第二話「煌く夢」

夢を見ている時、人は、自分が夢の中の世界にいると言う自覚は殆どない。
夢を見ているその瞬間、心の中、魂の中で思い描く世界は、それがどんなに支離滅裂な世界でも、その中で生きている事になる。

* **

サンジはわらぐつを履いて、真っ白な世界の中にいた。
ブカブカのわらぐつは、一歩歩くごとにずっぽり、ずっぽりとふくらはぎの中ほどまで雪に埋もれる。

わらぐつの中に雪が入らないように、サンジは注意深く、注意深く、歩いていた。
目の前に、黒い僧衣を着た少年が、同じ様に大股で、雪に足を取られながら歩いている。

年の頃、十歳か、それをほんの少し超えたくらい。自分と同じ年恰好のその少年の背中を
見ながら、サンジは晴れ渡った青空の下、光を受けて反射する雪のまぶしさに目を細めながら歩いている。

「…どこに行くんだよ?ホントにこっちでいいのか?」

サンジは前を歩く少年にそう声をかけた。
(…こいつの道案内なんて、アテにならねえ)

夢の中の、少年のサンジはそう思っている。
どこの誰かもわからず、まだ顔すら見ていないのに、何故か、サンジはその少年がとんでもない方向音痴だと知っていた。

「…あの、一本杉を目指して歩けばいいだけだ。心配しないで付いて来い」

僧衣の少年は前を向いたまま、とても楽しそうな声でそう答える。
まぶしさに細めていた目を少しこじ開けて見たら、その少年の髪の色は、寒中でも
青々としたと茂る杉の葉っぱと同じ色だ。

少年とサンジはずっと何か話している。他愛ない会話と、憎まれ口の叩き合いなのに、それがとても楽しい。

一本杉、と言う一際大きな杉の木の根元に緑の髪の少年は屈んだ。
袂から、何か袋を出す。そして、雪の上にその袋の中身をパラパラと撒いた。

「なんだ、それ?」サンジもその隣に屈みこみ、少年の手元を覗き込む。
「胡桃とか、ドングリだ。秋の間に採っといたんだ、見てろよ」

顔を見ようとしたら、少年はス、と立ち上がった。木立を見上げて、指を咥え、ピー…と長く、細い口笛を鳴らす。

雪が降り積んだ細い小枝がしなり、雪がパラパラとサンジの頭の上に振って来た。
思わず顔を上げると、小枝の上を何か、小さな動物が走っているのが見えた。

ふわりとした長い尻尾、大きな耳、「リスだ!」とサンジは声を上げる。

少年の掌の上の胡桃を強請って、数匹のリスは少年の体に駆け上る。
「ほら、お前も」

笑いながら少年はそう言って、サンジの掌に胡桃をいくつか乗せてくれた。
自分の掌の上にリスが乗り、胡桃を食べ始める。サンジはそんなに間近でリスを見るのは初めてだ。その軽快で愛らしい仕草を見ているだけで楽しい。
「うわ、凄エ…!こいつら、お前が餌付けしたのか?」
「ああ、…お前が見たら、喜ぶかな、って思って」

サンジの何気ない言葉に、少年は嬉しそうに答える。
初めてリスを間近に見て、掌に乗せて触って楽しいのはサンジの方なのに、そのサンジよりも少年はもっと嬉しそうに笑っていた。

***
夢は一旦、そこで途切れた。
だが、まだ眼は覚めない。
薄ら寒い廃寺で眠っているサンジはまた別の夢の世界を彷徨う。

* **
サンジは、高い樹の上にいる。蝉の声が耳を塞ぎたくなるくらいにやかましい。
下を見下ろせば、あの緑の色の髪の少年が心配そうに見上げていた。

サンジは右手に、小さなリスの子供をそっと握っている。
巣から落ちたリスの子を、どうにかして、親のところへ戻したくて、ここまで昇ってきた。

目の前の巣穴にそっとリスの子を戻し、サンジはもう一度、下を見る。
(…やべえ…)と血の気が引く。
手が滑ったり、足の掛けどころが悪かったりして、地面に叩きつけられたら到底無事では済まない高さだ。
木登りは苦手ではなく、むしろ得意だけれど、こんなに高くまで昇った事はないと思った。
「…降りてこられるか?」緑の髪の少年が、手を筒の様にしてそう尋ねてくる。
本当は降りれるかどうか分からない。正直、怖くて、助けてもらえるものなら助けて欲しい。けれど、その不安や心細さを口に出すのは悔しかった。心配されると意地を張りたくなった。
「当たり前だろ、これくらい!」そう怒鳴ったけれど、体が竦んで、腕からどんどん力が抜けていく。

「おい、そこから飛び降りろ!受け止めてやるから!」
「へ、…お前に受け止めて貰う位なら、一生樹の上にいてやる!」

そう言いながら、サンジはズリズリと体を少しづつずらしてどうにか自力で降りようと
試みる。
だが、爪先まで足を延ばしても足場がない。

体中に冷や汗が吹き出た。
枝を掴んでいる手も痺れてきたし、どうやって昇ってきたのかも思い出せない。

落ちたら死ぬかも。死ぬかも。死ぬかも。死ぬかも…
そんな事を考えたら、胸がやけにドッキドッキと強い鼓動を打ち始める。

バキ、と音がして右手に握っていた小枝が折れた。「うわ!」咄嗟に左手を伸ばして
偶然掴めた枝にぶら下がる。
「おい、そこで待ってろ!動くなよ!」
そう言いざま、緑色の髪の少年は勢い良く草履を脱いだ。それから、ガバ、とばかりに樹にしがみつき、猿のようにスルスルと昇って来る。

(こいつに助けられるのだけはゴメンだ!)
少年の懸命な姿を見た途端、サンジは何故か急に樹から降りるのがイヤになった。
下りるどころか、登って来る少年に負けないように、両手両足に力を入れなおし、
それこそリスの様に機敏に上へ上へと樹を登り始める。

(あいつに負けてたまるか、)と思った。
自分には緑の髪の少年と同じだけの力がある、いや、それ以上の力がある、と自分でも思っていたいし、相手にもそう思わせたい。
少年に対して決して卑屈にならず、いつだって自分の心をむき出しにしていたい。

「…おい、なんで上に登って行くんだ!」「うるせえ、登りたいからだ!」

自分達がどんな間柄なのか、サンジには分からない。
分かるのは、その少年はサンジの事を誰よりも良く知っていて、いつでも側にいて、
どんな些細な事でも競争したくなる相手だと言う事だ。

二人は汗まみれになりながら、遂に樹の天辺まで登り切った。

「…うわ…」
見た事もない風景が目の前に広がっている。

どこまでが果てなのか分からない広い世界が、サンジの目の前に広がっていた。
空に上って、そこから自分達のいた世界を見下ろしているかの様な、そんな壮大な気持ちでサンジは目に映る風景に息を飲む。

「…あれは?」サンジは、隣にいる少年の名前をごく自然に呼んでから、自分の見ている煌く水面を指差す。
「…海だ」少年はそう答えた。
「…海。どこまでが海だ?」
そう尋ねたサンジに少年も前を見据えたまま「…知らねえ。でも、あの先から船が来るんだ。俺は、この海を越えた先に、もっともっと広くて大きくて…好きな事を好きなだけやってもいい世界があるって思ってるんだ」

その言葉を聞いて、サンジは驚く。
「…広くて大きな世界?この森よりも、もっと大きな…?」

自分の見ている世界、生きている世界しかサンジは知らない。
そこはとても窮屈で、こうして自由にその少年と二人だけで山遊びをする時間は、
何かの禁を破っている密か事で、どこか後ろ暗さと物足りなさをずっと感じ続けていた。

「いつか、うんと強くなったら、一緒に船に乗ってこの島を出ようぜ」
「そしたら、…どんな勝負をしても、きっちりケリが着くまでやれるからな」

そう言って、笑う少年にサンジも素直に笑顔を返した。
徐々に蝉の声が高くなり、無邪気に交わす二人の言葉が、その騒音に掻き消されていく。

***

(…うるせえな…)

サンジは蝉の声のうるささに眼が覚めた。
(…なんだ、蝉の声じゃねえな。当たり前か、まだ弥生だもんな)
そう思いながら、サンジはぼんやりと天井を見上げる。

手足からダラリと力を抜いて、光に満ちていた夢を名残惜しげに思い出して見る。
(…なんだったんだ、さっきの夢…見た事もねえガキが出てきたけど…)

実際、サンジの眼が覚めたのは、蝉の声が聞こえたからではなく、荒れ放題の庭をビュービューと吹きぬけて行く風の音だったのだが、眼が覚めた直後のサンジは、ほんの数秒、ここがどこでどうしてこんな場所で夜明かししたのか、思い出せなかった。

(…どっかで見た様な気がするぞ、あの緑色の…小坊主…)

「…あ!」

サンジはガバ!と飛び起きた。
小坊主、と胸の内で呟いた言葉で、寝惚けていた意識が一気にハッキリする。

(…あいつ、どうした?あのクソ坊主!)
確か、子供を寝かしつけるような格好で寝入ってしまったし、昨夜の様子からして、一晩明けたからといって、それで急に起き上がれる状態ではなかった。
すぐ側に寝転がっている筈なのに、その姿はない。

(…なんで、いねえんだ)
姿がないのが何故こんなにも不安になるのか、考える暇もなく、サンジは
ゾロを探そうと慌てて立ち上がった。

その途端、ボロボロの障子が勢い良く開く。
「…なんだ、眼が覚めたのか」

そう言ったゾロの顔を見て、サンジは言葉に詰まった。

(…夢に出てきたの、…こいつだ)
緑の髪も、耳の金具も肌の色も、紛れもなく、夢の中でずっとサンジの側にいた少年そのものだ。幼な顔の時の面影もどことなく残っている。

(…なんで…?こいつと…俺は、どっかで繋がってるのか…?)

何故、見た事もないゾロの子供の姿を夢に見たのか。
何故、サンジの為にゾロは毒にもなりかねない薬を飲んだのか。

(…一体、何から聞きゃいいんだ…?)
サンジは、すぐにはその判断出来ない。ただ、呆然とゾロの真正面に立ち竦み、その顔をまじまじと見つめる事しか出来なかった。


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