海風の温度



長い長い嵐を乗り越えて、ようやく辿り着いた平穏な島だった。

蓄積していた筈の疲れは、穏やかな初夏の気候の中でお互いの温もりを求める熱に変わる。
唇から愛しさが零れ、指を絡めて合わせた掌の中にそれを閉じ込める。

吐息から歓喜が、肌から甘い汗が零れ、体の奥から込み上げてくる熱に震えながら、
二人で感じあう感覚の全てを、欠片さえ取りこぼさない様に強く抱き締め合った。

心も体も溶け合って、一つになれる瞬間、こんな感覚を分かち合える相手は
他には誰もいない。サンジを抱いた後、いつもゾロはそう思う。

言葉になど出さなくてもいい。
弾む息を整えもせずに口づけたなら、心の中にあるものを隠せなくなる。
満ち足りたその瞬間は、ただ、こうして抱き合える事の幸せに酔えた。

いつまでも、どこまでも、サンジは自分の側にいる。
この優しい熱を、欲しがる時に与え、欲しい時に与えられる。
ずっと、誰よりも近く、体が一つに溶け合う程の距離で生きていける。

そんな幸せを胸に抱いて、ゾロは眠った。

そして、翌朝になると昨夜の温もりはまだ心の中にも体にも消え残っているのに、
いつも隣にはサンジはいない。
誰もいない、格納庫の上に敷いた皺だらけのシーツをゾロは数秒、何も考えずに
ただ、見つめた。誰かの体を包んでいたはずのむき出しの自分の腕に
透き通った朝の空気がやけに冷たく感じる。

言葉にもならない切なさと寂しさがゾロの心を過ぎった。
(・・・いい加減、慣れてもいい筈なんだがな・・・)
ゾロはため息混じりに自嘲し、起き上がる。

一人きりで眠り、一人きりで目覚める寝床の中では感じない寂しさにゾロは未だに
慣れないでいた。

サンジが今、どこにいるのかゾロは知っている。
こんな朝を、今まで何度も経験しているからだ。

すぐに服を身に着け、サンジのいる海岸へと向った。

朝陽を受けて、白砂が輝く。寄せて返す波が洗うその部分の色だけが濃い。
柔らかな海風の音と、ザ・・・ザ・・・と穏やかな波の音だけが聞こえてくる。
ところどころに灰色の無骨な岩が転がっているが、砂の粒子は細かく、漂流物もあまり
見当たらない。

(・・・いい海岸だ)
もしも、サンジが夢見ている、全てが蒼い海の海岸もこの海岸の様に美しく、
穏やかな場所ならいい。
ふと、ゾロはそんな事を思った。

やはり、サンジは海岸にいた。
海風を孕んで、向日葵色の髪が揺れている。
時折、波打ち際で何かを拾いながら、サンジは散歩をしているかのような足取りで、
海岸をのんびりと歩いていた。
ゾロの視線に気付いたのか、サンジはゆっくりと振り向く。
この優しく、穏やかな美しい海岸に良く似合う、柔和な表情を浮かべて立ち止まり、
ゾロが一歩、一歩近づいてくるのを待っている。

「・・・食い物探しか」
ゾロはサンジに近づいて声を掛ける。

「・・・今朝は随分、早起きなんだな」ゾロの言葉に直接答えず、サンジはいつもと比べて
ほんの少しだけ温かな声でそう言った。
「何を拾ってた?」サンジに近づき、ゾロはその掌の中を覗きこむ。

サンジの掌の中には、小さな貝殻がいくつかそっと握られていた。
それは見て、ゾロは(やっぱりな)と思う。

ゾロの言葉を聞いて、サンジは口元に笑みを浮かべて俯き、
「食える貝とそうでねえ貝くらい、知っとかねえと海賊のコックは務まらないからな」と言った。
掌に握られていた貝殻がいくつか、パラリと砂浜に零れて落ちる。
サンジは静かな眼差しで、砂浜に落ちていく貝殻を見つめていた。
ゾロはじっとサンジの声に耳を傾ける。
そうしないと、サンジの声を全て、波の音が浚っていってしまいそうな気がするからだ。

「北の海にはどんな貝がいて、東の海じゃどんな貝が採れるのか」
「南は?西は?」
「・・・寒い海にはどんな貝がいる?暑い海には?」
この問い掛けは、ゾロに質問する為ではない。
何故、自分が貝を拾っていたのか。サンジはその訳をゾロに説明する為に言葉を並べただけに過ぎない。
「逆を言えば、寒い場所に棲む貝がいるなら、そこは寒い海だって事になる」
「寒い海には、寒い海に住む魚がいる」
「もしも、・・・」サンジはまた一つ、新しい貝殻を見つけて、それを腕だけを伸ばして
波打ち際から拾い上げた。
サンジの指に摘まれたのは、紫色に白い筋の入った、ゾロも見た事のある貝だ。
サンジは指先に摘んだその貝に目を落としながら言う。
「寒い海にある貝と、暑い海にいる貝が同じ海岸にいたら・・・・」
「その海には、寒い海にいる魚も、暑い海にいる魚、両方がいるって事になる」

そう言って、ゾロに背を向けて歩き出した。
その素足に、か細い波が届いて濡らすのをゾロは見るともなしに見ている。
気が付けば、サンジの後を付いて自分も歩き出していた。

寒い北や東の海にいる魚。暑い南や西の海にいる魚。その全てが泳ぐ海。
それは、サンジが生涯賭けている夢。

(・・・一瞬も忘れねえんだな)
そう思った途端、ゾロの心の中に今朝の寂しさが蘇える。

夜が明ける前まで、サンジと体も心も一つに繋がっていた。
どこまでも、いつまでも一緒に生きていけると感じた。
けれどそれは、幻だった。
指先からでさえ沁み込んで来る様なサンジの手の温もりを、昨夜確かに感じたのに、
それが、何故かとても遠い。

細くても力強い背中を見つめているだけだ。
(・・・いつか、俺はこいつの背中を黙って見送る日が来るんだな)
そう思い知らされた。

ゾロには、自分の夢を夢中で追い駆けて、捨ててきたものもきっとたくさんある。
夢を叶える為に、捨てるべきもの、必要の無いものは躊躇いも迷いもなく自分の中から斬り捨てて来た。

だが、自分が斬り捨てられる事は、今日まで一度も考えた事がない。
誰よりも近くにいて、一緒に生きて行きたいとどんなに強く願っても、
サンジが望む場所に辿り着いたら、きっと、サンジはゾロも、ゾロとの未来も、省みない。
ゾロを置き去りにして、振り返る事無く自分の道を走り出していくだろう。

体が溶ける様な甘い夜をどれだけ過ごしても、その夜にどんな幸せな夢を見ても、
サンジはそれを忘れ、自分の未来を探し出す。

(・・・一緒に生きたい、と言えばあいつの夢を邪魔する事になる)
分かっているのに、その願いを捨て切れない。
何度同じ切なさを感じても、諦められない。

だから、ゾロは怖くなる。
こんな静かで美しい朝にさえ、こんなに切なくなるのに、
現実にサンジを見送る日が来たら、
置き去りにされる日が来たら、そして、サンジに忘れられる日が来たら、
立っている事が精一杯で、息さえ出来なくなるかもしれない。

黙っていると、今でも息が詰まりそうで、ゾロは切なくても、サンジが愛しいと思う、
その気持ちを言葉に替えた。
「・・・てめえはそんな話ししてる時のツラが一番、いい」

黄金色と蒼が混ざる空の色、
それを映す穏やかな海の色、
頬に当たる少し冷たい透明な潮風、
太陽の温もりがしみこみ始めた白い砂浜。
その風景の中に、その風景を完成させる一つの要素として、サンジがそこにいる。

この美しい海の風景に溶け込むほど、サンジは海を愛し、海に夢を描いて、その夢を追い駆けている。
だから、こんなに心を奪われている。
サンジがゾロの言葉に照れ臭そうに笑いながら振り返った。
「・・・そんなの、誰だって同じだろ」
「自分の夢の話してる時が一番、幸せなんだから」
そう言われて、ゾロは「そうだな」と思わず頷く。
同意したのに、サンジの言葉に確かに心が傷ついていた。

サンジの「一番の幸せ」は、自分と生きる事ではない。
そんな事、知っていた筈で、覚悟は何時だって出来ると腹は括れていた筈なのに、
言葉に出されると、(・・・結構、堪えるな)とゾロはサンジから目を逸らして、
水平線を見ながら苦笑いする。

一緒に生きたい、と言う気持ちも、夢を叶えて欲しいと言う気持ちも、
同じゾロの心の中にある。

サンジは立ち止まり、灰色の岩に凭れて、後ろから付いてきたゾロを見た。
指先では、まだ紫色の貝を弄んでいる。




体温も、肌の感触も、髪の匂いも、サンジの事なら誰よりも自分が知っていると
思った事も、今、サンジの心を、掴んでいるのは自分だと思った事も、単なる思い上がりだったとゾロは気付く。
サンジの心など、ほんの一欠けらも掴めていない。
こんなに自分は野望と言う夢を追う魂ごとサンジに心を掴まれているのに。
けれど、それを口に出すのは余りに女々しい。

せめて、遠い、と感じた温もりだけでも、貝殻を温めたその僅かな温度を感じれば、
今は手に届く場所にあるのだと思えるかも知れない。
そう思って、ゾロはサンジの指先からそっと貝殻を摘み取る。

一度呼吸する事すら出来ない程短い時間に、サンジの目とゾロの目が合った。
心の中にある我侭で矛盾だらけの独占欲を知られたくなくて、すぐにゾロは目を逸らす。
そして見つめる彼方は、どこまでも続く海が広がっている。

いつしか、サンジと視線が重なっていた。
「・・・今は、探すだけで精一杯だけどな」
「きっと、その海が見つかったら、それから先の事も考えられる」
「ホントに俺が欲しいモノの事も、今よりもっと大事に考えられる」
「・・・そんな気がする」

サンジはそう言って、今度はゾロの指の温もりを吸い込んだ紫色の貝を
掌ごと包み込む様に握った。
馴染んだ優しい温もりが、ゾロの掌から体の中へ、心の奥へと沁み込んで来る。
目覚めてからずっと付きまとっていた寂しさも、切なさもほんの少しづつ、そのぬくもりに溶けていく。
「ホントかよ」ゾロはサンジの言葉を思わず、冗談めかして笑って見せた。

指で摘んだ貝殻をポトリと砂浜に落とし、甘えるようにサンジの指に自分の指を絡ませる。

そして、ゾロは想う。
(俺が今よりもっと強くなれたら、躇わずにこの手を離せるのか)
(それとも・・・)
それとも、どんなに躊躇っても、離したくなくても、それを隠して離せるなら、
それが強くなると言う事なのか。

その答えはまだ分からない。

太陽が昇り、僅かに温もって体に吹きつける海風の温度が二人の心の中に吹き込んで来た。

(終わり)



最後まで読んで頂いて、有難うございました。
このもともとのネタは、売り子さんに差し上げた書き下ろしのイラストの添え書きだったと
思います。

ちゃんとした小説にしようと思ったのは、ちょうどいいBGMがあったからですが、
洋楽なので、曲名も意味もサッパリわかりません。

なんとなく、雰囲気で選んでみました。

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