第8話
「ジュニア」サンジは、ベッドに腰掛けて、ジュニアを側へ呼び寄せた。
「サンジ」ジュニアは、呼ばれるより先に、サンジの側に体を寄せた。
サンジは、ジュニアの体を膝の上に乗せて、しっかりと抱きしめた。
「ジュニア。早く 大きくなれよ。」
ジュニアは、サンジの胸に顔をうずめて、頷いた。
ジュニアの固い髪をサンジは指で ゆっくりと梳いた。
「お前、小さい時からメシ食いすぎると必ず、後で吐くだろ。」
「でも、何時も残さずに食ってくれたよな。」
「お前の適量、俺しか知らねえのに・・・。ごめんな。」
サンジの胸あたりのシャツが温かい液体でしっとりと濡れた。
「今度会うときは、今の倍は食うんだろうな。」ジュニアの髪にも、
雨粒のような水滴が落ちてきた。
ジュニアが驚いて、顔を上げた。
黒い瞳には、涌き水のように後から後から涙が零れ落ちている。
その瞳には、濡れているサンジの双眸が映し出された。
「サンジ、泣いてるの?」自分も泣いているくせに、ジュニアは強がるように
涙を拳で拭った。
「ばか、泣いてるのはお前だろ。」サンジは、笑った。
ダメだ。俺はジジイみたいにはなれねエ。と心の中で泣いた。
ジュニアをバラティエに預けると決めたのは自分だ。
その決断は間違っていないはずだ。
そして、これが今生の別れなんかじゃない。
自分に言い聞かせれば言い聞かそうとするほど、胸から熱く塊が喉にこみ上げて来る。
ゾロが側にいてくれれば、今になってこんなに哀しくならなかっただろう。
二人で笑って、ジュニアを送り出すことが出来たのに。
サンジはただ、黙ってジュニアを抱きしめた。
「痛いよ、サンジ。」ジュニアが体をよじる。
本当は、「置いて行かないで」と大声で泣きたいのを堪えているのだ。
それを言えば、子供心にもサンジが困るのを判っているから。
そして、サンジもそんなジュニアの健気な気持ちが痛いほど判っていた。
「我慢しろ。」そういって、抱きしめる腕に力をこめた。
自分とゾロがジュニアを連れて出発する時のウソップの表情を思い出す。
ウソップは、泣いてなんかいなかった。
むしろ、堂々と息子の旅立ちを見送っていた。
あの前の晩、ジュニアはウソップと同じハンモックで眠った。
その時、ウソップはどんな言葉をジュニアにかけたのだろう。
もっと、もっと、たくさん話してやれば良かった。
毎日、毎日、ジュニアを鍛えることで頭が一杯で、今この時になって、
何を言っていいのか、見当もつかない。
(俺は、なんてバカなんだろう。)
元気で。
必ず、迎えに来るから。
それしか言えないなんて。
カッとなって、思わず海にたたきこんだが、思い返せば ゾロとジュニアは
ちゃんと別れの挨拶らしいことはしていなかった。
ゾロなら、ジュニアとどんな話をするのだろう。
自分だけが哀しいわけではないのに。
自分だけが哀しくて、寂しくて、ゾロの事にまで頭が回っていなかった。
口を開けば、声が震えそうだった。
「サンジ。」ジュニアが胸の中で 小さく名前を呼んだ。
「なんだ。」サンジは、ジュニアの顔もみずに答えた。
「俺、オールブルーをサンジがみつけたら、そこでコックになってもいい?」
「俺も、サンジみたいにコックも海賊も両方やってもいい?」
「・・・・。うん。」
俺の手伝いが出来るだけの腕がなきゃダメだぞ。
そういいたいのに、それしか言葉を返せない。
「俺、腕を磨いて待ってる。」
ジュニアは、やはりウソップの息子だった。
人の心の機微を読み、そして、本当に優しい。
自分も思いきり哀しいくせに、それを無理に封じこめて サンジを 慰めるのだ。
「うん。」声も出さず、サンジは黙って頭を縦に振った。
もう、どちらが子供でどちらが大人なのか判らない。
「サンジ、ゾロにもう少し、優しくしてあげなよ。」
ジュニアは黙って肩を震わせているサンジの髪に小さな掌を沿わせた。
サンジは頷く。
ジュニアが、鼻をすすり上げた。
「俺、嬉しかったよ。サンジ、俺のこと息子だって言ってくれて。」
そして、自分からサンジの膝から降りた。
「行って来ます。」そういって、にっこりと笑った。
その笑顔につられて、サンジも笑った。
ジュニアは、パティに手を引かれて、その日のうちにバラティエに向かった。
その船をサンジは見送らなかった。
ジュニアも、振り向かなかった。
ゾロが バラティエに着いたのは、ジュニアがパティに連れられて来る
一日前だった。
「オーナー」のところに、サンジの若いころの写真が飾ってあるのが、
何か 面映いような、おかしな気分になった。
(ああ、ここもあいつの居場所なんだな。)そう思うと、やけに居心地が悪い。
サンジの居場所は自分の側だけだと勝手に思い込んでいるのは間違いだと
言われているような気がした。
「ここに、サンジが来なかったか?」と古株のカルネという副料理長に尋ねた。
サンジとゾロの関係も、まして、諍いなど知る訳もなく、カルネは馬鹿正直に
サンジが 別荘にいることをゾロに教えた。
サンジに海へ蹴りこまれて 2週間も経っている。
怪我の具合はどうなっているのだろう。
その島には医者などいない、というから、きっと 自分で手当てしていると思うが、
心配である事には変わりない。
ゾロは、なるべく急いでその島に向かった。
ジュニアとは、途中の海上ですれ違った。
1人で船を操っていたゾロは、すれ違う船の上にジュニアの姿を見たとき、
大声で名を呼び、手を振った。
ジュニアも、それに気がつき、白い歯を見せて手を振り返して来た。
「ゾロオオ!!いってきまああす!!」
「行って来い、ジュニア!!強くなって戻って来いよ!!」
ゾロは、その船が見えなくなるまで、見送っていた。
ジュニアが笑っていた。
きっと、いい別れをしたんだろう、と思った。
きっと、あいつは泣いただろうな。
そう思うと、一刻も早くサンジの側に行きたくなった。
その島へは、風が強かったことも幸いして、すぐに着くことが出来た。
管理人の老人にバラティエから来たと告げて、建物を教えてもらう。
ゾロは、いきなりその建物に踏み込んで、部屋のドアを片っ端から開けた。
サンジは、日当たりの良い部屋のベッドに横になっていた。
ゾロが入って来たのをみて、別段驚きもしない。
「10年後」最終話
血色の悪い顔をしてはいるが、眼力が衰えていない事を確認して、
ゾロは乱暴にベッドに腰を降ろした。
ベッドのスプリングが大きく軋み、サンジの体が揺れる。
「・・・ここがよく判ったな。」サンジはゾロの怒りを込めた視線など
全く気付かないような暢気な声音で小さく笑った。
その笑いの意味がゾロにはわからない。
ただ、馬鹿にされたような気がした。
「・・・お前の行くところぐらい、見当がつく。」
憮然とそういうと、サンジの顎を掴んだ。
「いい加減にしろよ。一体、なんのつもりだ。」と詰問する。
サンジは、反抗的な眼差しでゾロを見上げているが、何も答えない。
「・・・お前は相変らずバカだな。こうでもしねえと 俺の事判ってくれねえじゃねえか。」と飄々とした口ぶりでゾロの荒ぶった気持をさらりと撫でた。
「お前の夢は、そのまま俺の夢なんだからな。どこへも行くつもりはなかったぜ。」
ゾロはサンジのいっている言葉の意味を一瞬、理解できなかった。
そして、そのまま聞き返す。
「どこへも行くつもりがなかっただと?じゃあ、どういうつもりだったんだ。」
サンジは、顎を掴んでいるゾロの手を柔らかく解き、肩をそびやかして、溜息をつく。
「だから、お前が俺のことを判ってくれねえからだっつってんだろ。」と
逆切れの様相を呈してきた兆しを見せる。
だが、ここで逆切れされ、うやむやになれば自分は全く 10年前からサンジの扱い方に
成長がない事になるとゾロは思った。
ますます、混乱を誘うかのようなサンジの言葉をゾロは冷静にもう一度聞き返す。
「訳がわからねえ。俺にわかるように話せ。」
サンジは、しばらく天井を眺めて、自分の気持を簡単にゾロに伝えられる言葉を考えた。
大事なものを守る時、人は強くなるが、同時に 弱点を抱える事になる。
大事なもの。愛すべきもの、愛しいものを持つことは諸刃の剣だ。
サンジがそれを守るために 命を簡単に投げ出す人間だということをゾロは
誰よりも良く知っている。
それが、理屈ではなく、「サンジ」と言う人間に宿っている本能であることも、
この10年間でようやく 理解した。
だからこそ、これ以上サンジが守るべきものを増やしたくなかった。
あと、6年後にジュニアをゴーイングメリー号に乗せれば、サンジは今回と同じように
やはり、ジュニアを常に守ろうとするだろう。
勿論、ジュニアだけではない。
自分を含め、麦わらの一味の為なら、仲間のためなら、自分の夢も命も顧みないだろう。
サンジの揺るぎ無い価値観が、仲間と自分とを等しい比重で守ると言う意識で占めている以上、ゾロはそれを未だに修正することはできないのだ。
それを踏まえて、サンジが大反対する事も勿論、充分考慮した上で、
ジュニアを手放せ、と提案したのだ。
当然、口論は避けられないと思った。
だが、口論するよりも先に姿をくらますとは思わなかったのだ。
サンジはサンジで、本当はゾロの言い分もちゃんとわかっていた。
だが、どうしようもない。
誰かを守ろうとして、自分を省みないつもりなどない。
自分の命も、自分の夢も、大事だし、怪我をするのも 痛い思いをするのも
好き好んでやってるわけではないのだ。
その時になって、体が勝手に動いてしまうのだから、それを責められても、
自分ではどうしようもない。
だが、ゾロがあたかもサンジのためといわんばかりの態度で
「ジュニアを手放せ」といったのが、癇に障ったのだ。
サンジにしてみれば、それはゾロに「お前には、ジュニアを守れねえよ。」と言われた
のと同じだった。
初代「赫足」は、幼い子供を守りきり、共に生きていく道を示してくれた。
同じ事ができない限り、彼を超える事はできない。
そして、いつまでたっても、「赫足のゼフ」は自分を「チビナス」扱いするだろう。
この歳になってもまだ、超えられない壁に焦燥感を抱いたのかもしれない。
そこまで、考えて、やっとサンジは口を開いた。
「俺はな、ジュニアにも俺の夢を全部、見せてやりてえんだ。」
オールブルーも。
鷹の目を倒すゾロの姿も。
そして、海賊王の狙撃手となった父の姿も。
そうする事で、ようやく あの広い背中の恩人を超えられるような気がしている。
サンジは続けた。
「俺が考えてることくらい、判ってるもんだと思ってたが、てめえの脳みそは
俺が思ってた以上に腐ってたからな。入れ替えてもらおうと思って飛び出しただけだ。」
それを聞いて、今度はゾロの言葉が詰まった。
だが、そんな理屈で怯む訳にはいかない。
「・・・てめえっ・・・・言いたい事はそれだけかよ。・・・それにしても、
そんな体で飛び出すなんて、考えなしもいいところだ。」と別方向の問題を非難した。
サンジはそれでも、平然としている。
「問題ねえだろ・・・。こうやって生きてるし、ちゃんとジュニアは送り届けてきた。
「腐れ脳みそに文句を言われる筋合いはねえ。」
口調もしっかりしているので、今は、なんの心配も要らないのだろうが、
飛び出していった時の事を思えば、あの状態で船を操舵していた事が信じられない。
サンジは、上手い言葉が見つからず、恨めしげに自分を見ているゾロにようやく笑顔を
向けた。
「・・・・心配したか?少しは懲りたのかよ。?」
悪戯っぽく囁くサンジの頬に浮かんだ笑みに、ゾロは溜息をついた。
この顔をされたら、もう何も言えなくなる。
判っててやっているのか、そうでないのか、未だによく判らない。
「懲りるのはてめえの方だ。どれだけ俺が気を揉んだか・・・。」とゾロはそれでも
まだ言い足りなくて、言葉を言いかけたのをサンジが途中で遮った。
「俺に帰ってきて欲しいか?」
(当たり前だ、バカ野郎。)とゾロはうっかり サンジが思いあがるような言葉をそのまま口に出しそうになった。
それをぐっと堪え、聞こえなかった振りをして聞き返した。
「・・・なんだと?」
サンジは、まだ、微笑んでいる。
「謝るか?・・・・それか、」サンジは、言葉に出さずに、ゆっくりと口だけを動かした。
空気に混じって、声にならない囁きがゾロの胸に流れ込む。
「っ・・・・て、言ってみろよ。」
サンジの瞳が艶やかにゾロを見ていた。
ゾロは息を飲んだ。
こんなに長い間、一緒にいたのに一度も言われたことのない言葉だった。
心臓の鼓動が早くなった。
馬鹿馬鹿しい、こんな事で平常心を保てないなんて、と自分を叱責してみたが、
こんな風に自分を動揺させるのは、サンジしかいないことを思い知らされて、
ゾロは悔しさがこみ上げる。
「・・・・聞こえねえな。何言ったんだ。」とその感情を敢えて殺し、
不自然なほど無表情を装って、サンジに強がって見せた。
「・・・聞こえたんだろ?てめえの面みりゃわかるぜ。」とサンジは可笑しそうに
小さく笑った。
「どっちだよ?」ひとしきり笑うと、サンジはゾロに尋ねた。
「どっちもご免だ。」ゾロは即座に答える。
「じゃあ、知らねえ。一人で帰れ。」と笑顔を瞬間的に消し飛ばせて、
サンジの眼が据わる。
ゾロの感情を弄ぶようなサンジの態度にゾロがとうとう、実力行使に出た。
「この野郎、いい加減にしろよ。!!」とベッドの上にサンジを
力任せに押し倒した。
体に巻かれている包帯が目についたが、ゾロはサンジの体を誰よりもよく知っている。
肌の弾力と艶で行為に差し障りない状態である事を察して、乱暴にサンジの口を吸った。
ほんの短い時間だったのに、離れていた所為で、ゾロはサンジの体に飢えていた。
(・・・飽きねえっ・・・毎日だって、抱きてえ・・・・)
締めつけるサンジを感じながら、この10年、これほど相性のいい体と心を独占して来たことに満足した。
そして、行為の後、サンジの口から流れ込んできた音のない告白を
ゾロははっきりと声に出して、サンジに贈った。
サンジは、面映そうに笑って、
「てめえは、俺を裸に剥かなきゃ言えねえのかよ。」と毒舌を吐いた。
それは、サンジの照れ隠しである事をわかっているゾロは
顔を隠している金髪を全て額へ掻きあげて、サンジの表情をあまさず見れるように
してから、
穏やかに微笑んだ。
「おまえだって、声に出さなかったじゃねえか。」
そして、
「これからは、黙って飛び出すようなマネするんじゃねえぞ。」と、
この甘い雰囲気のドサクサに紛れてさっきの諍いの叱責の続きを囁いた。
だが、サンジは
「・・・さあな。お互い、頭悪イから、同じ事をこれからも繰り返すんじゃねえか。」
と相変らず、素直にはゾロの言葉に頷かない。
「・・・・ふふ。」ゾロは可笑しくなって、思わず声が漏れるほどのささやかな
含み笑いをしてしまった。
体の下で、サンジはその笑いの意味を咎める。
「・・・何が可笑しいんだ。」
「いや・・・お前、自分の頭の悪さを認めるのに随分時間がかかったんだなと思うと
可笑しくてな。」とゾロは笑いが止まらないらしく、肩を小さく揺らしてわらった。
それを聞いて、サンジの眉が釣りあがった。
「けっ。くだらねえ事言ってんじゃねえよ。」というと、ゾロの体の下から、
這いずり出ようとした。
だが、ゾロはそれを許さず、もう一度腕の中に閉じこめた。
「同じ事の繰り返しでもかまわねえ。お前といると、退屈しねえからな。」
競り合い、求め合いながら、生きてきた。
これからも、それはきっと変らない。
サンジは、ゾロの言葉にその想いを込めた。
「・・・・これからも、退屈させねえぞ。何時までも、てめえを振りまわしてやる。」
ゾロも、鏡に映したように全く同じ気持だった。
「ああ、その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。」
二人の夢は、まだ 終わらない。
だが、それが叶う日が必ず来る事だけは、信じて疑っていない。
それは、お互いが求め合っている想いと同じ強さで、二人の胸の中にある。
だから、もう離れて生きていく事は出来ない。
相手を手放す事は、すなわち、夢を手放す事になるからだ。
夢が叶った後の事など、考える余裕は未だに持てない。
「鷹の目のミホーク」はそれほどに遠く、オールブルーは幻の海かもしれない。
それでも、この海で仲間と共に、生きていくのだ。
夢が叶う日を願いながら。
この夢の途中の時間を慈しみながら。
二人は、出来る限り急いで、仲間の待つアラバスタへと船を進めた。
その先には、まだまだ、冒険と闘いの日々が待っている。
(終わり)