第三話「同情」

何をするでもなく、ただ、日が過ぎていった。
ゼフの亡骸が、小さな桶に詰め込まれて、雨で濡れる土に埋められて行く光景が目に映っているのに、それが現実だとは、サンジには思えなかった。

心の中が枯れ葉の様に渇いている。
(…こんなにフヌケみたいになっちまうなんて…)と自分でも呆れるほど、何をする気にもなれなかった。

血の繋がった親子ではない。ほんの数年、命を預けて、生きて行く術を様々に教えてもらっただけの間柄だった筈だ。
けれど、そのほんの数年の、楽しかった事、辛かった事、嬉しかった事、悔しかった事、サンジが感じた事の全ては、ゼフと過ごしてきた時間の中にあり、今、ゼフを亡くして思えば、それは全て、ゼフから与えられたモノだ。
依存などしている気は全くなかった。それでも、今、こうして包丁を握る気にもなれず、
一人きりで締め切った部屋に篭っていると、いかに自分がゼフに甘え、ゼフに頼り切っていたかを思い知らされる。

腹も減らない。喉も渇かない。そうやって、もう幾日過ごしただろう。

せめて、長く患って、ありったけの礼と別れを言って見送れたなら。
悲しみよりも、今は魂を半分、もぎ取られてしまったかの様な虚ろな気持ちで、心が埋め尽くされている。
そぼ降る雨の音だけは聞こえているけれど、目に見えているものを現実だとは思いたくない。ゼフが自分に何一つ言い残す事無く、突然、目の前からいなくなった事を、頭では分かろうとしているのに、枯れ切った心ではそれを受け入れられないでいた。

その日も、朝から何もせず、呆然と雨音を聞いていただけだった。
だが、昼を少し過ぎた頃。
「…サンジ君、いる?」

つっかえ棒を立てて、閉めている引き戸の向こうで、ナミの声がした。
返事をするのも、声を出す事すら、今は億劫で、サンジは声がした方に顔だけを向けた。

「…話があるの。開けて!」
ナミの声はいつもどおりに張りがあり、生気に満ちている。
(…そうだ…。俺も話があるんだった…)
サンジは、ふらふらと立ち上がった。

***

「…店を手放して、この町から出て行く?」

サンジの言葉をナミは鸚鵡返しにそう聞き返してきた。
情けないとは思うけれど、力強いナミの瞳を見返す気力も今はない。
誰にも慰めて欲しくもないし、放っておいてくれるのが、今は一番在り難い。
だから、正直、ナミでさえ、用が済んだら帰って欲しいと思っている。

「…俺一人じゃ、…金勘定も出来ねえし、…料理屋なんてやっていけねえ」
「ヒゲのお頭がいないと、サンジ君は何にも出来ないの?」

詰る様なナミの言葉にもサンジは言い返せない。
ゼフがいないと、何も出来ない。実際は、そんな事はないと言い返すべきなのに、
じゃあ、何が出来ると自問すると、何が出来るのか答えられない。

サンジが黙り込んでいると、ナミは一枚の紙を懐から取り出し、サンジの前にパン、と
勢い良く置いて見せた。
「お金を払えなきゃ、…盗人として訴えるわよ」
「…え?」

サンジがその紙を手に取ると、ゼフの署名が記された証文だった。
「…盗人の咎を見逃してあげる代わりに、あたしにお金を払うっていう証文よ」
「…ああ、でも、それは…。毎月の売り上げの三割五分だったよね」
「もう店は閉めるから、…金は払えないよ」
サンジがそう言うと、ナミは「そんなのダメよ!」とキッパリと言い切った。
「サンジ君が盗人だった事は、店を閉めようがどうしようが消せない事実じゃない」
「あたしはそれを知ってるの。黙ってて欲しかったら、それなりの口止め料をくれなきゃ」

そう言いながら、ナミは抱えて持ってきていた風呂敷包みを解いた。
「…食べて。何日も食べてないんでしょ?」
「ナミさん…」
蓋を開くと、茶色や黒など地味な色合いの惣菜や、焦げた魚や黒っぽい卵焼きなどが
ゴチャゴチャと詰め込まれている。

「サンジ君、…ゲンさんね」
「…もう、長くないの。…あと、半年も生きればいい方だって」

ナミはサンジの手にそっと箸を持たせながら、そう言った。

「…半年経って…もし、ゲンさんがいなくなったら、その時、あたしを慰めてよ」
「今のサンジ君みたいに、ご飯も食べられなくなって、立つ事も出来なくなるくらい泣いてたら、…こうやってご飯を食べさせてよ」

そう言われて、サンジは胸が詰まった。
どんな言葉を返せばいいのか、咄嗟に思い浮かばない。
かけがえのない大切な人を失う事がどれだけ辛い事かを、いやと言うほど実感している最中に、口先だけの慰めなど言えよう筈もない。

不器用にも、何も言えずに黙って箸を伸ばした。
決して、美味いとは言えない料理だけれど、サンジは素直にナミの作ったその料理を口に運ぶ。

サンジが何も答えずにいても、ナミはそれを責めたりはせずに、雨の音に馴染むような
穏やかにサンジに話し続ける。
「…ゲンさんがいなくなっても、あたしはちゃんと一人で生きていけるってところを
見せてあげたいの」
「サンジ君が、あの店を手放すって言うなら、あたしが買い取るわ」
「でも、あたしは…お金の勘定は出来るけど、料理が出来ないから…」
「だから、…サンジ君の腕が欲しいの」

あたしには、サンジ君が必要なの。

ナミのその言葉が、サンジの心を蘇えらせる。
誰かに必要とされる、だから、自分の居場所がある。
そして、やるべき事、やらなければならない事が出来たなら、生きる意味も生きる甲斐も見つけられる。
「…有難う。俺で良かったら…。力になるよ」

心から自分を必要としてくれるのは、今はナミ一人だけだ。
「ナミさんの為なら」なんでも出来る。本気でそう思えた。

***

そして、それから3年経っても、その気持ちは変わらない。

「…ねえ、サンジ君」
「はい?」
「あの日も、こんな雨の日だったわよね」

そんな会話から、つい、昔の事を思い出した。

サンジは再び、自分の仕事を片付け始める。
ナミは、暖簾を下ろしているのだから、客は誰も入って来ないのに、雨音に騒々しい物音が混ざりはしないかと気になって、外を眺めていた。

「今日は、他所で食ってるみたいだね」
誰が、などと言わなくても、ナミが誰を待っているのかサンジには分かるし、
サンジが名前を言わなくても、誰の事を言っているのか、ナミにも分かる。

「…そうみたいね」ナミは苦笑しながらサンジの方へ顔を向けた。

「…ちょっと、今日は疲れたみたい」
「風邪でも引いたかな…」

そう独り言を呟いて立ち上がる。
「…後で、温かくて甘いもの、持っていこうか?」
「ううん、ちょっと寝るわ。ちょっと寝不足だから」
「あとで、ビビが来るかも知れないから、来たら部屋に来てもらって」
そう言って、ナミは立ち上がった。確かにどことなく体が重たそうだ。

「…大丈夫?」珍しく、疲れた、などと言うナミの事が気になったけれど、
「大丈夫よ」とナミは軽く微笑んで、店を出て行った。

***

それから、半刻程経った。
厨房で夜の仕込をしていると、裏口で人の気配がする。
だが、それは最近、知り合ったお城のお姫様、「ビビ」ではなさそうだ。

「…今、支度中だ!」と中から怒鳴っても、障子ごしに見えるその人影は動かない。
何か棒の様なモノを三本背負った背格好や笠を被った影をよくよく見て、サンジは
(…どこかで見た事がある…?)ような気がして、手を止め、手ぬぐいで手を拭きつつ、裏口へ近付く。
そして、ガラリ、と思い切り良く戸を開いた。

「…なんだ、この前の坊主じゃねえか。托鉢か?」

サンジがそう言うと、その僧は雨水が滴る笠を僅かに上げた。
その目つきは鋭く、とても托鉢など殊勝な事をして糧を得る行儀のいい僧のモノではない。
その上、挨拶も一切なく、無愛想な低い声で、
「…ここは飯屋だろう。タダで食わせろとは言わねえ。何か食わせろ」と言う。
「なんだ?坊さんは暖簾下ろしてる時は支度中って事も知らねえのか」

サンジがその僧の無作法に呆れてそう言った途端、その破戒僧の腹がぐうウウ…と鳴った。
「…ったく。そんなに腹が減ってるなら、ちゃんと昼時に食えよ」
そう言いながら、サンジは見覚えのあるその僧を裏口から厨房の中へと招き入れる。

戸を閉めようとした時、「サンジさん、こんにちは!」と傘を差したビビが水溜りの水を
跳ね上げて駆けて来る。
その姿を見た途端、勝手にサンジの口が滑らかに動いた。
「やあ、ビビちゃん!今日は一段と綺麗だね!」
「ナミさんは?」町娘の姿に身をやつしたビビは、却ってその粗末な着物が可憐さと品の良さを引き立てて、雨の中でもとても眩しい。

「部屋にいるよ。寝てるかも知れないけど、ビビちゃんが来たら、部屋に来てもらってって言ってたから、そのまま行きなよ。後で、お菓子を持っていくよ」
「ありがとう」
ビビは、傍らにいた僧にも、「こんにちは」とにこやかに挨拶をし、いそいそと二人の前を通り過ぎた。

「…残り物だから、金はいらねえよ」
そう言って、サンジは大振りな握り飯を数個と、賄い用にと作って残っていた魚の粗と野菜の汁を作って僧に差し出す。

「…あんた、この前の騒動からこの辺にいついてるよな?どこの寺から来たんだよ」
「…お前にそれを言う義理はねえ」

サンジの何気ない言葉に、僧は無愛想と言うよりも、むしろつっけんどんにそう答える。

「ああ?タダ飯食わせてもらってんのに、なんでそんなに態度がデカイんだよ!」

サンジがそう詰った時。
「サンジさん、大変!ナミさんが!ナミさんが凄い熱なの!」とビビが厨房に駆け込んできた。


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