「…サンジ君、店は休んじゃダメよ…?」
「ビビや…ウソップに頼めばなんとかなるでしょ…?」
「店を閉めたら、それだけ損するんだからね…?」

ナミは高熱で朦朧としながらも、サンジにそう言った。
そう言われなければ、ずっと枕元でナミの看病をするつもりだったけれど、
ナミにそう言われたら、店を開けなければならない。

店を開けて、客に料理を出す以上、いい加減な事は出来ない。
それでも、やはり気持ちの半分は、ナミの事を考えている。

(…明後日まで待てって…。そんなの、待てるワケねえ、)
「痛ッ!」
焦燥と不安でつい、集中力を欠いて、
サンジは固い根野菜の皮を剥き損ね、うっかり指を切ってしまった。

そうまでして下ごしらえをしたと言うのに、時が経つほど雨と風はますます激しくなり、
夜半過ぎになっても、客は殆ど来なかった。

ナミにはずっとチョッパーとルフィが付き添っている。
サンジが夜、出かけても差し支えは無さそうだ。
(…店を閉めたら、…あのクソ坊主のところへ行こう)
(明後日までなんて、とても待てねえ)

そして、店を閉めてから、サンジは傘を突き破りそうな激しい雨の中、ゾロのいる廃寺へと向った。

* **

恐らく、普通の人間なら、月明かりも星明りもなく、提灯の灯りさえない雨の闇夜を
歩く事など出来ない。
だが、盗賊をしていたサンジは、普通の人間よりずっと夜目が利く。

傘など、ただの気休めに過ぎず、家を出た途端、地面に叩きつけられ、跳ね返ってくる雨で、
すぐにずぶ濡れになった。
ザアザアと川の流れの中を歩いている様な気になるくらいの雨の中を迷う事無く、
ゾロが言っていた廃寺に辿り着いた。

薄汚れ、ところどころ破けた障子紙が激しい風に吹かれてビラビラと揺れている。
朽ちかけた御堂がギシギシと軋んで、今にも風に吹き崩されそうだ。
誰からも忘れられ、放置された卒塔婆や崩れた墓石が荒れた庭に転がったままになっている。
その恐ろしげな佇まいにサンジはゾッ…と寒くなった。

(いかにも幽霊なんかが出て来そうな雰囲気だな…)
(用がなきゃ、絶対にこんなトコ来たくもねえ)

御堂の中も、きっと煤けて、朽ちかけた大きな仏像などがあって、さぞ不気味な空間に違いない。
だが、その御堂の中に、隙間風に揺れながらも、うっすらと灯りが灯っているのが見える。

「…おい!いるのか、クソ坊主!」
サンジは、傘を畳み、びしょ濡れの草履を脱ぎながら中に向ってそう怒鳴った。
ほんの数秒、返事を待つ。

だが、中から何も聞こえない。確かに中に人がいる気配ははっきりしている。
どうも、寝ている風でも無さそうだ。

「…明後日、いや、もう明日まで待てねえ、真珠丸の事聞きに来た!」
「入るぞ、クソ坊主!」

サンジはそう言って、御堂に上がり込む。ひさしはあっても、雨は廊下まで降り込んで、びしょ濡れだ。その廊下を横切り、御堂の薄い扉を片手で押す。

雨と、庭の立ち木がざわめく音の中に、ギイ…と古びた木が軋む音が微かに混ざった。
恐る恐る、一歩だけ踏み出す。
ふと、キラリと何かが足元で光ったような気がして、サンジは眼を落とした。

(…水晶…?数珠か…?)

少しだけ屈んで、サンジはその珠を指で摘まんで拾い上げる。
思ったとおり、その蒼がかった透明なその珠には小さな穴が開いていて、数珠の珠らしかった。
良く床を見れば、数珠玉はあちこちに散らばっている。
まるで、紐を引き千切ったかの様だ。

「…てめえ、…何しに来た?」

呻くような声がして、サンジは顔を上げる。
灯明を上げる為の仏具に蝋燭を灯した灯りの下で、横たわっていたゾロがむっくりと体を起こした。

「…真珠丸の事、聞きに来たっつっただろ。聞こえなかったのか」
(…こいつ、暢気に寝てやがったのか)と少し、ムカっ腹が立った。

ナミの事でどれだけ自分が心配で不安だったか、どうせ、他人で余所者のこの破戒僧にとれば、
きっと、どうでもいい事だったに違いない。
でなければ、暢気に高鼾をかいて寝ていられるはずがない。

サンジはズカズカとゾロに近寄った。
起き上がって、座るのを待ってなどいられない。

「…明後日まで、待て…って言った筈だ」
そう言いながら、ゾロは起き上がり、胡坐をかいた。
近くに来て、サンジはゾロの様子がおかしい事に気がつく。

息遣いが荒い。眼が充血し、額には汗が浮いている。
一見して、只ならない状態だと分かった。少なくても、とんでもない熱がある。

「…なんだよ、てめえまで病気なのかよ」
「…違う。これは…病気じゃねえ」

そう言って、ゾロは胸を押さえた。そのまま、「…うぐっ…」と呻いた途端、そのまま
前のめりにぶっ倒れる。

「お、おい!」サンジは慌ててゾロの体を抱き起こす。
触れてみて、その熱の高さに驚いた。息遣いの荒さはナミよりも酷い。
顔を覗き込むと、激痛を堪えているように歯を食いしばっている。
僧衣ごしにでもわかる、しっかりと筋肉のついた肩も強張って痙攣しているかの様に
ガクガクと震えていた。

「おい、大丈夫か!」思わず怒鳴った言葉に、
「…知るかよ…!」ゾロは苦しそうにそう答えた。

「…病気だったのか、お前」
「…違うっつっただろ、これは…海水晶を飲んだからだ…」

(カイスイショウ?)
「…何?何を飲んだって?」
「…ぐ!」

サンジの問いに答えず、ゾロは息を詰め、急に体を引き攣らせた。
体の中、どこもかしこも激痛に襲われている。
今のゾロの状態を見ていると、そうとしか思えなかった。

「…なんだよ、カイスイショウって!」そう言って揺さ振っても
「…て、てめえに…そんな事、…言う、義理は…ね…」とだけ言ってゾロはまた歯を食いしばって呻く。
「俺は、真珠丸の事を聞きてえんだ!お前に勝手に死なれちゃ困るんだよ!」

そのサンジの言葉にゾロは固く閉じていた目をうっすらと開いた。

「…そ…だったな…。お前は…あの…ナミって女の為に…真珠丸が要るんだったな…」

ゾロは苦しそうな顔のまま、サンジを見上げた。
(…何がそんなに苦しいんだよ…?)

その翡翠色の瞳には、肉体の苦しみだけではなく、心の苦しみ、悲しみ、切なさ、やるせなさが浮かんでいる。
昼間、笠の影の中に見た、まがい物だと感じたあの眼差しの中に隠されていた本当のゾロの感情が、
くっきりと今、サンジには見えた。

畜生。俺は…まるで、バカみてえだな。

痛みを堪えながら、ゾロは小さくそう呟いて、本当に悲しげに、微かに笑った。

「…あの女が助かったら…ホントにお前は幸せなんだな…?」
「あの女が幸せになるんなら、…ホントにそれだけで幸せになれるんだな?」
「…え…」
切れ切れに問い掛けるゾロの言葉にサンジは何故か昼間のように即答出来ない。
その間にもゾロは激しくむせ、口から数滴、血を吐いた。

「…どうなんだよ…昼間、言ったのと同じ事を言えばいい…だけだろ」
サンジの答えを急き立てるようにゾロはそう言って、サンジの胸倉をギュ、と掴む。

「…それがお前とどう関係があるんだよ…?」
サンジがそう尋ねると、ゾロは眼を瞑り、首を横に振った。
「…お前に…義理はねえ…か」そう重ねて尋ねると、深く頷く。

「ナミさんは、…俺の命より大事な人だ」
「…俺の命と引き換えに出来るなら、そうしたいくらいに…」

そんな言葉を、そんな本音を今、言っていいのか、サンジは迷った。

一体、何がどうなってゾロがカイスイショウ、とか言う毒だか薬だかわからないものを
飲んで、苦しみ、のた打ち回っているのかわからない。
ただ、ゾロの眼差し、言葉を聞いているうちに、そのスイショウガンを飲んだのは、
どうやらサンジの為らしいと言う事が朧げながらに分かった。

だから、余計に混乱する。
(なんで、こいつがそんな事を…?第一、カイスイショウって一体なんだ)

サンジの困惑が伝わったのか、苦しげに浅く、荒い呼吸を吐きながらも、ゾロは
「…明後日まで待てって言ったのは、俺の体質を変える為だ…」
「海水晶は…、人間の体にとっては猛毒、だが、…その毒性に耐えて、耐性を持つ事が出来たら、…真珠丸を作る事が出来る…」と切れ切れの言葉を吐いた。

「毒性に耐えるって…耐えられないヤツもいるのか?」
ゾロの言葉を聞きとがめ、サンジがそう尋ねると、

「…20人に一人、耐えれるヤツがいればいい方だ…」
「耐えられねえ奴は内臓が焼け爛れて死ぬからな…」
ゾロは大きく溜息のような息を吐いてそう答えた。

「…だが、俺は耐えてやる。一晩、耐えれば…一晩死ななけりゃ、生き残れるんだ…」
「こんな事で、…こんな事で死んでたまるか…!」

そう言ったのに、ゾロの眼は力なく閉じられていく。
体も熱さも自分の全てをサンジに預けるように、ゾロはサンジの腕の中で意識を失ってしまった。

悪寒がするのか、寒そうに震える体を思わずサンジは袂で覆う。
(なんで、こいつ、…こんな辛エ事してまで…)



ナミの事で頭が一杯だった筈で、今、胸が痛い様な気がするのは、
ゾロに死なれては困るからだ。
そう思うのに、その理屈はまるきり間違っているような気がしてならない。

(クソ坊主、…死ぬな。絶対、死ぬんじゃねえぞ)

そう思うのは、ナミを助けてほしいと思う故ではない。
激しい発熱によって搾り出される汗のかすかなゾロの匂いと、
顎に当たる硬い髪の髪の感触を懐かしいと確かに感じている。

「一晩、死ななきゃ大丈夫なんだな?明日の朝、眼が覚めたら…色々聞かせて貰うぞ」

もう聞こえていない、当然答えも返ってこない。
分かっていても、サンジはゾロにそう語りかけた。

(びしょ濡れの俺に凭れているより、床に横になった方が少しは楽かもしれねえ)
と思うのに、サンジの胸倉を掴んだゾロの手が強張ったままどうしても離れない。

子供を寝かしつけるような格好で、ゾロを抱えたままサンジも横になった。

ゾロの寝息が少しづつ穏やかになるにつれ、雨と風の音も大分静かになってきた。

(…夜が開けたら、…きっと晴れるな…)
そんな事を考えながら、サンジはじっと朝を待つ。


戻る  ☆   次へ