サンジとゾロが育った島の周辺は、潮の流れが早く、しかも複雑だった。
その潮流の特徴を余程に熟知した船乗りか、寺の者でなければそう易々と近づけない。
だからこそ、長い間、他所の国の干渉を受ける事無く、一つの国として成り立っていた。

その潮流の秘密は、今、敵対していた二つの国の両方に知れ渡っているとは言え、
まだまだ一般の漁師や、商人達には知られていない。
「あの島に行きたいから、船を出してくれ」と言った所で、その頼みを受けてくれる堅気の人間などそう簡単には見つかりそうに無い。
だが、ゾロはその点、何も心配はしなかった。

「…別に漕ぎ手を雇う必要はねえ。俺が漕げば、ここからでも一日で着く」
「日帰りはキツいが…。普段、こんなあばら家で暮らしてるんだから、野宿するくらい平気だろ?」
そう言って、翌日、すぐに漁師から船を一艘、借りて来た。

「…どうやって借りてきたんだよ、金も無エのに…?」と、サンジは雑穀で作った握り飯を包んだ風呂敷を脇に抱えて、船に乗り込みながら不思議そうにゾロにそう尋ねた。
「魚を捕ってくるって親方に言ったんだ。ここいらで、あの島の近くで漁をする漁師はいねえからな」
「岩礁もあるし、いい漁場だって、皆知ってるけど、潮目が読めないから、近づけない」
「取れた魚の8割、船代に出すって言ったら、親方が快く貸してくれた」

寺の中の雑事と、剣を振るい、戦う事しか知らなかったのに、サンジを助ける為に、
誰に知られることなく奔走した経験からか、ゾロは自分でも驚くほど世渡り上手になっている。

最初、ゾロは自分一人で絵草紙を取りに行くつもりだった。
戦が終わった、と言っても、寺や島がどうなっているのか見当もつかない。

平和だった島が焼け落ち、辛い事が多かったとは言え、幼い頃からずっと暮らして来た
寺がどんな酷い有様になっているか、サンジがそれを目にすれば、きっと胸を傷める。
それが分っていても、ゾロはサンジも一緒に行こうと決めた。

けれど、自分が留守の間、世間慣れしていないサンジが心細い想いをしないか、
サンジが一人きりになった途端、よからぬ輩が何か仕掛けては来ないか、
それを考えると、不安で、とてもサンジを一人きりで置いていけそうにない。

二人は、荷運びの親方が都合してくれた小さな船に乗り込み、交代で櫓を漕いだ。
雲ひとつない空はどこまでも青く、頬を撫で、髪を弄ぶ爽やかな海風も心地良い。
絶え間なく、笑顔で交し合う雑談、じゃれ合うような口げんかをしながら進めば、
少しも疲れない。
そうして、二人を乗せた船は、潮流に上手く乗り、昼少し過ぎた頃に目的地の島の海辺に辿り着く事が出来た。

二人、同時に防波堤となっている石垣の向こうに広がっている島の森を見上げる。
波音だけしか聞えない、恐ろしい静寂が島を包んでいた。

空は晴れ渡って、波は煌き、さんさんと光が海岸に降り注いでいるのに、人の気配、生き物の気配が欠片もしない。
色鮮やかな景色を見ているのに、それはまるで幻を見ているようで、心がゾっと冷える様な、そんな気がして二人は暫く、生まれ育った島の風景を目の前にし、身を竦ませた。

「…こんな島だったか?」
意を決したように、海岸に船を押し上げる為に、船べりを押したサンジが独り言の様な
声でゾロにそう尋ねる。
十三の時から、サンジは奥の院に閉じ込められていた。
その上、この島から逃げ出した時は、漆黒の闇と紅蓮の炎に包まれていたのだし、風景を見る余裕もなかっただろうから、こんな真昼間に島の景色を見るのは、本当に久し振りだ。だから、自分の目を疑いたくなるのも仕方が無い。

だが、サンジがゾロに問い掛けているのは、ただ、風景の事ではない。
島全体を包む、圧倒する様な、異様な静けさの事を言っている。

(確かに、この静けさは只事じゃねえな…。禍々しい…)
けれど、ゾロはそんな臆病な気持ちを振り切るように、
「…あの戦から、一月経ってる。この島じゃ、もう戦は終わってる」
「…逃げれる奴等は、…赤髪のお頭の船に乗って逃げてただろ?」
「この島に、生きてる人間はもう誰もいねえんだ。静かなのはその所為だろ」
「…怖いなら、…ここで待ってるか?」と、わざと明るい口調でそう言った。

「ここで待ってろって…?馬鹿か、どこに絵草紙隠したか、俺じゃねえとわかんねえだろ」
そう言って、サンジはゾロの横を足早にすり抜け、砂を踏みしめて歩き出した。
その背中を、ゾロは笑いながら追い駆ける。
「寺がどっちの方向か、…お前、覚えてるか?」
「…そんなの、この森を抜ければすぐに分かる。島のどこからでも寺は見えるんだからな」

からかうゾロの言葉に、サンジは振り返り、自信満々な風を装って答えた。

* **

森を抜けると、そこには、いくつかの村が広がっている。
島の中心は、小高い山になっていて、村と村を縫う様に石畳が延び、山頂にある寺へと石段は続いていた。

それが、ゾロの知っている島の風景だった。

けれど、森を抜けて、村へと続く道に出た時、二人の足が止まる。
吹き渡る風には、一月前にこの島を包んだ猛火の匂いが混ざった。

サンジが息を飲んでいる。瞬きもせずに、目の前の風景を食い入る様に見つめている。
それを感じているのに、ゾロはサンジの目を塞ぐ事は出来なかった。

ゾロ自身も、魂が凍て付き、強張って動けなかったからだ。

石畳と、石段の両脇には、ある一定の間隔を空け、灯篭が建っていた。
その灯篭が一つもなく、替わりに焼け落ちた太い杭の様な木の燃え跡が、100とも200とも言わずに寺まで続いている。
その全ての下には、燃え残った人の骨がそのまま、放置されてあった。

豊かとは言えないまでも、人が慎ましやかに、幸せに暮らしていた村は、最早見る影も無く、幽鬼しか棲みそうも無い、焼け爛れた廃墟となっていた。

「…なんで…こんな…」

呆然と呟くサンジの声に、ゾロはハッと我に返る。
これ以上、サンジにこんな風景を見せるべきではない。

「…戻るぞ」そう言って、ゾロはサンジの袖を掴んだ。
「あの杭はなんだよ…。まるで、あれに人を括りつけて…火で炙って殺したみたいじゃ
ねえか…!」サンジは、そう言って、ゾロの手を乱暴に振り払った。
心が乱れ、感情の制御が効かない。悲しいのか、怖いのか、壮絶な後悔なのか、今、サンジは自分の心を乱している感情が一体なんなのか、まるでわからないのに、
その感情をゾロにぶつける。

「…生きながら、焼かれたのか…?誰が…?誰が、何の為に…?!」
「サンジ…!」

唐突に、サンジは駆け出す。それを制止する為に、ゾロも走り出した。

殺した人間をそのまま放置にしておけば、腐敗し、ほどなく疫病が蔓延する。
そうなれば、かなり長い間、人は住めなくなる。それを防ぐ為に、殺した人間の死体を
とにかく、処分したのだろう。
どちらの国がした事か、ゾロにはわからない。

わからないが、杭に括りつけられて、死んだ人間は恐らく、その前に刀で首根を掻っ切られたか、胸を刺し貫かれて、殺され、その上で燃やされている。
杭に括りつけられているのは、恐らくは見せしめの為だ。

最後まで抵抗した村人なのか、それとも寺の者なのか、骨だけでは判断出来ないにしても、夥しい数だ。

「…サンジ…!見るな!」
そう思う気持ちのまま、ゾロは叫んで、サンジを追い駆ける。

何を見る為に、何を確かめる為に、サンジは狂った様に駆け出したのだろう。
きっとそれはサンジ自身にもわかっていない。

ただ、駆け出さずにはいられなかった。
目を瞑り、耳を塞ぎ、現実に背を向けて、それでも自分が生きていて良かったと安堵出来る人間ではなかったから、サンジは駆け出さずにはいられなかった。

村はずれまで来て、ようやく、ゾロはサンジに追いつく事が出来た。
いや、それも突然、サンジが立ち止まったからだ。

「…うぐっ…」

サンジが嗚咽を押さえる様に自分の口を自分の両手で押さえる。
その目が見据える先には、真っ黒な炭の山があった。
その中に、真っ白な骨が混ざっている。この場所で火を焚き、人を燃やしたその跡だった。

傍らにいくつも土が盛ってあるのは、そこに灰を埋めていたからだろう。
それも面倒になり、ある程度、死体が処分出来たところで、兵士達は引き上げていったに違いない。

今は腐臭など全く無い。焦げ臭い匂いが僅かに漂っているだけ。
けれども、燃え残った着物の切れ端や、打ち捨てられている煙管や細々とした薄汚れた雑貨が、多くの村人がここで燃やされたか、命を奪われたかしていた事を如実に物語っていた。

ゾロとサンジが育ったこの島は、今やただの殺戮の残骸だけが残る、死に絶えた島と化していた。

サンジの目から、吹き出る様に涙が溢れている。口を押さえた手にも、その雫が伝った。
膝から崩れるように地面に伏したサンジの背中をゾロは無我夢中で掻き抱いた。

「これは、…これは、お前の所為じゃねえ…!お前は何も悪くねえ…!」
「全部、俺がやった事だ、俺が悪いんだ…!お前は何も悪くねえ…!」

言葉にもならない激しい動揺が、腕の中に包んだサンジの体から痛いほど伝わってくる。
サンジの激しく脈打つ鼓動の音は、まるで、何よりも大事に、命がけで必死に守ろうしているモノが、粉々に砕けて行く音に聞える。そして、それを止める手立てが何も無い。

「それは、全部、俺の為にした事だ…!俺が…俺が…俺が生きてた所為でこんな…!」
「こんなに惨い事を…」
「…違う…違う!お前は悪くない…!」

同じ言葉をゾロは何度も叫ぶ、それしか出来なくても、ゾロは何度もお前は悪くない、と叫んだ。叫び続けた。
それなのに、サンジの心が壊れていく音はゾロの耳に木霊し、止まってはくれない。

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