは蹴り上げられ、そして、城壁の上の通路らしき場所へドスン、と落下する。

「早く、早く、ロープを!虫がそこまで来てますヨ!」
道具袋の中で、ボンボンがそう喚いている声が聞こえて、ウソップは慌てて
尻の痛みを堪えて立ち上がり、ロープを城壁の内側へと垂らす。

地面には到底届かない。
だが、サンジはそのロープめがけて飛んだ。その背後には、100以上はいる、虫女達が
ひしめき合っていて、カチカチと牙を鳴らす音が城壁の上にまで聞こえていた。
だが、そんなモノをいつまでも眺めている場合ではない。
一刻も早くサンジを引き上げないと、サンジが言ったとおり、
「針だか、弾だかわからないものに狙い撃ち」されてしまう。
「ふん!」ガクン、とサンジがロープの端を掴む重い感触に、ウソップは城壁の壁に
足を掛け、踏ん張る。城壁にキンキン、とあの銃声を殺した銃弾が爆ぜている音も
聞こえている。
(・・・い、急がなきゃ、・・・ホントに狙い撃ちだ!)
サンジが城壁を伝って上がってくる、その規則正しい感触が、一瞬、止まった。
だが、重さはそのままだ。

「どうした!」とウソップは汗まみれのまま、下のサンジの姿を確認する事も出来ず、
そう怒鳴りつつ、必死にロープを手繰る。

だが、ロープを手繰る感触が止まったのはその時だけで、それから数秒後に
サンジが城壁の上に辿り着く。

「・・・下は、堀だが、飛び降りれる。行こうぜ」
そう言ってウソップは急かしたが、サンジは黙って煙草に火を着けた。

サンジの呼吸が僅かに乱れているが、それはウソップを渾身の力で蹴り上げ、
それからすぐtにあせってロープを手繰ってきた所為に違いない。

「・・・ま、待てよ。すぐに逃げても、向うは橋を下ろしてすぐに追い駆けてくる」
「こっちは堀を泳がなきゃならねえんだ。橋のねえ場所を選んで飛び降りなきゃ・・・」

そう言って、サンジは壁に凭れ、身を隠しながら下を覗きこむ。
「・・・クソ、虫の分際であいつらよくもやりやがったな・・・・っ」

そう言ってサンジは痛みを堪えるように、僅かに顔を顰めた。


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