二日間の間だけ、サンジを看て欲しい、とゾロは赤髪のシャンクスに便りを出した。
そして、その日の夕方には、ヤソップが海女小屋を訪ねて来た。

「二日の間だけ、人魚の坊やの面倒は俺が見る。初対面じゃなし、俺ならあんたらも
少しは気安いだろうって事で、お頭は俺を寄越したんだ」
「だが、もし、坊さん、あんたの留守中に坊やが…息を引き取る事があったとしても、俺を恨むなよ。それだけは約束してくれ」

ヤソップの言葉に、ゾロは深く頷く。
「医者の宛てはあるのか?」と聞かれ、「…ねえ」とありのまま答えると、ヤソップは、「それじゃ、二日なんてあっという間だ」と言い、ふう…と、鼻から大きな溜息を吐いた。

「…人魚の病なんて、どうせ誰も治せやしねえだろうが…」
「ま、とりあえず、この村に行ってみな。大して、腕のいい医者じゃねえが、俺達が病に掛かれば、必ずこいつの世話になる。泥棒上がりの禄でもねえヤツだが、海賊だろうが、極悪人だろうが、患者だって言えば必死に助けようとするヤツだ」

そう言って、ヤソップは「ヒルルク」と言う医者をゾロに教えてくれた。
その村に行く前に、ゾロは(…あの絵草紙を見れば、少しは気休めになるかも知れねえ。それに船で湾を突っ切った方が早エ)と思い立ち、サンジの言っていた場所から絵草紙を掘り起こした。けれど、それで丸一日が潰れてしまい、それから夜中、休まずに船を漕ぎ、奇跡的にも迷わずに「ヤブ医者ヒルルク」が住む村に辿り着いた。

ヒルルクは、ヤソップの言ったとおり、村人からは「ヤブ医者」と言われて、全く相手にされていない、うらぶれた医者だったが、他にツテはない。

「ここまで来るのにまる一日掛かっただと?!早く、戻らないといかん」と、ヒルルクの方がゾロを急かし、ゾロがサンジの元に帰りつけたのは、ゾロが発った翌日の、とっぷりと日も暮れた頃だった。

体中を苛む激痛で、ずっと眠れず、食べる事も出来ないでいた筈なのに、ゾロが帰り着くと、サンジはじっと仰向けに横たわり、目を閉じていた。
その体には、使いなれたムシロではなく、ヤソップが持って来たらしい薄い夜具が掛かっている。
真っ黒な海女小屋の中、サンジが冷えない様にとヤソップが熾した囲炉裏の火の朱色の穏やかな光が、白いサンジの頬を遠慮がちに照らしていた。

「サンジ…?!」

心臓が、ギクリと軋んだ。たった一日離れたその間に…?
そう思った途端、我を忘れ、ゾロはサンジの枕元に駆け寄っていた。
「サンジ!」「…し!静かにしな、坊さん!」

ヤソップがゾロの肩に手をかけ、自分の唇に人差し指を立て、しッ…と窘める。

「…薬が効いて、眠ってんだよ」「薬…?」
怪訝なゾロの声に、ヤソップは小声で頷き、少し、落ち着きな、とポンポン、とゾロの肩を叩いた。

「…まさか、お前…!」
黙って戸口に突っ立っていたヒルルクが、ヤソップの「薬」と言う言葉に目をぎょろりと
剥き、すぐにサンジの側に屈んだ。

「おい!お前、この病人に何を嗅がせた!」
「…それしか痛みを忘れさせるテがなかったんだよ、センセイ」
血相を変えて怒鳴るヒルルクに、ヤソップは全く動じず、けれど小声のままで平然と答える。

「あんまり苦しそうで気の毒で…。それにセンセイが来るまではなんとしても生きてて貰わなきゃ、坊さんに申し訳ねえからな」
「ちょっと、ばかり…夢薬を嗅がせてやったんだよ」

そう言うヤソップをヒルルクは、睨み殺しそうな目つきでギっと見据えて、「っチ!」と舌打ちする。
「夢薬…?」聞き慣れない言葉と、ヒルルクの激怒ぶりに、ゾロは不安になる。
「夢薬ってなんだ。こいつに何を嗅がせたんだ、オッサン…!」と恐る恐る尋ねても、
ヤソップは「死ぬよりマシだ。長年常用すりゃ、そりゃ幻覚見たり、廃人になっちまうが、痛み止めにもなる薬だ。それに、センセイが坊やの病をケロっと治してやりゃ、二度と使わないで済む」と全く動じる様子も無い。
そんな様子がますます腹に据えかねたのか、「…ど素人が!今すぐ、出て行け!」と、怒鳴りざま、ヒルルクはヤソップを叩きだした。

それから、三日。
「二日、辛抱しろ」と言ったけれど、サンジは黙って三日も耐えた。

その間、ヒルルクは、寝食を忘れ、色々な手を尽くしてくれた。
だが、針を打っても、指圧をしても、様々な薬を飲ませても、何をしてもカクの言ったとおり、一切の効果はなく、サンジの衰弱は酷くなっていく一方で、なんの効果も出ない。
唯一、効果があるとすれば、ヤソップの「夢薬」だけだが、それを多用すれば確実にサンジの体を弱らせてしまう。悪くすれば、眠ったまま二度と目を覚まさず、そのまま死んでしまう事も十分、有り得るとヒルルクは言う。

そんな状態が続いた、三日目の夜。
「…もう…いいだろ…」
ヒルルクが、枕元から離れたほんの束の間、サンジはそう呟いた。
その声も、余りにも微かで口元に耳を寄せなければ、聞き取れない。
ゾロはサンジの側ににじり寄り、投げ出されたままのやせ細った掌を包む様に握った。

薄く目を開いて、サンジはゾロを見上げる。
けれど、ゾロの顔が見えているのか、いないのか、焦点が殆ど定まっていない。
それでも、その澱んだ青い瞳が、底知れない悲しみに塗りつぶされている。それがゾロには
はっきりと見えた。

どうしたんだ?何がそんなに悲しい?
そう尋ねるより先、サンジの表情が無理に笑顔を作った様に歪む。

「…お前が、…死にたくねえなら、それでもいい…」
「でも、…もう…辛い…頼むから…楽に…してくれ…」

息を絶え絶えに吐きながら、サンジはそう言った。もう、涙は流れない。
泣きたくても、きっと涙すら出ないのだろう。

「…違う。死にたくねえ訳じゃねえ…!
「いつだって、一緒に死ぬ覚悟は出来てる。でも、俺は…ホントにお前に生きて欲しくて…!」
「…お前を俺のこの手で死なせるのも…怖くて…出来なくて…っ」
そう言いかけたのに、熱い塊が喉を塞いで、言葉を遮ってしまう。

生きて欲しいと願うから、苦しい思いをさせていると、分かっていても諦められなかった。
幸せを一緒に探し、その一つ一つを一緒に掴み取っていく未来を、
そんな未来を夢見る事を、ゾロは諦められなかった。

そのゾロの気持ちを汲んで、サンジは耐えてくれている。ゾロはそう信じていた。
いや、実際、そうだったに違いない。
そうでなければ、これほどの苦痛、それも先の見えない苦しみに、何日も耐えられる筈が無い。

けれど、その言い難い苦痛にゾロへの信頼が揺るぎ、遂にサンジの気持ちは挫けた。
これほどの想いを信じて貰えない。無理はないと思うけれども、それがゾロは体が震えそうな程、悲しい。

「…俺が信じられないか…?」
生きるのも死ぬのも一緒に。その気持ちは今でも少しも変っていない事をもう一度信じて欲しくて、ゾロは必死にサンジの手を握り締める。

「…違う…。もう…いいんだ…ホントに…」そう言ってサンジは弱々しく首を振った。
「…お前は、ずっと…俺の為に、悲しんだり、苦しんだりしてた…」
「でも、もう、いいんだ…」
「…俺がいなくなったら…。暫くは…辛エかも知れねえけど…」
「…お前は…きっと…もっとずっと…楽に…生きれる…筈だから…」
「…一緒に死んでくれるって…言ってくれただけで…もう、十分…」
「…あの医者が来た時から、俺…ずっと…不安だった…」
「…俺を生かしたいのは、自分が死にたくないからか…?」
「…そう聞きたくても、…怖くて聞けなかった…」
「…でも、今、ちゃんと聞けて安心した…」
「…今でも、一緒に死んでくれる覚悟があるって…」
「…その言葉が聞けただけで…クソ嬉しくて…」

それだけを言葉を話すのに、サンジの呼吸がどんどんか細くなっていく。
それなのに、最期の力を振り絞っているのか、ゾロの手を握る手に力が篭った。

「だから、このまま…この気持ちのまま…死なせてくれ」

サンジの言うとおり、このまま、二人で一緒に死んだ方が楽かも知れない。
だが、サンジの命を断つのは、誰でもない。ゾロ自身だ。
今、サンジの手を包み、握っている自分のこの手だ。
愛しい、かけがえのない命をこの手が断つのだ。

(…出来ねえ…!)
サンジのか細い、けれど懸命な眼差しを受けて、ゾロの心が慟哭する。

死ぬと言う運命しかないのなら、喜んで死ねる。
だが、生き延びる選択肢も残されている。
例え、サンジがゾロの事を忘れたとしても、今を共に最期とする覚悟があるのなら、この先、生き延びて別々の未来を歩むんだとしても、きっといずれ、運命の糸を手繰り寄せる事が出来る。

「お前を忘れてまで、生きていたくない…だから…!」

そのサンジの必死の一言で、ゾロは心を決めた。

全身全霊を賭けて、サンジを愛している。ならば、選択肢は最初から一つしかなかった。

ゾロは黙ってサンジを横抱きに抱き上げる。
戸口を開け、外へ出ると、真夜中の空に金色の三日月が輝いていた。

砂浜をゆっくりと歩きながら、縋りつく力すらないサンジに、「…海の見えるところがいいだろ」とゾロは囁く。

そのゾロの背中を、ヒルルクの声が追い駆けて来た。
「おい、坊主!俺の患者をどこに連れて行く!」

ゾロはゆっくりと振り返る。
「もう、あんたの手を煩わせる事はねえよ。有難う、センセイ」
「…こいつは、俺が始末つける…!」
「馬鹿野郎…!」ヒルルクはそう言いかけ、言葉を飲み込む。
きっと、穏やかで悲しげなゾロの眼差しを見た途端、その真意を悟ったのだろう。

それ以上、何も言わずに黙って見送ってくれた。

(これでいい…これで、いい筈だ)とゾロは自分に言い聞かせる。
ヒルルクの沈黙が、ゾロに勇気を与えてくれた気がした。

ゾロは、村はずれの松林の中、それでも海ははっきりと見える場所に腰を下ろす。
真っ黒な空と、真っ黒な海、そこに三日月の光を寄せる波が映している。
松の木々を吹き渡る風と波音が混ざる音だけが聞え、全ての人間が死に絶え、ゾロとサンジ、たった二人だけが生き残ったような、そんな錯覚を感じさせる様な風景を二人は
黙って見詰める。

寒くもなく、暑くも無い、心地良い夜風がサンジの髪を僅かに揺らした。

それに触れる自分の指、その感触をサンジは忘れてしまう。
自分が体を預けているゾロの体の温もりも、匂いも、サンジ、と名前を呼ぶ声も、
子どもの頃、樹の上から降りれなくなった事も、雪の日、泣きながら抱き合った事も、
たくさんの悲しみと苦しみを越えて、やっと掴んだ、本当に束の間、幸せを感じあった時間も。

夜が明けたら、サンジの中から何もかもが消えてしまう。
悲しくて、切なくて、けれど、泣く事は出来ない。涙の一滴も、微かな嗚咽も漏らせない。

後ろからそっとサンジを抱き締め、顔を埋めた。
きっとまた、こうして抱き締められる日が来る。心を重ねて、魂の温もりを感じあう日が
必ず来る。

「…夢薬だ。これを少し嗅いで、眠れ」
「その間に、…全部済む。すぐに俺も逝く」
そう言って、煙管に夢薬を入れて、燻らせ、サンジに差し出すと「…ホントだな…?」とサンジは僅かに顔を上げてそう尋ねた。

「…これからも…ずっと、…一緒だ」そうとしか、ゾロは答えられなかった。
嘘は吐かない。けれど、本当の事は言わない。

お前の事を忘れてまで、生きていたくない。

そう言ってくれたサンジの心を信じる。サンジの愛を信じる。
サンジは、ゆっくりと煙管の煙を吸い込んだ。そうして、ゆっくりと眠りに落ちていく。
幼い頃からずっと想い続けて来たサンジが消えていく。
腕の中で穏やかに、安らかに、眠りの中へゆっくりと落ちて行くその姿を、ゾロは
唇を噛み締めて、見守っていた。


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