いくら身を捩り、地面を掻き毟って涙を流しても、過ぎた時間を巻戻す事も、無残に奪われた数多の命を取り戻す事も決して出来ない。
絵草紙の事など、今更、二人に思い出せるはずも無かった。
サンジを助ける為に、ゾロは故郷である島を売った。
この島に住む人々の命を、サンジと引き換えにした。その事実は何一つ変らない。
目の前に広がる惨状を見ても、ゾロには後悔の気持ちなど欠片も起きない。
例え、身の程知らずで、この上なく身勝手な行いだと謗られ、非難されても恥じる事は無い。本気でそう思っている。
全て、サンジを取り返す為だった。ゾロはその事に命を賭けた。
それを大罪だと言うのなら、いくら重くても、自分一人でその罪を背負って見せる。
ずっと前から、覚悟は決まっていた。現実に何を見たところで、胸は痛むが、悔やんだりはしない。
けれど、サンジは違う。ルッチやクロコダイルに虐げられ、それで人知れず一生を終えてさえいれば、大勢の人間が死ぬ事もなかった。その罪の意識が拭えない。
命尽きるまで、幾年過ぎるか分からない苦痛しかない時間を、ただひたすら耐えて、ゾロを待っているだけで精一杯だったサンジには、島民に対する憎しみなど最初からなかった。
それなのに、自分の所為で、余りにも多くの命が奪われてしまった。その事実を、どう受け止めていいのかわからない。
サンジは今、生きている事の罪深さに心から慄いている。
悲しみとも後悔とも言い難い苦しさは、サンジの心の中に、地割れの様な大きな亀裂を作った。
目にも見えない、崩れていく音も聞えないその変化を、ゾロはサンジの側にいて、はっきりと感じる。
(…こんなトコにいちゃいけねえ。さっさと島を出た方がいい)
サンジを伴って来てしまった事を、今になってゾロは猛烈に後悔する。
「…サンジ。終った事だ。いくら後悔しても、もう…どうしようもねえ」
日が傾きかけた頃、ゾロはサンジにそう声をかけた。
炭の山の前で、ゾロに背を向け蹲るように屈んでいたサンジは、思いがけないほど淡々とした声で「…ああ、わかってる」と答え、ゆっくりと立ち上がる。
そして、死者に深く詫びる様に、手を合わせ、深々と頭を垂れた。
自分達の所為で、大勢の人間が命を落とした。その罪は消えない。
けれど、それでも、多くの犠牲の上で永らえた命だからこそ、がむしゃらに生きていかねばならない。それをどうか、許して欲しい。
そうサンジは祈り、懺悔している。
自分より一回り以上細い背中を見詰めていて、ゾロはそう感じた。それでも、耳と心臓にサンジの心が壊れていく音がこびり付いていて、消えそうもない。
一度、ひび割れた陶器は、二度と元には戻らない事をゾロは知っている。
(…人の心は、茶碗だの壷だのと違う)と自分に言い聞かせても、その不安は少しも薄れず、胸の奥に澱んだ。
* **
島から戻って数日が経った。
もちろん、絵草紙の事など、二人は禁句の様に一切口にしない。
そして、島から戻って以来、二人で見た凄惨な光景についても、絶対に触れない。
どこか遠慮がちで、上っ面だけの空々しい会話だとお互いに感じている。
亀裂の入ったサンジの心に、無神経に触れてしまったら、取り返しのつかないことになりそうで、ゾロは意気地なく、その新しい傷から目を逸らした。
事実に目を背け、何事も無かった風に振舞う事で、ようやく辿り着いた平穏な時間を守れるのなら、例え、卑怯で臆病だと本心では自分自身を咎めていても、そうする事しかゾロには出来ない。
そうして、ゾロに守られている事をサンジは痛感したのだろう、
(…しっかりしなきゃな…。俺は、あいつの気持ちに応えなきゃいけねえ…)
これ以上、ゾロの不安や心配の種になりたくない。そう考える様になるのも当然だ。
それが、本当に爆発させたい感情を押し殺す事になり、亀裂の入った心に大きな負担となって行く。
夜、眠れない日が続き、疲れは日毎に蓄積されていく。
荷運びをしている最中に、足がふら付くようになっても、「おい、…兄さん、あんた顔色が悪イよ?少し休んだらどうだ」と人足仲間に言われても、決して辛いとは言わない。
食事の量が少しづつ、少しづつ、減っていっても、仕事を休もうとも思わないし、いつもどおりに振舞って見せていた。
(日が経てば、きっと…楽になる)そう自分に言い聞かせながら、サンジはゾロが余計な心配をしない様に、努めて明るく、健やかに振舞おうとした。
自分が笑っていると、ゾロは安心した様に笑う。
その笑顔を見て、心から嬉しくなる。その為にはどんなに体が辛くても平気だった。
けれど、後悔が薄れた訳ではない。罪の重さから逃げた訳でもない。
むしろ、日毎に後悔は募り、何気ない日々の幸せを感じる度に、サンジは自分の命が背負った罪の重さを常に感じなければならなかった。
生きる事を謳歌する笑顔と後悔に流す涙、それがいつも背中合わせにサンジの心の中にある。
それが、どんなに辛くても、その感情をゾロに悟られたくない。
悟られたら、きっとゾロは辛い想いをする。
せっかく、ゾロが必死に掴みとってくれた幸せだ。
決して、手放してはいけない。手放したくない。
そう思っているのに、心に受けた余りにもたくさんの痛手が、その痛みを我慢し、押し隠そうとする毎に、体にその痛みは倍になって跳ね返り、少しづつ、サンジの体や神経を侵食して行く。
そして、限界は突然、訪れた。
なんの前触れもなく、荷運びの仕事の真っ最中、サンジは突然、胸に激痛を覚え、動けなくなった。息が詰まり、体中が噴出した脂汗にまみれ、声すら出せない。
寝込んだ途端、体中に激痛は広がり、その夜から起き上がる事さえ出来なくなった。
当然、食事も摂れない。その苦しさは、水晶丸の毒に犯され、苦しんでいる時と、かわりなかった。
医者に診て貰いたくても、この港町に町医者などいない。
ゾロが少し寺で学んだ医術では、気休めにもならない。
(…一体、どうすりゃいいんだ…。せめて熱だけでも下がってくれたら…)
薬草も、煎じ薬も全く効かない。それも当然だ。体に異変がある訳ではなく、
心が悲しみと苦しみに捩れるその痛みに、体が悲鳴を上げているのだから。
ゾロは全く眠らずに、悪寒に震えるサンジの体を、奥の院でそうしていた様に胸に抱き締め、絶え間なく背中を摩り続けた。
白々と夜が明け始めて、気がつけば、サンジが倒れてからもう三度も朝を迎えている。
「…粥でも炊いてやろうか?」
耳元でそう囁いても、サンジはゾロの肩に頭を乗せ、ぐったりと熱い体を預けたまま、
微かに頷いてみせる。
だが、本当は食べたくないのだろう。「食べる」と言えば、少しは楽になったのかと
ゾロが安心する。その為だけに、サンジは頷いている。
声すら出せないほど胸が苦しくても、ゾロを思い遣っている、その気持ちがたまらなく
いじらしかった。何も出来ない自分が悔しくて堪らない。
「…すぐに用意するから待ってろ」
そう言って、ゾロは筵の上にゆっくりとサンジを横たえた。
「…明日には…治まるから…」「…息苦しいんだろ。無理に話すな」
息も切れ切れにそう言うサンジを、静かにゾロは宥めて、小屋から出ようと、ガタガタと
無様に軋む隙間だらけの戸板を引き開いた。
外は、朝靄が立ち込め、真正面も、右も左も白一色に覆われている。
けれど、その世界の中で、ゾロは見知った気配を感じた。
「…だから、言ったじゃろう。死んだ方がマシだ、と思える日が来る、と」
(…カク!)
武器を構えようにも、ずっとサンジを抱き締めていたのだから、丸腰だ。
今、カクに襲い掛かってこられたら、素手で応戦するしかない。
が、素手で戦って、カクに勝てる筈もない。
「…俺達を殺すのか」
「…事、こうなった以上、ワシが手を下すまでもないわい」
低く呻いたゾロの声に、靄の中のカクは静かに答えた。
一歩、一歩、歩み寄る毎に、気配がはっきりとしてくる。
「普通の人間ならば、自分の所為で戦が起こり、大勢の人間が無残に殺されて…」
「その現場を見たとしても、心を傷めるばかりで、気鬱の病になるだけじゃ」
「じゃが、人魚は違う。人の何倍も心の痛みに敏感で、心が病めば体も病み、弱る」
「故に、人魚は短命なのじゃ」
そう話し終わった後、カクはゾロの目の前に立っていた。
「…ずっと、おぬしらを見ておった」
「人魚の血脈を絶やす事がワシの努めじゃったからな…じゃが、」
「おぬしらを殺して、それから、ワシはどうなる…?その後の事を考えると、…手を下す決心がつかなんだ」
「寺はもうない。人魚の事を知っているのは、最早、ワシとロロノア、おぬしだけだ」
「そうなった今、おぬしら二人を殺め、その後、ワシは一体、何を目的に生きれば良いのか…。その答えがわからず、今日までずっと迷っておった」
カクは、腰に挿していた刀を鞘ごと抜き、ゾロの方へと投げた。
ボスン、と鈍い乾いた音がして、砂地の上に刀が転がる。
「…薬など、何を飲ませても効かん。人魚が、真珠丸を作るでもないのに、その症状が出たら、10日と生きてはおれん。諦めろ」
カクの言葉が、ゾロの頭にそのまま木霊する。けれど、意味が理解できない。
「…何を言ってる…?」呆けた様な、ぼやけた口調でそう聞き返すのが精一杯だ。
「こうなってしまっては、もうどうする事も出来ん。ワシには、おぬしらの行く末を見届ける事に決めた。…今更、おぬしらの命を奪っても空しいだけじゃから…」
カクの口調も、表情も穏やかで、殺気などまるで感じない。
恐らく、カクも自分の生き方について、島が焼け落ちてから今日までずっと孤独の中で
考え続け、自分なりの答えを出したのだろう。
そして、その静かな口調のままで、ゾロに告げた。
「…あの人魚を楽にする方法を教えてやる」
「一つは、その刀であの世に送ってやる事」
「黙れ!」そう怒鳴ったゾロの声に構わずに、カクは言った。
「もう一つは、…全ての心の傷を消す事。いや…傷ついた、心ごと全部、消す事じゃ」
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