「梅香」

「もしも、くいなが生きていたら、この樹のような剣士になっていただろうな。」


あれは、春の気配が日に日に色濃くなり始めた季節だった。
あまりにあっけなく、あまりに儚く、
あまりに突然にゾロの好敵手であり、憧れだったくいはは逝った。

それから何度目の春を迎え、いつも体力をつけるために走る
その道の先に、樹齢を悠に100年は超えるだろう、
白い花をつける老木があった。

くいなの父でもある ゾロの師匠が まだ少年だったゾロを出稽古に伴い、
その帰り道 紅に染まる空へまっすぐに 枝を伸ばすその樹を見上げて呟いた。

「この樹は白い花だけれど、赤もあれば桃色もある。」
「でもあの子なら きっとこの樹のように。」

まっすぐに高みを目指した手のような枝。
気高く、可憐な花。

寒中に蕾をつけ、まだ 温まない空気の中、静かに花開く。
凛と強く、美しい花を咲かせるその樹を、ゾロも見上げた。

くいなが生きていて、この樹のような剣士になっていたのなら、

俺も、この樹のような剣士になれるのかな。

子供心に、その樹を見上げて胸と目の奥が熱くなった。

その島は春島だった。
ゴーイングメリー号はログが貯まるまで 数日滞在しなければならない。
その間、サンジとゾロは 海賊らしく、金を稼ぐ。

前の日、この島を根城にしていた山賊を100人近く、二人で狩った。
「雑魚山賊相手に靴を汚したくネエな。」
そういいながらも、サンジは丸腰で数十人の山賊を蹴り倒し、
ゾロはその姿を時折目の端に捉えながら 刀を振るった。

「時々、思う。」
自身に振りかかった山賊の血を洗い流して、今度は
自分たちの中にある、滾った野性の血を鎮める為にお互いの体を求め、嵐のように抱き合う。
そして、熱が去った後、ゾロはサンジを、
サンジはゾロを、最も 温かい部分を確かめるようにまた、静かに抱き合うのだ。

重なり合って、感じ合って、猛獣から人間に戻っていく。
そして、ゾロの腕の中、
甘い眠りに辿りついたサンジが小さく呟いた。
「時々、思う。」
「・・・俺達は、辿りつくまでに何人の血を浴びるんだろう。」

自分で選んだ道に迷いがある訳ではないのだろう。
何故、そんな事を言うのだろうと 聞きかえすまもなく、サンジは深い眠りに落ちていった。

何も答えられず、ゾロは自身にもそれを問いながら浅い眠りに身を委ねようと瞼を閉じた。

最強の剣士を目指す、と決めた時からそんな事に躊躇いを感じたことはなかった。
今、サンジの呟きを聞いて、胸が抉られる。
「俺達は、夢に辿りつくまでにどれだけの血を浴びるのだろう。」

自分自身を磨くため、あるいは仲間の為に強い相手に挑む。それだけで生きていけるなら、無駄な血を流さなくてもいいだろう。

けれど、現実はそんな理想を言ってはいられなくて、
血を浴びることで呼覚まされる野性を押さえこみ、暴走させぬよう、
飼いならし、誇りを保つ。

「・・・お前がいなきゃ、俺はただの血に飢えた獣になってる。」

ゾロは浮かんだ気持ちがそのまま唇を割って、空気の様にそれが漏れるまま、
呟いた。

いつのまにか まどろんでいた。
ふと、肌に寒さを感じて目が醒める。

腕の中にいた温もりが消え、広すぎるベッドに一人、横たわっている事に
気がついた。

ゾロは 名前を呼ぶ。
だが、答えはない。

部屋を見まわしてみると、服がなかった。
まだ、夜も開けきらないのに、一体どこへ・・・とゾロもベッドから這い出して服を身につける。

窓の外に目をやると、白濁した水に薄紫の絵の具を溶かしたような空の色だった。

宿の裏手は切り立った山だった。
ゾロは霞みか、霧か良くわからないボンヤリした視界の中、
その山腹へと誘うかのような細い道へ、足の向くままに登っていく。

(あの樹が・・・・。)
ゾロの進む道の両脇には、幼い日に師匠がくいなになぞらえた
樹がたくさん植えられている。
「ゾロ、この樹はね。花を見るために植えられているんじゃないんだ。」
あの日、師匠は樹を見上げて ゾロに語り掛け、
ゾロの中のくいなに 語り掛けていた。

「もちろん、そう言う目的の樹もある。だけど、今、君が見上げている樹は、
花を愛でるためじゃなく、その実を結ぶ事がこの樹の使命なんだよ。」

「剣を振るい、技を磨くこと。その先にあるのは一体なんだろうね。」

師匠はゾロに向き直る。
剣士としての向き合わなければならない いくつかの試練を
すべて、花だと思いなさい。

それは夢と言う実を結ぶために必要な物だから、
どんなに辛くても、その花を蕾のまま腐らせることは決してしてはいけないよ。

あの頃は、師匠の言っている意味がわからなかった。
大人になったら判るだろう
だから、その言葉を決して忘れないようにしようと思った。

「今でも、ピンとこねえな。」とゾロは まっすぐに空へ向かって伸びている
枝に咲いた、白い花を見た。

更に足を進めて登っていく。
山頂には、一際大きな 濃茶の幹の雄雄しい、昇り始めた朝日を受けた
白い花が 魂を浄化するほどの気高さを放ち、
息を飲むほどの神々しさを纏った大木がゾロを待っていた。

「・・・なにやってんだ。」
ゾロの声に、その大木の樹の上の影が反応する。

「朝日を見に来た。お前こそ、随分早いな。」
柔らかい光が漆黒の体を、黄金色の髪を、蒼い瞳を ゾロの前に映し出す。

「すげえ大木だ。この樹でこんな老木は見たことネエ。」
「俺もだ。」
ゾロも樹を昇り、少し目を細めたくなるほどの眩しさを感じさせる
太陽へ顔を向けた。

太陽が全てのものに光を投げかけ、霞みごしに見える 周りの風景に
二人は息を飲む。

視界の中、全てがその樹と花で埋め尽されていた。
「・・・すげえな。これ全部が・・・。」

人は花を見事だという。
けれど、樹にとれば花は 実を結ぶ為に必要なただの過程にすぎないのだ。

「なあ。これが全部、実になるんだったら凄エな。」
「そうだな。」

驚きの表情も声も誤魔化そうとしないサンジに ゾロも真剣に
相槌を打つ。

ふと、ゾロは小さな羽音が耳の側で聞こえるのに気がついた。
「・・・なんだ・・・?虫が・・・。」

気になると周りには 意外なほど沢山のミツバチが忙しそうに働いている。
「大剣豪はご存知ネエか?この樹は、このハチがいねえと実をつけられないんだぜ。」
「なんでだ?」

今度はゾロがサンジの言葉に驚きの顔を向ける番だった。
サンジは一つだけ指で花を摘むとゾロの前に突き出した。
その花にも小さなミツバチが止まる。

「花粉がついているのがオシベ、真中のがメシベ。」
「メシベに花粉がつかねえと実は結ばないんだ。」
「だから、ハチに働かせて受粉させるんだ。」
「じゃあ、この花の周りには必ず、ハチがいて。」
ゾロがいい掛けた言葉をサンジが引き継いだ。

「ハチがいれば、必ず、実がなる。」

この樹は、実をつけてはじめて、その生命の意味を為す。
そのためには、風や、蜂の力が必要なのだ。

「この樹だけが気張っても、実はならないんだな。」
ゾロは花の中にもぐりみ、またすぐに飛び立った小さなミツバチを
目で追った。

サンジは、真剣な面持ちで蜂を目で追うゾロを不思議そうに見ている。
「そうか。実を結ぶためには・・・。」
ゾロは蜂の軌道から、自分を怪訝な眼差しで見つめている
蒼い瞳に視線を移した。

この樹の命の意味の為には、蜂が必要なように。
俺が 真っ直ぐに 血で狂うことなく夢を追い掛けて、その実を結ぶ為には


こいつが要る。

こいつが俺の側にいるなら、きっと 俺の夢は叶えられる。
それは希望でも、願いでもなかった。

サンジと言う存在に約束された確信だった。

息を詰めるような表情で 自分を見つめるゾロを咎めるように「なんだよ」とその眼差しの意味サンジは問う。
「なんでもねえよ。」と憮然な声音でゾロは答えた。
夢という実を結ぶ為に。
もしも、理由がどうしても必要だというのなら、胸を張ってそう言える。

共に歩んでいきたいと願った、その理由を本当に夢が叶った時、
サンジに伝えられたらいいと思う。

「俺は別に花なんか、好きでも嫌いでもネエけど。」
「この樹に咲く花は なんか 気高くて」

好きだな。
そう言って、サンジは笑った。

(終り)