白い吐息



分っていた筈だった。
必ず、いつか、その時が訪れる事。

仲間になって、お互いの夢を認め合った時から、目指すその場所に辿り着いたなら、
サンジは今、自分がいる世界から去っていく、と言う事をゾロは知っていた筈だった。

仲間以上の感情を持ち、そして、この世の中の誰よりも深く強い絆を築いてからは、
いつ、その日が来てもいいという覚悟も出来ていた筈だった。

「オールブルーを知っている男がいる」と言う噂を聞いて、この冬島にやって来た。

その男がどんな風にオールブルーを知っているのか、どこにあるのか、など
全く分からないあいまいな噂だったけれど、その噂を聞いた時、
ルフィは迷わずにその男の住む島へと船を向けた。

サンジが船を降りるかもしれない。誰の胸にも寂しさはある筈だけれど、
誰もそれを一言も口にはしなかった。

オールブルーが実在する、そしてその場所が明らかになる。
それはサンジの、たった一つのかけがえのない夢だと仲間の誰もが知っているからだ。

「町でなんとか、噂を頼りに居場所を訪ねて見るよ」

島に着いて、さて、どうする、と言う話になった時、サンジは迷いなくそう言った。
「水臭いじゃない。皆で手分けして探せばすぐに見つかるかも知れないわ」と
ナミが言っても、サンジは笑いながら首を振った。

「人を探すくらいどうって事ないさ。もし、これからオールブルーに向うって事になったら、そんな手間じゃ済まないくらい、皆に世話掛ける事になると思うから」
「一人で出来る事は、一人でやりたいんだ」
「これは、俺の夢を探す為なんだから」

そう言われると、誰ももう何も言えなかった。
引き止める理由も権利もない。

ちょうど、その冬島は、到来した冬をにぎやかに過ごす為の祭りの真っ最中だった。
町のあちこちに、きらびやかな光の回廊を作り、夜になるとそれが点灯する。
それを見るために、近隣の島からも人々がわざわざやってくるくらい、夜になると、町中にぎやかなる。

ゾロ以外の仲間は皆、その光の回廊を見に出掛けた。
「ゾロも行くだろ?」とチョッパーに無邪気に尋ねられても、ゾロは少し億劫そうな
口調で、「俺は、いい」と短く答えた。
「なんで?サンジが行かないからか?」驚いて聞き返してきたチョッパーに、
「・・・あいつは関係ねえ。興味がねえだけだ」とだけ答える。

実際、そんなモノには全く興味がなかった。
夜、暗いから明かりを灯す。それが少し、派手になっただけの事で、
それをわざわざ見に雑踏にもみくちゃにされに行くのが、本気で面倒だと思っただけだ。

仲間が出掛けて、ガランと静かになった船の中、ゾロはやる事もなくて
酒でも勝手に飲もうとキッチンに入った。

いつも、そこにいるのが当たり前だった風景の中に、今は誰もいない。
火の落ちたコンロは、外が今にも雪が降りそうなくらいに寒い所為なのか、
とても寒々しく見えた。
テーブルの上には、サンジが忘れていった、見慣れた手袋が無造作に置いてあった。
何気なく、そんなものを見つめているだけなのに、金属と炎と、それから食材を炒める音が耳の奥で蘇る。
見慣れきって、そんな光景を見てもなんとも思わなかった日常が、なんだか、
とても遠く感じた。

(・・・あいつ、・・・・)ここから、いなくなるんだな、と心の中で呟く事さえ
出来ずに、心の中でさえ、ゾロは声を詰まらせた。

サンジの使っていた器具も、きっとこの台所から消えるのだろう。
なんの名残も残さず、ただ、思い出だけを残して、サンジはこの船からいなくなる。

誰もが喜んでいるのに、何故、自分だけがこんなに沈んでいるのか。
ゾロは素直に喜べない気持ちを持て余した。

(ここにいちゃ、余計にイラつくな)
ゾロはそう思い、キッチンを出る。
サンジの夢を聞いた時から、こんな日が来る事は、分かっていた筈だ。
本当なら、仲間の誰よりも喜ばなければならない筈だ。
それなのに、どうしても、それが出来ない。
それが苦しくて、その理由を考え、突き詰めて自分の我侭を自分で認めるのが
辛くて、必死に気を紛らわせ、目を逸らそうとしても、胸の苦しさは
消えてはくれない。

甲板に出れば、空から鳥の羽毛の様な綿雪がはらはらと海風に乗って
舞い散っていた。
粒の大きな雪は、見る見るうちに甲板を白く覆っていく。

ゾロは、見るともなしに、百夜の薄い闇の中、何もかもを白く覆う、穢れのない綿雪を見ていた。
何もかもを白く覆い隠す、その柔らかな雪を見ていると、
その清らかな色だけが心の中に入り込んで、ゾロの心の中から、余計な曇りを
拭っていく。

曇りのとれた真っ白な心の中では、
意地や建前で、隠そう、目を逸らそう、としても、
本当の素直な気持ちだけが浮き彫りになって来る。

(・・・最低だな、俺は)
ただ、寂しい、と思うのではなく、サンジが自分から離れていく事、
サンジの夢こそが、自分からサンジを奪うのだと心の底で思っている事を
ゾロは認めた。

なんて、身勝手で醜い願望だ。そう思って自分を恥じた。

(鷹の目に負けて、死ねってあいつに言われてるのと同じ事だ)

サンジは絶対にそんな風には思わないだろう。
それなのに、現実にサンジが自分の世界から去っていく時間が迫っている今、
こんなに自分は醜く、身勝手で、どうしようもない男だと思い知らされて、
ゾロは愕然とした。

剣を極める為に、心も鍛えてきたつもりだった。
ほかの事なら、どんな窮地に陥っても、客観的に状況を見る目も
培ってきたつもりだった。

それなのに、何故、本当は一番喜ぶべき事を目の前にして、こんなに心が
揺れているのか、自分の心が全く制御出来ないことが歯痒くて堪らない。
こんな事を考えている、とサンジが知ったら
(きっと、俺を心底、軽蔑する・・・)
本当の別れの日まで、こんな真逆の気持ちを一つ心に抱えたまま、平然と
振舞えるだろうか。ゾロは自問自答し、自分が出した答えに苦笑いする。

(俺は、・・・弱エな)とても出来そうにない、とゾロは思う。

船番なんか要らないわよ、とナミが言っていたとおり、港には人っ子一人いない。
ゾロはとうとう、1人きりでいる事に耐え切れず、町へ向って歩き出した。

1人きりで、誰もいない、サンジのいない船にいると、どんどん女々しい感情が
膨らんで、それと向き合うのがどんどん辛くなってしまう。

浮かれた町に出掛け、そこで酒でも飲めばきっといくらかは気が紛れるかも知れない。
そんな期待をして、ゾロはなるべく人が多そうな場所を目指して歩いた。

粒の大きな雪はすぐに積もるが、溶けるのも早い。
けれど、それはまるで、空から羽が降ってくるかの様に美しく見えた。
ゾロは、光の回廊、と言われている灯りの前に佇む。

(・・・ふーん、これがそうか・・・)
空から舞い散る羽のような雪、それを照らす柔らかで優しい光に、
ゾロは暫く見入った。

(あいつ、これ見たのか・・・)一人きりで見るのは惜しいと思った。
夕闇と、浮かび上がる色とりどりの灯りと、真っ白な雪、今、目に映っている
光景を美しい、と思う気持ちを一人だけで思うのは、何か、物足りない。

(あいつがいたら、なんて言っただろ。どんな顔をしやがるんだろ・・・)
きっと、サンジがいなくなれば、その日から胸が痛いくらいの物足りなさを
ずっと感じ続けねばならないのだろう。
そう思うと、急に目に映る風景が色褪せた。

雑踏の中、身動きも出来ずにゾロはその色褪せて見える風景をただ、眺めていた。




どのくらい、そうしていただろう。

ふと、視線を感じてその視線のほうへ顔を向けた。

人垣の間に、向日葵色の髪が見える。
いつもの黒いコートを身に纏って、ゾロと同じ様に雑踏の中に突っ立っていた。

歩こう、と意識しなくても、ゾロの体はサンジの方へと動き出す。
サンジも、人ごみを掻き分けて、ゾロの方へと歩み寄ってきた。

輝きの薄い、青い目を一目見た時、ゾロの心の中にサンジの感情が流れ込んできた。

言葉は何も交わさなくても、ほんの一秒ほど、黙って見詰め合っただけで、
ゾロには分かった。

「噂の男・・・10日前に老衰で死んだんだってさ」
「そうか」

残念がる様子をサンジは一切見せない。
その口調は魚釣りをしていてさっぱり釣れなかった、と軽口を叩く時の軽い調子と
少しも変わりない。
それがサンジの虚勢なのだと、今のゾロなら簡単に見破れた。

「何も分からなかった。ホラ吹きだったって話は聞けたけどな」
「海図も、具体的な場所の話も、なんにも残ってないってさ」
「そう、簡単にはいかねえもんだな」

弱音を吐く代わりに、たくさん言葉を並べ立てるサンジの、深い落胆の気持ちが
耳から声を拾うごとにゾロの心を侵食する。

夢はまだ叶えられない。
そう思う落胆で確かにゾロの心は一杯になって行くのに、
もう一つの感情も同時に溢れてくる。

サンジはまだ、どこにも行かない。
自分の世界の中にいる。
その幸せをかみ締める感情と、サンジの心を吸い込んだ落胆、
その全く異質の感情が、ゾロの心の中で融合する事無く、どんどん膨れ上がっていく。

それが苦しくて、何も言葉が出せない。

「・・・せめて、これ貰ってきた」
何も言わないゾロに向って、サンジは掌よりも少し大きな巻貝の殻を差し出して
見せた。
手袋を船に忘れていったから、貝殻を持つ手は剥き出しのままで、きっと悴んでいる。
「さして、珍しくもない、寒い海ならどこにだってある貝だ」
「これ、オールブルーから持って帰ったんだって、大事にしてたそうだ」
ポケットには入りきらない、その貝殻をゾロは受け取った。
手袋越しにでも、サンジの温もりが掌に伝わってくる。

そのぬくもりが、綿雪がゾロの心から余計なモノを拭ったように、
また、ゾロの心から、強がりや意地を溶かした。

「・・・お前の夢が叶うのは、きっと、俺の夢が叶った後だ」
「それまでは、きっと・・・お前がいくら探しても見つからねえ」

自分の夢が叶うまで、どこにも行かずに側にいて欲しい。
自分の夢が叶う瞬間を誰よりも近くで見届けて欲しい。

そんな気持ちが不器用で、無骨な言葉に精一杯篭められている事を、きっとサンジは
気付いてくれる。
そして、サンジは笑った。
「・・・憎ったらしい言い方すんな」

この微笑が今日も、側にあることに安心して、ゾロも笑う。
サンジの肩にも綿のような雪が降り積もっていく。
それを払い、そして雪に濡れた手をサンジは、白い息で暖めた。

「料理人は手が命とか言いながら、手袋忘れていくなんてアホだな」
「バカにアホ呼ばわりされたくねえな。それだけ気が急いてたんだよ」

「バカ、か」ゾロはふと、サンジの口から出た言葉に苦笑いする。
初めて交わした言葉がなんだったか、あいまいにしか覚えていないのに、
何故か、サンジに「バカ」と言われると、最初にそう言われた時の光景を
はっきりと思い出せるのが可笑しかった。

ボケットにも入りきらない、ただのガラクタにしか見えない薄汚れた貝殻を
サンジはきっと捨てたりしない。
船に帰るまで、そして、自分が本当にオールブルーにたどり着くまで、
ずっと大切に持ち続ける。

「これ、貸してやる」ゾロはサンジに貝殻を返し、そして片方だけ手袋を
脱いで、サンジが掌の上に乗せた貝殻の上にその手袋を置いた。

悴んだ手を握って、静かに温めたい、と思っても、こんな人ごみの中では
死ぬほど嫌がるに決まっている。
それなら、せめて、手袋にまだ残っているだろう、自分の温もりで
サンジの手を温めたかった。

「ケチだな。片方だけかよ」サンジは不服そうにそう言いながらも、
ゾロの手袋を右手に嵌める。
「俺も、シモヤケになりたくねえからな」とゾロは憎まれ口を叩いた。

その時、明々と灯っていた光が消える。
いつしか人並みもまばらになっていた。
光に慣れていた目には、急に真っ暗闇になった様な錯覚を覚える。

誰も見ていない。誰も気にも留めない。
そんな一瞬に、二人の唇が浅く重なる。

一度払った雪が、二人の肩に再び積もる前にその唇は離れた。

サンジの唇から伝わった微かなぬくもりが、ゾロにサンジの言葉を
伝えてくれた。
ずっと、一緒にいると誓えないけれど、
だた、今、一番大切にしたい、と思えるのはお前だと、誓える。

遠い未来に一緒にいる、とは誓えないけれど、
口付けを交わした今日の、その次に来る明日は、一緒にいると誓える。

今と、明日だけを誓うサンジのその口付けに、ゾロは救われる。
身勝手さも、醜さも、隠す必要はない。サンジは何もかもを分かっている。

否定もせず、肯定もせず、ゾロが自分でその感情を消化し、受け入れて、
成長し、強くなるのを待っている。

そんな風に思うのは、(俺の思い上がりかもな)と思いながらも、
そうであって欲しいと願わずにはいられない。

光の回廊の灯りは落ちても、サンジの肩ごしに、
町の灯りはまだ灯っていて、その灯りが薄く積もった雪の上に長く伸びた二つの影を
形作る。

二つの影は、重なったり離れたりしながら、二人を乗せ、
夢を探す旅へと連れて行く船を繋いだ港へと歩み出す。

(終わり)



最後まで読んで下さって、有難うございました。

これは、ケミス●リーの「白●吐息」をモチーフにしてかきました。