「もう…あの人魚は何をしても助からん。一刻でも早く楽にしてやりたいなら、方法を教えてやる」
「一つは、その刀であの世に送ってやる事。もう一つは、…全ての心の傷を消す事。いや…傷ついた、心ごと全部、消す事じゃ」
そう言って、カクはまた靄の中に姿を消した。
ゾロがどちらを選択するか、恐らくその動向を遠くで静かに見届けるだけで、これ以上の干渉をするつもりはないのだろう。
(…そんな馬鹿な事があるか…!そんな事、俺は信じねえ)
一度は、自分達を殺そうとした、カクの言う事だ。元は兄弟子だったとは言え、その言葉を鵜呑みにし、すぐに絶望に打ちひしがれるほど、ゾロは素直ではない。
体に残っていた海水晶の毒が回ってきただけかも知れない。
それとも、何か別の病かも知れない。そのいずれかの可能性の方がまだ信じられる。
それでも、死の宣告を受けた心は酷く乱れ、すぐには平常心を取り戻せない。
ゾロは、暫し、海女小屋の外に呆然と立ち尽くしていた。
「…どうしたんだ…誰か…いるのか…?」サンジの掠れた声に、ゾロはハっと我に返る。
「なんでもねえ。…外が凄い靄で…ちょっと驚いただけだ」と当たり障りなく答え、
足元に転がるカクの刀をそっと拾い上げた。
(こんなモン、必要あるか)と思うけれども、剣術を修練して来たゾロにはとても足蹴になど出来ない。
ゾロが炊いた粥も、サンジは二口ほど口にしたけれど、やはり、喉には通らず、すぐに
咽て吐き出してしまった。熱は下がるどころか、上がりきるところまで上がり、顔色は
高熱が出ているのに、紙の様に白い。
内臓のどこもかしこもが痛むらしく、ぐったりはしているが、殆ど眠れてはいない。
そして、時間を負って、その痛みは増していくようで、それでも、サンジは黙って、錯乱する事無くじっと耐えていた。
(…10日…。こんな有様が、10日も続いた挙句に、死んでしまうのか…?)
そんな言葉が、ゾロの頭を過ぎる。この腕の中に、サンジの体を抱いているのに、どんなにか細くてもサンジの鼓動を確かに感じているのに、サンジの命の残量が、高すぎる体温で蒸発し、腕も掌もすり抜けて行く気がする。
「…ゾロ、…俺、…今度こそ、ホントに死ぬかも…知れねエ…な」
そう呻く様に呟いて、サンジは髪の毛すら重たそうにゆっくりと顔を上げた。
「…死にたくねエって…思った途端に…。生きていたいって思った途端に…」
「…ホント、…悔しいなァ…」
他人事を話すような、それでいて、どこか自嘲する様なサンジの口調に、ゾロは思わず、「馬鹿な事言うな…!」と叱り、腕に力を入れた。
「…死にたくねエよ…。死にたくねえんだよ、…せっかく、…」
ぐったりと弛緩していたサンジの腕が、そっとゾロの袖に伸びて、本当に愛しいものに触れるように、その手がゾロのガサついた僧衣を掴む。
ゾロが自分を抱く、その力と同じ強さでゾロを抱き締めたいのに、その力を出せない。
それが歯痒くて、悔しかったのだろう。薄く開いてゾロを見上げていたサンジの瞼が震えながら閉じ、その途端、熱い透明な雫が、白い頬を伝って流れ落ちた。
「…せっかく、お前と会えたのに…」
「ガキの頃みたいに、ずっと…一緒にいられると…思ってたのに…」
「…死んだら…離れ離れになっちまう…」
「…また…離れ離れになっちまう…」
もう、お前と離れたくねえ
僅かに言い澱み、その後、意を決したようにサンジは閉じた瞼を開き、ゾロを見上げてはそう言った。
熱に魘されて口走った戯言ではない。
ゾロだけを見詰め、ゾロだけを信じ、ゾロだけを唯一、かけがえなく想う、ひたむきで、熱い、ほとばしる様な想いが篭った言葉だった。
自分が死んでも、悲しむ事なく、その後も幸せに生きて欲しい。
そう思っているのもサンジの本心、けれど、ゾロと離れたくないと思う壮絶な未練もサンジの本心だ。
自分の身が犠牲になって、その為に誰かが救われるのなら、それでいいと思う程優しいサンジが、この期に及んで漏らした我侭に、ゾロの胸が締め付けられる。
(…こいつが、こんな風に言うの、初めてかも知れねえ…)
幼馴染と言う関わりを超えて、惹かれあっていると感じていても、
睦みあい、愛し合う二人の人間が当たり前に口に出して囁きあう言葉を、一度も言葉にした事はなかった。
…もう、離れたくない、そう必死に絞り出したサンジの声と言葉は、愛している、と言うサンジの言葉となり、ゾロの胸に切なく響く。
どうして、こんな状況でその言葉を聞かなければならなかったのか。
何気ない、幸せで穏やかな日々の中で聞けたなら、どんなに嬉しかっただろう。
そう思うと、やるせなさと悲しみが尚更胸に染みた。
「…ああ。わかった」
一つの島の人間を、ほぼ全滅させてしまう程の戦の引き金をゾロは引いた。
誰よりもかけがえのない、大切な、たった一人の愛しい存在だったサンジを助けたかった、それだけの為に。
そして、今、ゾロのその気持ちにはっきりとサンジが応えてくれた。
一切、肉体の接触などしなくても、人と人はこれほどに熱く、抗いがたい引力で惹かれ合う。どんな試練が二人を引き裂こうとしても、それを乗り越えようと足掻いてボロボロに傷ついても、共に在る事、求め合う事が運命付けられているのなら、心は一つに重なっていく。
心が重なると、聞えなかった声にならない思いが、魂に直接響いて来る。
気がつくと、初めて、ゾロはサンジの唇に触れていた。
誰にも穢されない、自分だけの神聖なものをやっと手に入れた気がして、体が震えるほど嬉しいのに、目の奥が熱くて痛くて、堪らない。
口付けながら、サンジが告げてくれた同じ言葉を、ゾロは何度も、何十回も、心の中で繰り返す。同じだけ深く、同じだけ熱く、想っていると感じて欲しい。
「…今朝、カクが来た」
唇を離し、ゾロはゆったりとサンジを抱く腕の力を緩めて、自分の顔をしっかりと見られる様に、痩せた頬に手を添えてやった。
「…カク…って…最後に俺達を殺そうとした…鼻の長い…坊さんだな…?」
「そうだ」ゾロがそう言うと、サンジは微かに笑った。
「…その坊さん、こう言わなかったか…?…心を消したら…助かるって…」
それだけ言うと、力尽きたように、急にガクン、とサンジの体から力が抜ける。
慌ててゾロはくず折れるサンジの体を抱き止めた。
「…お前、何でその事を…?」赤ん坊を抱く様に横抱きに抱きなおし、ゾロがそう尋ねると、サンジは息苦しくなったのか、顔を顰め、胸を押さえながら、「…人魚なら、…誰でも知ってる事だ…」と答える。
「…人魚の村じゃ…」
人魚の子が寺にあがる時、その母親がその子を身ごもった日から、その赤ん坊が育って、寺に連れて行かれる日までの母親の記憶を、御太刀衆の坊さんがどこかへ埋めちまうんだって
そうしないと、母親は気の病から、臓腑が爛れ、果ては気が狂って悶死するって…
「…だから、俺の母親は…俺が生まれた事を覚えてない…って」
「そう教えられたからな…」
(…そう言えば…)サンジの言葉を聞いて、ゾロも思い出した。
ゾロが御太刀衆になる前に、そんな秘術を教えられた事がある。だが、知識として知っただけで、実際にやった事はない。
「…ゾロ、」
サンジは、名を呼んだものの、背を丸め、「…くっ…」と俄に体を貫いた痛みを堪えようと、声を詰まらせた。
それでも、一秒でも早くゾロの答えが聞きたかったのだろう。
歯を食いしばって、ゾロを見上げた。
「…お前は…ホントはどうしたい…?」
「…お前の好きにしていい…。お前に助けられた命だ」
「…お前がいてくれなかったから、…俺はここにはいないんだから…」
懸命な、けれど、決して媚びているのではないサンジの眼差しをゾロは静かに見詰め返す。どう言って欲しいのか、不思議と手に取るように分かった。
強がる事も、意地を張る事も今更無駄だと、素直に感情を顕したサンジの顔は、
病みやつれているのに、とても美しく見えた。
汗ばんだ額に張り付いた髪をそっと指で撫でると、不思議ともう、体を一つに合わせた様な気持ちになる。
もうどこにも行かせない。もう、決して離れ離れになどならない。
この体と心を、誰にも触れさせたくない。そんな感情がとめどなく胸の内に噴出してくる。
「…俺だって、同じだ。お前と…もう二度と、離れたくねえ」
「でも、…カクの言った事が全部、ホントかどうかわからねえ」
「もし、何かの病で、治るんなら…元気になるなら、それに越した事はねえ。そうだろ?」
「辛エだろうが、…俺の為だと思って、あと2日。必ず、医者に診せてやるから」
「それまで、我慢しろ。それでもし駄目だったら…二人で…」
死のう。
なんの躊躇いもなく、ゾロは自然にそう言えた。
サンジが死ぬのなら、その後、生きていても仕方が無い。
生きるのも、死ぬのも共に、未来永劫、いつまでも、どこまでも一緒にいたい。
そう、ただひたすら想うだけだ。
サンジのいない世界に未練などある訳がない。
「…2日…?」どこか不安げな影が、サンジの眉間に浮かぶ。
死なずに済むのか、その期待が叶わなかった時の落胆と失望を考えると、最初から何も期待などしない方がいい。けれど、ずっとゾロを信じ続けて、ゾロはサンジの希望を叶えてきた。だから、どんな形にせよ、きっとサンジの望みを叶えてくれるに違いない。
そんな逡巡の後、サンジは黙って頷き、そのまま目を閉じた。
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