第二章 「嵐」


第一話 「水晶と真珠」

「サンジさん、びしょ濡れよ。着替えたら…?」
そう言って、ビビが渇いた手ぬぐいを差し出してくれた。

雨の中、サンジは傘も差さずに懇意にしている町医者のチョッパーを呼びに走った。
チョッパーはナミの部屋に駆け込んで、すぐに診察を始めてくれたけれど、ビビも部屋から出され、それから既に四半刻は経つ。

暖簾を下ろし、準備中の立て看板を出した店には誰も入ってこない。
サンジとビビはそのガランと静まり返った店の中で、気を揉みながらナミの部屋からチョッパーが出てくるのを待っていた。

「…チョッパーはなんて?」
一応、手ぬぐいを受け取ったけれど、それで体を拭く気にもなれずにサンジはビビにそう尋ねた。
「…わからないわ。脈を取って、熱を測って…それから、口の中を見たり、ナミさんに呼びかけたりしてたけど、急にちょっと出ててって言われて…」
そう言ってビビも心配そうにナミの部屋の方へ顔を向ける。

(…嫌な胸騒ぎがする…)ただの風邪や疲労ではないかも知れない。
そんな気がして、サンジは落ち着かない。

「…ナミって…ここの女主人だろ。病気なのか」
「…なんだ?」

すっかり、そこにいた事を忘れていた男が急に声を出した事に驚き、サンジは体を捻り、
厨房の中を覗きこんだ。

灯りも火も落とした厨房の中に、まだ緑の髪の破戒僧が居座っている。

「…なんだ、てめえ。まだいたのかよ。坊主なんて、縁起でもねえ、さっさと出て行け」
「…サンジさん、外は凄い雨よ。今、外に追い出すなんて気の毒よ」
「全く知らない仲じゃないんだし…。もう少し、雨足が弱まるまで居させてあげればいいじゃない」
「顔を知ってるだけで、知らない仲も同然だよ」
八つ当たりの様な暴言をビビに窘められて、それでもサンジは不平を漏らす。
ナミの事が気掛かりで、他に余計な気を使いたくないのに、
部外者がここにいるだけでどことなく落ち着かない。

やがて、ナミの部屋の障子が開いて、チョッパーが静かに出てきた。

「…ナミさんの具合は?」そう尋ねたサンジの言葉にチョッパーが伏せていた顔を上げる。
「…今から説明するよ」チョッパーは鎮痛な面持ちを浮かべてそう答えた。

***

「…出来るだけの事はする。でも、…俺にはどうしようもない」
(…何?)
チョッパーの言葉を聞いて、サンジは自分の耳を疑う。
聞き間違いだ。チョッパーが、病人を前にしてそんな気弱な事を言うはずがない。

きちんと聞きなおさなくては。サンジは動揺しそうな心を押し鎮め、すぐにチョッパーに
「…チョッパー…。今、なんて言った?」と聞きなおす。

「…頭の中で…脳味噌を包んでる膜があって、そこが酷い炎症を起こしてるんだ」
「助かる見込みは、殆どない…でも、もし助かっても、眼が見えなくなるか…耳が聞こえなくなるか…
立って歩く事も出来なくなるか…もしかしたら、話すことも出来なくなるかも知れない…」

「…嘘…」ビビがそう呟いて口を押さえた。
「…それは、お前の診立てだろ…?他の医者なら…お前の師匠とか…。そうだ、」
サンジはビビの方を向き直り、
「ビビちゃんのお城の医者に診て貰おう。町医者よりずっと腕はいいはずだ」と言ったけれど、ビビは首を横に振った。
「…サンジさん、トニー君は、この国一番の名医よ」
「この国には、トニー君以上の医者はいないわ」
「…サンジさんだって、…それくらい分かってるじゃない」
ビビに真っ直ぐに見返され、サンジは苦しくて、息が止まりそうになる。

心が動揺し、その振動が唇までも戦慄かせた。
「ナミさんは…助からないのか?」そう尋ねる声が震えてしまう。
人型の姿のチョッパーは椅子に座り込み、膝の上に乗せた拳を握り締め、
「…助けたいと思う。だから、出来るだけの事はする」
「でも、…治せない。この病を治すには特別の薬が要るんだ」
「その薬なら…絶対に治せると思うんだけど…」と悔しそうに眼を伏せた。
「…その薬って、真珠丸の事か」厨房にいた破戒僧が唐突にチョッパーにそう尋ねる。

チョッパーの答えを聞く前に、破戒僧はのっそりと厨房からサンジ達のいる客席へ出てきた。
その破戒僧にチョッパーが尋ねる。
「…そうだけど…。お前、どうして真珠丸の事を?」
「諦めるんだな、その薬はもう手に入らねえ」
チョッパーの質問にも答えず、緑の髪の破戒僧はこれ以上ないほど無愛想な口調でそう言った。

「…諦めろだと…?余所者が余計な口挟むんじゃねえ!」
「そんな薬があるなら、何が何でも手に入れてやる!」
「…真珠丸って…。どんな病気でもたちどころに治すって言う、奇蹟の薬よ」
「余りにも劇的に効くから、寿命まで延ばすんじゃないかって言われていて、とっても貴重なの。国を動かす様な権威を持っている人しか飲めないって言うくらい…」

いきり立つサンジを止めるように、ビビがそう教えてくれた。
だが、その奇蹟の薬の事を聞いたのに、ビビの顔はまだ強張ったままだ。

「…大名のお姫様でも手に入らないのか?そんなに高い薬なのか?」
「…値段がどうとかじゃないの…。その薬は、もう作られていないのよ」

ビビの言葉にチョッパーが頷く。
「…その薬を作っていたのは、どこかの小島にあった寺らしいんだけど、」
「…何年か前に、大名同士のいざこざに巻き込まれて焼き討ちにあって、そこのお坊さん達も殆ど死んじゃったから、作り方を知っている人はもう誰もいないっ…て」
「私も、…それ以上の事は知らないわ」
そう言ってビビとチョッパーは困惑した様に顔を見合わせる。

破戒僧はそれ以上口を挟まず、雨で濡れたままの笠を被った。

「待てよ、クソ坊主!」
サンジは刀を背負った破戒僧の肩を掴む。

ナミを助ける手立てがあるなら、どんな些細な事でもいい。
しんじゅがん、と言う薬の事を知っているなら、少しでも聞きたい。
そう思って引き止めた。

「…なんだ」
「なんだ、じゃねえよ!しんじゅがん、って薬の事を知ってるなら、なんでもいい」
「教えてくれ!」

振り返った破戒僧の表情は、笠の影で半分隠れて見えない。
サンジを見返したその眼は一瞬、とても冷ややかに思えた。
それが気に食わず、キ、とサンジはその眼を見返す。

二人の目が合った。

その瞬間、冷ややかだと感じた破戒僧の眼差しが、まがい物のような気がした。
無愛想も、無表情も、破戒僧は仮の姿を装っている。何故か、サンジはそう感じた。

黒い影の中に光る、穏やかな瞳の澄んだ翡翠色を見た途端、サンジはそれをずっと以前、どこかで見た事がある様な気がした。
(どこで…?いつ…?)
一瞬、そんな事が気に掛かった。だが、すぐにサンジはそれを忘れる。
今は、一刻も早く、ナミの病を治すことが何よりも大事だ。
だが、サンジのそんな気持ちなど、破戒僧に伝わる筈もない。

「…お前にそれを言う義理はねえ」
破戒僧は苦々しげにそう言ってサンジの手を払い除けた。
「…さっきもそう言った。それがお前の口癖か?」

最初に掴んだ時より強く、サンジはもう一度破戒僧の肩を掴んで、
今度は強引に自分の方へ向き直らせた。

「…さっき、飯を食わせてやった。その分、真珠丸とか言う薬の事を教えろ」
「お前が知ったところでどうしようもねえ。…知るだけ無駄だ」
破戒僧はそう言って表情を隠す様に、笠を目深に被った。

「無駄かどうか、俺が決める!何か知ってたら、」
教えろ、と言いかけたサンジの言葉を遮り、破戒僧、ゾロはポツリと呟く。

「…あの女主人、…もうすぐあのルフィとかって言うヤツに嫁ぐんだろ」
「てめえの女房でもねえのに…じきに他人のモノになる女に、なんでそんなにムキになる…?」

自分の知りたい事を答もせず、何かはぐらかすようなゾロの物言いにサンジはますます
頭に血が昇った。
「てめえの知った事か、俺はナミさんが幸せになるのを見てるだけで十分幸せなんだ」
「坊主のてめえには、人の色恋沙汰がどういうものか、わかりもしねえだろうけどな!」

「…そうか。そんな事が…お前の幸せか」
目深に被って口元しか見えないゾロの口元が僅かに緩んだ。
そうやって微笑むと、まるでサンジが取り乱している様を嘲笑っているかの様に見えるのに、ゾロの声はあくまでも静かだ。

「…他の女にも鼻の下伸ばしてた癖に…。あのナミって女だけは特別か」
「そうだよ、ナミさんだけは特別だ!俺にとって、命より大事な人だ!」

思わず怒鳴ったサンジの言葉を聞いて、ゾロは笠を上げた。

じっと、黙って静かな眼でサンジを見つめる。
観察する様に、見透かすように、それでいて、何かを懸命に隠しているかのような眼差しで、
ゾロは数秒、ただサンジを見ていた。

そして、何かを吹っ切ったように再び、笠を目深に被る。

「…町外れの廃寺にいる」
「真珠丸の事、聞きたかったら、…明後日の夜、その廃寺に一人で来い」
「…真珠丸ってのは一体、どうやって作るのか…」
「俺が知ってる事だけでよければ教えてやる」
「明後日?!」

サンジはゾロを怒鳴りつけるような声でそう聞き返した。
「明後日までなんか、待てるか!ナミさんは、今、この瞬間にだって苦しがってるんだぞ!」
「それを、まる二日も黙って見てろって言うのか!その間にもしも…もしも、…」

もしも、ナミさんが死んだら、どうする、と言う言葉を言うのが怖くて、サンジが言葉に
詰まっている最中、ゾロが「おい、町医者」と、チョッパーへ向き直った。
「ナミって女、三日はもたせろ」
「…飯を食わせて貰った義理は返す。真珠丸ってのがどんなモノか、その口の悪イ板前に教えてやるのに、どうしても明後日までは時間が要るんだ」
「三日と持たねえって言うなら、…もう諦めるんだな」

何も言い返せないほど高飛車にそれだけを言うと、ゾロはガラリと表の戸を開けて、
雨の中へと出て行った。

(…なんで、…薬の事を俺に教えるだけなのに、そんなに時間が要るんだ…?)

そんな事をいくら考えても仕方がない。
ナミを助けるのに唯一の希望が真珠丸なのだから、例えどんなにか細い知識でも、
それに縋るしかない。

「…不思議な人…。言いたい事がたくさんあるのに、それを言わない様に必死に我慢してるみたい…」

ゾロが出て行った戸を見つめ、ビビがそんな言葉を呟いた。
それは、サンジも感じた事だった。
けれど、今は、行きずりの破戒僧の事に気を回している時ではない。

我に返り、サンジはビビに
「ビビちゃん、悪いけど、お城に戻って、ルフィを探してここへ連れてきて貰える様に
手を貸してくれないかな」と頼むと、ビビは快く、「ええ、わかったわ」と頷き、すぐに
ゾロと同じ様に戸を開けて、雨の中を駆け出していった。

雨は上がるどころか、ますます激しさを増していく。
夜には天気はもっと崩れて荒れるだろう。
ナミを失うかも知れないと言う不安と、ゾロの言った真珠丸と言う見た事もない薬しか
ナミを助ける術がない、と言うか細い糸に縋る心細さが、サンジの胸の中を締め付ける。
息が詰まりそうで、思わず、「…嵐が来るかもな…」と他愛ない言葉を呟いた。



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